修験子栗原茂【其の三十七】池田氏と菊池氏

 さて、箕作家コネクションを知るために欠かせない池田氏にも触れておきたい。

 その前説あり、日本列島の先住文明は縄文に始まるが、縄文の以前から知られる地球生命の資源が木火土金水とは言うまでもないこと、これらは陽気と陰気の二元性を以て一体を成している。見える世界と見えない世界の持ち主という意味であるが、その源である日(太陽)月(地球)もまた陽陰を以て一体を成している。この資源を生活に活かした文明に属したのが縄文の人々である。

 樹木の手入れを施すこと、火を熾すこと、土を練り耕すこと、鉱物を以て種々の道具をこしらえる事など、すべての作業に水が求められる事を知るのである。その水は自然界のろ過システムによって生じる湧き水(泉)こそ生活資源の源と知るや、温泉まで湧き出る地の利を知ったのである。

 すべて皇紀暦以前のこと、すでに水利の発見や管理に秀でたオピニオンリーダーも出現していた。

 このオピニオンリーダーの後裔が後に神武天皇からカバネをたまわり、菊池氏や池田氏など水利に関わる国人の分布が始まるわけである。つまり、酒づくりの杜氏の如き先駆者の始まりである。火山列島は絶え間なく燃えたぎるマグマの構造線が連なることで、温泉は身近な存在とされ、次第に医療効果を問う分類まで知ることになる。湯氏のカバネが生じるのも宜なるかな。

 御用学の通史は和泉(大阪府)池田村が池田氏の発祥地という説を目安にしている。律令に仕えた荘官が摂津と美濃に拓いた場は池田荘と呼ばれて、源平合戦(一一八〇ー八五)の頃、源頼政(一一〇四~八〇)の弟泰政が池田氏へ養子入り、泰政の子泰光が長子時景に摂津豊島郡その弟泰継に美濃池田郡を継がせたとされる。その際の実務的な開拓者は国人衆以外の何ものでもない。

 池田氏は平安期から戦国期までの間、その時々の覇者に仕える事で摂津の有力な国人としての勢力地図を拡げていった。この間の覇者は摂津源氏、楠氏、足利氏、細川氏、三好氏、織田氏など、みなビジネス作家が描くベストセラーのネタと思われるスターを作るが、その実は縄文の里帰り組を継ぐ国人衆の働きにあり、将棋にみられる「と金」の如き歩の駒が主と思えてくる。

 摂津池田知正(生年不詳~一六〇四)は荒木村重の下剋上で勢力を失ったとされるが、これもまた官製通史の千切り取りや摘み食いと思わざるを得ない疑いが潜んでいる。家臣村重の下剋上で地位が逆転した知正は一時期荒木久左衛門の名で呼ばれる事もあるが、疑問は荒木氏が何者かという氏姓の鑑識を軽視してはならない。通史は荒木氏を波多野氏一族または藤原秀郷の後裔とみている。

 波多野氏は摂関家領の相模波多野荘(現神奈川県秦野市)に土着した坂東平氏のうち、朝廷内でも高官の地位を得た軍事貴族のこと、その祖は佐伯経範(前九年の役で活躍)の父経資が相模守補任の源頼義目代として波多野荘へ赴任した事に始まるとされる。経範は藤原秀郷系分流の娘と婚姻するや波多野氏→佐伯氏→藤原氏と改め秀郷流を称して、秦野盆地一帯に勢力を張り、沼田、河村、松田、大友などの諸郷に一族を配したとされる。のち経範の五世孫(波多野義通)が源義朝に仕える一方で妹は義朝側室となって二男朝長を出産したとされている。

 荒木村重(一五三五~八六)は信濃嫡流の小笠原三代が流浪の際に受領とはいえ信濃守に任じられ従五位下(摂津守)の官位も与えられている。ゆえに戦国期でも軽々しくは扱えない。村重はまた千利休十哲の一人としても知られる。知正と村重の関係をみてみると、長正の嫡男知正に対して村重は長正の娘と婚姻したゆえ、二人は義兄弟に当たることになる。

 而して、池田氏のDNAに鑑みれば、それ相応のカラクリが潜むとみるべきである。摂津池田氏の下剋上は知正の代に起こるが、先代は兄勝正(生年不詳~一五七八)、後継は弟光重(生年不詳~一六二八)であり、三兄弟の父長正(生年不詳~一五六三)の生涯も戦国の波に呑まれている。それは切腹した祖父信正(生年不詳~一五四八)の生涯も同様こうしたとき、私が鑑識するところは源流の湧き水にあり、その浄化リサイクル運動が機能しているか否かをチェックするのである。

 池田は縄文の水利に係るカバネの一つ、初の池田城は現在の兵庫県川西市多田の地に築かれ、のち現大阪府池田市に大規模な築城工事を行ったとされる。池田氏は紀長谷雄(八四五~九一二)の系を遠祖とするが、それは紀氏の娘婿になった事が理由付けであり、のち源頼政(一一〇四~八〇)の弟泰政を養子に迎えて、築城(一三三四)は泰政の九世孫教依(のりより)が行っている。

 池田城は五月山の南麓東西に延びる尾根を利用して、西側には崖、北側には杉ヶ谷川を取り入れ、東と南には大きな堀(最大幅で二十五・七メートル、深さ六・五メートル)と土塁を配置、畿内でも屈指の規模を誇った城郭として知られていた。

 教依の妻は内藤満之の娘であるが、娘が嫁いだ最初の夫が楠木正行(生年不詳~一三四八)のため教依の子教正が正行の子という説の根拠とされ、この説は今も根強く息づいている。池田城は応仁の乱(一四六七)を機に一度は大内政弘(西軍)の手に落ちたが、間もなく奪回した時は損傷が少なく大規模な改修は必要なかったとされる。次に落城(一五〇八)した際には前記信正の父貞正が自刃の最期を遂げ、信正は逃亡に成功したが後年(一五四八)切腹の連鎖を免れなかった。

 ともかく、武家池田氏の戦国期は摂津本流にしてこの始末、さらに下剋上や改易など通常であればお家断絶や廃嫡は当たり前であるが、徳川政権下の池田氏は江戸に留まり、明治七年(一八七四)に後嗣なく没した貞瑞(摂津池田の本流)まで続き、その後も分家が相続して現在に至っている。

 さて、世に言う池田氏は岡山藩主家を指す事が多いとされる。その前に触れておきたい池田氏には美濃と近江そして近世大名の池田氏があり、要略だけでも確認しておいてほしい。

 美濃池田氏は「政」が通し字とされる。前記の通り、泰政の代に摂津から移ったとされるが、建武親政のころ美濃守護は土岐氏が直轄しており、問題は土岐氏が何者かということである。

 近江池田氏は甲賀郡池田の地名が由来とされ、その後は蒲生郡へ移ったとされる。池田景雄(一五二八~九八)の主君は六角承禎→同義弼(義治)→浅井長政→信長→光秀→秀吉にかわり、伊予守の官位を得ると伊予の国分城主(大名)に就いている。しかし、関ヶ原の戦後は藤堂氏の家臣となり、後に嫡男秀氏と共に旗本となった。秀氏は伊予大洲城主から高虎に仕え高祐と改名いずれも主君名の一字偏諱とされる。

 近世大名の池田氏は恒利(生年不詳~一五三八)が尾張に移って始まるとされ、恒利の三代前には恒正がおり、恒正の兄充正が摂津池田氏中興の祖とされている。ただし、その確証は何もなく、滝川貞勝の三男(二男とも)という説が出回っている。すなわち、滝川一益(一五二五~八六)の祖父に当たるとされ、一益は信長の前は六角定頼(?)に仕えたと言うわけである。

 江戸初期の幕府が諸大名へ命じた一つに系図の提出があった。池田氏は尾張藩儒官の堀正意(一五八五~一六四三)に系図の作成を依頼したとされる。正意の父徳印は近江の医師で祖父は同野村城主堀定澄とされ、正意は藤原惺窩(一五六一~一六一九)四天王の一人であり、幕府の『寛永諸家系図伝』の編纂にも関与している。

 ところが、鳥取池田氏の分流鉄砲洲家(若桜池田家)の当主五代目定常(一七六七~一八三三)は自身の系図を探求したうえで「大名家には民間出身者が多いため素性がよくわからない。わが家系の実際は恒興(信輝)以前(一五三六)一つに決しがたい」と述べており、新井白石(一六五七~一七二五)も「池田恒利を以て祖それより以前は疑問」と言明している。

 正意と同じ惺窩(せいか)四天王の筆頭林羅山(一五八三~一六五七)は前記『寛永…系図伝』の作成責任者として、岡山藩主池田光政から「わが遠祖を源頼光流とするように…」と頼まれたことを言述した記録を残したとされる。

 どうあれ、書けば尽きない池田氏であるが、その成り立ちから今に至るまで、通常なら何度も家督消滅の危機を自ら招きながら、その時々の政権から破格の待遇で処せられるのはなぜか、その根源を究明しないかぎり、こんな四方山話にいつまでも付き合ってはいられない。

 かと言って、池田氏の素性を解かないかぎり、現在いや未来の展望などは開かれない、私は池田と同様の素性を有する菊池氏を探求した事でその手掛かりを得たと自負している。それはまた箕作家のコネクションを解くカギともなり、そのコミュニティーから生じる出来事に私たちは大いなる関係を有している、それを覚るがゆえに拙い記事も続けられると思うのである。

 池田氏と言えば、岡山藩主家と鳥取藩主家が必須とされ、その一門諸流の系譜は断絶と絶家までに至る間の歴史に重大な痕跡を刻んでいるが、それは他の資料に委ねる事で省くとする。

 さらに重要な情報は現在の兵庫県中央部を流れる加古川と、その河口左岸に位置する加古郡の歴史認識であるが、その事由は後述の中で追々紹介しなければならなくなる。

 さて遠回りが長引いた箕作家のコネクションから、私が選んだ先駆けは菊池大麓(一八五五~一九一七)であるが、先ずは周知とされる情報を確認しておきたい。

 父箕作(旧姓菊池)秋坪と母つね(箕作阮甫三女)の二男大麓が父の実家へ養子入りして菊池姓に戻ったこと、この菊池家が大麓の四代前から養子で家督継承してきた事は前記の通りである。大麓の生地は江戸鍛治橋(現中央区八重洲)であるが、当時の菊池姓は水戸藩の尊皇志士や義民が圧倒的な活動記録を刻んでいる。先ずはその菊池衆を列記しておきたい。

 菊池謙蔵…久慈郡(現茨城県)冥加村の郷士で天狗党(水戸藩内外の尊王攘夷派)に加わり、乱に参じて捕縛後は川越から佃島へ移され獄死(一八六六)享年二三歳(靖国神社合祀)。

 同忠衛門(隆英)…謙蔵と同郷の士。藩小十人組に列され天狗党に加わり、武蔵川越で獄死(一八六六)享年六七歳(靖国合祀)。

 同幸四郎…冥加村の百姓だったが一代苗字帯刀、麻上下御免を許されている。

 同理三郎(武政)…久慈郡上岡村の里正(庄屋の別称)。水戸で獄死(一八六七)享年三〇歳(靖国合祀)。

 同郁太郎(忠積)…久慈郡下野宮の百姓。天狗党に参じ鹿島郡鉾田村三光院で討死(一八六四)年齢不詳(靖国合祀)。

 同小平…下野宮の里正。麻上下御免(一八五五)を許されている。

 同荘七…那珂郡山方村の百姓。天狗党に参じ捕縛後に獄死(一八六六)享年二二歳(靖国合祀)。

 同五郎次…久慈郡天下野村の百姓。天狗党に参じ同郡中染村で捕われ、病で帰宅後に死去(一八六五)享年二九歳(靖国合祀)。

 同三左衛門(信忠)…久慈郡頃藤村の組頭嘉衛門の長男。天狗党に参じ水戸で獄死(一八六六)享年二一歳(靖国合祀)。

 同亀松…久慈郡山田村の百姓。天狗党に参じ捕縛後に水戸で獄死(一八六六)。

 同源三郎…那珂郡大宮村の百姓。天狗党に加わり、久慈郡中染村で二本松藩兵との戦で討死(一八六四)享年二〇歳(靖国合祀)。

 同源吾…那珂郡上大賀村の百姓→組頭兼野上村里正。麻上下御免(一八五五)のち天狗党に参じ、武蔵川越で拘禁獄死(一八六六)享年四四歳(靖国合祀)。

 同由兵衛(富興)…那珂郡照田村の百姓(組頭)。天狗党に参じ獄死(一八六五)享年五二歳(靖国合祀)。

 同景道…常陸(茨城県)宍戸藩士。天狗党に参じ獄死(一八六六)享年一八歳(靖国合祀)。

 同勝五郎(義徳)…宍戸藩士(近習頭)。主君松平頼徳に随い水戸へ赴いたが、水戸藩内の内紛に巻き込まれ主君頼徳の切腹(一八六四)と同時に勝五郎は斬首される。

 同勝太郎…宍戸藩士(小納戸役)天狗党に参じ水戸で獄死(一八六四)享年二三歳(靖国合祀)。

 同荘助(義猛)…宍戸藩士(参政)。天狗党に加わり、捕えられ水戸で斬首(一八六四)享年四五歳(靖国合祀)。

 同忠介(景恒)…宍戸藩士。天狗党に与し水戸で斬首(一八六四)享年四四歳(靖国合祀)。

 同勝作(道貫)…大沼先手同心組。天狗党に参じ武蔵岩槻から江戸佃島へ移され獄死(一八六六)享年二四歳(靖国合祀)。

 同丑之介(守次)…大沼先手同心組。天狗党に参じ岩槻から佃島へ移され獄死(一八六六)享年二九歳(靖国合祀)。

 同久七(正国)…大沼先手同心組。獄死(一八六五)享年三九歳(靖国合祀)。

 同鼎次郎(以徳)…野村則行の二男が菊池以道家へ養子入り、那珂湊反射炉構内にて討死(一八六四)享年三七歳(靖国合祀)。

 同秀次郎(徳祐)…蔵奉行。菊池弥次衛門徳馨の四男。武蔵忍で獄死(一八六六)享年二〇歳(靖国合祀)など。(もう一方に佐幕派と言われる水戸藩士がいるが省略する)

 当時いかに多数の菊池姓が名を馳せたかの証左であるが、大麓一〇歳前後の時局に当たり、幕末と維新の端境期に当たっている。箕作家にあっては阮甫の没年(一八六三)間もないころ、阮甫の娘が菊池家から婿を迎えた歴史的な絆には、深い因果が潜んでいるのではないか、縄文の里帰り組を掘り下げていた私の閃きであり、以後の私を導く指針の一つに加えられた。

 私は池田氏や菊池氏などの国人衆には、縄文の里帰り組が混じっていると自負している。

 琉球(沖縄)を含む九州全域は世界史を解く宝庫の一つであり、地政学の上からも世界中の史家が避けて通れない登竜門の一つになっている。

 人は興趣に惹かれると、その興趣が身近にないかと探そうとする。たとえば、霊峰富嶽(不二)に魅入られると、自分の故郷にも不二あるあるを決めこむが、それは自らの信仰を身近に勧請しようと思う信心すなわち神通力と変わらない。

 九州には富士五湖に匹敵する阿蘇五岳が聳えており、東西一列に並ぶ五峰のロケーションは釈迦の涅槃像を思わせるが、五峰の山頂付近は九重連山や雲仙岳と並ぶミヤマキリシマの一大群生地、また阿蘇山(最高点は高岳の標高一五九二メートル)南麓白川水源の名水は絶えることがない。

 九州中央部の阿蘇神社は阿蘇氏発祥の地とされ、神武天皇の皇子神八井耳命を祖としている。同じ祖(君のカバネ)を祀るのは、多(意富)氏や火氏、大分氏とされ、菊池氏の祖は藤原北家の支流と伝わるが、阿蘇の神紋(違い鷹の羽)に通じる「並び鷹の羽」を用いている。

 神八井耳命(かんやいみみのみこと)の弟神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)は第二代目の綏靖(すいぜい)天皇で母は事代主神(ことしろぬしのみこと)の娘媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと=日本書紀)とされる。古事記では同母長兄日子八井命(ひこやいのみこと)を記しているが、神八井耳命が弟に皇位を譲った官製の伝承に対して、私の異なる持論は敢然たる自負形成のうえ後世への遺言としてここに刻むとする。

 つまり、官製史観の支柱は東征紀の如き戦記に依存しており、神武天皇即位の皇紀暦も戦記の繰り返しによって構成されていく。神武天皇の庶流皇子に手研耳命(たぎしみみのみこと)あり、初代が崩御すると早くも皇位争奪戦が生じた説を今に伝えている。手研耳が起こした皇位略奪クーデターに八井耳と沼河耳の兄弟これ阻止せんと戦うなか、手研耳を弓矢で倒すチャンスが生まれた、この機に兄は矢を放つチャンスを逸し、弟が放った矢で手研耳の野望は討ち砕かれたとする。

 のち矢を放つ勇気に欠けた兄は自らを恥じ弟に皇位を譲ったというのが官製の作り話である。

 私が自負する皇紀暦の詔は全世界へ向ける専守防衛の宣布だと念じている。

 専守防衛とは戦争放棄の如き平和論の嘘っぱちとは断じて異なるものである。

 このたび、戦略思想研究所の落合流洞察史観に皇紀暦二六八一年が採り挙げられた。私は大いなる歓喜を以て祝賀のメールを送信させていただいた。その際に中森様から貴重な教えをいただいた。

 それは微細構造定数の逆数137すなわち人間の理解が及ばないところから現れた魔法の秘め事を潜ませる数のことであるが、この数の魅力に取り憑かれた数学者は第一級の人々とされ、中森様から教わった事は「一三七すなわち伊邪那とみれば、電子と光子の結合これ岐と美の結合を垣間見る事が出来ると思うのです」とありました。皇紀暦テーマの所見で私は思わず感涙にひたっていた。

 西紀年二〇二一年に六六〇年を加えた数が皇紀年であり、その意味するところは、多数の歴史人に口伝されているが、官製その神通力に畏怖しつつもウソに生きるのが閉じられた空間の宿痾である。

 八井耳は矢を放てなかったのではなく、皇位を弟に譲る事で皇位争奪の根を絶ちたかった。それが専守防衛の神髄であり、売られた喧嘩を大局となじませ買い取るのが神通力であり、買い取らないと他に乱れ散る火ダネが喧嘩の行方だから、その根を絶つのが専守防衛の真骨頂なのである。

 神武天皇は賜姓カバネの祖であり、八井耳は君(岐と美)のカバネを賜っており、岐がイサナキで美がイサナミの意ゆえに、キミが国造(くにのみやつこ)を率いるのも当たり前のことになる。

 少し鷹(隆)の羽紋に触れておきたい。

 鷹の羽は和弓に使う矢羽根の材料のこと、尚武の象徴とされた時代があり、周知の初出は『蒙古襲来絵詞』が出典とされ、菊池系図では保元年間(一一五六ー五九)を指すとしている。家紋としての鷹の羽は十大紋の一つとされ、江戸期は白河藩や備後福山藩の阿部氏や安芸浅野氏また下総関宿久世氏などの大名や旗本など約一二〇家が用いたとも伝わっている。

 一方、阿蘇神社の神紋「違い鷹の羽」の影響から南九州に分布した事も周知の事実とされ、菊池氏諸流が使う「並び鷹(隆)の羽」は卑弥呼以前の王権が使ったと言われる。

(つづく)

 

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