修験子栗原茂【其の四十】箕作コネクションの仕上人

 夫と春子の長男一郎については省くとして、二男秀夫について触れておきたい。

 妻は大麓の二女千代子、長男道夫は伯父一郎の二女玲子と結婚、秀夫の曾孫には玲人(れひと)が生まれている。美濃部達吉と年の差一一歳下にあたる。

 秀夫は東京高師附属小(現筑波大附属小)時代からの親友穂積重遠(澁澤栄一の孫)と並んで東大開校来の成績筆頭と言われた。東大卒業時の秀夫二五歳、年子の兄弟をして世間は賢弟愚兄の評判を噂したとされる。政界へ身を投じた兄一郎、法曹界へ身を投じた弟秀夫、父母の世間体を重ね二人は何かと対照的に見られていた。ただし、秀夫四三歳のとき、弁護士開業のため東大教授を辞し、のち第十八回衆院選(一九三二)に当選(旧千葉二区)一期のみ代議士を経験している。

 秀夫の教え子我妻栄(一八九七~一九七三)は「透徹かつ犀利(さいり)な頭脳を以てドイツ法学を学んだため、日本法の隅から隅までが瞭然として疑問の余地が無いようになり、そこで更に進んで経済学や社会学など、新しいものを学んで方向転換する必要に迫られたが、そこで勉強が嫌になってしまった。ドイツ流儀の法律学の極致に達し、そのままで終わった」と評したという。また商業作家佐野真一は「比較的短命だったのは酒におぼれたせい」と記している。

 前者も後者も自我の念を吐露したのだろうが、私の鑑識は全く区別のところにある。

 秀夫は民法学会の寵児「民法と言えば鳩山、鳩山と言えば民法」と言われた。日本の民法起草者に梅謙次郎や富井政章らいるが、彼らの解説や注釈の時代を乗り越え、川名兼四郎や石坂音四郎らと共にドイツ法の研究結果に依拠した解釈論を発展させ、日本民法の解釈論を主張したのが秀夫の一番の評価とされる。その中でも鳩山理論の影響力は多大だったからである。

 特に主著『日本民法債権総論』は当時の裁判官がそのまま判決文に引用した記録が残っている。

 大卒二年後の出世作『法律行為乃至時効』は初期の代表作となり、法律行為を意思表示そのものと見ていた常識に反抗するなど法の位置づけを定めようとした。ところが、大部分が未完成に終わった事から、我妻栄のような言も生じることになる。

 人知が定めた「閉じられた空間」の法なんてものは、世俗の風習に適合しなければ、単なる有識者のゲームとしか思えない現実が溢れかえっている。それが佐野真一の表現を産み出すのではないのか。秀夫の学説に限らないが、人工的エビデンスは求めれば求めるほど怪しくなり、サイエンスにおける空間にあっても、今や突き詰める量子の紐論の如く統一場が遠のくばかりの現実にせまられる。

 落合先生の造語「國體」が浸透することで明らかになると思っているが、それは道真流の天神様と同じ風習が一般的になる事を意味しており、それが私の自負するところの鑑識と念じている。直近の戦略思想研究所が本格始動させた「皇紀暦の帝王学」に思うところは、それを修得せんとする俊英に強いエネルギーを感じており、その自発的自尊心が菩薩に見えるゆえ嬉しいかぎりである。

 つまり、箕作コネクションの胎動が始まってから、第四世代に至って、甲賀シノビ衆の専守防衛は本格的ステージに立つことになる。その主役を演じたのが美濃部亮吉と私は自負している。

 美濃部亮吉(一九〇四~八四)は私の父秀孝と同世代の人である。私の恩師佐野善次郎が都知事に在任中の亮吉と何度も引き合わせてくれた。当時の都議会自民党に亮吉が「マムシのタジマ」と呼ぶ都議田島衛がおり、敵対した亮吉へ執拗に難題を放った猛者であるが、私的な関係では阿吽の呼吸を交わし合う間柄にあった。田島は江戸川区の旧家(区の指定文化財)に生まれ、戦時中は海兵志願の回天魚雷で九死に一つの生き残り組に属していた。

 当時は永田町より、多彩な政治家を集めたのは丸の内の都議会であった。のち田島が永田町へ乗り換えたとき、私は政界を卒業していた佐野に代わって、足立区担当の選挙参謀を担っている。当時の衆議院東京十区(足立区・葛飾区・江戸川区の全域)から立候補した田島が属していた政党は新自由クラブであり、当選後は国会対策委員長を担っていた。

 昭和末期に都議会議長から参議院に転じた田辺哲夫と私との縁も必然性に成り立つものだった。

 さて、亮吉であるが、先に周知の誤報部分を削除あるいは修正しながら、その身辺情報を明らかに整えておかないと、誤解が錯綜する現行社会の天神様に申し訳が立たなくなってくる。

 先ずは年齢表記について決めておきたい。誰が決めた訳でもなく、日本人は新たな命を母の胎内に宿した事が分かった時から、その生命に年齢一歳の祝意を表す風習を大切にしてきた。以後、年齢の数え方として、新年の慶賀時一歳を加えたり、更に出産の祝賀時一歳を加えて、今なら最大で一歳を三歳と数える年齢差に惑わされた時局も生じており、これを数え齢(とし)と表現してきた。

 事の是非はともかくとして、敗戦後はGHQ占領下の学制を基準に日本人は出産後から一年を経た生誕日を迎えたとき満一歳と数えられるようになった。私の記事はこれまで敗戦前の年齢を生年のみ期首として、没年のみ期末にして数え齢で表記、敗戦後は数え齢や満年齢が混じってしまった。これ以降は敗戦前を数え齢・敗戦後は月日(誕生日)に関係なく全て満年齢の表記とする。

 亮吉一三歳のとき高師附属小(現筑波大附属小)卒業、高師附属中(現筑波大附属中・高)卒業時一八歳、旧制二高(現東北大)卒業二〇歳、帝大(東大)経済学部卒のち同大助手二四歳、同大農学部講師二六歳ー二九歳、法政大学教授(経緯は別記する)三二歳、人民戦線事件で解任三五歳、信越化学の嘱託三六歳、毎日新聞論説の委嘱四二歳、以上が敗戦前の略歴とされる。

 敗戦後(満年齢)の亮吉四二歳(一九四六)は内閣統計委員会委員に任命され事務局長を兼任した事で教育大(現筑波大の前身)教授併任四五歳(一九四九)から六三歳(一九六七)まで、経済安定本部参与四六歳、行政管理庁統計基準部長四八歳ー五二歳(一九五二ー五六)、第一期の都知事当選六三歳(一九六七)ー第三期の都知事退任七五歳(一九七九)、参議院選当選七六歳(一九八〇)の在任中に死去(一九八四)享年八一歳、これ敗戦後から没年までの略歴とされる。

 附属中同級生には正田英三郎(上皇后美智子様の実父で日清製粉創設者)や、岸本英夫(東大名誉教授)、芳賀檀(まゆみ=国文学の家系ドイツ文学)、諸井三郎(秩父セメント創業家の作曲家)の名が記載されており、その厚誼にまつわる秘話を私は亮吉自身から教わっている。

 講師から教授への進路では大内兵衛に師事した事が反マルクス派を標榜していた河合栄治郎の意に合わず、母校教授のコースを失ったとされている。それが本当の事ならば、思想弾圧であるが、その実は裏話があり、深層を教えてくれたのは澁澤敬三と賀屋興宣を訪ねた時のことだった。

 大内は明治二十一年(一八八八)生まれ、而して大内から一歳下が賀屋、三歳下が河合、七歳下が澁澤、一六歳下が亮吉、二〇歳下が私の父秀孝、この秀孝以外は全員が東大卒である。

 ちなみに、亮吉の父達吉は大内の一五歳上ということになる。達吉の岳父大麓は安政二年(一八五五)が生年であり、大麓の長女多美子が達吉の妻で亮吉の母これ何度も述べた通りである。

 私は亮吉と会うとき、私自身を戒める心を新たにしてきた。それこそが大内と河合の間に横たわるマルクスの思想に対する確執が亮吉の進路に影響したと受け止める者たちへの憐れであった。どんな思想であれ、他人の思想に惑わされるほど愚かな迷い方はないと覚る私にすれば、その迷い人の言が亮吉の望んだとする東大教授へのコースに影響するなんてありえない。亮吉三二歳のときで、時局は父達吉が天皇機関説で揉める国会で弁明演説に臨んだ年(一九三五)にあたる。

 河合の出生地は足立区千住であり、私の出生地も同じ、父秀孝は十七年下、父と一緒に河合と会う機会に恵まれており、その人柄を少しは心得ているつもりである。大内の人柄は敬三また亮吉からも聞いており、敬三は蔵相在任中に大内を日銀顧問に迎えるほど高く評価していた。亮吉は大内と共に首相在任中だった池田勇人のブレーンになっており、これらの人と親しい関係にあった真鍋八千代の教えは、いわゆるマルクス主義というのは原書を読まないマスコミの造語にすぎないとのこと。

 つまり、大内と河合の確執に着目するのはマスコミの勝手であるが、大内も河合も亮吉こそが箕作コネクションの仕上人と認識一致しており、その憎まれ役を演じられる河合が大内を亮吉の護持僧に固めたのである。翌年、亮吉三三歳(一九三六)、父達吉六四歳は銃撃の嵐に曝された。

 暴漢は銃弾全部を撃ち尽くしていたが、手術した達吉の体内から摘出された弾は暴漢の撃った弾と合致しなかった。治安維持法は制定(一九二五)三年後に修正が加えられ、さらなる全面改正(一九四一)四年後に廃止されている。この法は事の善し悪しを論ずるに諸説紛々の相を見せるが、短期で廃止が決まったからには、それ相応に不都合を生じた悪法に分類されても仕方あるまい。

 そもそも法を改めるに当たって正なる字が用いられるとは何ごとか、その都度国会はつかみ合いの騒ぎを起こし、世論調査と呼ぶ怪しげな報道は総じて賛否半々の結果をリピートする。賛否半々とは評定が如何に難しいかの表れであり、その答が強引に決められる事は今や当たり前になっている。

 達吉の体内へ銃弾を撃ち込んだ犯人は不明のまま、憲法学の権威が銃撃されてもうやむや、亮吉の心に去来した念は私如きの察する事ではないが、人民戦線事件(一九三七)は治安維持法が暴走した国策犯罪の一種とみても大差はあるまい。

 老いぼれた今の私では反吐の出る事件を述べるエネルギーがないため、人民戦線事件の検索は他に委ねるほかない事を許してほしい。どうあれ、多数の学者に混じって亮吉も検挙された一人で以後の亮吉は在野に身を潜める事が賢明との決断を下している。

 事件後の亮吉を養った信越化学のそもそもは、奈良期後半に朝廷供与の領地を開拓した国人が信濃水内(みのち)郡に住んで、その後裔が創設した会社で今や東証一部に上場されている。私は縄文の里帰り組と思っており、部民制を敷いた古墳時代の名代(なしろ)倉橋部(くらはしべ)に由来する伴造(とものみやつこ)ではないかと自負している。

 小坂善之助(一八五三~一九一三)は水内郡里村山村を出生地とする代議士(立憲政友会)で長男順造や三男武雄が知られており、孫に善太郎と徳三郎の兄弟がおり、曽孫に憲次らの政治家と実業を兼任する子孫に恵まれ、信濃毎日新聞を含む一大コンツェルンは高い評価をえている。

 亮吉このとき小坂順造の長女百合子と結婚して、三人の男子に恵まれたのち離婚している。離婚は都知事選より前の事で子供も全員が小坂の戸籍に登記されており、同じく都知事選前に結婚した後妻との間には長女が生まれている。

 すなわち、美濃部家の家督継承は達吉や亮吉の役割ではなく、二男達吉の兄家が嫡男としての責を果たし、後年も道真流宗家を継いで現在に連なっている。

 達吉と亮吉が担ったのは武士道精神を存続させる政策ビジョンの実施そのものにあった。

 皇紀二六〇五年(一九四五)八月十五日(グレゴリオ暦)、日本列島のみならず、世界中に嗚咽が駆けめぐった。第二次世界大戦で乾燥しきった地球は、神格天皇のナミダを以て静かに確実に潤いを取り戻そうと揺らいだのである。皇紀二六〇〇年祭に遅れる事五年後のことであった。

 爾来、劣化の一途を辿る永田町に対して、補填を担う丸の内(都議会)も前述の通り、もはや國體維持の荷は國體が自ら政体を支えるほかなくなった。むろん、それは折込済みではあったが、社会の動向に合わせながらの臨機応変が本来の在り方、箕作コネクションの登壇が避けられない以上は先ず為すべきはミソギハラヘであった。

 幕末維新のミソギハラヘは時の将軍慶喜の大政奉還で救われたが、敗戦後のミソギハラヘは適任者不在すなわちパージの嵐が吹き荒ぶ状況下で後れをとった。ここに永田町と丸の内の二元性を敷いた事情が伴う訳であるが、賞味期限の短い事は否めず、変わり身の早い丸の内のミソギハラヘに白羽の矢が立てられた。これ有職故実と家督継承の存続なければ単なる絵空事にすぎない。

 神格天皇は自ら現人神のミソギハラヘを済まされ、直ちに全国巡幸へ旅発たれており、津々浦々は日の丸(小旗)と提灯行列をもって、昨日も明日も変わらない自らの信心を覚ったのである。そこに見いだされたのは、右だ左だと喚く愚かな姿は微塵もない純な姿の結合体であり、通信社の伝言のみ流布するマスコミなどの不純物は混じりようがなかったのである。

(つづく)

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