【文明地政學叢書第一輯】第一三章 佐藤・岸・安倍家伝をめぐって

●佐藤・岸・安倍家伝をめぐって

 佐藤秀助の二男岸信介は山口県吉敷郡山口町で出生のとき曽祖父佐藤信寛が居合わせ名付親として自らの一字を当てたという。秀助第七子(三男)が佐藤栄作である。まずこの系譜節目を釈かないと、戦後の日本に何ゆえこの兄弟を首相に据える必要が生じたのか、また安倍が首相として何ゆえに朝鮮と向き合う巡り合わせになるのかが判明すまい。いかなる家系であれ、偽造と隠蔽を含むのが系図の設計思想であり、遺伝子だけでは解けないのが政体を担う立場で、そこには宿命・運命の絡み合いも含まれる。
 公開済の佐藤家伝は市郎右衛門信久に始まり萩藩士(寛文二年)二人扶持で米二石四斗の俸禄とも伝わるが、米一石を一人あたりの年間消費量とした時代の勘定である。当時の萩藩財政を調べ、名目に対する実高や公民割合、重出米などを勘案せずには評価できないが特別手当が給付されていたことに疑いはあるまい。すなわち信久の素性を絞り込む事例一つで、歴代の職能を時間と空間に絡ませながら具(つぶさ)に追えば基本的な筋目は見極められる。歴代の当主が市郎右衛門か源右衛門を名乗るのが佐藤家伝である。信介・栄作の曽祖父(信寛・寛作)の代には長州藩士として御蔵元本取締役、大検使役など歴任した長沼流兵学を修め、維新後は島根県令などに任ぜられる。さらに信寛に加えておくべき情報は、明倫館入学と江戸遊学であり、長州藩の藩校に学び江戸への遊学が許された背景は相応の情報を引き出す手掛かりとなる。どうあれ岸信介も佐藤栄作も自らの伝記をはぐらかしても佐藤家伝については余計な手を加えない現実を識れば系譜の重みは心得ていたようだ。信介出生地は前記の通りだが、本籍登録は栄作の出生地と同じ熊毛郡田布施。この情報が何を意味するか史家なら見逃せまい。
 遠祖を源義経の忠臣佐藤信忠とする口伝は作り話でも萩藩士としての信久は確認でき、前記寛文二年の伝承は疑う必要もない。信寛の幼名は三郎、のち寛作とも名乗り藩校に学ぶ。明倫館は弘道館(徳川水戸藩)また閑谷黌(しずたにこう)(岡山藩)と並び日本三大学府の一つで、萩六代目藩主(毛利吉元)が三の丸の近くに創設(一七一八)した。一四代目敬親が行なう藩政改革で藩校の規模が一六倍超に広がるため城下に移転、さらに県庁が山口へ移転(一八六三)すると、明倫館は萩と山口に並立することになる、
 信寛は緒方洪庵より六歳年少、また吉敷郡の医家に生まれる大村益次郎よりも八歳年長であり、本籍は山口県熊毛郡田布施である。
 大内氏重臣陶晴賢(すえはるかた)(一五二一〜五五)が毛利元就(一四九七〜一五七一)と厳島で戦い敗れ三五歳で自刃するという物語から生じるのが岸家の祖である。毛利に荷担した村上水軍は通説三家で、能島(伊予大島)・因島・来島のうち、因島家は早くから毛利を支持したためである。戦の前に因島家だけでは戦力不足と睨んでいた毛利は敵(大内)方の能島家を取り込むことで勝利を掴もうと目論んでいた。決戦前の毛利は村上水軍へ約束手形を振り出し周防の屋久島を成功報酬に決済することで両者の取引は成立した。毛利軍の勝利を決定付けた村上水軍の中に朝鮮系帰化で通称「ガン」と呼ばれる男がいて、居留地を与えられた。後に田布施周辺の代官に任ぜられ、岸(ガン)の姓を許されたが、能島家頭領(武吉)の嫡子が元吉(通称ガン)と呼ばれたという伝承もあり、単なる洒落ではすまされない根拠も潜ませている。
 安倍寛(かん)は山口県大津郡日置村(現在長門市)の彪助とタメの長男として生まれる、父彪助は郡内に旧い椋木家に生まれ、母安倍タメと結婚し婿養子となるが、タメの生家は江戸時代から続く大庄屋で酒と醤油の醸造を営んだ。兄慎太郎が安倍の家督を継ぐも、三二歳で早世する。生前には県議会議員(維新一期生)を務め、遺志を継ぐ寛(甥)は東京帝大法学部政治科を出ると総選挙(一九二八)を戦うが落選。村長・県会議員を経て再出発、総選挙(一九三七)を凌いで衆議院議員二期の間は金権腐敗と軍閥主義の批判を貫き、戦後一回目となる総選挙準備中に急逝した。因みに議員仲間の赤城宗徳とは公私を超えて親交したというが、子晋太郎の運命と孫らの不甲斐なさに如何なる因果が巡るのか。三木武夫も安倍寛の親友であったが、生命図は決して遺伝子だけで描けないことは、次の岸・佐藤らの情報を含めれば証が立てられよう。
 右の系図は最小限のみ表記し、他の系譜と個人情報は省略している。信介は五番目の子で二男、三歳のとき家族全員が田布施へ帰郷。その事由は秀助が県庁官吏を退き田布施で造酒を営むためで、信介は中学三年のとき父の生家へ養子入りする。つまり、帰郷は信寛に死期が訪れ佐藤家の潮目が変わるときであり、信介が養子になるのも本家の松介(伯父)が急逝したときに浮上する問題であり、すべては時空の操作に従うほかない話だ。岡山中学二年のとき松介重篤の報せで帰郷する信介は山口中学に編入、そして父の生家(岸)へ養子入りする。旧制一高を経て東大法学部法律学科(独法)を卒業、農商務省に就職。北一輝の門にも出入りした(一九三〇)と自らいう。農商務省については既述ずみ。商工省時代(一九三六)の岸は部下の椎名悦三郎を使い自ら満洲国(一九三二〜四五)へ赴くための準備に当たらせている。満洲で国務院の実業部総務司長に就任すると、産業振興五ヶ年計画の実施に当たる。東条英機・星野直樹・鮎川義介・松岡洋右・岸信介を総称して二キ三スケと呼ぶが、岸はその主導的地位を占めた。商工次官(一九三九)、総務庁次長と進み、第二次の近衛組閣で入閣を打診されるが辞退し、小林一三(一八七三〜一九五七)が商工大臣を務める。岸の同大臣就任は東條内閣のとき(一九四一)で、戦時下の経済を扱う元締めに座り、翼賛選挙(一九四二)に際して初の衆議院議員となる。戦況の劣勢が本格化(一九四三)してくると、商工省は軍需省と看板を改め、東条が兼務する軍需大臣の下で、岸は軍需次官(無任所国務相兼任)に就任した。
 秀助七番目の子(三男)栄作は田布施で生まれ、山口中の学友と二人で旧制五高(熊本県)受験へ向け名古屋に泊まるとき同じ目的の忠海中(広島)三人と同宿する。目的を同じくする一宿一飯の袖を触れ合う仲間五人は受験を済ませたあと酒を酌み交わし再開を胸に秘め別れた。これが広島メンバーの中にいた池田勇人(一八九九〜一九六五)との初対面で通説は奇しき縁というが筆者の辞書にはない後付の理屈である。
 ここで少し学制に触れておきたい。
 一高(東京大学)、二高(東北大学)、三高(京都大学)、四高(金沢大学)、五高(熊本大学)、六高(岡山大学)、七高(鹿児島大学)、八高(名古屋大学)等の旧制高校をナンバースクールと呼ぶ時代があり、括弧内の新制改称は地名つまり学校所在地を示すだけの意味しかない。
 兄信介だけは一高から東京帝大へ進学、弟栄作は五高から兄と同じ大学コースを歩み、就職は日本郵船を志望したが合格せず、義理の伯父松岡洋右の口利きで鉄道省に就職した。以後の栄作は終戦まで鉄道畑だけを歩み戦後パージは免れ、上席が公職追放されることで運輸省鉄道総務局長官(一九四六)、運輸次官(一九四七)の箔を付け、民主自由党山口県連合支部長、第二次吉田内閣の官房長官一年間の在任中に行われた総選挙で初めて衆議院議員(一九四九〜七五)に路線変更する。
 田布施は少し前までインターネット上を騒々しく掻き回す明治天皇大室説の発祥の地で、本来は安倍晋三らが処理すべきところである。古くより「触らぬ神(情報)に祟りなし」という喩えあり、岸・佐藤・安倍に限らず神の正体が情報であることを知らない生ける屍は何らの手立てを講じないまま私利私欲に溺れるのみ。神格(天皇)を人格に貶めて恥じない生ける屍の事例の一端を示しているが、個人の問題ではなく社会全体が不敬の罪に当たろう。先帝両陛下とも宝寿を重ねられ金婚の慶賀を迎えたとき、時の首相は黒松の盆栽を贈る法律違反を犯すも暗愚重罰の不敬を反省しない。皇室経済法では皇室財産の譲渡も取得も国会で議決されない限りはできない旨を定めている。如何なるプレゼントも受領できない。神格天皇は競わず争わず首相を上手く諭す措置で盆栽を返却させたが、佐藤無策は再び同様の過ちを繰り返している。後継の田中を案じた天皇は今度は事前に養い・教え・禁じる措置を講じられたが、生ける屍の跳梁は止まない。
 大室説については張本人の地家康雅(じげやすまさ)が筆者を訪ねてきたので、直接窘める処方で措置を講じたが、独り歩きする情知まで手を及ぼすことはできない。仕方なく本稿の筆先の運ぶまま指摘しておくが、筆者も同罪を免れず、自ら禊祓を要することは言を俟たない。つまり如何なる個人であれ、政治に独裁という実態は存在しない。人は五十歩百歩のなかで、競わず争わず常に自ら禊祓を怠らず励行しない限り安全と平和は実現しないのである。

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