さて、私二七歳(一九六八)の時代に戻らないと記事の趣が薄らぐため前へ進めなくなる。
同年四月に生まれた長男を今になって思うと、落合先生に優るとも劣らない天与のオーラを放った趣がよみがえってくる。ひどい親バカとは承知しているが、どこへ連れて行っても小さい頃から他の耳目を惹いた事実は曲げようがない。同年十月には別居中だった秀孝が、夜半帰宅の自室で睡眠中に死ぬ一歩手前の一酸化炭素中毒で意識不明に陥っている。
どこまでタフな命なのかは前述しているが、以後二十二年間の療養生活は一言たりとも弱音を吐く言葉を聞いた事がなく、林間に所在する精神病院で最期の重篤は半年に及ぶものとなった。その遺体火葬の際に初めて覚ったのは、火葬場の最大の骨壺に遺骸が納まらず、身を粉にしても骨を砕きても奉じて謝すべし真の心で、今や秀孝の生き写しと言われる私も同じ齢頃になりつつある。
それにしても、老後の平穏を望むのであれば、私の如き暴走は慎むべきであり、暴飲暴食を控える事が肝要と強く訴えておきたい。今さら暴飲暴食を悔いても仕方ない事は承知であるが、自分の命と勘違いした自刃のほか、手術用のメスが戸惑うほど傷ついた私の身体は昔には戻りようもない。
昭和四十三年は月曜から始まる閏年その干支は戊申(つちのえさる/ぼしん)だから相生すなわち土と金が陽気で成る干支四五番目の組合せに当たっている。
同年一月四日は東証株価指数(トピックス)を表す基準日とされた。一月九日は妻の胎内で順調に生育する初めての子を愛でる最良の日となったが、その慶賀と真逆の悲しみに襲われた訃報こそ円谷幸吉が自殺したというニュースである。私の一歳上で享年二八歳これ言葉が浮かんでこない。吉日の浮かれ気分が瞬く間に失せた。この現実が私にも降りかかるのは三か月後となる。
臨月に入った妻に付き添って妻の実家(徒歩十分)でくつろいでいた。春の陽射しと前祝いの酒が私を酔わせていた。ゆったりした時間を味わう中なぜか自宅へ戻りたくなった。妻を残して自宅へと向かう歩行が急に速く変わったような記憶が今もよみがえってくる。家まで数歩の場で母と仲が良いご近所さんの慌てた様子に出会った。何も言わずに私の手を掴むと数十歩先の病院(日曜で休診)に引っ張り込んだのである。その際の険しい顔は以後一度たりとも見たことがない。
母は致死量の睡眠薬を飲み干したが、救われるべくして救われていた。
病室のベッドに横たわる母と付き添う看護婦(当時の呼称)さんの姿が今も忘れられない。当直の医師から報を受けた院長先生が近所の屋敷から駆けつけてくれていた。
事の顛末であるが、母は薬を飲む前に五十年来の親友(姉妹以上の仲)に電話しており、話を終え受話器を置く間際に母は「さよなら」と言ったそうである。電話で話し合う事は珍しくないが、話の最後に「さよなら」なんて言った事も聞いた事もなかったそうである。生粋の千住っ子で気風の好い母の親友は私も妻もチーちゃんと呼ぶほど親しい間柄だった。チーちゃんは我が家の近所に住む母の妹分に電話すると「つぎ(母の名)ちゃんの様子を見に行って!すぐに!」と急かした。
ご近所さんは何が何だか分からないまま我が家に入ろうとしたが、玄関はカギが掛かっており他の入り口から家の中に入るまで相当の時間を要したようである。チーちゃんの動きは素早く近くに住む人の自家用車で「今すぐ私を梅田まで運んでおくれ」と我が家に駆けつけてくれた。
院長先生の話によると、母は確実に助けるが厄介な事がたくさんあり、法の定めるところ警察への協力で面倒くさい事が少なくない。法の下に仕事する現場のピンからキリまで、その範疇でやるべき身内の仕事それをやりきるための時間はないに等しいよ。病院向けの手配はこれとこれ、警察向けに必要な手続きはこれとこれ、もしメディアに知られてしまったらこれとこれ、すべて私の心に封じた事ではあるが、知ると知らないでは、現行メディアのバカ騒ぎの如き悲哀に曝されるだけだ。
若い頃の苦労は買っても行えとの諺に誤まりはない、私が経験した自負でもあり、子を育てるのに必要な心構えを身に帯びる経験でもあった。私のピンチを救うのは常に恩人佐野であり、佐野なしで私の人生を語る事は出来ないし、その恩返しは巡り廻って公に返すほかない。この因果応報の実践を導いたのも佐野であり、その行為が公私の分別に表れると導いたのも佐野の訓えであった。
もし、母の未遂事件に院長先生と恩人佐野の指導鞭撻がなかったら、何事もなかったように立派な出産を成し遂げてくれた妻を護れなかっただろうし、日常的な出産に従事する先生や看護婦さんらが唯一無二と褒めちぎる子に恵まれる事はなかったかも知れない。
未明の三時半ころ産まれた長男の初おむつ替えをさせてもらったあと、私は一キロほど先の荒川へ向け走りぬくと、新聞配達の時に仰ぎ見た同じ日の出を待って、渾身の万歳三唱と礼拝を以て感謝の誓約(うけひ)を自らの心に刻んでいる。
母の自殺未遂で私が真っ先に行った事は秀孝とのパートナーシップだった。これまで両親に逆らう事を控えていた私と秀孝との話し合いは、家督についての取り決めで全面的に私に一任してほしいと秀孝に申し入れたのである。かつて秀孝を愛した母は同じ量の憎しみを秘めていた。古事記の黄泉は愛憎相食むイサナキとイサナミを描いているが、その末端次元に存したのが私の父母であった。
すべて私の思うところに応じると誓った秀孝に私が依願したのは、現状すべて今のままに身柄のみ別居を受け容れてほしいと申し入れている。病院向けの手配は院長先生の助けを得ながら私の望みが適えられた。警察向けの手続きは都議佐野の全面的指導で事なきが得られた。幸いメディアに余計な時間を割く必要ないまま時が過ぎ去っていった。すでに自立していた姉と次弟に知らさず、全面的に私を支えてくれた末弟は申し分のない事業主としての役目を果たしてくれた。
我が家は妻と子の退院を待ち受ける準備すべてを整えていたが、お七夜が近づく前に妻の実家から退院後しばらく里帰りしたらどうかとの打診をいただき、妻の意を確認すると「そうしたい」と言う返事だったので援助に甘えることにした。
意識を回復した母に付き添う事二十四時間は手のぬくもりを伝える事のみに徹した。時に寝たかも知れないが記憶に残ること一切が忘却の彼方へ消えている。しびれを切らした母は微かな声で「私は付添いさんに従うから家へ帰って仕事してちょうだい」と照れながら詫びるように言った。
私と末弟の友人らは自分の勤め先から真っすぐ我が家へ来ると、それぞれが自発的に出来る仕事を手伝ってくれており、時には自分の勤め先を休んでまで末弟の仕事を補ってくれていた。
私を気遣う妻の実家が伝えるニュースは、体調が戻った子育て中の元気な妻と赤ん坊の写真それが私を奮い立たせるエネルギーになったことは言うまでもない。
退院した母の床ズレは腰骨が透けるほど、その痛々しい姿を抱えて風呂に入れた当時を想い出すと現行の介護ヘルパーさんには、ただただ頭の下がる念にかられる。退院一か月後に誕生日を迎えた母五六歳を祝うにあたり、生後一か月の孫は我が家の闇を一気に祓い清めてしまった。もはや嫁と姑を結ぶ絆に介入するウイルスは皆無となり、まさに糸川本『逆転の発想』の実践版が生まれた。
時が経ち赤ん坊の首が座ったころ、私は長男を抱っこして、橋ひとつ越えた千住に居る秀孝に孫を抱くようにねがった。子の成長に温もりは何よりも大事と思うからで、これも家督の一つと認識する訓えに遵ったまでのことである。この際の秀孝は私の大好きな父そのものだった。
この機に末弟と私が徹底的に話し合った事は一点のみ、多くのテーマを話し合ったところで無理は適わないからだ。その一点とは仕事の受注に伴う納期限に集中しており、自主的に納期限をもうける受注に徹するとなれば、需給を基盤とする市場経済すべてを認識したうえで、自分達の可能性を含む仕事への取り組みが明確になると思ったからである。
不景気になればなるほど事業主は何を為そうとするか、その先手をとる仕事に特化すれば不景気に泣かされる事もないだろう。数百年も続いている商いを真似すりゃ済むことである。行きつくところ大きな政府か・小さな政府かを論じてみても、夢すなわち無理筋は実現するはずないからだ。
取引先が主導する需要は生活費を賄う範囲内に絞り込んで、独自の情報収集からターゲットにした会社が取り組む省力化を企画して売り込むことにした。容易い仕事ではないが、手順さえ間違わずに営業すれば、全ての主導権を掌握した取引が可能になると考えたからだ。
私は小学六年生三学期から借金火だるまの中にまみれてきた。仕事は債務弁済の手段にすぎないと思わざるをえなかった。つまり、金儲けより優先したのは資金繰りであり、これこそ無理難題の極み以外の何ものでもないため、尋常ならざる日常から解放される望みなど考える暇もなかった。
私は数えきれない人に援けられているが、求めた助けは家族の健康面のみ、人の勝手な思い込みに付き合う暇が私にはないのであり、私には為すべき事が山ほど溜まっていたからだ。ジグソーパズル方式はピースひとつ一つを組み上げていくが、剖判すなわち剖れる事が判る能力を身に帯びる以外に道がなかったのである。そのために見出したのが有職故実と家督継承を理解することだった。
有職故実と家督継承を覚ってみると、新規性も単なる錯覚でしかなく、過去をアレンジする時勢のテクニックにすぎない事が明らかになってくる。つまり、特許などの知的財産権は単なる応用実験と変わらないのである。その実例は記事を示すほうが判りやすいかもしれない。
末弟との話し合いを済ませた私は、特許庁を釣り堀に見立てると、実用新案十数点を釣り針の餌に見立てた。やがて申請受理の事案が一般に公開されると、その試案を自社のテクニックに加えようと目論む営業マンの問い合わせが寄せられる。取引先を探し回る手間暇が省けるのである。
ここに代表的な事例一つを開示すると、(株)にんべん高津伊兵衛十一代目と同十二代目の世襲に遭遇した時代がよみがえる。元禄十二年(一六九九)創業とする「鰹節のにんべん」は伊勢四日市で雑穀・油・干鰯商を営んだ高津家の祖与治(次)兵衛に始まり、与治兵衛二代目の二男伊兵衛が延宝七年(一六七九)三月十七日を創業記念日と定め歴代が伊兵衛を襲名して現在に至っている。
昭和四十三年(一九六八)特許庁開示の実用新案を見分した(株)にんべん社員から申請人の私にコンタクトがあり、商品開発次長を含む社員三人が栗原製作所を訪ねてきた。私は食の機械化に取り組む気は薄かったのであるが、和食が大好きであり、特に絶妙な出汁の味わいに興味があり、昆布や鰹節の扱いに長けた板前さんの粋こそグルメと思っている。
常ひごろ、無意識の私が突き動かされるのは、飽和と不飽和の感情であり、現状を飽和と判断した時の私は神経が研ぎ澄まされ、不飽和と感じた時は他に身を委ねてくつろいでいる。この感情は成り行き任せのものでなく、日頃から微生物のコロニーを意識する慣習の上から成り立っている。
私は板前さんの粋に出会った時は毒殺されても満足できると思っている。板前さんの粋を証明する味は出汁にあり、昆布や鰹節は出汁の素材として、和食の極致を知る道標と自負している。その事は更に微生物のコロニーを見極めるとともに、飽和と不飽和を見切る事にもつうじる。
当初にんべんが持ち掛けた事案は単純であり、省エネの時勢に当たって、鰹節の加工過程に生じる欠片を棒状に仕上げたものの、単体では売り物にならない、そこで私の実用新案にひと工夫を加えて商品化を図りたい、それが持ち掛けられた取引上のコンタクトであった。
私は直ちに察するところあり、要は「鉛筆削り」と類似の「鰹節スティック削り器」をイメージに何か具体化できないかとの相談と理解していいですか」と応じた。「その通りです」という返事を受けたあと「それはそれで分かりました」と言い「このスティックを今削っていいですか」と聞くと即答で「お願いします」の返事だったので、数種類の削り花びらを加工してみた。
数種類の削り花びらとは、その形状すなわち一枚あたりの厚み×タテ×ヨコのサイズを差別化する加工のこと、現場に立ち会った全員が試食したところ、形状ごと味に違いある事がわかり、みな驚き面白がったのである。当日の話し合いは結果的に思わぬ方向へ舵がきられた。
もはやスティック状カツオ節の件よりも、本筋の鰹節そのものに焦点が集まり、同四十四年(一九六九)五月一日、斯界に先駆ける開発商品として、デビューしたのが「フレッシュパックソフト」で現在も店頭に並んでいる。すでに半世紀を過ぎた御長寿であるが新鮮を失ってはいない。新発売から十年後(一九七九)の新嘗祭にあたり、このフレッシュパック開発の功績に対して、天皇杯が日本農林漁業振興会より贈られている。
鰹節にんべんの有職故実と家督継承を鑑識した私は、商品開発に係る機密事項の厳守と、取引上の条件すべてが合意可能の範囲に留めたうえで、相互の与信に関するスコアリングを定める事にした。私は媒体を介入させないエンドユーザーとの直取引を信条としていたが、それは触媒の義を認識する社会が存在しないからであり、剖判の意味を解するエコノミストが存在しないからだ。
相互の与信に関するスコアリングを定めるために、必須の要件が有職故実と家督継承であり、この情報(沿革)を偽る会社とは取引しないが、さすが(株)にんべんは超優良企業であった。
さて、春三月に秀孝の別居を依願した私と末弟の話し合いは、(株)にんべんとの取引で幸先良いスタートを得たが、同年十月十六日の朝早く、秀孝が住むアパートの大家さんから電話があり、私と末弟は直ちに秀孝が昏睡する現場に駆け付けることになった。
大家さんの機転で部屋は換気され、練炭火鉢が放つ一酸化炭素ガスも浄化されていたが、昏睡する秀孝の口元に少量の嘔吐があり、呼吸に乱れはないが意識は不明のままだった。近所で診療所を営む医師に状況を説明すると、タンカを貸すから病室まで運ぶようにとのこと、私と末弟は直ちに二階で眠る秀孝をタンカに乗せ診療所に運びいれた。
秀孝の意識が回復したのは発見から十六時間後の事であった。ガス中毒は事後の療養生活が運命の別れ目であり、養生に徹すれば回復も可能であるが、疎かにすると廃人にもなりかねない。時に際し佐野都議の助けで万全の体制を準備したが、肝心かなめの秀孝が受け容れなかった。
私も同類であるが、周囲の救済に心底ナミダしながら、地獄へ落ちていく自暴自棄に憑りつかれる病は救いがたいとしか言いようがなかった。結果、意識回復と退院許可を得た秀孝は頑強に入院前の生活へ戻り、二か月後には脳動脈閉そくの疾患で通常の生活が出来なくなった。養生のため、自宅で介護するほかなくなったが、自由自在を許しておくと、ひと誕生にも達しない私の長男が秀孝の手に墜ち殺される事は火を見るよりも明らかな日常が繰り返されていた。
幸いにして、秀孝は晩期二十二年を成るがまま、現世に恩愛を絶ち彼岸へ旅発っている。
こうした事例をワイドショー化するのが、テレビやネットの野次馬であるが、見せる側も見る側も炎上を煽り囃し立てる事に熱中し、明日は我が身に気づこうとしない現実は止む事をしらない。この卑しい風紀一掃に臨む心構えは尊重すべきではあるが、日常的努力を怠る「無い物ねだり」の風潮は全ての人に宿る性としか言いようがない。
無い物ねだりは多数派が独壇場とするところ、炎上を煽り囃し立てる性そのものにある。
(つづく)