【文明地政學叢書第一輯】第一二章 二〇世紀指導者の個人情報

●郷誠之助と同時代の重要人物

 郷誠之助を同時代の要注意人物たちの年代と並べてみる。

    ・北里柴三郎(一八五三〜一九三一)ベルリン大留学 一八八五〜九一
    ・ヴィルヘルム二世(一八五九〜一九四一)ドイツ皇帝
    ・郷誠之助(一八六五〜一九四二)同ハイデルベルク大 一八八九〜九六
    ・長與稱吉(一八六六〜一九一〇)同ミュンヘン大 一八八九〜九六
    ・片山潜(一八五九〜一九三三)アムステルダム大会 一九〇四
    ・レーニン(一八七〇〜一九二四)シュトゥットガルト大会 一九〇七
    ・スターリン(一八七九〜一九五三)露第二代目指導者 一九二二〜五三
    ・トロツキー(一八七九〜一九五三)
    ・ムッソリーニ(一八八三〜一九四五)
    ・大島浩(一八八六〜一九七五)駐在ドイツ武官 一九二一〜三八
    ・ヒトラー(一八八九〜一九四五)
    ・ヘルマン・ゲーリング(一八九三〜一九四六)
    ・毛沢東(一八九三〜一九七六)
    ・村山長挙(一八九四〜一九七七)
    ・ゾルゲ(一八九五〜一九四四)ハンブルク大 一九一九 
    ・岸信介(一八九六〜一九八七)
    ・佐藤栄作(一九〇一〜七五)
    ・尾崎秀実(一九〇一〜四四)
    ・西園寺公一(一九〇六〜九三)
    ・金日成(一九一二〜九四)

 右に列挙した個人情報から如何なる設計を成しうるか、史家の眼力が問われるところである。

●指導者列伝

 ソ連邦の初代最高指導者に就くまで無慮一五〇もの偽名を使うレーニンの歴史に刻まれたこの通称は、文字通りには「レナ川の人」を意味する。
 レナ川はその延長世界一〇位、広さ同九位で、バイカル湖の西方二キロの中央シベリア高原の南部に位置する山脈(標高一六四〇)メートルに源を発して途中で幾つもの川と合流する。北流した果てに達するその河口部には巨大な三角州(一万八〇〇平方キロ)が形成され北極海へ注ぐが、流域は北半球でもっとも低音の極寒地帯である。
 父イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフはロシアの世襲貴族で教育者としても知られ、レーニンも自らの本名をウラジミール・イリノチ・ウリヤノフと刻む証を残している。
 母のマリア・アレクサンドロヴナ・ブランクはドイツ=スウェーデン系のユダヤ人とされるが、系統を明らかにしておく必要がある。レーニン母方の祖母は生粋のモンゴル系カルムイク(オイライト)で、祖父の代にユダヤ教からロシア正教に改宗している。
 モンゴル語ではオイライトが厳密な表記といえないためロシア語のカルムイクを当てるのが慣行であり両者の流れを整理しておこう。古くは省くが一五〜一八世紀にかけてモンゴル高原の有力部族連合オイライトに属した部族民らは、支那やモンゴルの側から見ればモンゴル族一員で西モンゴル人として扱った。ロシアではカルムイクと呼び独立した族種と見ている。オイライトを征する清朝は満洲語オーロトの呼称を当て盟旗制度のもと各部族長に貴族の爵位を与え自治の権限を認めている。清朝が崩壊すると、今度はモンゴルが独立宣言のもとオイライトの編入を進めアルタイ山脈方面にも達したが支那に阻まれた。この地域のオイライトは新疆ウイグル自治区の成立の際に編入され、中央チベットでは寺領の成立により次第に同化された。他方ヴォルガ川流域に移住したオイライト(トルグート)は一八世紀に故郷への帰還を目指した。取り残された半数の部民らがロシアの統治下に組み入れられソ連に移行するとカルムイク共和国を形成する。
 レーニンの後継者スターリンもまた「鋼鉄の人」を意味する通称で、本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリという。現在のグルジア・ゴリで生まれ一四歳でカフカース(コーカサス)地方トビリシ(グルジアの首都)神学校に通った。東グルジアは一九〇一年ロシアに編入された歴史がある。一九〇二年二四歳から一九一七年三九歳まで地下運動で逮捕されてはシベリアへ追放という繰り返しだったという。ロシア二月革命(一九一七・二)をブルジョア革命と規定し、プロレタリアートおよび貧農への権力移行を唱えるレーニンがドイツ政府と協定しペトログラード(レニングラード=サンクトペテルブルク)にもどって、四月テーゼを公表したときスターリンに幸運が微笑むが、その役割は赤軍の政治委員と軽く、仕事も大した成果を挙げず失策の方が知られる。共産党中央委員会書記長に就任(一九二二)したスターリンが矢継早に実行したのは各支部の書記を任免する人事権の掌握だった。自ら形成する派閥が多数を占めるとレーニンが病に倒れ、後継候補筆頭だったトロツキーの追い落としに成功する。以後の事跡は省略するが、毛沢東を支援するのは国共合作の解消(一九二七)後からで、日支事変勃発(一九三七)時には紅(共産党)軍が国民革命軍第八路軍(八路軍)として国民党軍の指揮下に組み込まれた。ただし、第二次の国共合作が形式にすぎないことは言うまでもない。
 スターリンによる追い落としに屈したトロツキーの本名はレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインで、レフとはレオンつまりライオンを意味する。トロツキーの次女ジナイーダ・ヴォルコヴァの孫にあたる曾孫ダヴィド・アクセルロッド(一九六一〜)はラビの系でイスラエル過激派組織カハの幹部として反アラブ工作に従事し殺人容疑で逮捕されるなど一般に極右の活動家とされている。
 トロツキーは現ウクライナの南部に当たるイワノフカで富農と伝えられるユダヤ系に出生、南ロシア労働者同盟で働き、シベリア流刑(一九〇〇)時に脱走、スイスを経てロンドンに亡命する。このときレーニンらの所属する社会民主労働党と合流するも党は分裂浮浪人生を送って、転機を掴むのはロシア革命でレーニンと両翼を形成した時である。ただし、トロツキーの性癖(遺伝子)はコスモポリタンであり、スターリンらのナショナリズムが企む謀略を軽視するあまり、自ら閑職追放の身に嵌る。再び放浪を余儀なくされたトロツキーはメキシコで第四インターを結成(一九三八)、コミンテルンのアレンジ版たる国際社会主義運動の組織化を図るも、刺客に倒された。
 ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニはイタリアのエミリア=ロマーニャ州プレダッピオに生まれ、社会主義の父(鍛冶屋)はメキシコ初代大統領ベニート・ファレスに因んで息子に名づけたが、同時に、革命家アミルカレ・チプリア二とバクーニンの腹心アンドレア・コスタ(イタリア社会党創設者)の名前からも借用したと伝わる。師範学校卒業(一九〇一)後わずかな期間を臨時教師で過ごすとスイスに出向くが、浮浪罪で国外追放され、その後も何度かスイス入りし、レーニンと出会って親交を結ぶという。第一次世界大戦に際しフランスの資金援助を受けて日刊紙を発行、協商国側への参戦熱を煽るキャンペーンを展開する。社会党によるムッソリーニ除名処分の理由といわれるが、レーニンは逆に処分を下した社会党を厳しく批判したため、ムッソリーニの評価は高まった。大戦後のイタリア国内の混乱と社会主義運動の高揚に危機感を抱いたムッソリーニはミラノで戦闘者ファッショを結成(一九一九)し、社会党や共産党と武力衝突を繰り返すようになる。黒シャツ隊と呼ばれる行動隊を駆使して勢力を拡大した組織はイタリアの北部と中部で二五万人に達し、議会で三五の議席を占める(一九二一)。翌一九二二年には国王ヴィックトーリオ・エマヌエーレ三世(一八六九〜一九四七)から組閣を命じられる。その後一九四三年まで約二〇年間ファシスト政権の時代がつづく。ムッソリーニの最期は中立国スイスへ脱走する途中のコモ湖に近い小村でレジスタンス運動パルチザン(ゲリラ)に発見され銃殺(一九四五)、その遺体は同行の愛人とミラノの広場に曝されたという。
 ヒトラーは他の資料に委せ本稿ではヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングに触れる。ドイツのバイエルン州南端ローゼンハイムで生まれたゲーリングの父はドイツ植民地の南西アフリカで初代国家弁務官を務めた。ゲーリングは少年時代を名付親エーペンシュタインの城で家族とともに過ごし、陸軍士官学校卒業(一九一一)後はベルリンの社交界で上流階級の気を十分に吸収、第一次世界大戦が勃発すると歩兵を経て航空隊へ志願、戦闘機パイロットになり戦時中に撃墜王として称えられる。皇帝ヴィルヘルム二世からは最高栄誉プール・ル・メリット勲章を贈られるが戦争はドイツを含む同盟側が敗れ、皇帝は退位した。戦後スウェーデンに移住し、ゲーリングは民間飛行の曲芸ショー興行ほか旅客機パイロットなどしながら、現地貴族の未亡人カリン・フォン・カンツォフと結ばれる。帰国後はミュンヘン大で経済や歴史を学ぶが国粋主義に傾倒、一九二二年の秋に会うアドルフ・ヒトラーに魅了され労働者党に入ると伝わる。直ちにヒトラーから突撃隊の再編を委嘱されたゲーリングはミュンヘン一揆に臨み警官隊の銃撃で重傷を負う。この一揆は失敗に終わり逃亡先のオーストリアにおいては治療に専念、しかし麻酔用モルヒネ依存症となり更生のため相当の苦しみを体験する。夫人の母国スウェーデンに移り麻薬中毒を克服したときドイツで政治犯恩赦が発表され帰国(一九二九)。再び政治運動を行なうが前回とは戦術が異なる。すなわち、社交界を舞台とし活発に働き上流階級と縁の薄いナチスの幹部を財界人と結び付けるよう尽くし大企業からの献金を受けられる道を開いた。ヒトラーがヒンデンブルク大統領(ヴァイマル共和国二代目)と初会談その成果を得る話もゲーリングの存在を軽視できない。これらの功績で正式にヒトラーの相談役に就くのはゲーリングが国会議員に初当選(一九二八)してからで、以後ナチ党の最重要幹部となる。さらに、ヒトラー政権成立(一九三三)により無任所大臣に就任、同時にプロイセン州(第二次世界大戦後ポーランドとロシア(ソ連)に分割)内相も兼任することに意味がある。プロイセン州とはバルト海沿岸地域に位置し、重大な地史を有するため詳述したいが焦点を絞りたいので読者の見識に委ねて先を進める。どうあれ、ゲーリングはプロイセンをナチス色に染めることに集中、親衛隊や在郷軍人の組織メンバーを補助警察に採用して州警察のナチ化を実現した。その結果プロイセン首相に任命(一九三三)される。州警察のなかに設けた政治部門を独立の組織として秘密警察(ゲシュタポ)とする。ゲシュタポの生殺与奪を独り占めする権力が結果として如何なる歴史を生み出すかは筆者が云うまでもない狂気の世界だろう、先妻の死去(一九三一)から四年後に女優エミー・ゾンネマンと再婚、生まれた娘の名エッダはムッソリーニが娘に付けた名を借用したともいう。以後オーストリア合邦(一九三八)が成るとヒトラーさえ持て余す存在となり、国会演説で第一後継者に使命される。この指名後に口火を切る第二次世界大戦で撃墜王の異名を持つゲーリングが空軍司令官に就き、空の真珠湾攻撃に匹敵する賑々しいデビューが飾られる。以後の軍拡路線も日本と共通するが、日本の昔話が好きだと云うヒトラーはゲーリングに国家元帥(一九四〇)という奇妙な称号を贈って黙らせ、自らの権力集中に邁進する。以後の展開は省くが、麻薬中毒の再発だけは付記しておこう。
 ムッソリーニのような惨劇を恐れるヒトラーを余所にアルプスの安全地帯に潜んだゲーリングが米軍に身柄を拘束されたときは完全なモルヒネ中毒の異形を呈していた。戦争終盤における世迷言もニュルンベルグ裁判の申し開きも、通説一般として知られる情報は麻薬症状の実態を反映しない作り話で処理されている。裁判中のゲーリングはすでに中毒を克服したとか死刑判決に当たり軍人らしく銃殺刑を希望したというが、すべて死人に口なしだ。これらの作り話が何ゆえ必要かという過去と未来の連続性を解くのが史家の本来の務めであり役割だろう。

●大島浩と吉田茂

 岐阜県出身の陸軍中将大島健一の長男に生まれた浩は東京牛込北町の愛日小学校に通い、同級には経団連第二代会長となる石坂泰三がいた。妹長江は箕作麟祥(あきよし)(一八四六〜九七)四男俊夫へ嫁いだ。箕作家は前記しているが、俊夫の長男祥一(よしかず)(一九二〇〜六八)で学業系の伝統は途絶える。浩は幼少から在日ドイツ人の家庭で育てられ、言葉も躾けもドイツ流を身につけ、陸士から陸大まで一貫教育を受け、参謀本部配属(一九一六)の翌年にはシベリアに出兵している。駐ドイツ大使館付武官に昇格(一九三四)、四九歳の時である。ドイツ大使就任(一九三八)前後の仕事も重大だが、他の資料に委せ大島の個人情報に焦点を絞りたい。幼少期からドイツに関する情報と人脈をもつ大島は歴史的に間抜けを恥じない政府外交官と異なる行動を示すため、通説は二元外交と表現する。この通説こそ似非の権化であり、日本の官僚は科学音痴が集まるため、直流・交流の回路を司るメカニズムさえ知らない。本来は直流・交流という現存を免れない両者を取り込む構造設計のもとで省エネ機能は実現するのだが、千切り取り文明は何処にも責任が及ばない交流回路で似非外交に安住する。つまり、大島は自らナチスと接触し直流回路としての真価を見極めようと動くのだが、外務省はナチスとの距離を埋める媒介を頼って情報処理する交流回路を形成している。両者とも必要不可欠な存在であることに変わりはないが、問題は構造設計を成しえない無知無能により両者間に因子の揺らぎが起こって通牒機関に筒抜けとなり潜在力まで失ったことである。大島は所属の陸軍中央と諮って東郷茂徳を退け自ら大使を座を占めると、ヨアヒム・フォン・リッペントロップ(一八九三〜一九四六)に接近し日独伊三国同盟を結び枢軸外交強化に奔走する。
 同時期の駐英特命全権大使は吉田茂ゆえ大島と対立するのは必然であり、安倍晋三首相(本稿執筆時)が人事で参議院選挙(二〇〇七・七・二九)に大敗するのも必然である。似非教育で成る政府御用の史家に見識がないのは昔も今も変わらないが、いくら故人が力もうと、地球の回転力に逆らえば、もとより結果は知れている。因みに、吉田茂(一八七八〜一九六七)は現在の高知県宿家を出自とする竹内綱五男として東京神田に生まれるが、四歳のとき横浜の貿易商吉田(旧福井藩士)健三の養子となり、養父の早世で莫大な遺産を相続している。

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