細菌学の顕著な進歩は19世紀の後半にみられ、近代細菌学の開祖とされるフランス人ルイ・パスツール(1822~95)とドイツ人ロベルト・コッホ(1843~1910)が知られる。中でも既存の薬物よりも副作用が少ない免疫療法のワクチンとして、すべての哺乳類に感染し得る狂犬病のウイルス(ラブドウイルス科リッサウイルス属)を病原体とする人獣共通感染症に効能を持つ開発は特記モノであり、北里柴三郎の破傷風対策である血清療法に引き継がれている。
近代日本医学の父とされる北里柴三郎(1853~1931)は、世界中の土壌や汚泥に含まれる芽胞すなわち破傷風(クロストリジウム属の細菌)の病原体(嫌気性の大型桿菌)に効能を持つ血清療法の開発などで知られ、その氏姓鑑識も長井氏と同じく必見であるが、ここでは別記へ見送る事に決しておきたい。なお血清療法とは別に抗血清とも言われ、ポリクローナル抗体を含む血清で多くの疾病の受動免疫を伝達するために使用される。即ち、過去のヒトの生存者から得た受動抗体の導入はエボラ出血熱に対する唯一有効な治療法として未来を養う教えに活かされているわけだ。
長井長義、北里柴三郎の氏姓に鑑みれば、高峰譲吉(1854~1922)も同等に例示しないと歴史への冒涜になりかねない。
アメリカで巨万の財を成し、理化学研究所(リケン)設立の一人とされる高峰は、アドレナリンやタカ・ジアスターゼ(アミラーゼ)の発見から未来を養う内分泌学を後世への贈り物とした。北里が肥後(熊本県)阿蘇郡小国郷北里村に生まれると、高峰は翌年、越中(富山県)高岡の山町筋(やまちょうすじ)と呼ばれる御馬出(おんまだし)町に住む漢方医の嫡男に生まれている。
副腎髄質から分泌されるホルモンで薬物のアドレナリンは、神経節や脳神経系における伝達物質で顕著な例は「伸るか反るかの反応」に示される。即ち、ストレス反応の中心的役割を果たし、血中に放出されると心拍数や血圧を上げ、瞳孔を開きブドウ糖の血中濃度(血糖値)を上げる作用があり、生体内で合成の生理活性物質という捉え方と、医薬品という捉え方の違いから、通常アドレナリンと呼ばれる一方で、医学分野ではエピネフリンと呼ぶ事も多いとされる。
薬学史にも科学史と歩調を合わせる一派があり、その勢力版図は国際政治の動向に影響されるのが歴史の常道である。20世紀の科学が戦争へ加速化したように、薬学も傷病兵士の救援に急進化する傾向を露わにしていった。化学療法の創始者とされるパウル・エールリヒ(1854~1915)はプロイセン王国シレジアに生まれている。このパウルと並び称される日本人が秦佐八郎(1873~1938)で島根県美濃部郡都茂村(現益田市)に生まれ、特に梅毒の特効薬サルバルサン(砒素化合物製剤)を共同開発した事で知られている。
化学療法が始まる事により、スコットランド出身のアレクサンダー・フレミング(1881~1955)が抗菌物質リゾチームのほか、アオカビから世界初の抗生物質ペニシリンを発見し、のちウクライナ出身セルマン・ワクスマン(1888~1973)が発見するストレプトマイシンに通じる。
ペニシリンの発見が1929年、ストレプトマイシンの発見が1944年、共に抗生物質の時代が幕開けを告げると、日本の薬学史も旧来の本草学から、近代的な製造医学へ方向転換するが、問題は施政権が占領軍の上意下達にあり、日本伝来の医薬分業制は風前の灯火と化した。
医薬分業制が等閑(なおざり)となる事から変質された日本人とは何者なのだろうか、これを私は換骨奪胎の偏屈者と自負するのであり、日本特有の皆保険制度と共にゾンビを大量生産し得る渦中にコメントを発し、その走狗となる傾奇(かぶき)者がテレビに群がるヤジウマを演じている。
而して、私の認識するところは、在るがまま成るがままを受け容れるとともに、その現実が浮かび上がるメカニズムとシステムを希求する事により、自らの対応力強化に励むのが筋と覚醒したのだ。今やメタバースとアバターがトレンドになる事象に鑑みると、等閑とされた医薬分業制こそが戦後の難病を生むメカニズムに潜んでおり、そのシステムを司る補修機能は不全であるがために、生命力に乏しいメタバースやアバターしか生まれないのが実相と断じるほかない。
私は落合先生から学んだ理の二番煎じを多用しているが、その1つに分業制もあり、先ずは通説が講じる医薬分業制を記事にしておきたい。
公的な医薬分業制の先駆けは神聖ローマ帝国フリードリヒ2世(1194~1250)の時代から始まるとされ、医師は診察また死亡診断書の作成などにあたり、薬剤師は薬の管理にあたり、相互の領分を侵さないこと、その人的また物性的な分離を明文化した法律5か条が制定されたのは1240年と伝えられる。つまり、権力者の毒殺に医師や薬剤師が加担し得ない防御策を講じたわけだ。
医師と薬剤師の職域を分ける事により、病院と薬局の経営も切り離される、不適切を排除する事で不正を封じ、過剰投薬などの抑制を二重チェック制で見まもり、社会と個人に都合の好い薬物治療も取り扱える施策の促進が急がれた。たとえば、薬剤師が専売的なクスリの供給を行うとき、東洋から仕入れた生薬も扱えるようにすることで、国も税収増を見込める一石二鳥が図られたかのようだ。
具体的な事例として、ここにドイツとアメリカにおける医薬分業の形態を示しておく。医薬分業に長い歴史を有するドイツにおいては、調剤の権利は薬剤師のみが得るモノとし、医師には与えられず薬局の共同経営者になる事も禁止されている。病院内の薬剤部門は院内の処方のみに対応し、外来の患者に対する処方箋は全て院外向けの発行とされ、薬局開設者も薬剤師に限られ、その資本も薬剤師本人の供出によるとされる。薬剤師以外の資本による開局は認められず、2004年これまで開局が許されなかった支店は今3店舗まで解禁されている。
アメリカでは医師本人による薬品販売の禁止とともに、院外の薬局でクスリを買う患者に向けての指定薬局の誘導行為も一切が禁じられている。また処方箋の指示も無報酬とされる。そのほか、医療施設が比較的に大きなケースでは院内薬局のある施設も見受けられるが、その許認可に関する法制が如何なるモノか私には興味がないため調べる気も生じない。
前記は欧米事情であるが、日本の法制は如何なる事情にあったか。明治7年(1874)8月まで処方箋の調剤も医師の手に委ねられていたが、同月公布された「医制」はドイツの医薬分業制を受け売りしたモノであり、「医師タル者ハ自ラ薬ヲ鬻(ひさ)グコトヲ禁ズ」と改変されている。
明治憲法制定(1889)前の医制(1874)その2年前(1872)に福原有信(1848~1924)24歳は、東京銀座に日本初の(西洋風)調剤薬局「資生堂」を開業している。出生地は安房松岡村(千葉県館山市)で郷士の二男とされ、1865年18歳のとき幕府医学所で西洋薬学を学び、1867年から同所の薬剤師として勤務したとされる。翌年7月に東京大学病院に勤務、その翌年(1869)大学東校(東大医学部)中司薬(職員)となり、1871年に海軍病院の薬局長を拝命するや、翌年に資生堂を開業、当時の日本に存在しなかった医薬分業を唱えたとされる。
資生堂の医薬分業が明らかになるのは、日本初(1888)の練り歯磨き「衛生歯磨石鹸」そして9年後(1897)には化粧水「オイデルミン」を発売、大正6年(1917)には化粧品部を分離独立して現在の基礎を築いている。その間に帝国生命保険➩朝日生命の設立に加わり、日本薬剤師会3代目会長に就任、有信の後継三男信三は大規模な山荘を箱根に設けるが、その設計は1918年にフランク・ロイド・ライトが構想したモノである。
因みに、有信の長女(信三の妹)美枝の嫁ぎ先は澁澤栄一の二男武之助である。何ゆえ、資生堂の記事を挿入したかは別の機会に記述するとし、記事を医薬分業に戻すと、明治憲法制定の同年に薬品営業並薬品取扱規則(薬律)が公布され、薬舗は薬局、薬舗主は薬剤師と定義された。日本の法制に限らないが、信一択で成立しない人の社会は薬律も立証の1つとなり、のち特例で医師の薬品調合が認められるようになると、枝葉(特例法)が根や幹(基本法)を喰い散らかすように、医薬分業制も形骸化の運命を歩むほかない虚の世界に染められていった。
つまり、伝承の理に言う「木の五衰」であり、①木は枝葉の繁茂が過ぎると、②風通しや日当たりが悪くなり、③虫がつき、④梢枯れ、⑤根上がり根幹が腐る。この理はナニゴトにも適用する言葉と思うが、特に現行法の特例措置である時限立法の掟破りは憲法自体を腐らせてしまった。
私の街宣は民族運動を主に展開したが、中でも悪政の温床となる赤字国債その1は報償金すなわち日本政府の機密資金を生むカラクリ、金融三業とマス・メディアが一等地を隠し持つカラクリ、その原因たるカラクリが、時限立法の更新を繰り返した違憲行為にある事を指摘し続けてきた。
日本経済を支えるストックフローとキャッシュフローの根幹は荘園経営に始まるが、その開拓から生まれる付加価値が土地政策と地価対策にある事は説明するまでもあるまい。この資産価値を担保に両替商が生まれ、その発展を支えた付加価値が日本の貯蓄性向である。
原爆投下後の日本人が未曽有の経済復興を為し得た原動力とは、この荘園経営に始まる土地政策と貯蓄性向が合体した事により、世界に無比無類の生活市場が生まれ今に現存しているのである。
占領軍が如何なる施政権を強行しようと、従米属国の政治が如何なる売国奴になろうと、日本人が皇紀2683年の歴史を生き続けるエネルギーは遺伝子から発せられている。
その本質に気づかないまま、禁じ手の赤字国債を発行し、時限立法の特例措置を更新し続け、自ら装う善人であるかの如き振る舞いはゾンビそのもの、その特例措置で私腹を肥やしたゾンビの溜まり場こそ金融三業とマス・メディアなのである。
さて、時勢の到来に乗じた運動により、廃棄された特例措置とは何か今は開示すべき時ではない。
それはそれ、占領軍が日本側と向き合った医薬分業に触れたい。GHQ公衆衛生福祉局長クロフォード・F・サムス(1902~94)は米国陸軍の軍医准将でマッカーサーの意向を受け医薬分業に臨んでいたが、マッカーサーの解任に伴い自ら辞職1955年に退役(1955)している。
昨年さまざまな臨機応変から本シリーズの筆先も変わったが、いま書くべきか・書くべきでないか私は大きな岐路に立たされている。判断つくまで数か月の時間を賜りたい。
(つづく)