【文明地政學叢書第一輯】第四章 通信省営繕課「分離派」人脈

●上田貞次郎ゼミ人脈

 上田貞次郎(一八七九〜一九四〇)の父章は紀州藩校明教館の寮長や公用局副知事を務めた藩の重臣であった。貞次郎は東京麻布市に生まれ、紀州徳川公爵家の理事(一九一六)や顧問(一九二六)に就く。頼貞のケンブリッジ大学への留学(一九一三)に際しては同行している。
 旧制正則中学から現一橋大学に当たる高等商業学校を卒業して福田徳三の門下となり、英国やドイツなどに留学しアシュレーやウェップ夫妻のもとで学び、帰国後は母校教授から三浦新七の後任として学長に就任(一九三六)している。上田貞次郎ゼミの教え子の中には、正田英三郎のほか森泰吉郎、茂木啓三郎(飯田勝次)、小坂善太郎などがいる。
 森泰吉郎(一九〇四〜一九九三)は京都高等蚕糸学校(京都工芸繊維大学)教授、横浜市立経済専門学校(横浜市立大学)教授、横浜市立大商学部長(一九五四)など歴任しながら貸ビル業を営むが、「森ビル」の設立(一九五九)後は誰もが知る。
 飯田勝次(茂木啓三郎)が上田の教えどおりに働き千葉県野田の醤油業界を統治のうえ、キッコーマンの茂木家に養子入りして啓三郎となる話は縷々の説明を要すまい。
 小坂善太郎(一九一二〜二〇〇〇)は改めていうまでもなく長野県の小坂コンツェルン家に生まれて外相・労相・経済企画庁長官などを歴任した戦後政治の重鎮である。
 正田英三郎(一九一二〜一九九九)は正田貞一郎(一八七〇〜一九六一)の三男として生まれるが、貞一郎は横浜で外米輸入を手掛ける父作二郎が二六歳の若さで急逝したため郷里の群馬県館林に帰り、醤油醸造を行う祖父(文右衛門三代目)のもとで育てられる。貞一郎も後に英三郎が学ぶ高等商業学校に入って卒業(一八九七)すると同時に祖父を助け働いて文右衛門五代目の長女きぬと結婚(一八九七)する。翌年に長女はるが生まれたのを皮切りに男子三人が年子で誕生、結果的に男四人と女五人の子沢山に恵まれる。
 長男明一郎は二四歳で早世するが、二男健次郎が生まれる明治三三年(一九〇〇)には館林製粉を設立し、四男順四郎が生まれた明治三九年(一九〇六)に臨時総会を開き根津嘉一郎を社長に据えたほか、浅田正文や前記の茂木啓三郎(初代)などを役員に加えた。
  根津嘉一郎(一八六〇〜一九四〇)は山梨県に生まれて、東武鉄道などを創設する根津コンツェルンの総帥だが、貞一郎との関係は世にある作り話では語り尽くせない裏面史も持ち合わせる。次第はさておき、貞一郎も自ら会社を興しながら社長の座に就かず、社長になるのは東京小石川に移り日清製粉との合併(一九二四)後からである。
 正田家伝は小休止を挟みながら後にさらに詳述する。

●逓信省の歴史

 逓信省は郵便や電信・電話の通信事業のほか、海運・鉄道・電気・航空等の広範な分野を所管としたため、その歴史には如上分野の諸情報が含まれているが、朝鮮問題の剖判に必須の条件に限って以後も適時に挿入することにする。
 いまはとりあえず、鉄道関連の歴史だけを略記する。新橋・横浜間に鉄道が開通したのは明治五年(一八七二)であるが、それ以前の鉄道寮は工部省に属し、それが鉄道局に昇格した後、工部省廃止(一八八五)に伴って内閣直属となる。つまり鉄道庁としてさらなる昇格を意味するわけである。
 以後、内務省外局となり逓信省外局(一八九二)と変わり翌年には内局化されて逓信省鉄道局と変遷する。この経歴には重大な意味が含まれている。その後に現業部門が独立(一八九七)して鉄道作業局ができると帝国鉄道庁へ改組(一九〇七)されることになる。すなわち、鉄道局の所管は監督行政のみ受けもち、翌年には内閣鉄道院に統合されるに至って、鉄道事業は完全に逓信省の手から離れた。
 逓信省初代(一八八五〜八九)の大臣は榎本武揚であるが、第二代目逓信大臣(一八八九〜九二)は、先の系図上に登場する後藤象二郎(一八三八〜九七)である。
 犬養毅は二七代(一九二三〜二四)と二九代(一九二四〜二五)逓信大臣を務めた。戦後のいわば逓信省第二期にあって五二代逓信大臣(一九四七・六・一〜四八・三・一〇)を務めたのは三木武夫である。
  すなわち、宿駅制度というように、人も物も流通の利便性から海路が国益に叶うと考えた時代と、陸路に交通網を敷設しようとする時代との違いは、史観にも重大な問題を突きつける。
 場の理論でいえば、千代田区富士見二・一四・一五の周辺地域に今は中央線が敷設されており、総連中央本部の向かいには逓信病院がり、法政大学も警察病院もその所在地は当時(内閣制発足時)はすべて国有地であった。つまり場の理論として看過は許されず何ゆえに実質上の治外法権である朝鮮総連中央本部が逓信病院の前に陣取りしたかが、詳らかにされなければならない。

●逓信省営繕課「分離派」人脈
 
 大正九年(一九二〇)の逓信省営繕課には時代をリードする官の技術集団として、東京帝大建築学科に芽生えた分離派が多く入省している。
 先輩の岩元録(大正七年の入省)は同一一年に罹患していた結核が原因で行年二九歳の人生に幕を閉じているが、京都府上京区の西陣電局は現存する岩元作と伝わる。
 分離派の思想は白樺派の文芸・芸術運動とも通じるものがあり、個人的な主観を基調にして、新たな作風を西欧ロマンチシズム様式で表現するという特徴が見られる。
 建築様式における分離派は、山田守(一八九四〜一九六六)と、同期生の堀口捨己、石本喜久治、森田慶一、瀧澤真弓、矢田茂を軸に結成されたが、分離派の影響を受ける後輩には蔵田(浜岡)周忠、山口文象(岡村蚊象)、大内秀一郎らがいる。
 森泰治も山田と同期に入省し逓信省技術官として働くが、宮内省内匠寮に移り(一九二六)、昭和二年には多摩御陵の造営に関わるという経歴がある。
 山田作品として知られる現存あるいは痕跡を残すものは、ニコライ堂と湯島聖堂を結ぶ聖橋とか旧東京逓信病院(総連本部の前)などがある。昭和二〇年(一九四五)に退官した山田の後期作品としては旧東京厚生年金病院(新宿区)や東京オリンピック用に建てられた武道館(北の丸)などがある。ちなみに、旧東京逓信病院は昭和一三年(一九三八)の落成である。
 すなわち、開国を契機に行き交う西欧文明の都市構造は逓信省の所管事業を通して日本全国へ分離派による近代建築を外面的に出現させた。とくに関東大震災からの復興計画に分離派の設計思想が強く取り込まれたことは疑いない。
 これらの時代風潮を遠隔操作したのが「国際コスモポリタン連合」である、その一環として機能したのが、太平洋会議である。前記の上田貞次郎は昭和八年および一一年の二度、日本代表として参画する。
 上田が師事した福田徳三(一八七四〜一九三〇)は東京神田に生まれ高等商業学校卒業後に神戸商業高等学校の教諭を経て再び母校研究科に入り卒業後文部省委嘱でドイツに留学、ブレンターノに学びミュンヘン大学で博士号を取得し、帰国後に東京帝大へ論文を提出、法学博士号も取得する。慶應義塾教授時には小泉信三や高橋誠一郎などを育て、三浦新七の引きで母校に帰り、母校の大学昇格(一九二〇)で教授を続けるが盲腸炎で没する。
 上田の急逝原因も盲腸炎ゆえ奇しき因縁と言わざるをえない。新渡戸稲造(一八六二〜一九三三)の死も第五回太平洋会議、つまり上田が日本代表で出向くカナダでの客死であり、何れもその急逝を訝しんで首をかしげる説は尽きない。
 
●帝国陸軍の創設と朝鮮統治

 少し大日本帝国陸軍にも触れておく必要がある。起源は維新後の明治四年(一八七一)年に薩摩・長州・土佐の旧藩から徴集して組織された天皇直属の御親兵が始まりといわれる。将兵は士族を中心に編成された廃藩置県の断行を可能とした背景ともいわれるが以後は近衛と改称されて関心は軍備の充実に絞られてくる。
 征韓論を提唱する西郷隆盛の下野が現実になると、それに賛同する将校兵卒も大量に辞職したため、徴兵制に基づく鎮台が軍制の主力に浮上する。全国六分割してそれぞれ軍管区を設け鎮台を設置、西南の役(一八七七)など鎮圧したが、明治二一年(一八八八)年から鎮台は師団に改変される。御親兵が禁闕(禁門・皇居・御所・禁裏とも)守護を任務とする近衛師団に改変されるのもこのときである。
 つまり明治七年(一八七四)の台湾出兵を機に外征へ向けての本能的属性が徐々に増してくると、後方支援部隊を組み込んで機動性の高い師団を編成する必要に迫られたのである。
 日進戦争の開戦時(一八九四)には常設師団七個で済んだものが戦争終結後の明治三一年(一八九八)には常設師団さらに六個が増設されている。
 また、日露戦争に際しては全師団が戦地に派遣され、国内残留の師団ゼロという事態から、戦時中(一九〇五)に四個師団が新編された。
 日韓議定書調印(一九〇四)後には、旧大韓帝國の朝鮮軍人を編入して半島防衛のため師団二個を交代で派遣し、日露講話条約の調印(一九〇五・九)後に総督府を設置(一九〇五・一二)する。
 明治三九年(一九〇六)三月鉄道の国有法施行と同時に南満洲鉄道株式会社が設立される。翌年ハーグ密使事件を機に韓国皇帝退位と関連して第三回の日韓協約によって日本は半島全般の管理責任を負うことになる。明治四二年(一九〇九)に伊藤博文がハルピン駅頭で暗殺されたことは、翌年の韓国併合に帰結して、韓国は朝鮮と呼称を変えて朝鮮総督府の設置が決まる。
 初代総督には寺内正毅が就任した。支那大陸は日進戦争前から機能不全に陥っていた清朝を含めて、西欧列強の植民地政策と絡み合いつつ、各地方の軍閥勢力台頭もあり、日露戦争を通じて日本に救いを求めた孫文により辛亥革命(一九一一)が起こる。
 いずれにせよ、富国強兵のもと出現する帝國陸軍の政策は、如何なる詭弁を弄しようとも神格天皇を人格レベルに貶めて恥じない社会を創出したことは疑いない現実である。
 前記の系図上に登場する野津道貫は寺内正毅内閣の後任教育総監で、戊辰戦争に転戦した野津鎮雄(陸軍中将)の弟である。その最終階級は元帥で候爵にも列せられている。娘槇子が嫁ぐ上原勇作も元帥まで昇進している。
 陸軍三長官は陸軍大臣と参謀総長と教育総監から構成され、大臣は軍政を、参謀総長は軍令を司るべく職能が定められている。
 ちなみに海軍では、参謀本部に相当するのが軍令部であり、陸軍参謀総長と同じ役職を海軍では軍令部総長と呼ぶ慣わしだった。

●蘭学・洋楽の系譜

 さて、本題の系図を使い朝鮮問題の核心に踏み込むことにしよう。
 緒方洪庵(一八一〇〜六三)を語らずして道は拓かれない。備中国足守(岡山市足守)藩士佐伯瀬左衛門惟因の三男章が緒方洪庵と名乗るのは長崎遊学中二七歳のころとわれる。藩の大阪蔵屋敷留守居役となる父に随行して大阪に出るのが一六歳で、その翌年から蘭方医中天游(本名上田環、一七八三〜一八三五)のいとなむ思々斎塾で蘭学を四年間学ぶと、天游の勧めにより江戸へ出て(一八三〇)、坪井信道やその師宇田川玄真のもとで学習する。天保七年(一八三六)より長崎に遊学、オランダ人ニーマンに師事して医学を学び、ふたたび大阪にもどるのは天保九年(一八三八)、弘安二九歳の時であった。
 これより医業開設すると同時に大阪瓦町に蘭学塾「適々斎塾」(適塾)も開く。億川百記の娘八重と結婚し、子は六男七女を設ける。適塾の生徒が増えて手狭となったため弘化二年(一八四五)には北浜過書町の商家を購入して移転するほどに発展した。さらに、牛痘種痘法による切痘を始めるため、古手町(道修町)に「除痘館」を設立する。
 奥医師兼西洋医学所頭取として出仕せよとの幕府命令を拒みきれず江戸へ向かうのは文久二年(一八六二)洪庵五三歳の時と伝えられる。出仕後すぐ歩兵屯所医師選出を申し渡されると、手塚良仙(漫画家手塚治虫の曽祖父)ら七名を推薦している。ところが翌年文久三年つまり洪庵五四歳のとき約宅で突如喀血、そして窒息のため死去(六月一〇日)というのが通説である。
 適塾の洪庵門下の代表格に福沢諭吉や大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など広く知られる著名人がいる。
 洪庵の事績は病理学書『病学通論』が日本最初の啓発書として評価されるとともに、種痘を広め天然痘の予防に尽力したことが挙げられる。安政五年(一八五八)のコレラ大流行に際しては治療手引書『虎狼痢(コレラ)治準』を刊行、医師らに配布し治療の便に供した貢献が抜きん出ている。
 洪庵没後の適塾は維新後に大阪医学校が開設されると、教師・塾生ともに同校に移籍して引き継がれて現在の大阪大学医学部へと連なっている。
 日本最初の公的な西洋医学講座開設は仙台藩学校蘭科(一八二二)とされ、それが現在の東北大学医学部に引き継がれている。
 繁盛したとはいえ一私塾にすぎない適塾をいとなむ洪庵がなにゆえ幕府出仕を何度も拒んだのか。また、出仕二年目五四歳にてなぜ突如喀血死去するのか。感染病理に勝れた事績を刻む佐伯氏出身の佐伯章公裁がなにゆえ緒方を名乗るのか。死因を巡る謎は尽きないが、次第は兎も角も本題に集中しなければならない。
 福沢諭吉(一八三五〜一九〇一)は中津(大分県)藩士、中津藩は黒田孝高(如水、洗礼名ドン・シメオン)入部で知られるが、福沢は適塾門下生のとき腸チフスを患い藩の大阪蔵屋敷で療養のところ洪庵から手厚い看病を受け完治する。
 門下の塾頭は福沢から長与専斎へと引き継がれるが、門下生の村田蔵六=大村益次郎(一八二四〜六九)に触れておく必要がある。
 周防国(山口県)吉敷郡鋳銭司村字大村の村医者村田孝益の長男としてうまれた、防府の梅田幽斎に医学・蘭学を学び梅田の紹介で豊前国(大分県)日田の広瀬淡窓(一七八二〜一八五六)門下生となる。弘化三年(一八五三)三〇歳のとき大阪に出て適塾に入り、在籍中一年間だけ長崎に遊学して適塾にもどり塾頭を務めるが父の命で帰郷し村医を継ぎ隣村の農民の娘琴子と結婚する。嘉永六年(一八五三)三〇歳のとき伊予国(愛媛県)宇和島藩の要請で妻を伴い出仕、百石扶持ゆえ上士の格式といえよう。西洋兵学・蘭学の講義・翻訳を手掛け翌年から軍艦の製造研究を目的に長崎二年間の出張中に雛形を作り上げる。出発時に同行した二宮敬作はかつて長崎に滞在した独人医師シーボルトの弟子で、シーボルトの娘を村田に紹介する。名を楠本イネといい産科修行中という。村田が良庵から蔵六に名を変える時期でもあり、理由不詳とされるが、筆者は村田家の家紋(六つ鉄線)に通ずると考える。宇和島藩の次なる要請は江戸出向で、幕府の蕃書調所教授方手伝として月米二〇人扶持・年給二〇両が与えられたので「鳩居堂」を開塾し蘭学・兵学・医学を教え、翌年に幕府の講武所教授を拝命する。
 桜田門外の変(一八六〇)が起こると長州藩は宇和島藩に掛け合い村田を江戸在住のまま長州藩士として召抱える。薩英戦争勃発(一八六三)に際し村田は萩に帰郷を命ぜられ西洋学兵学教授として博習堂で講義を行うが慶応元年には馬廻役譜代へ昇格し名を大村益次郎永敏に改めるよう藩名が下る。藩政改革では軍事体制の整備を担当し幕府が第二次長州征伐を行うと迎え討つことに成功するが、倒幕運動には自重論で対応する。
 王政復古・戊辰戦争終結(一八六九・二)まで朝臣の立場で働くその事績は省略するが、兵制会議で大久保利通らと対立し、結果として刺客に襲われ重症を負うことが原因で行年四六歳の絶命となる。歴史にifが無用の証として、大村が死んでもその思想が活き続ける現実がある。それを象徴するのが靖国神社に聳える全身像である。本人には迷惑だろうが、人の本能的属性は生ける屍の似非と本義の情報(神)とが入り交じって混沌する空間から逃れられない宿命にある。

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