明治九年(一八七六)神道事務局が開設され、神宮遥拝殿(現東京大神宮)の建設が決まり、その予算には各宮家からの寄付金も含まれ、神殿に奉斎する神々をめぐって論争がはじまる。
同十三年(一八八一)神祇論争は、伊勢派と出雲派に集約され、その決着がつかない無責任ぶりは勅裁に委ねる政体の常套手段がまかりとおる。翌十四年の勅裁によって、神宮遥拝殿は神宮教の所管保有となり、猶予一年のもと祭祀挙行は神官に限られ、教法を説く教導職は祭祀の行い罷りならんと決まる。宣戦布告も講和受諾も同じこと、言論人によこたわる無責任ぶりは、収拾不能の際には天皇陛下の裁可を頼って、戦争責任まで天皇に負わせる卑しさを恥じない。
祭政一致から祭教分離が生まれ、その実施が翌十五年になり、神官に就くか・教法を説くかの二社択一は神宮教を含む六派に異なる道をつくらせる。神宮教は伊勢講が母体で同三十二年(一八九九)神宮奉斎会へ発展改組するが、分離の際には遥拝殿を大神宮祠と改称のうえ神宮大麻を頒布した。
他方、千家尊福は出雲大社の宮司を弟に譲って、自身は大社教の管長となった。同十七年(一八八四)教導職が廃止され、神道事務局も存在意義を失ったので、二年後に神道本局と改めることで教派神道の一派としてサバイバルにつとめる。
さて、神道を教派と神社に分類するなら、皇學はどうなったのか、京都に設置(一八六八)された皇學所は翌年に廃止され、代わりに教部省が講究にあたり、同十五年には皇學の研究機関が相次いで設立された。その背景には神祇論争の波及で教学の必要性が痛感されたから、と言うデタラメな説を受け入れるのが現在の学者たちである。
ともかく、国家神道による祭祀、教法家による教義と教化、国学者による学問的研究、の分野から起こった祭神論争の飛び火が新たな財政投資をまき散らすことになる。新型コロナ・ウイルスと呼ぶ火ダネが世界へ飛び火していき、計り知れない財政投資に苦しむ現状より、規模は小さくても本質は何も変わらない。そして皇學の本領から外れた政体の認識不足は劣化の一途をたどっている。
どうあれ、落合先生が水一滴の痕跡すら見逃さずに、改新の洞察史観を編みこんでいく姿を理解の範疇に捉える読者であれば、私ごときの与太話は読むのも鬱陶しいだろうが、私としては純粋に落合先生の労苦に報いたい一心から恥をさらしているのである。
皇學研究機関としては神宮教が伊勢に神宮皇學館を開設、いまは皇學館大學と呼ばれる。東京大学の古典講習科は傾向を同じくするものである。
神道事務局は神職養成のために皇典講究所を設けていた。その経緯は大会議の直後に内務卿の山田顕義が建議のうえ設置を決めており、初代総裁に有栖川宮幟仁(タカヒト)親王が就任、日本独自の学問講究を明らかにした意図、すなわち「皇典講究所創設告文」を告諭している。
皇典講究所内に國學院を開設(一八九〇)、この両機関は内務省から神職養成を委託され、神道を司る人材多数を世に送り出している。山田顕義が創設した日本大学は神道教師の再教育(一九二四)講座を開講して、神道教派聯合会(現教派神道連合会)から奨学会を組織している。
各分派の独立はいったん集結の手間をかけ、統一後に公認という行政の先例に従っている。
文化庁は復古神道系、山岳信仰系、純教祖系(神憑りや審神者など)に分類するが、著作本『教派神道の形成』に記される分類にあっては、次のごとき特色で五系列にしぼられる。
〇従来の神道的伝統を継承している系として、修成教・神習教・大成教・特に神理教を主要な考察対象としている。
〇神社崇敬が基盤の系として、伊勢信仰を基盤とする神宮教と出雲大社を崇敬する大社教がある。
〇山岳信仰が基盤の系として、御岳信仰の御嶽教(ただし、各講社が一つにまとまらず、修成派や神習教や大成教などに所属の講社もある)・富士信仰の實行教と扶桑教(どちらも開祖を長谷川角行とする富士講諸派が母体であり、實行教は富士講身禄派の食行身禄から派生した不二道の系譜そして扶桑教は浅間神社宮司で大教院会計長の宍野半が吉田口から入山する身禄派以外に別の場所から入山する富士講も包括する意図で各講の結集を図っていた)
〇教祖が創唱した傾向が強い系として、黒住教・金光教・天理教は特に教祖を慕う宗教的回心の体験があり、禊(ネへんを使う)教の教祖は回心体験が薄いものの修業研鑽を奨励している。
〇行政が誘導して成立させた宗教の系として、神道事務局(のち看板を神道本局から神道大教へと書き換える)と大成教があてはまる。
ちなみに、安倍晴明の子孫土御門家は陰陽道宗家として、垂加神道の説を取り入れ天社神道を興したが、占いや呪いを含んだので明治政府は邪教禁止令の対象として教派神道に加えなかった。而して現在登記上の宗教法人としては諸教に分類されている。
昭和大戦後の占領下GHQによって、国家神道に解体指令が発せられ、大日本神祇会、皇典講究所と神宮奉賛会は発展的解消という文言のもと、宗教法人神社本庁を設立している。神宮皇學館大學は廃止され、各教派の代表がGHQと折衝を重ねた結果、占領軍は教派神道の宗教活動を制約しないと約束したようだ。
天理教は復元の方針(一九四五)を定めて、金光教は教制審議会(一九五一)を設けて、神道色を排除したが宗教法人法の施行もあって、神道十三派と仏教十三宗も細分化の模索を始めたという。
神道研究機関が國學院大學のみになると、学者の大半は追放され、民俗研究に特化した折口信夫や柳田邦夫そして追放を免れた若手が以後を担う事になっていく。
神宮教にも触れておきたい。
教部省設置(一八七二)は神道を軸とした国民教化の政策であるが、その大教宣布運動で実働役を果たした人材は無給の公務員(教導職)で、神官や僧侶に任命の辞令が発せられた。
大教院は教導職のために半官半民の研究機関として設置され、その下部機関の中教院は府県ごとに置かれ、さらなる裾野を広げる小教院は各社寺の請け負うところとなった。これらの体制下で神官や僧侶が宗教活動を行うためには、大教院・中教院で行う試験を受ける必要があった。
全国の神社が布教目的の教会を設けるようになると、伊勢神宮も神宮教会を創設した。全国各地の説教が盛んになると、大教院を真似た神宮教院が伊勢に設けられた。教院は教会の本部とされ、度会県(ワタライケン=三重県の大半)中教院としての機能も兼ねたとされる。
神宮教院は伊勢を本拠に東京そして京都に司庁出張所を設置して教化の促進をはかった。出張所は東京大神宮そして京都大神宮の起源とされ、御霊代を奉安する遥拝殿を設置した東京は神道事務局も兼ねるが、この遥拝殿については、明治の神道界を二分する祭神論争が生じたといわれる。
ところが論争テーマやプロセスその結果などについて、開示される情報はいずれも想像の範疇から脱していないとされる。行政の慣行は時代が変わっても改まらない。
その進捗は論争に天皇をも巻き込んでしまい、事象化されたのは神社を「祭祀のみの施設」として教義とは無縁のものとされた。神官と教導職の分離(一八八二)については、神官が説教や葬儀など行う事を禁止され、神社付属の教会は非宗教の崇敬団体に変わるか、神社から分離独立のうえ教会へ変じるかの選択肢に迫られることになった。
伏見稲荷大社の瑞穂講社は崇敬団体へ変じて、神宮教院は司庁から分離独立して他の教派とともに神道神宮派を称したが、すぐ派名を改め神宮教と転じている。司庁出張所は東京も京都も廃止のうえ施設を神宮教へ引き渡して、遥拝殿は祠宇「大神宮祠」と改め各地教会は神宮教の傘下とした。
活動の本拠を伊勢と東京にして、全国の教会を教区に分け教区ごとに本部をもうけた。主な活動は神宮大麻や神宮暦の頒布ほか祖霊祭や神葬祭の執り行いであった。帝国大学による神宮暦編纂(一八九〇)が行われると、神宮教院の語彙に齟齬が生じて、東京の施設を東京教院また伊勢の施設を宇治本院と称するケースにみられ、具体的な機関や施設と場所などが不明瞭になってしまう。
祭神に豊受大神が加えられるのは明治三十一年(一八九八)のことである。
神宮大麻の頒布は国策であって、頒布を担うのは伊勢神宮の関連組織とされた。民間団体が担った事実はジレンマをもたらし、教団解散と同時に財団法人へ移行これも単なる模様替えにすぎない。
つまり、神宮教は時の経過とともに、神社や宗教と違う曖昧な存在に変じていったのである。
奉斎会は伊勢を大本部・東京を本部と称した。従来の教会所を奉斎所と改めるのは宗教色をうすめ法話を講演と偽る方便にみなされるが、祖霊を祀る事を禁止すれば当然のことだろう。いかに日本の行政教育は癖が悪いことか、真剣に歴史と向き合わない日本人の悲劇としか言いようがない。
占領下GHQが発した神道指令において、関係者は神社の国家護持を不可能と嘆じたが、もともと祖国日本の護持を果たしてきたのは、天皇陛下を現人神と仰ぐ國體のエネルギーによるものだ。
神道指令のもと、財団法人神宮奉斎会を軸にして、大日本神祇会と皇典講究所が参画のうえ出来た組織が神社本庁であって、奉斎所は本庁所属の神社とされた。
前口上に手間どったが、以上を知らないと賀屋鎌子の足跡がたどれない。
鎌子八歳のとき広島に帰郷して、一三歳にして母親と算数や読み書きの教鞭をとるが、一六歳から漢学を学び私塾の助手をつとめ塾長が没すると、自宅に教室を設けて自ら教職の道をきりひらく。
二二歳のとき神宮教広島教会の藤井稜威に神道を学び、翌年、藤井と結婚のち長男就宣(?~一九二九)・二男興宣は二八歳のとき出産するが、その間に神宮教会の教導職にあった叔父忠恕から神道心学を学んで、二四歳のとき教導職試補に任じられる。その前年には初の神宮教説法を行い各地から招聘される事が多くなったので、自宅に設けてあった教室は閉鎖していた。
鎌子三三歳(興宣五歳この前年すでに叔父外一郎の妻ハナの家督を継いで藤井姓から賀屋姓へ養子縁組が終わっている)にて神宮教の権中講義(教導職中の地位)、翌年(一八九四)日清戦争のとき京極細川子爵の宿舎として自宅を提供その接待に務めたといわれる。
明治三十一年(一八九八)鎌子三八歳(興宣一〇歳)のとき、藤井稜威四六歳と死別、同年父明も死去したので父の家督を継いで復籍したという。その後四八歳までの活動記録は前述の通りで、その精力的な社会運動を検証していくと、必ずしも国策に振り回される姿にはうつらない。
鎌子は享年五五歳だから、興宣二七歳にあたり、二年後には東京帝大法科大政治学科を卒業そして大蔵省へ入省した時代と重なっている。
日露戦争(一九〇四―〇五)の際には軍人を自宅に宿泊させて、慰安に務めながら、精神の安定に役立つ話し合いの時間をもつなど、持論「国民の発展は女子の双肩にあり」の実践につとめた。また教義のテーマとしたのは、一番に孝の道をモットーにして、講演したエリアは県境を越えて会場には聴衆が多数つめかけ常に盛況だったとも伝えられる。
ここで鎌子が広島支部幹事として所属した愛国婦人会に触れておきたい。
愛国婦人会を起ち上げた中心人物は奥村五百子(一八四五~一九〇七)その人柄は幼少期から凛と漲る風情をただよわせ、その土地柄と家柄を心身いっぱいに吸収して育ったと伝えられる。
肥前唐津の真宗大谷派釜山海高徳寺の住職奥村了寛を父として、兄円心は朝鮮半島での布教に務め後年は五百子と合流した事もあったという。文久二年(一八六二)五百子一八歳のとき、日本上陸も間近だった世界青年党のテロリズムは落合本が記すとおり、國體が仕掛けた尊王攘夷運動のガス抜き工作を以て専守防衛を達成したが、五百子は巷間の尊王攘夷運動に巻き込まれ、父が担う密命のうち長州藩への密使を男装で果たす働きをしている。
五百子は初婚の夫(同じ宗派の福成寺住職・大友法忍)と死別しており、再婚は旧水戸藩士の鯉淵彦五郎と結ばれたが征韓論で意見対立それが離婚原因とされている。
離婚後の五百子は唐津開港に奔走する中で朝鮮半島へ渡航(一八九六)、のち光州にて実業学校の創設に加わって布教中の兄円心の手助けにつとめている。
北清事変(一九〇〇)は五百子が余命を何事に捧げるべきか、その決意をかためる機となり、日本伝統の文化を維持発展させる大和撫子ならではの信念が貫かれている。時に五六歳であり、結果的に残る余命七年間は日本全国の女性を奮い立たせている。
宗教的秘密結社の義和拳教が起こした排外運動は清朝西太后の支持によって、欧米の列強国に宣戦布告するところまで焦熱してしまい、連合八か国の軍は公使館員や居留民保護の名目で北京へ侵略の歩を進めるなか、大日本帝国は最大の兵力八千人を投入したと伝わっている。
戦後、兵士の救護と慰問に従事した五百子が多数の兵士から託されたことは、家族への書き付けと伝言とくに遺書ともなれば、ひときわ悲しいナミダに咽ぶ遺族の無念が五百子の胸をしめつけた。
裕仁親王(昭和天皇)降誕の明治三十四年(一九〇一)、五百子は旧唐津藩主家の小笠原十四代目長生(一八六七~一九五八)を通じて、近衛篤麿(一八六三~一九〇四)はじめ華族の婦人とともに愛国婦人会を起ち上げる。初代会長には宮内大臣岩倉具定の妻久子が就任している。
二年後には閑院宮載仁(コトヒト)親王妃智恵子(一八七二~一九四七)が総裁に着任している。
載仁親王(一八六五~一九四五)は伏見宮邦家親王の第一六皇子とされ、後継不在の閑院宮六代目当主となり、皇族軍人(一九〇〇―一九四五)として薨去されたが、詳しくは落合先生が発信される最新情報を手に入れてほしい。
智恵子妃殿下の父は三条実美(一八三七~九一)、実美(サネトミ)は当時今天神と称された公卿実万(サネツム)三男、実万の養女正子(烏丸光政の娘)は土佐藩主山内容堂の正室である。そして智恵子妃殿下の母は鷹司輔煕(タカツカサスケヒロ)九女の治子だから、通史の情報からモノゴトを理解した気になっていたら、日本伝統の大和撫子が何たるかなど剖判できるわけがない。
会長二代目の岡部坻子(オカコ)は和泉岸和田藩主一三代目の岡部長職(ナガモト)後妻その父は加賀藩主一二代目の前田斉泰だから有栖川宮威仁親王妃慰子の叔母にあたる。岡部の閨閥中には朝日新聞創設者の村山家や三菱財閥岩崎家と姻戚関係にあり、長男長景は東条英機内閣で文部大臣として入閣している。
三代目の阿部篤子は備後福山藩主一〇代目の阿部正桓(マサタケ)後妻その父は肥前蒲池藩主九代目の鍋島直紀(ナオタダ)であり、篤子の夫正桓は安芸広島藩主一二代目の浅野長勲(ナガコト)の実弟であり、篤子は賀屋鎌子より六年下で愛国婦人会に携わる前からの知友でもあった。
歴代会長の中でも下田歌子(旧姓平尾鉐)は特記せねばならない。
歌子(一八五四~一九三六)とは、皇后美子(昭憲皇太后)から賜った名であり、宮廷で和歌を教え賛辞の号として拝受したものである。
美濃恵那郡岩村藩士の平尾家に生まれ、勤皇派の父が蟄居を命じられたので、鉐(セキ)は祖母に読み書きを習い五歳から俳句と漢詩を詠んでは和歌をつくる神童ぶりを発揮したという。
しかも「モノゴト」に対する認識は万事が実践重視だったという。
明治三年(一八七〇)一七歳のとき、新政府の招聘で上京する祖父(儒学者)と父に同行、途次で詠んだ歌「綾綿着て帰らずは三国山 またふたたびは越えじとぞ思ふ」が今につたわる。二年後には宮中女官の職につくが、それは家庭教育の賜物であって、礼儀作法はもとより、祖父直伝の学識から得たタマコト(霊言)を以て詠む歌は美子(ハルコ)皇后の寵愛するところともなった。
而して、賜ったのが「歌子」の名であり、姓は同十二年(一八七九)女官を辞する二六歳のときに下田猛雄(剣客)へ嫁いだからである。しかし、三年後に夫が病の身となり、歌子は看病のかたわら職を得る必要にせまられた。時代が歌子を求めたのか、歌子は時代の申し子でもあった。
維新政府は下級武士の働きも大であり、その多くは官吏となるが、西洋式を導入した行政マンには仕事のパートナーに妻を伴うケースも少なくはない。当然、それ相応の礼儀作法や学識が求められる事から、官吏の妻も指導者を必要とする、そのニーズに応じられる女性こそ歌子だったのだ。
歌子は自宅に桃夭女塾(トウヨウオンナジュク)を開講して、その指導に当たりながら夫の看病に努めたが、同十七年(一八八四)に夫は天国に召された。その報を知った皇后は華族女学校に歌子を教授で迎えるよう差配して、翌年三二歳の歌子を学監に昇格させるが、その期待に応える歌子の一途献身は古式ゆかしい大和撫子の鑑と伝わっている。
同二十六年(一八九三)宮中においては、常宮と周宮の両内親王御養育主任を務める佐々木高行が歌子に対して、皇女教育のため欧米の教育現場を視察するよう辞令を発している。
常宮(トキノミヤ)は第六皇女昌子内親王、竹田宮恒久王妃となるが事実上の長女とされ、歌子の影響甚大で満州事変に際しては、身分を隠して傷病兵の看護や見舞に当たっている。
周宮(カネノミヤ)は第七皇女房子内親王、北白川宮成久王妃となり、いつも一緒の常宮とともに高輪御殿で養育されたが、女性初の伊勢神宮祭主や神社本庁総裁も務めた苦労人として知られる。
歌子が欧州視察を行う目的としては、常宮と周宮の養育目標があり、開国日本の皇室外交に備えて両内親王に課せられるテーマの設計が重要になってくる。この建前は誰でも考えられる。…略…
横浜港を出航した歌子は英国ブライトン英語学校へ通学する事からはじめた。当時は劇的な変化が見られる再開発地域だったという。日本を出たのが九月でブライトンからロンドンへ移ったのは十二月だった。まずはビクトリア女王の女官エリザベス・アンナ・ゴルドンと遭って、ビクトリア女王の孫娘に向ける家族の生活環境と教育方針を学びたいと申し出ることにした。
ここで読者に容赦いただきたい歯切れの悪い「コトガラ」に触れておきたい。数行前の「…略…は本音のコトガラを意味するが執筆を控えるとする。また歌子が欧州王室や欧州貴族との接触を容易に果たし得るには、相応の事由あるのであるが、それもまた執筆を控えること容赦されたい。
イギリス王室と宮中女官の日常生活に触れた歌子が認識したコトガラは、開かれた生活と思われる欧州社会の善し悪しを観察したとき、日本固有の伝統文化に取り入れるべきコトガラと、取り入れた場合に危険をもたらすコトガラの調合に要する自らの信条を省みることにあった。
市井巷間の人々と親しく交わる女王一家の姿、王女が主婦として家庭を支える姿を見ると、これを日本人が如何に受け容れるか自らのイメージを描く必要にせまられる。社会生活へ積極的に溶け込む欧州レディの知識欲や行動力には、それ相応の意志の強さが見てとれたのである。そのエネルギーが生活習慣と教育環境に培われると観てとった歌子は直ちに自らの観察力アップに加えていた。
大凡一年をイギリス王室と貴族社会のレポートに費やしたあと、今度は市井巷間の一般社会へ溶け込むため、レディース・カレッジの校長ドロシア・ピールから得がたい恩顧を与っている。
私が佐野から伝授されたコトガラの一つに取材対象への心得があり、「初対面への直談判を決する場合には、訪問前に相手の菩提寺と墓石を取材しておくこと、お墓は取材相手が知らない相手の個人情報を教えてくれる、人は自分自身が知らない事を知ってる相手には胸襟を開くもんだよ。」という薫陶であり、この訓えに順った私は取材に失敗したことが一度たりともない。
私は思っている、歌子も同じような心構えを有したのではと…。
歌子はビクトリア女王との謁見を果たすと、視察前に下調べした地のほか、閃きから加えた要地も視察の中に含めていった。イギリスではスコットランドに対する思い入れが一層つよまった。やがて視察範囲はフランス、ドイツ、イタリアに広がり、神仏判然令を機に揺らぐ日本社会とキリスト教に鑑みる欧州社会の現実をテーマとして、歌子ならではの見識に更なる所見を加えていった。
同二十六年(一八九三)九月から同二十八年(一八九五)八月まで、歌子四〇歳から四二歳まで二年間に及ぶ欧州視察は以後の皇女教育のみならず、開国に順応し得るために必要な教養を醸成する環境づくりに励んでいく。特に力を傾注したのが最難関の女性教育にまつわる諸問題であった。
西洋の気風を知る事は簡単に為しえる事であるが、古来伝統の文化を損傷しないまま、新たな文化文明を認識していくプロセスには、少なくない落とし穴が待ち受けている。この難関をクリアーする教育環境を整えるには、これまで男性が担ってきた社会的活動への依存では上手くいかない。
歌子は「大衆的な一般女性を迎え容れる教育環境を充実させること、女性の教養が向上しなければ国際社会での地位は得られない。」との認識を新たにして、その信条を社会運動に活かそうとした。
それが帝国婦人会の設立(一八九八)、機関紙『日本婦人』創刊(一八九九)、大日本通信高等女学校の教科書編纂指導(一九〇二)、華族女学校を学習院へ統合させる(一九〇六)、ただし、乃木希典と教育方針で対立、それが学習院女学部長辞任(一九〇七)の結果を生じて、その翌月には勲四等宝冠章に叙せられている。つまり、乃木は女性の評価と認識に欠陥を抱えていたのである。
乃木に限らず母のナミダ(大悲)を知らない男性に憑依する悪性ガンの一種と考えるべきだ。
めげない歌子は既存の実践女学校中等部に加え高等専門学部を開設(一九〇八)して、その校長に就任しながら、日本全体の女子教育と女性運動を視野に含んでいた。
板垣絹子(退助夫人)の招聘で創設その校長に就任したのが、順心女学校(現順心広尾学園)その時期は大正七年(一九一八)であり、昭和十一年(一九三六)に享年八三歳の生涯を終えた。
ちなみに、歌子が愛国婦人会の会長に在任したのは、大正九年(一九二〇)から七年間である。
歌子の後任は本野久子(一八六八~一九四七)、生まれは山口県であるが、四歳から東京に育って永田町小学校(現麹町小学校)第一期生、長じて華族女学校の第一期生その経歴から女子学習院卒の同窓会(常磐会)会長を長く務めた経歴も有している。
久子は長州藩士野村靖の長女で初婚は万里小路正秀(父正房の八男)と結ばれたが、二番目の夫が本野一郎(一八六二~一九一八)であり、肥前佐賀久保田の産、一一歳のとき家族と渡仏、三年間をパリで過ごし、帰国後は横浜の小学校へ編入して卒業する。東京外語学校を経て貿易商会に入社すぐフランスのリヨン支店へ赴任、その過程で法学博士号も得るが、滞在八年を過ぎたころ、外相だった大隈重信が来仏そのとき帰国を促され、随従後に次の外相陸奥宗光の秘書官になる。以後は外交官を職掌に働いたが、胃ガンに苦しみ享年五七歳の短い生涯を終えている。
明治元年に生まれた久子の会長就任は昭和二年(一九二七)だから満六〇歳の還暦にあたり、在任期間は同十四年(一九三九)までの十二年間であるが、在任十年目に集計した会員数は三百十一万人余に達していたという。久子の生涯は退任八年後八〇歳が享年にあたる。
日本政府は同十六年(一九四一)六月十日の定例会議において、愛国婦人会と大日本連合婦人会と大日本国防婦人会の三団体を統合する要項を決している。翌年二月に大日本婦人会(日婦)の結成が挙行され発展的解消と言う決まり文句で幕を閉じようとしたが、最終的には内閣の決裁が仰がないと法律上の手続きは完了した事にならない。つまり、税金が使えなくなるのだ
(続く)