修験子栗原茂【其の二十四】本願寺が二つに割れる本番

 日野が東京を発つのは同三十九年九月七日、東京へ戻るのは翌四十年十二月二十五日、その期間は実に一年三か月余に及んでおり、その間には光瑞との合流そして協力を得るなど、日野流が構築した世界的ネットワークも國體の重要な一部門を担っている。

 つまり、上古から國體分野の人的資源を養成してきた日野流は、親鸞の出現を以て政体にも登壇のポストを得るようになり、鎌倉後期から室町中期まで参謀の中枢を占めながら、人類が大航海時代に突入するころ、蓮如上人(大谷家八代目)を軸に新開の道を拓いていった。その後の大きなうねりが国際政治の波しぶきを直に浴びる政体の大変革期であり、その表層にまで浮上した事象が日清および日露の戦役であるが、これこそが満鮮経略と南東経略の近代版そのものなのである。

 そうした渦中にあって、日本政府が担った最大の課題こそ満洲問題であり、その中でも特筆すべき事案を抱えていたのが満蒙を含む伊犁(現イリ・カザフ自治州)五族に潜んでいたのである。

 石原莞爾作「五族協和」論の解読は落合先生の指導を仰ぐとして、ここでは大谷家をターゲットに侵略を企んだ勢力の深層構造に焦点をしぼっていくとする。

 日野流大谷家の系譜は次の如き過程から生じたと伝えられる。まず親鸞入寂まで身辺看護したのは末娘の覚信尼(一二二四~八三)とされ、同族日野流の広綱との間に覚恵(一二三九~一三〇七)が生まれる。覚恵が母の覚信尼から大谷廟堂(親鸞の墓所)の留守職を譲り受けるのは弘安六年(一二八三)とされ、周防権守中原某の娘との間に覚如(一二七一~一三五一)をもうける。

 覚如は大谷廟堂の寺院化(本願寺の成立)に尽力して、本願寺を軸とする教団の基礎を築いた事で真宗本願寺の開祖かつ本願寺三世とされている。通史に言われるところ、開祖は親鸞であるが、親鸞自身は開宗に固執しておらず、本願寺の成立後に親鸞を開祖と定めたのは覚如ともいう。

 ちなみに、真宗には十派あるとされ、高田派、佛光寺派、興正派、山元派、誠照寺派、三門徒派に出雲路派の六派は覚如を歴代法主(門主また門首とも)の中に含めないとされる。その事由は様々な語り種(ぐさ)あるが、私の所見は持明院統と大覚寺統を擁立した南北朝政争の渦中で日野流が担う役割に原因があったのではないかと思っている。

 つまり、日野流親鸞が担った國體としての仕事は宗教の枠を超克しているのではないか、私なりの持論は開示できない事案を多く含むため、作文に不適だから墓場に持ち込むしかない。

 親鸞入寂を機に創建された大谷家を襲う第二の法難は、蓮如(一四一五~九九)の超克で仏教界に根を張る他宗との確執を粉砕していくが、それは閉鎖的な武力政権に敵方と見なされる。その潮目を変えたのは大政奉還であるが、それは第三の法難すなわち覇道一神教が求める人身御供に指定される苦難に襲われる事を意味していたのである。

 而して、ここでは大政奉還後の日野流大谷家に焦点を当てるが、その前に大谷家が何ゆえ本願寺と東本願寺の二つに分流したのかを知っておきたい。織田信長と石山本願寺の対立は、正親町天皇から勅命を得た信長の暴政が引き金となり、天皇信奉者の日野流顕如(第十一世)が矛をおさめる。

 國體の神髄は天皇にあり、天皇に暴政を迫った信長に天誅が降るのは必然のこと、日野流の顕如は勅命に恭順したが信長に屈したわけではない。時に天正八年(一五八〇)三月だったが、信長は二年後六月二日の本能寺で焼け死んだ、天正十年は壬午(干支)の年で壬は陽の水・午は陽の火すなわち相剋の年回りに当たり、創建来五度の火災に遭う本能寺の因縁が気になるところでもある。

 顕如生誕の時に信長一〇歳その生涯は信長の没後十年目に顕如も入寂するが、当時の大谷家本拠は石山(摂津国=大阪)本願寺と称しており、正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介で紀伊国(和歌山県鷺森)へ移るのが前記(天正八年三月)の時期である。この時をもって、大谷家の本願寺は継承者の二分化という事案に取り組むのであるが、その経歴は豊臣秀吉と徳川家康の政権運営に準じることで形成されていった。以後その経歴についても知っておかなければならない。

 顕如が石山本願寺から紀伊鷺森へ移るとき、信長との徹底交戦に擁立されたのが、顕如の後継長男教如で石山籠城のまま抗戦をつづけた。この表層面に生じた事実から通史を組み立てるのが御用学の常套手段であり、それを歴史として後世へ伝えるのが時の権力というものである。

 顕如が鷺森へ移った五か月後に、籠城組も近衛の説得に応じるところとなり、石山本願寺は信長へ明け渡されたが直後に炎上して灰燼に帰したとされる。また籠城中の教如については、教如が勝手に第十一代を称したとし、咎めた顕如が教如を義絶のち教如は東海や北陸を転々したと伝えられる。

 天正十年六月二日の本能寺で信長に天誅が降ると、同月二十三日に後陽成天皇が教如赦免の勅使を顕如へ遣わし、以後、赦免された教如は顕如の寺務を補佐することになる。顕如の示寂(一五九二)後に本願寺を継承した教如は葬儀の執行とともに、京都七条河原での荼毘をも執り行っている。時に同年十二月十日であるが、秀吉も二日後に本願寺継承の認証朱印状を発行したとする。

 ところが、通史の伝える「本願寺が二つに割れる本番は」このあとから生じるのである。

 まず始まりは、法主継承の指名に「譲り状」の作成は通常の慣例であるが、その手続きがないまま教如は後継宗主を称しており、身辺は籠城組がかため、鷺森へ退去した穏健派は重用されない、その偏向人事が教団内に対立を招いたという。また顕如示寂の翌年(一九五三)閏九月、顕如の正室たる如春尼が秀吉を訪ねたとして、天正十五年十二月六日(約六年前)付の「譲り状」が発見され「法主継承の件は教如の弟准如に指名する」との内容が読み取れるともいう。

 秀吉は同月十二日、直ちに教如を大阪へ呼び寄せ十一か条に及ぶ手打ち案を示したとし、そこには揉め事の争点八か条と弟准如へ十年後の譲位を約すという案を施したとされる。教如はこの秀吉案を吞もうとしたが、取り巻きの坊官たちが教如の頭越しに秀吉へ異議を申し立てたとし、秀吉は烈火の怒りで教如へ「今すぐ退隠せよ」との命令を下したとする。

 結局この内訌に仕立てる妄想が今に伝わるのは、通史を編む有識者から生じるものであり、憶測に登場させられる役者連は、秀吉に絡む筆頭格に千利休や石田三成らがおり、収拾つかない挙句の果て秀吉を凌駕した家康を頼みに帳尻を掴む暴虐無尽が罷りとおっている。

 落合本『南北朝こそ日本の機密』の読者であれば、直ちに歴史の相似象が浮かぶであろうが、その南北朝に重きを為す日野流はまた戦国時代にも重きを為しており、今また世界の隅々まで行きわたる新ウイルス禍のさなかにあって、今親鸞に宿るエネルギーの働きが気になるところではある。

 どうあれ、慶長三年(一五九八)八月十八日に秀吉は没している。関ヶ原の変は二年後その六月に教如は大津御坊を完成させ遷仏法要を済ませたあと、下野(栃木県)小山に居る家康を訪ねるための旅に出ており、合戦後の九月二十日には家康を大津に迎えている。

 同七年(一六〇二)後陽成天皇の勅許で家康の命が発せられ、京都七条烏丸に四町四方もの寺領を得た教如は、堀川本願寺の一角にある堂舎を移し、翌八年は上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺から親鸞聖人木像を迎え「東本願寺」と定める分立を決している。この事により、以前の本願寺は対応的呼称で「西本願寺」と通称されるようになった。

 つまり、准如が継承した堀川本願寺の東に位置したのが、教如を擁した東本願寺であるが、西東を付すのは通称であり、昭和六十二年(一九八九)まで正式名称は本願寺を用いている。こうした経緯略歴から日野流大谷家の歴代にも変則的な数え方が生じたのであり、准如は浄土真宗本願寺派第十二世宗主を名乗り、教如は東本願寺第十二代法主を名乗るようになったのである。

 慶長八年(一六〇三)に生じた日野流大谷家の二流は西と東に分かれるが、この事を南北朝の形態構造に照らせば、護良親王の二元性(政体と國體)に相当するのであろうと思えてくる。時に課題は和洋統合のワンワールドを構築する事にあり、その過程に必然と生じたのが、日野流大谷家の二分化現象ではないかと案ずるのである。以下その具現性に触れるとする。

 人類が如何に文明を標榜してみたところで、所詮は自然界の一部にすぎないのであり、その環境を世界地図に照らしてみれば、自然界のエネルギーが東西南北で異なるように、人類もまた東西南北に住み分けており、それらを統合しようと働く文明も自然界に馴染まなければならない。

 ところが、文明は不自然を産み出す事で進化したと思う勢力が史観の主導権を支配してきた。その構図を見れば明らかであり、史観の主導権は政体に委嘱されて然るべきであるが、問題はその政体が競い争う事から生じては消えること、そこには本能的欲望を満たす利権の種が生まれるからである。國體は利権に囚われないため、政体に属する圧倒的大多数には馴染まない、而して、國體の本質的な骨組みは自ら政体を担うべきではないとの認識から成り立っている。

 國體が東西南北の住み分けを尊重したうえで、かつ統合ワンワールドを志向するのは、競い争った結果に生じるモノゴトが人類はもとより、自然界まで破損してしまう事に気づかなくなるからだ。

 政体には余計な事かもしれないが、統合ワンワールドに不可欠な条件は和洋の習合にあり、それは神仏習合にも通じるもので、覇道一神教とは意に反するところとなる。

 通史は黒船来航(一八五三)を大政奉還に至る維新の端緒ともみるが、この事象を先読みしていた神格の備えに思考をこらすと、私は光格天皇の降誕(一七七一)が端緒であろうと思っている。この思いに神通力が加えられるのであれば、時を重ねる西の大谷家は本如(一七七八~一八二七)第十九世が当代であり、東は達如(一七八〇~一八六五)第二十代法主が当代に当たっている。

 まずは本如の系譜から日野流としての経歴を検証しておきたい。父の第十八世文如の以前から三業惑乱(さんごうわくらん)の宿痾すなわち阿弥陀仏と向き合う意(心)・口(言)・身(体)の在り方をめぐる派閥紛争は宗主を継ぐ者の厄であるが、同類の事は文明発祥の時から生じており、所詮は神学論争と変わらない人間特有の自己矛盾と思うほかない。

 つまり、お西さんの場合にあっては、第十七世が日野流他家から入った猶子であり、論争を企てる当該者は皆がみな私の戒を違うと咬みつくが、それは本事案に限らず古今東西みな同じことで、要は論争に参じる皆がみな「自分が何者かを覚っていない」事に原因が潜んでいるのだ。現在はテレビやネットで論争に参じる事が常態化しており、醜い言い争いを演じるタレントの全員が「自分が何者か覚っていない」否そこに気づこうともしない時代にうごめいている。

 本如の祖父法如十七世は播磨亀山(現姫路市)の本徳寺八代目寂円(大谷昭尊)二男であり、河内顕証寺十一代目となるが、本願寺十六代目湛如が急逝したため、寛保三年(一七四三)三七歳のとき宗主を継いでいる。当時の慣例で内大臣(九条稙基)猶子になってからの継承とはなった。

 法如は在任四十七年間に及ぶ長期就任の中で数多の安心問題に対処したが、三業惑乱に連なる紛争課題は江戸幕府の鎮圧(一八〇六)すなわち本如の代まで待たなければならなかった。

 尽きる事を知らない言い争いの果ては殺し合いになるが、これを喩えて「神学論争」という言葉を使うケースが少なくない。少年期から殺し合いに臨んできた私に言わせれば、神学論争の深層構造に透けてくる共通項としては必ず家督継承の秘事が隠されている。

 家督継承の秘事については、血脈であれ、門閥であれ、閨閥であれ、大凡だれもが隠そうとするが自ら白状するケースも多くみられ、学閥なんぞはもっとも愚かな宿痾におかされている。それはまた成り上がりの本性にいすわり、相続遺産の奪い合いを演じる質種にもされている。

 比して日野流大谷家の家督継承には、親鸞が遺した家督を上手く継いだ痕跡が刻まれている。

 ただし、その痕跡を正しく解明できる人は國體司令に属するため解が広く伝わらないのである。

 法如を継いだ文如は長男であり、文如を継いだ本如は二男であるが、長男早逝(一七九九)のため宗主継承二二歳その後の十年間は三業惑乱の対処に追われた。すでに本願寺の財政は悪化の一途から脱せないまま、親鸞聖人五五〇回大縁起法要の厳修と大規模な御影堂の修復なども行っている。その生涯の過酷さは示寂五〇歳に表われており、弟文淳の二男(河内顕証寺住職)を養子として第二十世広如に多額の負債を託している。

 広如(一七九八~一八七一)は文如の三男で本如の弟文淳(河内顕証寺住職)の二男、宗主継承の後で四男一女をもうけるも男子が早世、そのため鷹司家(閑院宮系)から養子を迎えたが同じく早逝悲運の状況下におかれた。しかし、齢五三歳にして光尊のち明如二十一世をもうける。

 広如は黒船来航の混乱期に名高い勤皇僧の月性を重役に登用しており、朝廷へ一万両を献納(一八六三)するなど、宗派全体に尊王攘夷の徹底を諭す『御遺訓御書』を行きわたらせる。また亀山天皇陵の修復(一八六四)ほか、禁門の変で幕軍に追われる長州藩士の逃走に荷担したのちの措置として壬生から移った新撰組の屯所にされるなどの勤皇ぶりは尽きることない。

 大谷光尊(一八五〇~一九〇三)は広如の第五子とされる。長男に光瑞(鏡如)、二男に錦織寺に養子入りした木邊孝慈(第二十代住職)、三男に光明(浄如)、四男に尊由と子宝に恵まれている。光尊の僧名は明如であるが、その事績はワンワールドに及んでおり、明治政府に先行した近代化への道を拓くとともに、日野流大谷家が総力結集し得るような痕跡を刻んでいる。

 手始めに教団独自の宗制や寺法の定めをかためると、真宗教団の引き締めを行いつつ、側近はじめ若年有望の僧らを海外留学させており、西洋文明に対抗し得る体制強化への道を切り拓いていった。維新混乱による財政散逸を防ぐため護持財団などの創設を決行したり、学林(後の龍谷大学)改革の実施を進めていき、新時代を担うべき人材の養成に努めている。

 宇治川沿い伏見の地に別荘「三夜荘」を建設しており、海外での國體活動を支える秘事協議の場に利用されたそうである。海外に設けた拠点は広域に及んでおり、それは当然布教を名目に國體便宜の場にも使われた事は知る人ぞ知る秘事とされている。

 軍隊慰問、軍隊布教、刑務教誨、社会的弱者に対する救恤運動など、後年の仏教社会事業の基礎は光尊の代に築かれ、海外ネットワークの形成に設けられた各地のキャンプには、後継光瑞が編成した探検隊を支える基地として多くの痕跡が刻まれている。

 大谷光瑞(一八七六~一九四八)二十二世の弟たちには、二男木邊孝慈(一八八一~一九六九)の下に三男光明(一八八五~一九六一)浄如と四男尊由(一八八六~一九三九)がいる事は前記の通りであるが、没年は四男、長男、三男、二男の準になっている。

 木邊孝慈(きべこうじ)は真宗木邊派の本山(錦織寺)十九代に後継者がいなかったので、一七歳時に養子入り第二十代住職となり、大日本仏教会の初代会長に就任男爵に叙される。

 光明は法主後継者に指名(一八九九)されたが、光瑞二十二世の宗主辞任(一九一四)と共に僧を退き「東京ゴルフ倶楽部」会員のゴルファーに転身のち「日本ゴルフ協会」創設に尽力している。

 尊由(そんゆ)は父光尊が構築した事績の中で光瑞補佐としての重きを為し、その評価は政治家の耳目を惹くところとなり、後藤新平らの推薦により、勅選の貴族院議員(一九二八)として、第一次近衛内閣の拓務大臣や内閣参議の経歴を踏まえ、光瑞と共に大陸へ渡る事も数次に及んだとされる。尊由の長女高子は岡崎財閥の真一に嫁ぎ、二女益子は音羽正彦侯爵(朝香宮鳩彦王と允子内親王との第二王子)と結婚のち侯爵と死別しているが小坂財閥の善太郎と再婚している。

 光瑞の事跡は後述するとして、光瑞辞任後の西本願寺は龍谷門主大谷家の権限縮小とシンボル化を決議採択すると、その運営は宗法に基づき施行されると決め現在に至っている。

 次に東本願寺の系譜に触れておきたい。

 達如二十代法主は前述本如(西本願寺)の二年後に生まれている。

 少し遠回りになるが、重要であるがため前述教如からの系譜を知っておきたい。安土桃山期の織豊時代すなわち信長に抗戦のあと、秀吉との確執を乗り越えた教如は、江戸に開府した家康と親和して東本願寺第十二代法主を名乗ることになった。

 教如の後継は長男と二男が早世したので、三男(兄弟姉妹十二人)宣如が第十三代となり、宣如の後継は二男琢如が第十四代となり、琢如の後継は長男常如が第十五代となり、常如の後継は弟(琢如四男)一如が第十六代となり、一如の後継は常如の長男(一如の甥)真如が第十七代となり、真如の後継は一如の四男従如が第十八代となり、従如の後継は真如の五男乗如が第十九代となり、次の代が達如(一七八〇~一八六五)で父は先代乗如という血流に保たれている。

 本如(西)と達如(東)の代に生じた天明の大火(一七八八)は、応仁の乱を遥かに上回る規模で京都市街の八割以上が灰燼に帰したとされる。東方は河原町・木屋町・大和大路まで、北方は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西方は智恵光院・大宮通・千本通まで、南方は東本願寺・西本願寺・六条通まで達しており、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も消失している。

 光格天皇は御所再建までの三年間を行宮(聖護院)で過ごされ、恭礼門院は妙法院、後桜町上皇は青蓮院(粟田御所)にそれぞれ遷られている。なお後桜町院の生母青綺門院の仮御所(知恩院)と青蓮院の間に廊下を設けて通行の便を図ったのは幕府の気遣いともされる。ところが、松平定信(幕閣大老)と朝廷との間に再建方針を巡る談判が決裂するところとなり、果ては「尊号一件」と呼ばれる重大事案にも悪影響を及ぼしてしまうのである。

 それもこれも、権力を競い争う政官業の重役(臣)に潜む中毒が病の原因かもかもしれない。この利権には厄介な悪魔のささやきがつきまとい、キミ・オミ・タミの間に介在する媒体が良質の情報を扱わないかぎり、人の世に希求する平和なんぞ訪れるはずあるまい。

 達如は本堂再建(一七九八)に十年を要したが、五年後に再び本堂を焼失その再建を発願したのは二年後で落成に十年の歳月を費やしている。達如が二男光勝(嚴如)に法主委譲したのは十一年後の弘化三年(一八四六)五月二十三日、その後は渉成園(枳殻邸とも)へ退隠したとされている。

(続く)

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