修験子栗原茂【其の四十四】道真流「競わず・争わず」の奥義

 昭和天皇「御製」 わが庭の 竹の林に みどりこき 杉は生ふれど 松梅はなし

          ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ

 少し飛梅の伝承いくつかを紹介しておきたい。

 道真についての伝承は新作を含め未だ尽きる事ないが、松と梅と桜は道真に相応しい節気の遺訓を伝える樹木として役立っている。

 東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春なわすれそ

 道真が愛でた庭木(松、梅、桜など)は道真を慕い道真を慰めた。もっとも知られる伝説は九州へ赴任の道真との別離に際して櫻は咲き誇り舞い散ったとされ、別離を惜しんだ松と梅は後を追うかの如く空を飛んだとされる。ところが、松は途中で軟着陸する事になったという。

 松が着地した場所は摂津八部(やたべ)郡板宿(現兵庫県神戸市須磨区いたやど町)付近の「飛松岡」と呼ばれる丘そこに根を張ったとされる。単独飛行となった梅は無事大宰府へ達して、その地に根差し、終活に専念した道真永眠の際には殉葬の供奉に随ったとされる。

 能楽伝承では世阿弥ほか演じるところであるが、主を慕う梅が大宰府へ飛んで行ったあと、同じく道真公の京屋敷に在った桜は梅の歌ばかりを置き土産とした主に対して、自分が無視されたと悲しみ枯れてしまったとする。その報せを受けた道真公は「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に 何とて松のつれなかるらん」という歌を詠んだとし。すると、今度は松が梅の後を追って大宰府へやってくる。即ち「老松(追い松、生い松)」演目の事を指しており、飛び梅(紅梅殿)・老松は共に大宰府天満宮末社の神として祀られる由来のネタとされた。

 諸説から抜粋して採り上げると、菅原氏ご家人で道真公に仕えた味酒保行が大宰府へ随行した際に京屋敷の苗木を株分け植栽したものという説ほか、伊勢度会(わたらい)の白太夫なる人物が道真の旧邸(京屋敷)から密かに(盗んで)持ち出した苗木を大宰府へ献じたという説などあり、いずれも人形浄瑠璃や菅原伝授手習鑑の主題ともなっている。

 全国各地へ及ぶ天神様の風土記としては、大阪藤井寺市の道明寺天満宮、若狭大飯郡大島(福井県大飯郡おおい町)の宝楽寺、備中羽島(岡山県倉敷市)や周防佐波郡(山口県防府市松崎)の防府天満宮など、それぞれ郷土に見合った逸話と共に今に伝えられる。

 さて、人口の需給バランスが一概に分別し得ない事は当たり前のことであり、神話の世界でも適正人口は人間を生む前からテーマとしている。人間の起源説を追うと、古代ギリシア人は「人は土から生まれ土に還るが神は不死」と考え「神々は人々と共生した」と思ったらしく、創世記の信者であるユダヤ、キリスト、イスラムは「アダムとエバ」の神話を大事にしている。

 日本初の史書「記紀」にあっては、国生みと人づくりの神イサナキとイサナミの二柱の件が黄泉の比良坂で交わす件から人口問題の本質が透けてくる。

 適正人口には諸説あるが、私は文明度のアルゴリズムを導く事により、時の文明度に見合う適正な人口数を推し量る事にしており、その理想形を「競わず・争わず」に求めている。

 以下、競わず争わずの具体像を示しておきたい。

 在るがまま・成るがまま、その善し悪しを論う事はできても、その是非をゼロサムに持ち込むエネルギーは実在しないし、その合理性を実行に導くエネルギーは生まれない。同じ一つの生命体に宿る性質からして、正否の狭間に揺れる事が生きている証し、そのスキマに割り込んで圧を掛ける一因を為すのが触媒ウイルスである。これ言葉を替えれば競争心に蠢くノイズともいえよう。

 正否を決する心に戸惑う間が生じるとき「早い者勝ち」と急かす圧をノイズと思えばよい。

 在るがまま・成るがまま、この現行社会には賢者も居れば愚者も居り、凡人も居れば狂人も居って世相が一色に染まる事はありえない。健常者も障碍者も居れば、長寿も短命も居って、個々の事情に差異が生じる事は当たり前と思われているが、明日は我が身と覚る心に欠ける一面も同居している。好都合を放置しておけば不都合に転じて、不都合が好都合に転じた事もあるが、対外的な圧が掛かる競争心により、いつの間にか人は「逸る心」に圧され動かされている。

 地球人口が急増する傾向は科学に基づく機械化の進行に歩を合わせている。

 機械化に伴う要件は大量生産にあり、大量生産に伴う要件はインフラにあり、インフラに伴うのは都会化の促進であり、都会化に伴う要件は労働力の補充にあり、結果的に生じるのが急増する人口と加速やまない競争心に圧が掛けられる。これらは産業革命以後の政争に限られている。

 つまり、人脳が主体の手作り文明から電脳が主体の機械化文明への転換を意味しており、そのうち最大の変化は不自然すなわち電脳による圧が人の競争心に浸透しだしたのである。

 圧には、自然界に働くエネルギーのほか、人脳がもたらす圧、電脳がもたらす圧などあるが、予知不能な自然界の圧エネルギーには、専守防衛に徹する外ない現実を繰り返している。後者二つの圧は国際政治の趣向が主体だから大小の差があっても、事と次第によっては戦争も辞さないエネルギーの暴走も生じており、その傾向は時流によるさまざまな現象としてあらわれる。

 産業革命以降の現代人は大多数が国際政治の圧に屈する事を批准した社会に生きている。

 その国際政治は宗教や哲学や科学が混交したシンクタンクに誘導されており、そのシンクタンクも多数派と少数派が混交する仕組みに成り立っている。事の正否にはタイムラグがあり、産業革命後の正否は結果を見るまで判明し得ない事案の増大と拡大が加速化してやまない。過ちは派の多少を超え生じるが、それを正すべき国際政治にシンクタンクを改良する力量は備わっていない。

 一見シンクタンク(頭脳集団)とシビリアンコントロール(文民統制)は一対のごとく思われるが国際政治はそんな簡単な構造には成り立っていない。需給バランスは国際政治も人口問題も本質的に何ら差異のない求心力を要するため、その核心に求められる絶対的な要素は「競わず争わず」の精神構造でなければならない。

 即ち、文明史に如何なる異変が生じても「競わず争わず」は不動一貫して変わらないのだ。

 そこで道真(八四五~九〇三)流「競わず争わず」から学んでおきたい。

 道真と言えば安楽寺、安楽寺と言えば極楽寺、安楽寺が保養者の癒しになれば、極楽寺は療養者の慰めを果たし、その立案は共に聖徳太子(五七四~六二二)の四箇院と私は自負している。四箇院は四天王寺(摂津難波)建立の際に併設された施薬院、療病院、悲田院、敬田院の病棟を指している。思想的には釈迦仏教の影響が大と思われるが、その原初は人口問題から発した事案であって、人命が生まれて死ぬ自然発生的な希求から生じた具現化と私は思っている。

 四国八十八か所霊場の第二番札所とされた極楽寺(徳島県鳴門市)は奈良時代(七一〇~八四)の創建と伝わっているが、もっとも知られる極楽寺は神奈川県鎌倉市の霊鷲山(りょうじゅさん)感応院(かんのういん)極楽律寺で忍性菩薩(一二一七~一三〇三)を開山としている。鎌倉に開基した時の執権は北条重時(一一九八~一二六一)であるが、後醍醐天皇(一二八八~一三三九)の勅願を賜った事から壮大な寺領を有して、史上にも稀の大掛かりな難病救済を展開していた。

 開基開山を不明あるいは不詳としたまま放置している安楽寺の事案に対して、私は長期間の不審を拭えないまま過ごしたが、いま道真流の深淵に立たされ「人口問題と競わず争わず」の関連をたどる模索から明らかな光が射してきた事を感じている。

 人口の増減や世代構成に伴う課題で重大なウエイトを占める社会問題として、建国と共に繰り返し行われる政策に戸籍改製の厄介が付きまとっている。すなわち、無戸籍者の扱いであるが、社会的な構成員として認知されながら、法的には国民としての条件を満たさない人たちが実在しているのだ。古来、農民などの定住を営む無戸籍者の扱いは庄屋あるいは名主の管理下に置かれ、人別帳=戸籍の登記人として認知されたが、それ以外は被差別部落民を含め非人として扱われる差別があった。

 開国明治の壬申戸籍を以て非人なる語は断ち消えたが、行政が同和と呼ぶ奇っ怪な社会問題が掘り起こされ新たな混乱を巻き起こしてやまない。時代が平成期に移るや更なる奇っ怪は売国も辞さない法律制定が乱発されていく。たとえば「反社会勢力」と言う人権剥奪が強行されたのである。

 すべては競い争う社会にのみ生じる現実の事象そのものといえよう。

 もはや日本の政体に有職故実は望むベくもなし、而して、國體が為すべき事は「競わず争わず」の国是を再認識することにあり、その実践に個々の思いを新たにするほかない。

 勘違いしないでほしい。私が指摘する「競わず争わず」とは次の如き念に支えられている。単なる競争心は細胞が更新を繰り返す過程で変化して止むことがない。たとえば、速さを競う駆けっこ等は成長期の相当細胞が更新を活発化するが、衰退期に同じ事を望むのは無い物ねだりである。これらの競争は自然界に同調した生命の働きに属しているが、宿命的な不自然性を伴う競争心には根底に私利私欲がつきまとっている。

 私の自覚は前述なんども繰り返し記した公私の分別を基礎とする非競非争を定義とする。文明にも非競非争の実在を覚える事あるが、その大半は歴代天皇に鑑みる超克の型示しにあり、不自然を伴う競争文明から生じるモノゴトは全部が全部そこに私利私欲がつきまとっている。その利己欲に群がる競争心の成れの果てが戦争である事は言うまでもない。

 土師職の遺伝子が宿る道真ゆえに、その政策には一貫した奥義が潜むと覚る私であるが、佛と向き合い霊を慰める行に励む事から見えてきた事は安楽寺そのものにあった。

 たとえば、それは人口問題そのものを解くキーワードであり、頭でっかちの逆三角形で成る現代の如き人口構成を回避することは政治を司る者の最大テーマでもあるからだ。群社会の最小単位である家庭から最大単位の国家に至るまで、構成員に共通する課題は働き盛りを軸とし、高齢者も年少者も家督継承が絶える事ないように認識する責務が免れないのである。

 政体としては、家督断絶に見舞われた不都合な家庭に対する措置もあり、後継者に恵まれなかった高齢者受容の準備も怠る事が許されない。それはまた、家庭内に不都合の高齢者受容においても同じ措置が講じられるべきだろう。この先鞭を講じたのが道真の安楽寺ではないか。

 古来、人が群れる社会は年齢を問わず五体満足とは限られない。心身に不都合あっても、社会的に不都合あっても、生きようとする生命には相応の思いやりがあって然るべきである。具体的な一つの事案で法的に犯罪者とされても、その更生を認めるか否かは社会の在り様で異なってくる。これらも含めた社会問題を含むのが人口構成にはつきまとうのである。

 端的に言えば、社会を構成する人口は十人十色が自然な姿であり、善を生むのも悪を生むのも現実社会を構成する全員に関わっており、善悪は全構成員の一人一人に同居しているはず、どんな人でも人(=法)が人を排除するなどは自らの実在を否定する事と違うのだろうか。

 ウイルス培養の現象を見れば明らかなように、如何なるコロニーを形成しても、不飽和を保てずに飽和へ達すれば、ビッグバンの如き生滅あるいは淘汰に狂い襲われるのは必然と気づかないか。

 家庭は熟年、壮年、青年、幼年から成る小さな歴史の宝庫であり、その小さな歴史が地域の歴史を重ね広げる事で社会は形成されているのだから、社会は人を養う場であり、人に教える場でなければ建国とは言えまい。然るのち國に与えられるのが「やむにやまれぬ」禁じる力であろう。

 すべて「競わず・争わず」の前提条件であり、神武天皇即位の建国が成立するまでに要した國體の礎だと私は自負している。それが記紀の導くところであり、「やむにやまれぬ」禁じる力を活かした道真流「競わず・争わず」の奥義であり、極意だという思いを私は覚ったのである。

 私は確信している。戦略思想研究所の活動から「何が生まれるか」を、その答えは言うまでもなく確たる信念に裏打ちされた「ヤマトタケル」の輩出そのものにあり、そのコミュニティーから生じる自覚が「競わず、争わず」に集約されること、そのキーワードこそ「ヤマトナデシコ」の天縄文理論に尽きると自負するしだいある。

 もはや時勢は「おわりのはじまり」渦中にあるが、その渦に心地よく身を委ねるとき、読者方から重要なチェックが届いた、それはユニックスエポックについて詳述せよとのこと。

 いわく地球は月一個の衛星で事足りていたが、今や地球と月との因果関係を脅かす人工衛星が宇宙空間を我が物のように飛び交っている。しかも大気圏で最大のエネルギーを有する電離層においてもHAARP(ハープ)の動きが盛んになってきた。すべては国際政治と科学が結託した不自然による地球の人工化ではあるが、必須の核戦略はコンピューターの支配下に委ねられている。

 地球を本拠とする生命は太陽と月のエネルギーに生かされており、その基軸は公転と自転の渦から得られるエネルギーを受け、時の刻みを整えるとともに、見えない世界すなわち空間の活用も生活の場に加えているが、これ自然界に順応した國體の営みで昔も今も変わることはない。

 他の地球生命を思いやれる人の原動力は時空のエネルギーを覚るがゆえの事と確信している。

 人は何ゆえ時空に目覚めたのか。それは終わりと始まりを知りたいからで、一日の終わりを知れば次の一日の始まりが分かり、そこに周期性ある事が分かれば安堵が得られるからである。周期性から得られる最大の安堵は予定や予知など仮の建策が可能になるから…だ。

 人の生活は予測と結末の線上に成り立っており、その線上は時空で成り立っているために、設計を編む際には符号に用いる数を算定しなければモノゴトは前へ進められない。

 コンピューターが本格始動したのは二十世紀の初頭であり、十九世紀に「神は死んだ」とウソぶき自ら死んだ科学が生まれ変わる頃に当たっている。コンピューターは数から生まれ、その数は無限に等しい符号を産み落とし、今や32ビットまたは64ビットの符号付整数に操られている。

 科学が「もはや神はいらない」と早とちりしたのは、元素周期表を編んだ事に起因しており、その早とちりはラジウムなどの重元素を発見した事から陥落の運命をたどったのである。陽子の自爆から電子まで殉死する相は動植物の世界なら珍しくもないが、見えない世界=空間たとえば意思の働きを軽視する科学には思いも寄らなかったのだろう。

 而して、生まれ変わった科学は見えない世界を牛耳る国際政治との結託を再考したのち、核開発を行う事を条件に利権の二分化を確定その結果として原子爆弾が生まれてしまった。未曽有の被爆数に止まらず、長期半減に苦しむ放射能汚染は科学が苦手とする見えない世界の出来事である。

 少し横道に目を向ける事も避けられない。今や科学的根拠は国際社会の全てを支配しており、その証拠が怪しくても、所見が科学分野に属する解なら裁判でさえ科学を信仰してやまない。ところが、世界貿易センターが崩壊した9・11事件の際には、米大統領が信仰する宗教観を以て敵対的なイスラム教の前大統領をリンチにかけている。これ科学と宗教(国際政治)の混濁そのものだろう。

 さて、ユニックスエポックの顛末であるが、複雑ゆえ周知の事のみに限定して説くことにする。

 私の記事は科学分野に及ぶとき、その文明機器は軍需を優先しており、後発の民需とは時差がある事を承知してほしい。機器によっては軍需に限定するほか、直ちに民需へ譲り渡す場合もあり、その差配は様々な機密性に拘束されており、軍人であっても知らない機密は限りなくある。

 つまり、ユニックスエポックについて詳述せよとの達しは、戦略思想研究所の読者ならではの高い教養と思うがゆえ、コンピューターのハードやソフトに関する事の多くは省くことにする。まずコンピューターシステム誤作動の常態化は誰もが認識するところだろうが、実証的なデーターが改ざんの憂き目にあるため、真実を報道し得るメディアは皆無に等しく、現行社会を知るのは人ではなくコンピューターに委ねられている事を認識すべきである。かつて文明社会に根を張った寄生人種は宿主を労ったが、コンピューターは宿主など居ても居なくて構わないのである。而して、人として絶対的なサバイバルは見える世界と見えない世界の表裏を覚る感性を研ぎ澄ます事に尽きるのである。

(つづく)

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