修験子栗原茂【其の五十五】ポツダム宣言と鉄のカーテン演説

 その象徴こそポツダム宣言の条項にあり、その条項達成が済んでも、未だ解放される事ない学校の教育に呪縛されている日本人が大多数を形成しているのである。

 しかも大多数に媚びを売るビジネスがマスコミであり、そのマスコミに媚びを売る政治家と行政がマスコミを操るのだから、これらの相関を革(あらた)める事は容易ではないのだ。

 ここにポツダム宣言をコピーする気はないが、その内容は特定できないアメリカの手で作成された文章にイギリスが若干の修正をほどこし、署名はハリーの手によって、チャーチル、スターリン、蒋介石の四人分をサインしており、スターリンを除いた三人の共同声明として発表されている。さらに連合国を形成する他の諸国は宣言の内容に関与しなかったばかりか、蒋介石は会談が開催された事も知らないまま署名代筆は無線による事後承諾のみ、同じく事後承諾を求められたスターリンは署名を認めておらず、チャーチルは宣言発表のとき自分の選挙で帰国中だったのだ。

 このポツダム宣言を後生大事に扱う日本の戦後社会においては、行政・立法・司法に第四の権力を含めた無知蒙昧が恥じるを知らないまま声を荒げている。この無知蒙昧に準じる国民とは何者なのか人は気づかなくても、天と地が知るところゆえ自負を以て覚るほかあるまい。

 とはいえ、独り国家国民に寄り添う現人神を仰ぐとき私はただただ自負の未熟を覚るのみ…。

 大統領ハリー就任時は満六一歳を迎える二十六日前、エドガー五〇歳の男ざかり、ハリーの在任は一九四五年四月十二日―一九五三年一月二十日の期間とされる。エドガーは大統領ハリーの命を受け戦後の日本ほか海外の視察旅行にあたり、「フランクリンは対ドイツ参戦を口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った狂気の男」と批判している事が知られている。

 この逆にハリーがエドガーを非難した言に触れておきたい。「私(ハリー)は、ゲシュタボや秘密警察は欲しくない。FBIはその方向へ向かっている。彼らは明らかな脅迫としてセックス・スキャンダルをもちだしてくる」と言い放ち「上院と下院その全ての議員は彼を恐れている」と付け加える事からアメリカンドリームの虚構として、要人の暴露が絶えない社会の実相を自白している。

 もう一つ大統領31代目ハーバート・フーヴァーは原爆投下に関して「ハリーが人道に反して原爆投下を命じたことは、アメリカの政治家の質を疑わせるものである。繰り返して和平を求める意向を示していた日本に対する行為として、アメリカ史における未曽有の残虐的な行為であった。アメリカ国民の良心を永遠に責むもの」なる批判をした事が知られている。

 サイエンスすなわち知る事を科(トガの)学と訳した人の博識には驚嘆するほかないが、ハリーの在任中もっとも重大かつ重要な事案は放射性物質の取り扱いであった。マンハッタン計画の全貌など知ったところで単なる弁明しか浮かんではこないが、統帥権に疎いハリーが核兵器と遭遇したことは宗教と哲学がトガ(罪と罰)に屈する未曽有の瞬間と思えるのである。

 広島に投下された原爆の日から七年五か月後(一九五三)すなわち月ちがいの命日、同じく二日後命日は長崎にも投下された記憶も生々しい大悲の命日に当たり、ハリーは水素爆弾の開発を発表する暴挙を平然と行える政治家であり、その発表日は大統領退任の二週間前とされる。

 一方、日本政府が「戦争状態の終結」とする平和条約は昭和二十六年(一九五一)九月八日に署名調印その翌年(一九五二)四月二十八日に公布されており、水爆開発は二五四日後すなわち一年にも満たない原爆命日に発表という慈悲の欠片さえもない。

 私は講和発効時に満一〇歳のち現役判事から聞いた話によると、講和発効すなわち独立を回復した三権分立の一つとして、最高裁判所は独自の予算案を議会へ提出したところ、行政の一部にすぎない大蔵省一部局の主計から「予算編成権は主計局が先例だから予算案提出は認められない」と自主的に取り下げるよう頼まれたと言うではないか。このとき私は満一六歳であった。

 私が満三〇歳の一九七二年五月二日にエドガー死去、私が満三一歳の同年十二月二十六日にハリー死去という廻り合わせであったが、私の政治的活動が活発化する頃にも当たっていた。

 それはさて、ポツダム会談中に行われたイギリスの選挙はチャーチルの率いる保守党二一三議席に対して、労働党三九四議席、自由党一二議席で労働党が政権の運営に当たることになった。

 一九四五年七月二十六日に国王ジョージ六世へ辞表を提出したチャーチルであるが、引き続き保守党トップの座に留まり、国王からのガーター勲章は総選挙敗退の責務を負って拝辞している。

 チャーチルの生誕年(一八七四)は明治七年その元旦早々に増上寺焼失があり、十四日には右大臣岩倉具視の暗殺未遂、翌十五日に東京警視庁設置がスタートするなど、慌ただしい一年を予兆させる幕開けだったが、二月に政権交代されたイギリスにおいては、第二次ビール内閣以来とされる保守党安定政権の第二次ディズレーリ内閣がスタートとし、エジプト半植民地化の先鞭スエズ運河の買収が実現している。露土戦争(一八七七)へ至る過程ではロシアの地中海進出を阻止する事でキプロスの獲得にも成功している。そんな時代のブレナム宮殿内に生まれたのがチャーチルであった。

 さて、何ゆえチャーチル生誕年のイギリス事情に日本史を照らし、その生まれた場であるブレナム宮殿(一九八七年に世界遺産に登録される)の存在を表記したかに触れておきたい。

 これこそが閑院宮親王家の創設と断絶したハプスブルグ家の現代史に通じるからである。

 通史はスペイン王位の継承戦争(一七〇一―一四)と表記するが、それはハプスブルグ家カルロス二世の後継者が断絶した事に始まり、その継承権を有する欧州諸国の王室と政府が複雑に絡み合って引き起こした長期十三年に及ぶ戦争の事を指している。

 交戦勢力の陣容一方にハプスブルグ帝国、神聖ローマ帝国、イングランド王国→グレートブリテン王国、ネーデルランド連邦共和国、プロイセン王国、ポルトガル王国、サヴォイア公国、アラゴン、カタルーニャ、バレンシアなどあれば、もう一方にはフランス王国、スペイン帝国、カスティーリャ王国、ナバラ、バスク、バイエルン選帝侯国さらにハンガリー人の反乱者などの陣容がみられた。

 戦争たるものも初めは小さな火ダネの燻ぶりが各所に散らばり、その燻ぶり続ける火ダネを一斉に燃え上がらせる強大な勢力が生まれ政権を手にしたとき、もはや大規模化を免れない戦争の渦中から生まれるコトガラ(利権?)に憑りつかれるのが政治の宿痾というものである。

 この場合はフランス王ルイ十四世にイングランド王ウィリアム三世が打開策を提案する話し合いに始まっているが、腹に欲求を潜ませるシナリオが上手く成就するはずなし、二転三転を繰り返すうち炎上するのは歴史の常というものである。而して、ここではイギリス王室と貴族チャーチル家の有職故実に焦点を合わせ、その経歴に培う家督の継承をチェックしていくとする。

 継承戦争の開戦(一七〇一)翌年イングランドとスコットランド両国の女王(一七〇二―〇七)を兼任したアン(一六六五~一七一四)は合邦グレートブリテン女王(一七〇七―一七一四)となり、最後のイングランド女王にして最初のグレートブリテン女王、及びアイルランド女王として、ステュアート朝を閉じる最後の君主たる任に当たっている。

 アンはヨーク公ジェームズ(後のジェームズ二世)の二女、姉メアリー二世は夫ウィリアム三世と共同で王位に就いていたが一六九四年三二歳のとき天然痘で崩御している。アンの死因も姉と同じく天然痘とされ、戦争終結の講和ラシュタット条約(三月六日)から四か月余を経た頃に崩御四九歳の生涯を終えたとされる。

 このアン女王に仕えて中興の祖となるのがマールバラ公ジョン・チャーチルである。

 中興の祖マールバラ公ジョン・チャーチル(一六五〇~一七二二)は、清教徒革命(一六五〇)に伴うイングランドの内戦さ中の時、王党派ジェントリ(下級地主層)のウィンストン・チャーチルとエリザベス・ドレークとの長男として、イングランド南西部のデヴォンシャーで生まれる。姉のアラベラは父と共に宮廷に仕え後のイングランド王ジェームズ二世の寵愛を受けており、二男ジョージは海軍・三男チャールズは陸軍に入隊し、それぞれが王室との関係を深化させていったとされる。

 モロッコのタンジール戦争(一六六八―七〇)や第三次英蘭戦争(一六七二―七四)あるいはモンマスの反乱鎮圧(一六八五)さらには名誉革命(一六八八)時の貢献などにより、ステュアート朝の後期軍人ジョンは一代にして急速なる爵位昇級に成功している。

 即ち、一六八二年十二月二十一日「スコットランドの貴族爵位パーウィック州におけるアイマスのチャーチル卿」に叙され、一六八五年五月十四日「イングランド貴族爵位ハートフォード州におけるサンドリッジのチャーチル男爵」に叙され、一六八九年四月九日「ウィルトシャー州におけるマールバラ伯爵」に叙されるなど、その昇進は圧倒的に抜きん出ていた。

 つまり、アン女王の姉メアリー二世と夫ウィリアム三世(一六五〇~一七〇二)すなわちオラニエ公はオランダ総督(一六七二―一七〇二)の時に婚姻すると、イングランドとスコットランドの女王メアリー二世と共同君主となり、女王は一六九四年に崩御、王は一七〇二年に崩御、後継アン女王の崩御年(一七一四)にスペイン王位継承戦争の講和ラシュタット条約が成立したのであるが、マールバラ伯爵ジョン・チャーチルを継承戦争の最高司令官に任命したのはアン女王であり、この戦争中に建国(一七〇七)されたのがグレートブリテンすなわちイギリスなのである。

 長引く戦争に倦む気が増すのは当たり前しかもヨーロッパは植民地化を促進した列強の密集地ゆえ火ダネがアメリカ大陸へ飛び火するのも当たり前であろう。それが通称アン女王戦争と呼ばれる戦でイギリスはフランス領カナダのケベックを狙い、フランスはニューイングランドの植民地を狙った。両者の狙いは成就しなかったが、イギリスはアカディア(北米東部大西洋岸)を占領しており、戦争長期化は女王とマールバラ公との間にも幾たびか険悪な空気が漂ったとされる。

 戦争に下される大自然の罰則は疫病、女王姉妹は護国のため罪と罰を一身に浴びたのだ。

 一七〇二年イギリス王ウィリアム三世の崩御で王位を継ぐアン女王はフランドル及びバイエルンで目覚ましい戦果をあげ、ヴェンローやリエージュを占領した戦功により、最高司令官ジョンに新女王アンはブランドフォード侯爵やマールバラ公爵を叙している。その二年後(一七〇四)にはブレンハイムの戦でフランス軍に大勝したとして、ロンドン郊外ウッドストックに二万五千エーカーの土地と宮殿建設(着工は女王崩御の翌年)の資金提供を下賜したとされる。

 ドイツのバイエルン州ドナウ川流域ブレンハイムの地でフランス軍に大勝したマールバラ公の名は一躍ヨーロッパ全土に広まったとされる。このブレンハイムすなわちブレナムが宮殿の名称の由来で戦後(一七〇五)着手された宮殿の工期は完成(一七二二)まで十七年を要しており、同年死去したマールバラ公ジョンは竣工を目前に他界しており、後世この宮殿で生まれる後の英首相がサー・ウィンストン・チャーチルなのである。屋敷は二百以上の部屋を有し、庭園は改造(一九二五―三二)の手を加え一九八七年に世界遺産として登録されている。

 首相チャーチルの個人情報は読者に委ねるが、ここでは世界大戦の中でアメリカンドリームとソ連シンドロームが表面化させた全貌から次の事案を掘り下げておきたい。

 因みに、十一月三十日に生誕のチャーチルと同い年の人には、八月十日にハーバート・フーヴァー三月九日に梨本宮守正が生まれており、その密かな交流が深層にかくれ知る人は限られている。此の事に鑑みるならば、矛盾と疑問が山積する戦後史の大半を透かすカギとも言えるが、それには以下に示す通史の事象を丁寧にチェックしておかなければならない。

 米ソインチキ体制を確立するには、世界一の植民地大国イギリスが植民地を手放さない限り目的は達せられないが、実際にイギリスが行った植民地解放は冷戦構造に歩調を合わせている。

 それにしても、戦後社会の植民地問題は何一つ改まっておらず、第一次世界大戦の同床異夢に酔う国際政治が局地化戦争に姿を変えたのみではないのか。イスラエル建国に始まるオリエントからベトナムへの飛び火はカリブ海すなわち地球のウラオモテを貫通しており、ソ連シンドロームが限界値に達すると、アメリカンドリームも内向性へ舵をきりはじめ、香港への北京侵攻は、キエフへのロシア侵攻を呼び起こしたが、次に何処で何が生じるかを知るメディアが皆無なのはなぜなのか。

 それはさて…。

 昭和天皇の玉音放送の前に首相を辞したチャーチルだったが、戦後の講和条約が調印された翌月は再び首相(一九五一―五五)に返り咲いている。同年四月十一日にはダグラス・マッカーサー(一八八〇~一九六四)のGHQ解任もあったが、これも通説のまま放置するわけにはいくまい。

 首相再任時のチャーチルはイギリスを米ソに次ぐ原爆保有国にしており、東南アジア条約機構への参加など反共を政策に反映させていた。再検証を要するのは、第一期首相退任から第二期首相就任に至るまでの五年間を如何にフル活用していたかである。

 私は人ひとりが何を行ったところで独りじゃ公が生まれない事を痛感しており、公を軽視する虚が横溢すれば究極の不幸たる戦争を招くと肝に銘じるがゆえ、このシリーズに載せる著名人も意識的に少数に限定している。つまり、人ひとりの力で理想を啓くなど出来るわけがないのだ。

 ただし、昭和天皇が独り全国巡幸を為したように、皇祖皇宗の現人神は例外とするものである。

 現人神が新開を啓く際の決断と実行は精緻な情報に基づく世界総攬から発せられ、万機公論からは生まれない発意が独りスキがない超克の型示しとなって顕れるのである。

 コードネームを「ウェーザー演習作戦」と定めた西部戦線は1940年4月9日から6月10日に及ぶ交戦の事を指すが、結果はデンマークとノルウェーを占領したドイツが勝利したとされる。

 この次第は1939年9月に参戦する英仏の動向にまでさかのぼる必要あるが、結局、目先の課題優先を理由に万機公論を尽くせないのが政治に憑りつく宿痾であり、そんな政治に寄生するメディア情報に導かれる人の行く先を覚るには、この西部戦線が恰好のテキストになるのではないか。

 まず読者自身がチャーチルに成りすまし心中する気になれば見えないコトガラも見えてくる。

 その出発点は独ソ戦のスターリンとの協調そしてフランクリンとの同盟に始まるのだ。

 次に日本軍参戦後の首相責任としては、東方植民地のホンコンやシンガポール、マレー半島一帯に及ぶイギリス軍の相次ぐ敗退や陥落が問われるところとなり、ドイツ軍によるトブルク陥落は国家の威信を揺るがせ、僅かに残るインドやエジプトでも前例なき反英闘争を激化させてしまった。

 ノルマンディー上陸ネプチューン作戦は1944年6月6日に始まるが、連合軍最高司令官の座は米国ドワイト・アイゼンハワーが、副司令官の座は英国アーサー・テッダーに委ねられ、翌1945年5月ナチス党ドイツが降伏したあとは、英議会の総選挙で負け政権は労働党のものとなった。

 これら一連の主役はチャーチルと言っても過言とはならない。それはまた戦後チャーチルが放ったキャッチコピー「鉄のカーテン」に通じるのもので、これら一連を含めたうえで透かさないと戦後のヨーロッパが東西陣営に分断され、その棲み分けを行った意味が明らかにならない。

 一九四八年から一年ごと一巻ずつ出版された全六巻『第二次世界大戦』がベストセラーになるのは当たり前であるが、チャーチルの口述筆記本とされる内容は陸海軍の将校はじめ、歴史学者を含めた総動員の編纂スタッフが著作した事は疑うまでもあるまい。

 一九六五年まで生きたチャーチルの自画自賛とされる口述もノーベル文学賞(一九五三)の受賞に本人は平和賞を欲したと言う語録も全て編纂の方針によるものではないのか。

 どうあれ、官製の意図するところにチャーチルが利用されたとなれば、連合国をリードしたキャビネットがチャーチルを主役に定めた事は間違いのないところである。

 チャーチルのキャッチコピーとされる鉄のカーテンが演説されたのは一九四六年であり、その場はアメリカの中西部ミシシッピー川に沿うミズーリ州フルトンの地とされている。

 ミズーリはスー族インディアンの部族名とされ、マイアミ・イリノイ語で「丸木舟を持つ人々」を意味するとされ、初めて遭遇したインディアンをヨーロッパ人はミズーリと呼んだとされる。

 州都をジェファーソンシティとするミズーリの歴史こそヨーロッパ文明を支える奴隷制に基づいて巣立った植民地化の根幹を成すヨーロッパの本質的な政治的精神そのものなのである。

 一八〇〇年にナポレオン・ボナパルト(一七六九~一八二一)はサンイルデフォンソ条約に基づきスペイン領だったルイジアナをフランスに取り戻したが秘密の条約とされている。ルイジアナは一八〇三年十一月三十日フランスに移管されるまで名目上はスペイン領ルイジアナとしており、フランス移管後の三週間目にアメリカへ委譲して事を済ますのがヨーロッパ流と伝わっている。

 一八〇三年ルイジアナを買収したアメリカは西へ向かう開拓団の重要な供給源としてアフリカ人を奴隷化する始発の地としたのである。のちミズーリ妥協と呼ばれる名のもと、奴隷制を条件に州への昇格(一八二一)が認められ暫定州都はセントチャールズに置かれたが、一八二六年ジェファーソンシテイを恒久的な州都に定めるところとなった。

 ちなみに、アメリカ大統領3代目トーマス・ジェファーソン(一七四三~一八二六)は独立宣言を執筆した主要人物にして就任演説をワシントンD.C.で行った初の人と知られる。

 ミズーリ州ジェファーソンシティの名付けもルイジアナ買収を行った当事者ゆえのことである。

 当時のフランス領ルイジアナの領地は、現在のアイオワ、アーカンソー、オクラホマ、カンザス、コロラド、サウスダコタ、テキサス、ニューメキシコ、ネブラスカ、ノースダコタ、ミズーリ、ミネソタ、モンタナ、ルイジアナ、ワイオミングの十五州(以上アイウエオ順)を含んでいた。

 一八三〇年代の初期モルモン教徒が北部州やカナダから移りはじめ、インディペンデンス及びその北方への入植が始まったとされる。この奴隷制と植民地化が相まって生じる紛争こそ、ヨーロッパがアメリカに持ち込む南北戦争(一八六一―六五)であり、その代償となるのが大統領16代目エイブラハム・リンカーン(一八〇九~六五)へ飛び火する狙撃と暗殺になって現れるのである。

 私が問うのはチャーチルが「鉄のカーテン」を演説するため、わざわざミズーリの地まで出かける事の胸中に秘められた真意なのである。

 私が自負するところは、それこそ姿を変えた戦後の奴隷制と植民地化にあると覚るのである。

 直近のホンコン民主化騒動はもとより、現行ウクライナ戦役もしかり、戦後まもないイスラエルの建国とオリエントの再来、朝鮮動乱、キューバ危機など絶え間のない局地的な戦役は全てが奴隷制と植民地化による姿を変えた紛争の激化そのものと言えまいか。

(つづく)

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