【文明地政學叢書第一輯】第一一章 ゾルゲ対日工作の背景

●スパイ・ゾルゲを生むネットワーク

 稱吉の留学先であるミュンヘン大学はカトリック教徒の多いドイツ南部に位置するバイエルン州の州都にある。ゾルゲの学んだ北部のハンブルク大学とは時代が異なっても何かにつけ対照的とされるが、その違いを抑えておくには当時のドイツの事情に触れる必要がある。
 稱吉ドイツ入りの前年(一八八八)には、ヴィルヘルム一世(一七九七〜一八八八)が三月九日に、その後継者フリードリヒ三世(一八三一〜八八)が六月五日にと、同じ年にドイツ帝国皇帝が相次いで没している。三代目のヴィルヘルム二世(一八五九〜一九四一)はフリードリヒ三世と英国女王ヴィクトリアの長女(ヴィクトリア)との間に生まれた第一子である。
 新皇帝は鉄血宰相ビスマルクの政策を嫌い露骨な批判で解任(一八九〇)へと追い込むと、新社会主義鎮圧法を廃止のうえ植民地再配分の外交政治に着手する。
 海軍力の増強を目指し英国との建艦競争で関係が悪化しても気にもせず、帝政ロシアとは再保障条約を解消し、露仏同盟の形成にも平然としていた。ヴィルヘルム二世から生じるのは英仏・英露の協商であり、対仏包囲網を対独包囲網へと展示させたとの評価が通説である。
 ドイツ帝国の首都はベルリンだったが、最も大事な場の理論からすると、ハンブルクは特殊な地位を占めていた。特別市ベルリンと同じくハンブルクもまたドイツ帝国の成立(一八七一)に際し、どこの州にも属さず独立を維持して「自由都市」を貫いている。この自由都市という特権は神聖ローマ帝国の時代から連続して付与された(一四一〇、一五一〇、一六一八)もので、北海に面する大きな港湾という地理的な特殊性に由来するものである。
 第二次世界大戦処理によりベルリンは東西に分断され悲運に晒されたが、ハンブルクは北部の経済中心地として現在でもEU(仏語ではUE)第二という港湾規模を維持している。
 第二インターナショナルを主導したドイツ社会民主党がハンブルクで強い支持を受けるのは、プロテスタントが多数を占める土地柄からくるというのが通説である。
 それと対照的な地域性を有するのが内陸南部に位置するミュンヘン市で、多数を占めるカトリック教徒が世界各国と大学ネットワークを通じて枢軸を形成しているが、その中心にあるのがイエズス会の存在である。
 稱吉がドイツに入った翌一八九〇年には後藤新平がドイツに留学し二年間滞在した。帰国して長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任したことは前記している。
 帝政ロシアの辺境に位置しカスピ海を臨むアゼルバイジャンの首都バクーとドイツの首都ベルリンを結ぶ当時の路線はごく限られた一部の人間のみぞ知るいわば「けものみち」であって、ノーベル社に雇われていた鉱山技師すなわち「山師」を名乗るゾルゲの父がこれを往還したのも故なしとしない。その彼が皇帝と同じくヴィルヘルムという名前であるのも意味がある。三歳のゾルゲを含めて九人の子供を養う「山師」が何ゆえにベルリンに移住したのか。
 ゾルゲは二〇歳(一九一四)のとき第一次世界大戦が始まると、すぐ陸軍に志願するも早くに傷病兵となって、ケーニヒスブルクの野戦病院に入院中に急進的な社会主義者だった看護婦とその父である医師の手ほどきによって社会主義に触れたと語っている。ハンブルク大で優秀な成績のもと政治学博士号を取得(一九一九)するのが二五歳というが、以後の足跡を割引して受け止めても、父の系譜は隠し通せるものではない。
 次第さておき、関連事項を前述から拾い出しておく。まず、一九〇七年に第二インター大会に出席するレーニンは稱吉より四歳年少であり、ローザ・ルクセンブルグ女史は同じく五歳年少、一九〇四年の大会に参加した片山潜は稱吉より七歳の年長である。ゾルゲがみずから炭鉱夫に身を窶し打ちこんだ共産党の活動により高い評価を受けてコミンテルン本部にスカウトされるのは、三〇歳(一九二四)の時である。そのままモスクワに赴いて、軍事諜報部門の労働赤軍参謀本部第四局に配属されたという。上海派遣(一九三〇)の隠れ葉には、ドイツの有力な新聞社フランクフルター・ツァイトゥング紙の記者を利用した。ジャーナリストの仲間には、同じく同紙記者で毛沢東を密着取材するアグネス・スメドレー女史(米国)や尾崎秀実(朝日新聞)らがいて親しく交流した。上海事変勃発(一九三二)に当たって詳報をドイツに送ると同年末にモスクワにもどり、第四局の創設者にして局長のベルジン大将に温かく迎えられる。だがそれも束の間、改めて東京に派遣されることになり、米加を経由し太平洋横断客船「ロシア女帝号」に乗って翌一九三三年九月六日午後一時に横浜港に着く。フランクフルター・ツァイトゥング紙東京特派員というのが、その肩書であった。住居は横浜に構えたという。
 尾崎秀実(一九〇一〜一九四四)は南満洲鉄道の嘱託職員として、当時は近衛内閣ブレーンの地位にあり、政権中枢あるいは軍内部の情報を知りうるネットワークに属していた。
 この段階に及ぶと以後のミステリー仕立ても含め、政府御用の大本営発表と五十歩百歩の作り話が独り歩きして史家が突然作家に変貌する。つまり、現象効果を裏づける証拠資料に拠って原因を突き止めようとする文学の還元法は物証法と自白を照合する設計技法なのだから、当然ながら諸説の一本化は起こらない。しかも、素材(原因)生成の現場を存知しない分業(部分)設計者、たとえば、立法・行政・司法の住み分け制度に安住する専門莫迦の事務職などに、総合設計は生み出せる訳もない。
 毛沢東(一八九三〜一九七六)とゾルゲを結ぶ線が如何なる獲物に狙いを定めたのか?
 尾崎を使う朝日新聞の役割とは何か?一本の線を引くには初めの一点が狂うと部品図は書けても全体図は仕上がらないのである。
 賃上げ闘争なら兎も角も、国際的な政権運営を施しようのない労働現場に何ゆえ第一インターを持ち込んだのか。総合図を描けば教育・政治・経済などすべての分野で不可欠の存在はスパイであり、スパイもピンからキリまで段階があるが、本筋は氏姓鑑識から透けてくる。労使混合のサバイバルしか設計し得ない時代に巡り合わせたマルクスには慈悲の念を禁じ得ないがワン・ワンールドの本義はまったく異なる。尾崎の同世代の金策(一九〇二〜一九五一.一.三〇)が何ゆえに金日成(一九一二〜九四)を後見したのか?金日成とゾルゲを結ぶ直線と曲線も確たる場の理論を持たないと設計図が単なる紙切れになる。

●「聖地論」で解く白頭山

 反吐が出る人物伝で濁る筆先を浄めるため、少し白頭山に触れておこう。北緯四一度六〇分東経一二八度〇五分すなわち支那吉林省と朝鮮半島両江道の国境地帯に聳え立つ白頭山は、標高二七四四メートルの火山で、頂上には「天池(チョンジ)」と呼ばれるカルデラ湖がある。過去二〇〇〇年間で世界最大級ともいわれる巨大噴火を一〇世紀に起こしたときは、偏西風とともに火山灰が日本の東北地方まで降り注いでいる痕跡も残している。渤海(六九八〜九二六)の滅亡に九世紀の噴火が関係するとの説もあるが、その因果は兎も角として、進行崇拝の対象たる聖地の条件は十分に満たしており、いまだに機械文明を寄せ付けない環境を維持している。旧女真(満州)族の興す金(支那王朝)は白頭山を紙と崇め「興国靈應王」と贈号(一一七二)し、「開天宏聖帝」とも改称(一一九三)している。当然清王朝も同じ扱いで康煕帝(一六五四〜一七二二、在位一六六一〜)の時代に愛新覚羅(皇族)氏の始祖生誕地を白頭山と決し立入禁止にしたという。
 他方、半島史に初めて白頭山の呼称が登場するのは高麗の時代(九三五〜一三九二)で、鴨緑江を渡ってくる女真族を「白頭山」の外側へ追い返すとの記録がある。李氏朝鮮の世宗は、鴨緑江と豆満江に沿って要塞を築き、北方の女真と自国民を仕分ける境界に白頭山を位置づけた。
 この李氏朝鮮の時代に、一五九七、一六〇八、一七〇二年と噴火のあったことが記録されており、朝鮮人が満州の豆満江以北つまり間島(中州)へと移住する働きが絶えなくなる。これに対する策として清国と朝鮮は白頭山の分水界に国境を定めて定界碑を建立(一七一二)、外交上の決着はつけたが、悶着の火種はいまだに燻り続けている。
 その国境を示す表記に「西方を鴨緑として東方を土門とする」と書かれたことが解釈の問題を引き起こしたのである。土門を豆満江と主張する清国に対し、朝鮮は土門江は松花江支流だと主張する。双方とも譲らず一九世紀末から二〇世紀初頭まで対立がつづき、一九六二年に結ぶ中朝辺界条約で天地(カルデラ湖)上に中朝国境線を引く支那の案を朝鮮が受け容れる。ところが現在は韓国の民族派を名乗る団体が境界は松花江だとの主張を繰り返し、抗争に明け暮れる運動が続いている。この問題の深層に潜むのは、白頭山(聖地)に主体思想(シオニズム)を絡ませ国際利権に取り込もうとする極東版エルサレム争奪戦という思惑なのである。
 間島とは豆満江以北の旧満洲にある朝鮮人居住地を指し、現在の支那吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯のことである。その中心都市は延吉で、現在の北朝鮮と向かい合う形で所在する。朝鮮では初め豆満江の中州島を間島と呼んでいたが、さらに渡江して南満洲への移住が増えるにつれて中州島の間島の範囲が広がり以北の居住地域全体を間島と呼ぶようになる。
 もともと女真を主体とする清朝は、白頭山一帯を祖先の出た聖地と崇めて居住を封じていたが、気づいたときは朝鮮からの越境農民が排除不能なほど住みついていた。外交交渉による明渡し要求も効果なく、そこで止むをえず徴税を条件に領民と認めることになる。新たに招墾局も設置(一八八一)して農業振興を策した。この農業振興策は聖地たる白頭山の原義に悖る政策だから、かえって朝鮮の越境農民をさらに増大させ国境画定に関する外交決着(一八八五)に持ちこまれる。その時代状況は前記しているが、朝鮮の意向に構わず支那の主張を押し通すのだが、日清戦争の敗北で支那の国力が傾くとロシアの意向を汲む朝鮮が間島へ管理使を派遣(一九〇三)する。このために白頭山に漂う暗雲は不気味さを増してくる。
 日露戦争を征した日本ではあるが、孝明天皇の攘夷も理解できず、東京へ恒常的行幸まで強行する愚昧ゆえに、聖地の本義がいまだに判らない。日露戦を安堵した政府は大韓帝國の意向を忖度し間島へ警官派出所を設置する。さらに、朝鮮に対する支那に裁判権や課税権まですべて取り上げてしまう。これに支那も反発して間島駐在のため奉天(瀋陽)から一個連隊を移し対抗した。その後、日本と支那の交渉により支那が間島を領有することを認める(一九〇九年、間島共役)代わりに、日本は大陸の権益を大幅に増やした。これに反発の抗議を示せないのが有名無実の大韓帝国であるが、間島へ移住する農民らの数は減らないと伝わる。日韓併合(一九一〇)の後、日本の施政権が及ばない間島は抗日パルチザンにとって絶好の本拠地と化した。思いを同じくする支那との連携も深まる傾向を増やしていく。
 ゾルゲは第三インターナショナル(コミンテルン)本部に三〇歳にしてスカウトされる(一九二四)まで熱心なドイツ共産党の活動家だった。
 第二インターの崩壊後も反戦運動を続けた残党がツィンメルワルト(スイス)で開いた国際会議がコミンテルンの源流だといわれる。第一回モスクワ大会はロシア一〇月革命(一九一七)の後の一九一九年に、ウラジミール・レーニン率いるボリシェヴィキ(後のソ連共産党)の呼びかけに二一ヶ国の代表が応じている。
 当初は世界革命の実現を目指して、ボリシェヴィキが各国へ支援を行なう方向で機能していたが、レーニン没後ヨシフ・スターリン(一八七九〜一九五三)の方針転換により各国の共産党がソ連の外交政策を擁護していく方向となる。
 すなわち、ゾルゲが二五歳でドイツ共産党へ入る年(一九一九)に第一回のモスクワ大会が開催され、同三〇歳でコミンテルン本部にスカウトされた年(一九二四)にレーニンが没するが、スターリンの第二代目ソ連最高指導者就任は前々年(一九二二)とするのが通説である。ゾルゲはスターリンとは折り合いが悪かったとされているが、ニキータ・フルシチョフ(一八九四〜一九七一)が「ソ連邦英雄勲章」なる栄誉をゾルゲに贈った事実もある。
 次第さておき、コミンテルンは支那の国民党政権と協調路線をとり共産党弾圧を黙認し、またドイツ社会民主党からの批判に社会ファシズム論を用いて反論し、ナチスの政権奪取を許している。ところが一九三五年の方針転換の結果、アドルフ・ヒトラー(一八八九〜一九四五)らのファシズムに対抗する人民戦線が結成されることになり、フランスでは成功するも、スペインでは反乱は早々に壊滅した。さらには、独ソ不可侵条約(一九三九)の成立と第二次世界大戦初期のポーランド分割の現実を前に人民戦線の戦術そのものが放棄されるに至る。名実ともにその存在意義を失うのは一九四三年に声明された解散による。
 ちなみに、日本共産党が支部として承認(一九二二)された当初はテーゼ(綱領)を作成できずコミンテルン・テーゼをそのまま活動指針にしていた。自作綱領が討議され採択されるようになるのは一九三二年テーゼからだが、片山潜・野坂参三・山本懸蔵らは依然コミンテルンと掛け合いをする。
 スターリンが主導するコミンテルンに対抗して結成(一九三八)されるのがレフ・トロツキー(一八七九〜一九四〇)らの第四インターナショナルであり、日本トロッキスト連盟も生まれている。レーニンのもと書記長を務め多数派を形成するスターリンに対して同年生まれのトロッキーはレーニン路線を続けようとした。
 コミンテルン・テーゼもこれに対抗した第四インターも理屈は引かれ者の小唄にすぎないが、欺し合いは革命の常ゆえに、意味不明の奇形が際限なく出現してくるのである。
 朝令暮改の天気予報で国際市場を結果的に操る箱舟ワン・ワールド思想は白頭山の気候を移り気と表現している。山頂の年平均気温はマイナス八・三度とされるが、夏場には一八度まで上昇することもあり、厳冬期にはマイナス四八度の記録もある。一月の平均気温がマイナス二四度に対し、七月は一〇度ほどで、年間八ヶ月がマイナス気温となる。山頂における平均風速は秒速一一・七メートルで、一二月には平均でも一七・六メートル/秒という強風が吹き上げ吹き下ろし、湿度は最近の統計によれば平均七四パーセントという。
 山の中央部は地下マグマの上昇圧力で毎年三ミリメートルずつ盛り上がりつづけ、天池の周囲には二五〇〇メートルというカルデラ湖で、一〇月中旬から六月の中旬まで湖面は氷結する。
 こうした条件はまさに聖地そのものであり、水の三相三態を実証し電磁波サイクル・システム恒久化の原義に基づく情報(神)を備えている。
 古くは白頭山を太白山と書き、満洲語でゴルミン・サンギヤン・アリンと呼んだが、それは何処までも白が続く山という意味で、これは支那は直訳して長白山と称した。白頭山は朝鮮の言い方である。パルチザンやアリランなどの似非言語もすべて聖地を奉ずる意味があり、山麓で採れる恵みを方や朝鮮人参といえば支那は長白山人参と名づけ、漢方薬用の薬草のほか聖地がゆえに与えられる産物は豊富にある。
 この聖地の認識すら忘れた日本は国内の伝統と財貨を投入し満洲国の成立(一九三二)まで手を加え、大東亜に安堵の設計と施行を及ぼした。如何なる志の高さを訴えようと、独り善がりが相手に通じる訳はなく、嵩がゾルゲ一人も取り込めない為体では、支那また朝鮮を自在に扱う資格もない。単なる思い上がりで過去をとやかく論じてもしょせん成果は得られない。

●「朝日新聞」をめぐる因果

 朝日新聞は木村平八・騰の親子が大阪の地に創刊(一八七九)したもので、すぐに所有権を村山龍平(一八五〇〜一九三三)と上野理一(一八四八〜一九一九)に譲渡する(一八八一)。翌年から明治政府と三井銀行の資金援助が始まり、二年後(一八八三)明治一六年の新聞と出版に対する取締役条例の強化を先取りするかのように、ここに実際上の御用新聞が誕生した。
 丹波国の篠山を出自とする上野家は大阪で生糸商「西垣屋」を始めるが、理一の生家でもあり朝日新聞の買収費割合は三分の一を受け持つことになる。
 残り三分の二を受け持つ龍平の村山家は紀伊藩旧田丸領つまり伊勢国田丸(三重県度会郡)に仕え維新後に大阪へ移住し西洋雑貨を商う「田丸屋」を開業した。朝日新聞を軌道に乗せる役割は龍平の娘と結婚して婿養子となる岸和田藩主家の岡部長職(ながとも)三男の長挙(ながたか)に託された。
 岸和田藩第一三代目藩主長職(一八五五〜一九二五)は最後の藩主で江戸藩邸に生まれるが、二歳のときに父が死去、跡を伯父岡部長寛(ながひろ)(一八〇九〜八七)がつなぎ明治元年に藩主となるも廃藩置県で東京にもどる。明治八年に渡米してエール大学で学んだのち、ヨーロッパを歴訪、同一九年に公使館参議となり、翌年英国臨時代理公使を務め、同二二年に外務次官となるが、大津事件で辞任する。後に東京府知事に就任(一八九七)して貴族院議員の中軸となり、第二次桂内閣の司法大臣に就任(一九〇八)すると、大逆事件(一九一〇)を処理した。
 長男長景(ながかげ)(一八八四〜一九七〇)は加藤高明(一八六〇〜一九二六)の娘を娶り官僚時代は外務省・内大臣秘書・宮内省・陸軍省・大政翼賛会の重鎮を歴任、貴族院議員になると東條内閣(一九四一〜四四)の文部大臣を務めている。
 加藤高明は尾張藩下級藩士服部重文の二男、母方の伯父に佐野七五三之助(新選組隊士)がおり、父は海東郡(愛知県海部郡佐屋)に置かれた代官の手代である。一三歳で祖母加奈子の姉あい子が嫁いだ加藤家の養子に入り、東大法科を卒業し三菱に入社して英国出向のあと帰国、本社副支配人に昇り、岩崎弥太郎の長女春路と結婚、その後一八八七年に官界入りするも、以降は省略する。
 すなわち村山長挙の身辺には少なく限定しても国策に奉職する筋が揃っている。杉山茂丸の暢気倶楽部にしても緒方竹虎の退職問題にしても村山長挙が絡んでいる。また、尾崎秀実の如き犠牲者が出るのも歴史は情知を超える証である。
 尾崎秀実(一九〇一〜四四)は現在の岐阜県賀茂郡白川町に出生、幼少期に台北(台湾)に渡ると中学時代まで過ごし、帰国後は第一高等学校を経て東京帝大法学部を卒業(一九二五)、大学院に進むも一年で退学して、東京朝日新聞に入社する。
 美濃(岐阜県)黒野から江戸へ出て旗本に仕えた後に幕臣に昇る郷純造(一八二五〜一九一〇)がおり、維新後は大蔵官僚として当時の国策の主要ポストを総ナメして次官まで昇った。退官後に貴族院勅撰議員(一八九一)になる。その純造の二男誠之助と四男昌作に触れておく必要がある。
 純造四一歳のとき生まれた誠之助(一八六五〜一九四二)はドイツ留学(一八八四)七年間をハイデルベルク大学を軸に過ごしている。この学校は創立一三八六年というドイツで最古の大学で、バーデン=ヴュルテンベルク州はシュトゥットガルトを州都とし、ハイデルベルク市は面積五番目であるが、世界的な大学ネットワークとしての威力は広く知られる。誠之助は哲学博士号を土産に帰国して、農商務省に嘱託で入るが、明治二八年を機に会社再建の道を歩み始め、経済畑の重鎮と評価される実績を積み上げていく。
 例えば、日本運送、日本メリヤス、日本鋼管、入山採炭、王子製紙などに手を加え、特に王子製紙に臨んでは、新聞紙の国産化に成功し業界との絆を深めた。失敗例には、日本醤油醸造の再建挫折(一九一〇)あるも、翌年に東京株式会取引所(現東京証券取引所)理事長に就任し、同時に貴族院議員となる。以後の誠之助は第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけ日本経済を象徴する要職を占める。
 また、郷誠之助は東京商業会議所、日本工業倶楽部の設立に関わり、日本経済聯盟会や日本商工会議所の長に就くとともに東京電燈の再建にも手を染め、さらに内閣参議官や大蔵省顧問などにも任じられている。名誉への欲求は昔も今も変わらないものと見える。
 郷が主宰した番町会は若手経済人が勉強に励むことを建前としていたが、「帝人事件」と呼ばれる一大疑獄事件を引き起こす詐欺師の溜まり場となり、郷が自ら晩節を汚す結果となった。
 誠之助の弟昌作は、生まれると直ぐ岩崎弥太郎に養子入りし豊弥と改名、そののち兄と同じく経済畑を歩むが、常に兄とのリンクあるこというまでもない。

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