【文明地政學叢書第一輯】第五章 ゾルゲは長与専斎の孫だった

●緒方洪庵適々斎塾銘々伝

 緒方洪庵の適々斎塾に参集した塾生には、他にも錚々たる名前が連なっている。
 大鳥圭介(一八三三〜一九一一)は播磨赤穂(兵庫県)の医者の子である。
 橋本左内(一八三四〜五九)は越前国福井藩士で河内源氏足利系の連枝にある桃井を祖とするが系譜中の間抜けが母方の橋本姓を名乗り、それが行年二六歳という非命を決する。
 佐野常民(一八二二〜一九〇二)は大木喬任・江藤新平・大隈重信らと共に佐賀七賢人の一人といわれ、大給恒らと博愛社を設立(一八七七)、大蔵卿(一八八〇)などを歴任している。なお、博愛社は商号を日本赤十字社に変更(一八七七)して現在に至る。
 高松凌雲(一八三七〜一九一六)は福岡県庄屋の子が久留米藩士川原家に養子に入った。佐野らと赤十字運動の先駆けとなる。
 さて、初回系図に登場する長与専斎(一八三八〜一九〇二)だが、肥前国(長崎県)大村藩に仕える漢方医の家系に生まれ本姓たる藤原を使わず長與を通称とし、明治の戸籍解放で新たな苗字としている。
 藩校五教館(現県立大村高等学校)に学び、安政元年(一八五四)一七歳にして大阪に出て適塾に入門、同五年福沢諭吉の後を承けて塾頭を務める。
 在籍中の文久元年(一八六一)に地元長崎の出島にてオランダ人医師ポンペのもと西洋医学を修得し、大村藩侍医となる。さらに慶応二年(一八六六)にはボードゥインにも師事している。
 慶応四年(一八六八)一月には長崎清徳館医師頭取、同年改元して明治となった一〇月に兵の傷病を扱う長崎府医学校学頭に就任する。
 明治四年(一八七一)上京するや、文部少丞と文部中教授を兼任するも、程なく同年一一月、岩倉遣欧使節団に随行して、ドイツ・オランダの最先端医療・教育の現場を約一年半にわたり視察のうえ、同六年三月に帰国する。
 その帰国を待っていたかのように、同年文部省医務局長に迎えられ、翌年の明治七年には、東京医学校の校長も兼務することになる。医学校は現在の東京大学医学部である。
 つづく明治八年(一八七五)内務省に衛生局が設けられると、初代局長に就任する。まず東京府に適塾で学んだ牛痘種継所を設立し、また衛生工事を指導して衛生思想の普及に努力を傾注。元老院議官・貴族院議員・宮中顧問官・中央衛生会会長・大日本私立衛生会会頭などを歴任する長與を抜きにして、日本における衛生医学は語れない。

●長与専斎の子供たち

 長男稱吉(一八六六〜一九一〇)は後藤象二郎の娘の延子と結婚するが、その略歴に東京帝大医科大学(現東大医学部)を出て独ミュンヘン大医学部七年間の留学中に現地女性との間に子(それがリヒャルト・ゾルゲだと後述される――天童註)を儲ける話がある。独国の医学博士号は帰国(一八九六)後の政府高官に及ぼす影響や大であり、専斎の事績と合わせ長與一家には我が世の春が訪れる。胃腸病院を日本橋と麹町に開設した稱吉は胃腸研究会を設立すると自ら会長に就任して、父の大日本私立衛生会会頭も引き継いで、男爵に列せられる。
 稱吉の妹保子は松方正義の長男巌に嫁ぎ、生まれた娘のうち長女美代子は駐米大使の斉藤博に嫁ぎ、二女仲子は犬養毅(元首相)三男の健に嫁いでいる。健は白樺派作家であり父の暗殺二年前に衆議院議員となるが、戦後に造船疑獄(一九五四)に法相として悪名きわまる天下の法刀(指揮権発動)を抜いて、佐藤栄作(当時幹事長)の逮捕を妨害する。
 稱吉の次弟が程三とは理に適わないが日本輸出絹連合会の組長を務めた。
 三弟又郎(一八七八〜一九四一)は旧制正則中学で上田貞次郎と一緒になるが、歩む方向性は異なるようで近接する。大学は稱吉と同じコースを歩み東京帝大卒で独フライブルク大に留学し帰国すると母校の病理学教授となり夏目漱石の遺体解剖などを行なって、伝染病研究所長・医学部長を経て東大総長一二代目に就任する。総長在任中に文部大臣荒木貞夫の総長官選案(一九三八)を撤回させ自らも辞任の相討ちで決着をつける経歴も有する。四五歳で死去した稱吉より長生きするが、行年六四歳で自ら癌になると予言した通り、癌の解明には多くの足跡を残し絶命前日に男爵位を得ている。
 四弟裕吉(一八八三〜一九三九)は岩永省一家へ養子入りして兄らと全く異なる方向へ進むと見られるが、実は父が育てる後藤新平とも最も近くなる。岩永は専斎が侍医で仕える大村藩名族の後藤多仲の二男で、その姉が裕吉の生母ゆえ養子先は叔父家となる。省一は郵便汽船三菱から日本郵船に移って専務取締役(一八九九)となり、妻は京都の絵師山本梅逸の娘である。
 裕吉も中学は又郎や上田と同じ正則であり、京都帝大を卒業し南満州鉄道社員(一九一一〜一七)から鉄道院へ移るが引きは後藤新平(総裁)で総裁秘書官となる。翌年(一九一八)退官して渡米、その翌年さらに後藤・新渡戸・鶴見祐輔と渡欧し帰国後の翌年には個人事務所を開き国際交流を目的に岩永通信を発行する。国際通信社の専務(一九二三〜二六)となりロイターと最初の対外自主頒布権の交渉(一九二四)を行いつつ、今度は新聞組合「日本新聞聯合社」を創設して専務となり古野伊之助と東川嘉一を東西管区支配人に決する。聯合が内信開始(一九二八)すると、関東首脳部に満蒙通信社論を送信開始する(一九三一)。その二年後AP通信で支配人を務めるケント・クーパーと交渉し通信自主権の確立に成功。昭和一一年には財団法人「同盟通信社」を創設、三年間を社長として働き貴族院議員に勅撰され、翌年狭心症発作で没す。行年五七歳である。因みに専斎は行年六五歳。
 裕吉は新渡戸稲造門下であり弟分に牛馬友彦・松方三郎らがおり裕吉の死後コンビを組んだ古野が同盟二代目社長となり、終戦を迎えると自発的に同盟通信社を共同通信社と時事通信社に分割する。
 長与専斎の末子善郎と長男稱吉とは年齢差が二二年と親子ほど違うが、父専斎二九歳のとき稱吉が生まれているから善郎は専斎五一歳の時の子になる。すなわち善郎一四歳で父と死別、そのあと白樺派作家として晩年に長與一族を書くが意図を読むのは重大である。白樺派の仲間を描く理由とも重なるが善郎は劇作を手掛け自伝的小説で独り立ちすると、理想的・人道的な主張で社会運動に生涯を費やした。この長與家の瓢箪から何が飛び出したか答は後記する。

●明治期における政略乱脈構造
 
 長與稱吉の妻延子の父後藤象二郎は長与専斎と同い年であり土佐藩馬廻役後藤助右衛門の長男である。いま要件のみ略述すると、板垣退助(一八三七〜一九一九)は一年歳上で幼なじみ、同じく土佐藩士乾栄六の子(退助)がなにゆえ板垣姓を名乗るかは諸説あり、武田信玄に仕えた武将板垣信方が乾の祖という作り話もある。象二郎と退助は富国強兵を唱える吉田東洋(一八一六〜六二)の塾で学ぶが東洋(元吉)の妻は象二郎の叔母である。新政府で後藤と板垣は参議として征韓論を主張するも否決され西郷らと下野し翌年に江藤新平・副島種臣ら旧参議を軸に愛国公党の組織化に奔走する。ただし、民撰議院設立の運動は成功に至らず、明治四年の自由党設立から薩長政治の懐柔策に応じるようになり内閣制発足とともに閣僚の一角を占める。後藤は黒田清隆・松方正義の内閣で逓信大臣二代目(一八八九〜九二)、伊藤博文内閣で農商務大臣一〇代目(一八九二〜九四)を務める。
 激変期の出来事で特記を要するのは旧藩主家の売却事業や新政府の投資事業に忍び寄る利権を漁る政商らの政略的結合による乱脈構造である。官官・官民・民民が入り乱れ談合癒着の限りを尽くす本能的属性の構造は如何なる時代にも繰り返される生ける屍の特性であり、如何なる制度を設けても改まらない。邪神の棟梁を封じる方法は唯一つ、本義の神を頼るほかなく、神とは情報だから、如何なる情報といえども隠蔽しようのない社会を構築するほか何の手立てもない。後藤に限らず、すべて似非の神の仕業である。
 例えば後藤は長崎県高島炭坑の投売り買収(一八七四)を仕掛け二年後に岩崎弥太郎に転売、弥太郎の弟弥之助と結婚する後藤の娘早苗は系図の通りで、何の批判も書く気はない。象二郎を継ぐ猛太郎は日活映画の前身である日本活動フィルムの初代社長になるが、新潟県出身の芸妓に生ませた保弥太を後継とし、保弥太を継いだ省三の代で後藤伯爵家の歴史は断絶する。
 松方正義は薩摩藩士家に生まれるが、薩摩藩士について通常の士族観で認識すると史観に結び付くまい。例えば、明治一二年国勢調査を参考に士卒・平民の割合を全国と薩摩で比べると、全国5.19%に対し薩摩26.38%で、およそ全国では二〇人に一人の士卒になるが、何と薩摩は四人に一人の士卒という割合になる。しかも全国は薩摩も含む計算ゆえ、薩摩を除くとさらに小さい数字が現れる。現在は年金で大騒ぎしているが士族の実在した時代の勘定方を知れば現在の公務員という職能が如何に無知無能極まる生ける屍か、それをエリートと呼ぶ社会の実相も知れようというもの。
 次第はさておき下級武士の金治郎(正義の幼名)に出世の糸口を与えるのは大久保利通で、島津久光の従者として長崎と鹿児島を往復する軍艦の買付に発揮された値段交渉の才を見込まれたという。現在の官が持ち併せない才は維新政府にも評価され、財務畑を存分に歩き回り、大隈重信との衝突で一時は内務省に身を潜めるも大隈失脚を機に再び大蔵卿で復帰(一八八一)、翌年に日本銀行設立と開業を達成する。ただ、専門莫迦の宿命は閉じられた空間に跼蹐して、元老として一四歳年少の西園寺公望(一八四九〜一九四〇)にも劣る評価は仕方ない。内閣制発足で初代大蔵大臣(一八八五〜九二)に就く松方だが、歴代いずれも負の先送りしかできない現実は松方の遺伝子が実証する。一三男一一女に恵まれる幸運は誠に結構であるが、系図上に示した長男巌は長與保子と結婚するも実子なく、松方の末子三郎が養子入りして家系をつなぎ、エドウィン・ライシャワーに嫁ぐ春子の父は正義の一四番目の子、九男正熊である。駐日米国大使ライシャワーと孫娘が結婚する軽挙は松方死後でも許されず、国益を損なうことに疑いない。先ごろ(二〇〇七・六・二八)絶命した宮沢喜一に至っては自らの存命中に娘婿が駐日米国大使として来日するという破廉恥ぶりで、救いがたい証といえよう。
 岩崎弥太郎は地下浪人つまり自らの郷士株を売り移住先を故地とする権利を手に入れ歴史的土着を決め込む種である。もともと、岩崎の株は種子島・屋久島である。土佐は坂本竜馬などのコスモポリタンが流れ着く風土であり、人斬以蔵の異名をもつ岡田以蔵や武市半平太も輩出する。通説では岩崎家が土佐を故地とするのは弥太郎の曽祖父の代ともいわれるが、元より歴史的痕跡は消しがたい。例えば、弥太郎が井上佐一郎に同行し、何気もなく井上を斬り捨てる以蔵と向き合うが、同じ臭いをもつ弥太郎は苦もなく難を逃れる。これは殺し屋の気配と向き合い気を合わせる修羅を体得し得ない言論口述の徒には実感できないだろう。
 弥太郎は大阪の土佐藩蔵屋敷に三菱商会(後の郵便汽船三菱)を設立(一八七三)、藩主山内家家紋(三つ柏)を模する意匠で錦の御旗を掲げる。この郵便汽船三菱は弥太郎没後に激しいダンピング競争を経て政府系共同運輸と合併して日本郵船となる。弥太郎の娘婿の系から加藤高明・幣原喜重郎の首相二人が出現したり浮き沈み激しい経済界において三菱だけ他の財閥系と異なる原因は何か。答は歴然だろう。弟弥之助が三菱二代目、弥太郎の長男久弥(一八六五〜一九五五)が三代目、さらに弥之助長男小弥太(一八七九〜一九四五)四代目。昭和天皇侍従長で知られる入江相政(一九〇五〜八五)の妻君子は、弥太郎家に養子入りする郷純造四男昌作の娘で、岩崎家の系譜を書いたらキリがない。どうあれ、地下浪人の遺伝子を剖判しうる史観は皆無というほかなく、家紋「重ね三階菱」についての家紋鑑識も皆無の現状ゆえ、本題を先に進めるほかない。
 岩崎弥太郎(種子島)・松方正義(鹿児島)・後藤象二郎(高知)・長与専斎(長崎)・野津道貫(鹿児島)ら系図上の同世代に大隈重信(佐賀)・黒田清隆(鹿児島)もいるが、すべて意に含みつつ次世代へと記述を進める。
 犬養毅(岡山)・上原勇作(宮崎)や弥太郎弟弥之助の名も系図上に見えるが、後藤新平(岩手)は系図外とはいえ欠かせぬ存在である。
 
●コスモポリタン後藤新平

 後藤新平(一八五七〜一九二九)の甥椎名悦三郎が裁定を下すという形でロッキード事件により首相の座を追われた田中角栄の後継に三木武夫を据えたことは広く知られる。同様の事例は小渕恵三急逝により官房長官青木幹雄ら数人で幹事長森喜朗を首相に据えた近時の出来事あるも、異例の首相就任ではある。
 次第は兎も角、後藤の母系には高野長英も出るが、後藤家の本流は椎名家で、古くは和名抄の余部で岩切に隣接する余目氏に通ずる。新平の立身は同郷(丹沢郡塩釜)安場保和の書生となり始まるが、安場は丹沢県(水沢)大参事として岩倉遣欧使節団に加わり、帰国後に愛知・福島の県令に任じる。安場(福島県令)の書生として須賀川(福島県)医学校を卒業する新平は、愛知県医学校(現名古屋大学医学部)で医者になり二四歳で学校長兼病院長という経歴を有する。明治一五年岐阜遊説中の板垣退助が暴漢に刺され負傷したとき新平が診察治療したことは有名な話で、同年二六歳に当たり新平は内務省へ移り長与専斎(衛生局長)の下で育てられる。明治二三年三四歳のとき留学、ドイツ体験記を仕上げ帰国後に医博号を取得、同二五年(一八九二)に衛生局長となる。推薦は長與である。翌年の相馬事件に連座して収監五ヶ月目、好事魔多しで閉塞を免れない体験もしている。結果的に無罪となり、復帰して日清戦争帰還兵の検疫業務に当たるが、陸軍参謀児玉源太郎と出会い台湾総督府の民政長官に推される。
 明治三一年(一八九八)に台湾総督となる児玉源太郎は新平を民政局長に据え自らの不備を補う役割に期待する。新平は自ら認識する「生物学の原則」に基づく経済インフラ整備を想定して臨時台湾旧慣調査会と称する組織の設立に着手した。すなわち、洪庵を源流とするなら時代区分的に形成されるその支流が専斎ないし新平などだが、筆者はこれを仮に「ゴトーイズム」と呼ぶことにする。理由は筆者の持論とする生物学とは異なるからである。
 さて、新平は岡松参太郎(京大法学教授)を招き、自ら会長に就任すると岡松の意を汲み織田萬(京大の同僚)をリーダーとし、彼らの教え子である狩野直喜(支那哲学専攻)とか加藤繁(支那史家)など加え清朝の法制度を徹底的に調査させた。その成果が清国行政法で、現在も近世・近代の支那研究を行う御用学に欠かせない資料となりえている。新平はこの間に当時米国在住の新渡戸稲造を殖産局長として招くため画策、その経緯に紆余曲折あるも結果的に成功する。
 新渡戸稲造は盛岡藩士家に生まれ、札幌農学校(現北大)二期生で農商務省御用掛など経て渡米後、キリスト教クエーカー派にメリー・エルキントン(萬里)と結婚、聖書学者の内村鑑三(札幌農学校の同期)ら多くの教え子を輩出している。新平より五歳下だが、国際人としては先輩格で、特に妻の家系にはアヘン交易で得た富を政治的な事業に投資のうえ莫大な利益を上げる政商もいる。むろん、新渡戸が行う表向きの仕事は品種改良を施した台湾サトウキビやサツマイモなどの農業振興であるが、本筋は支那大陸と同様の社会問題である対アヘン政策の根幹に関係する。芥子(消し)は文明史と歩を合わせ古代から命の死活と関わる職能に珍重され毒にも薬にも成りうる間厄の物性を特徴とする。医博の新平は麻(魔)薬の取扱を、農博の新渡戸は芥子の栽培・加工を分担、厄の間を引く流通法に阿片漸禁策を講じることで一致した。すなわち常習アヘン吸引に性急な禁止策は施さず高率課税制度のもと購入を難しくし、同時に吸引を免許制とした。総督府の発表によると明治三三年一六万九千人の吸引者数が、大正六年六万二千人、また昭和三年に二万六千人に激減したというが、元より信用度の低いこと言うまでもない。この利権に溺れた児玉源太郎を薬殺する犯人に新平が仕立て上げられるミステリーや前述の如く太平洋会議カナダ開催に参加のとき新渡戸の謎を含む死のミステリーも今さらでなく、アヘンに纏わる利権ミステリーは古代から連綿と現在に受け継がれている。
 児玉の後継者として満鉄総裁となるゴトーイズムが台湾時代を通じて現在にも及ぶ宿痾こそが間厄アヘン文明の凄さで、国境なんぞ存在しない現実問題なのである。
 以後新平は南満洲鉄道(株)総裁に就任(一九〇六)すると大連を拠点に支那・ロシアを結ぶ鉄道線の敷設設計に取り組むが、基本は生物学の原則(ゴトーイズム)であることに変わりない。南満鉄道の総裁を継ぐ中村是公も台湾時代にゴトーイズムを骨の髄まで叩き込まれた一人で、新渡戸・内村の系譜を引く東大グループを含めて、当初より新平に応じた京大グループもゴトーイズムの支流を形成、これらがコミンテルン(インターナショナル)に通じるネットワークであることは説明を要すまい。むろん新平の功罪を問うても詮ない話であり、すべては過去と未来の連続性の中で五十歩百歩の情と知しか持ち合わせていないのが人の現実というものである。
 以後の新平は内閣所属となる鉄道院の初代総裁を兼任する逓信大臣(一九〇八〜一一)、内相(一九一六〜一八)、外相(一九一八・四・九)、東京市長(一九二〇〜二三)、内相(一九二三〜二四)を歴任して、東京放送(現NHK)の設立(一九二四)で初代総裁となる。新平の最後は昭和四年七三歳のとき遊説先へ向かう列車内で脳溢血に見舞われ京都の病院で没する。ボーイスカウト日本連盟の初代総長を務めたことも附記を要する。
 さて長與家の瓢箪から何が飛び出したか答えよう。後藤新平一〇歳のとき長與家の長男に産まれた稱吉が東大医学部を出て独ミュンヘン大学七年間の留学生活中に現地女性との間に子を儲けることは前記した。新平が象二郎の盟友板垣を治療した縁で内務省に移り衛生局長の専斎に育てられ八年目三四歳(一八九〇)のときドイツに旅立ち帰国(一八九二)して間もなく医学博士を取得し同年内に専斎の跡を承けて衛生局長に就任したことも既述した。稱吉の弟が岩永家に養子入り鉄道院総裁(内相)の新平秘書官となり、新平が内相・外相を終えると退官し渡米(一九一八)、さらに翌年には後藤・新渡戸・鶴見の渡欧に随行することも前記した。外相退任から東京市長就任まで約二年間、新平は公職を離れ裕吉も渡欧随行の帰国後に個人事務所を開き岩永通信を発行する。
 専斎三男の又郎について少し情報を附記する必要がある。又郎結婚の媒酌は北里柴三郎(一八五二〜一九三一)、つまり新平より五歳年長の北里に媒酌の恩顧を受けながら、以下の如き道を進むのだから天皇制が崩れるのも当然である。すなわち、長與家や新平は滅私奉公に徹する北里に甘えるだけで、米ロックフェラー財団に協力、聖路加病院を誘致したり米国ハーバード大学・MIT聯合による公衆衛生学校の開設など手助けしている。北里柴三郎の存在あればまったく無用の働きであり現在の厚生医療も大いに異なり生ける屍が蔓延する似非医学も救われたはずである。ただし北里柴三郎も意の自在性を失えば只の人である。どうあれ本末転倒の留学ブームに生じた長與家の不始末は瓢箪からリヒャルト・ゾルゲ(一八九五〜一九四四)を飛び出させたこと、すなわちゾルゲは稱吉が現地女性に生ませた子、これが答である。秀吉は瓢箪から関白太政大臣の地位を生み出したが、アラジンの魔法ランプに限らず、歴史の中に作り話のタネは尽きない。以下この答を検証しよう。
 後藤新平と時代を同じくする系図上の名は前記の通り弥之助・犬養・上原などだが、必要に応じて記述する。
 次世代の筆頭は浜口雄幸(高知)であるが、もと水口幸雄といい浜口義立(紀州浜口支流)家に養子入り家督を継ぐ逆転劇から幸雄も雄幸と逆転する。この逆転因子の揺らぎもまた歴史の宿痾の一つであり、雄幸の首相時には金(菌)本位制を巡る転換期で雄幸の金解禁は大恐慌と重なり銃撃され無理して政争に立ち向かうが絶命する。この恨みを果たすべく、雄幸後裔は再び逆転劇のもと政府系長期信用銀行を独占したが、金融バブル経済の崩壊により同じ歴史を繰り返している。さて時代は本題に近づいてきた。

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