修験子栗原茂【其の二十八】菅原家伝統の有職と武家佐々木流

 さて、昭和四十年代の栗原茂二四歳以降の日常に戻るとする。新婚生活に入った私の妻は結婚前の実家生活において、茶碗ひとつ箸一本も洗った事なければ、起床すら母親が目覚ましがわり、当時は湯沸かし器もない時代であり、母親が沸かした湯で洗顔するなど、いわゆる花嫁修行とは一切の縁を持たない日常を送っていたのである。結婚を決意したのも、相手が私なら実家まで徒歩十分もしない距離だから、食事の具材を仕込みがてら何時でも実家に立ち寄れる、ただそれだけだった。

 私の母も主婦専業より、私ら兄弟と一緒に汗と油に塗れる事を好んでおり、まさに男勝りの母ゆえ同じく内面が男前の妻にも好都合だったのである。明日が休みの土曜夜ともなると、私ら三人兄弟の親友それぞれが来宅して、だれ彼かまわずマージャン二卓もう一卓と追加され、私が妻の所へいくと直ちに「新婚さん!楽しんでる!」と冷やかすのである。すなわち、私と妻には新婚生活など味わう暇が与えられないまま、あっという間に同四十二年(一九六七)になってしまったのである。

 同四十年十一月の新婚旅行に際して、私と妻は互いの使命を話し合うなか、子づくりの件も相互の意思疎通をはかっていた。同四十二年八月のこと妻が妊娠二か月の朗報をもたらしてくれた。翌年四月三週目に親ばか自慢の長男を授けられた。胎教には悔いのない努力を尽くしきったつもりでいる。事と次第によっては命を粗末に扱いかねない私にとって、最大最強のブレーキとなりえたが、時局は戦後インチキ体制の歪みが表面化していく渦中の私生活と読み流してほしい。

 護送船団方式は良くも悪くも日本の伝統文化であり、海外列強の侵略に相応の防御態勢を維持する効能をもたらしたが、そのベクトルが人工的に逆転しだし始めると、それが表面化した時には政府の強制的な執行権力も空回りしかできなくなる。その象徴が昭和四十年代の日本である。

 日本の施政権は敗戦後アメリカ式ダブルスタンダードに切り替えられたが、その施政権は必ずしも日本全体に浸透したわけではなく、日本の國體勢力が講じた戦略には、日本の二元性に基づく戦術の潜行があったのである。永田町の政体は直ちに占領軍の施政権と歩調を合わせたが、当時は丸の内に所在した都議会が國體を維持するため活用されたのである。

 つまり、日本の施政権を永田町と丸の内とに分割するダブルスタンダードを執ったのである。

 ただし、それは緊急かつ臨時の措置だから長く続くはずないのである。國體の戦略戦術に一貫する核心は臨機応変にあり、如何なる場合にあっても、対応能力を失う事は許されないのである。

 永田町政権は昭和三十年(一九五五)に強要された「いわゆる五五年体制」すなわち自社二大政党制の導入に呪縛されたが、横並びに始まる丸の内政体は次の如き変容がもたらされている。

 左記は東京都議会選挙の第四回(一九五九)から第七回(一九六九)までの政党別議席数である。

 自民党七三、社会党四二、共産党二、無所属三、(以上の議席定数一二〇)

 自民党六九、社会党三二、共産党二、公明政治連盟一七、(同右、創価学会の政体デビュー年)

 自民党三八、社会党四五、共産党九、公明党二三、民社党四、無所属一、(同右、社会党が分裂)

 自民党五四、社会党二四、共産党一八、公明党二五、民社党四、無所属一、(定数六増一二六)

 都議選に比する永田町政体の選挙結果は他に委ねるが、都知事と都議を同時に選んだ選挙は都議会新人の佐野がミソギハラへした黒いキリ解散で両者に二年のズレが生じることになった。東龍太郎の都政一期目(一九五九)は永田町政権に倣っていたが、二期目(一九六三)を迎え知事と都議の同時選挙が行われるなか、國體の雄たる佐野善次郎が区議から都議へと参上したのである。このとき政界デビューした創価学会の役割は何であったのか、読者それぞれの私見を拝聴したいものである。

 國體は有権者の思潮を慮っても詮索や工作などの意志はもたない。解散選挙(一九六五)の結果は過半数(六一)に二三減の自民党三八議席に対して、過半数に一六減の社会党四五議席という五五年体制の惨敗であり、政体デビューの創価学会がキャスティングボートを握ることになった。自民党が創価学会を取り込んでも過半数には満たないし、民社党という新たな時限爆弾を抱えた社会党が創価学会に寄り添っても、過半数を得た途端に大爆発するのは免れない烏合の集団にすぎない。

 時は五輪大会の翌年という皮肉の真っただ中にあり、丸の内は早くも行政と議会の間に捩れ現象を創出しており、永田町が捩れ現象を後追いするという未来は既に描かれていたのである。

 時の副知事として、都政全般を担った鈴木俊一の個人情報は前述している。その要点は出自の氏姓鑑識にあり、まず内務省キャリアを選んだこと、岸政権の六十年安保を仕切ったこと、最重要な事は時局を副知事で貫いたこと、同四十二年(一九六七)都知事に美濃部亮吉が選任されると、以後三期十二年の賞味期限が尽きるまで待って、最後は都知事として國體奉公の神髄をまっとうしている。

 つまり、副知事八年間と、知事十六年間の鈴木都政は都合二十四年間に及んでおり、美濃部都政の十二年間を加えた三十六年間の施政権は、永田町と丸の内のダブルスタンダードによる運営であり、国政に比して、都政は國體エネルギーの働き処だったと私は自負するのである。当然、ここに生じる私の責務は何ゆえ美濃部亮吉が政体にデビューしたのかという説明責任ではないかと思うのである。

 美濃部亮吉は天皇機関説で物議をかもした達吉の長男であり、美濃部の姓は学問の神かつ天神様と崇められる菅原道真が領した荘園の地名から生じている。いわば今天神とも言えよう。さて、道真に関しては、多くの作り話が出回っても何ら不思議がない歴史人に違いないが、宇多上皇と醍醐天皇を瑣末に扱う事で道真を邪として、達吉や亮吉も邪と見る事は絶対に許されることではない。

 六国史すなわち律令国家編纂の史書六つは今や日本書紀に担わされるが、国際科学の評価基準では相当量の虚構が含まれるとみなされている。もともと正史の類は時の勢力に支配されるもの、官製の史書をジグソーパズルにすれば判るが、ピースの形は合っても絵は同じに仕上がらない。

 六国史以降、官製史書が断筆された現実は何よりもの証と思えるが、未だに数多の作り話から編み上げた文献を科学的根拠とうそぶく勢力は、いつの時代も御用学を準備しており、今昔あいかわらず権力のしもべとなる有識者を以て常識と呼ぶウソを浸透させていく。

 私は道真(八四五~九〇三)の大宰府赴任(九〇一)に触れ、その事由は御用学に与さないためと思っている。その根拠を問われるなら、有職故実に基づき、菅原家創設に係る前後を鑑識した結果の自負にすぎないが、単に菅原家のみに限定した事ではなく歴史人の個人情報には欠かせない手続だと信じるからだ。以下その論拠を示していくとする。

 ここに日野流親鸞と同じスペースを設けると稿が進まないため省く事にするが、土師流道真もまた道真教の創始者であり、誤解を招きかねない天神様はともかくとして、道真教の神髄は武家に転じた荘園(美濃部郷)の子孫を通じて、甲賀流シノビの骨組みを整える理念に活かされている。

 ヒノモト流ゼネコン(土建業)の祖を為す土師氏の分流に大江家と菅原家あり、この菅原家に生を受けた道真は故実に長じて、当時朝廷の第一人者だった藤原基経(初の関白)に認められ、平安朝の重鎮を為す事から宇多天皇の信任を一身に集めたとされる。

 いつの時代も変わらないが、利権を競い争う政権の邪気に正気は単なる障壁でしかない。大自然の造形さえ破壊する不自然な本能は邪心の為せるところ、道真を大宰府へ追いやった勢力は道真の子を含む重役たちまで京(中央政権)から追いやり、蓄えたエネルギーが尽きるまで貪ろうとする。

 宇多天皇(八六七~九三一)は道真二三歳のとき、光孝天皇の第七皇子として降誕したが、当初は臣籍降下の源姓を賜い定省(さだみ)と称した。宇多源氏の血脈には佐々木氏が居り、その祖は宇多天皇の第八皇子敦実(あつみ)親王の流れを汲む源成頼(なりより)の孫経方(つねかた)であり、近江国蒲生郡佐々木荘が発祥の地とつたえる。この近江発祥説に古代豪族説を持ち込むのは明治期に入るが、私の思うところは、そうした主張が出現する背景を探求していくことにある。

 佐々木氏は宇多源氏の代表ともみなされるが、古代豪族説は佐々木氏の出自を安倍朝臣と見立てる主張であり、そこには両者二系列あるある説も加わるのが世の習いでもある。すなわち、佐々木氏の歴史が栄枯盛衰の象徴たる証であり、日本史に欠かせない実在を立証しているのだ。

 どうあれ、宇多天皇の聖地(荘園)は近江にあり、荘園の一部(美濃部郷)を拝領したのが道真で管理は平左兵右衛門為親に委ねられていた。そして近江一国を守護したのが佐々木氏の祖となる敦実親王の流れを汲む源氏の一統であった。そこはまた甲賀シノビ衆の隠れ里にも使われていた。

 以後、佐々木氏が栄枯盛衰に彩られる事由を一つにしぼると、表裏の両面にリスクヘッジしつつも常に重役を担う実力を有しているところにある。これは佐々木氏に限られず、乱世の中で家督を継ぎ先祖に報いる超克の戦略であり、これを成し遂げる力量は不断の努力以外にありえない。表裏に賭け札を散らしても、家督を継ぐ力がなければ単なるギャンブルでしかない。

 ここに再びヤマトタケルを偲ばせる道真が詠んだ梅の歌一首をあげるが、昭和天皇の御製から松と竹を賜り「松竹梅」として、ヤマトタケルの瑞祥である平等精神を感じていただきたい。

 ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ

 わが庭の竹の林にみどりこき 杉は生ふれど松(待つ)梅はなき

 東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな

 すなわち、地政学は政体に不可欠の統一場を整える指標であり、聖地は自らの信念を昇華させ得る家督の場でなければならい。つまり、当時の荘園は文武両道の魂が昇華した聖地を意味していた。

 西海地の大宰(おほみこともち)=地方行政長官は、吉備(六七九)、周防(六八五)、伊予(六八九)にも配置されたが、大宝令施行後は大宰の帥(そち)のみが残されていた。大宰府で永眠した道真の菩提寺は全国にネットワークをもつ安楽寺であり、嫡男高視(たかみ)は筑紫安楽寺(明治の神仏分離で廃絶)に道真廟を建立したあと、自身の配流先である土佐の潮江(うしおえ)に安楽寺と潮江天満宮を開基している。

 私は道真が左遷されたと思わないので記事に前後をもたらすが、道真が京を去るとき、道真の嫡男高視(八七六~九一三)ら四人の子も京を追われている。高視二六歳は土佐介で潮江(現高知市)に配流され、五男淳茂二四歳(八七八~九二六)は荘園がある美濃部郷も拠点に用いていた。

 ちなみに、道真の子は二十人有余とされるが、このての説は詮ないところ、現在に至るも続くのは高視と淳茂の系であり、長男と五男が年の差二歳という事由も母体が複数なら不思議はなかろう。

 高視は道真の没後三年目(九〇六)に帰京、大学頭に復すも享年三八歳で病死、この嫡流は以後も朝廷貴族として、菅原家伝統の有職を継いでいるが、道真から数えて六代目に当たる定義(一〇〇二~六五)の代に是綱(一〇三〇~一一〇七)系は高辻家・五条家・東坊城家など、在良(一〇四一~一一二一)系は唐橋家を創建その格式はみな半家(はげ)に分類されている。

 時代は関白政体の綻び露わになりだし、白河上皇に始まる院政期に入ろうとしていた。

 私のテーマは淳茂の系統にあり、その事由は宇多天皇が領した近江荘園の一部を拝領した、道真の聖地が美濃部郷にあり、その道真教を具現化した系こそ本筋と覚るからである。

 淳茂(あつしげ)は父に勝るとも劣らない天与の財に恵まれていた。昌泰の変すなわち道真の左遷事案が強行されるころ、高視は大学頭兼右少弁(正六位上)の官位にあり、淳茂は文章得業生(正六位下)の官位にあったとされる。父に連座した二人は高視が土佐へ・淳茂が播磨へ配流され、帰京は高視が五年後・淳茂が七年後とされている。この二年差に二人の役割が潜んでいる。

 その間に道真の葬送(九〇三)が執り行われ、復職に際しては、高視が大学頭(従五位上)に復す待遇も体調すぐれないまま七年後に病死、淳茂は渤海掌客使を務めたあと、式部少丞、兵部丞、大学頭、文章博士、式部権大輔、右少弁、右中弁など歴任その享年は五九歳とされる。

 さて、播磨へ配流された淳茂には多くの伝承が全国に散らばっている。私の自負するところでは、大凡ウソ九割であるが、その一割しかない実(まこと)に多くの真が潜んでいるのである。

 淳茂一三歳の子に淳祐(八九〇~九五三)なる僧あり、般若寺の観賢(かんげん)に師事・出家・受戒のち伝法灌頂(九二五)を受けたとされる。

 淳祐(じゅんゆう)は真言宗小野流の法を継いだが、足に障害があり、病弱を理由に醍醐寺座主の就任を辞退したあと、石山寺普賢院に隠棲、普賢院では多くの書物を著し、真言密教の事相の発展に寄与したという。

 延喜二十一年(九二一)十一月、観賢(八五四~九二五)が醍醐天皇の勅命で高野山奥の院御廟を訪れたとき、共に御廟内に入り弘法大師(七七四~八三五)の膝に触れたといわれる。

 弘法大師に触れた際に妙香の薫りが手に移り、一生涯消える事ないまま、淳祐が書写した経典にも同様の薫りが移った。すなわち、薫の聖教(かおりのしょうぎょう)なる伝承が今に伝えられる。

 観賢は真雅(八〇一~七九)に師事・出家・受戒して、聖宝(八三二~九〇九)から三論・真言の教学を授かり、灌頂(かんじょう)拝受(八九五)したとされる。

 仁和寺別当(九〇〇)のあと、弘福寺別当・権律師・東寺長者・醍醐寺座主・金剛峯寺検校などを歴任のち権僧正(九二三)に任じられた。この間に京都般若寺を創建すると、奏請を尽くして空海に弘法大師の諡号を賜るほか、高野山に宝亀院を建立するなど、東寺を中心に真言宗の再編を成したが俗姓は不詳とされる。讃岐の人その出自を秦氏とも伴氏とも伝える事に意を潜ませている。

 真雅(しんが)は空海の弟で父は佐伯田公(さえきのたぎみ)、この佐伯氏の出自は播磨の国造で妻の実家すなわち阿刀氏一族に託して、真魚(のち空海)を大学寮明経科に入学させている。

 聖宝(しょうぼう)は光仁天皇(七〇九~八二)の玄孫に当たる葛声王(かどなおう)の子、のち醍醐寺の開祖かつ真言宗小野流の祖となるため、吉野修験道の祖とも称されている。

 聖宝は三論宗(さんろんしゅう)すなわち龍樹の『中論』と『十二問論』これに弟子の堤婆(だいば)が著した『百論』を加えた経典(空を唱える)に長じており、宇多天皇の帰依を受け東寺長者や僧正などの重職に昇っていながら、役小角(えんのおづぬ)に私淑ながく途絶えていた吉野の修験道再興と金峯山(きんぷせん)の発展に尽くしている。

 役小角(六三四~七〇一)の姓は君で修験道の開祖とされている。役氏(えんうじ)、役君(えんのきみ)は三輪系氏族に属する地祇系氏族で葛城流賀茂氏から出ているため、賀茂役君とも呼ばれて役民(えのたみ)を管掌した一族とみなされている。

 ともかく、道真が讃岐守として出向(八八六ー九〇すなわち四二歳ー四六歳)した四年間は相応の認識を深めなければならない。なぜなら淳祐の生誕年(八九〇)と重なるからである。

 以下、美濃部郷(現滋賀県甲賀市水口町)梅ケ畑の伝承から道真流美濃部家に触れるとする。

 美濃部郷における淳茂の伝承も九割ウソ本当一割であるが、それは意を潜ませる必要があったから生じた工作と思えるのである。

 伝承によると、淳茂は荘園長(平左兵右衛門為親)の娘との間に一子三郎直茂をもうけ、のち赦免復職の報が届くと単身帰京して、美濃部に残った直茂が地名を姓として在地領主になったという。

 現在の甲賀(こうか)市は滋賀県南東部に位置して、その先に三重県があり、南西端には京都府と境を接する地域が連なっている。隣接の自治体には大津市、栗東市、湖南市、東近江市、蒲生郡竜王町、日野町があり、京都府内には相楽郡和束町、南山城村、綴喜郡宇治田原町があり、三重県内には四日市市、鈴鹿市、亀山市、伊賀市、三重郡菰野町などある。市役所は水口町に所在している。

 甲賀地域は聖武天皇(七〇一~五六)の紫香楽宮造営(七四五)地であり、東の鈴鹿山脈から続く山がちな地形ではあるが、東海道が東西に横断する宿場町として、水口宿と土山宿が置かれる交通の要路に利用された。甲賀の最高標高地点は雨乞岳一二三八メートルである。

 宇多天皇の玄孫(源氏成頼)が佐々木荘に下向その地に土着して、孫の経方が佐々木を姓に始まる家名の由来に異説ある事は前記したが、私の氏姓鑑識では単なる千切り取りの論争でしかない。

 東海道三関の一つ鈴鹿関の創設(七〇一)は延暦八年(七八九)に廃されたが、即位や大喪または反乱ある際には厳格な警護体制が敷かれていた。そうした時の迂回路は南の伊賀路すなわち加太越を通っており、本能寺の変で危機に見舞われた家康の神君伊賀越えが知られている。鈴鹿峠の難工事は桓武天皇の勅命(七九四)に始まったが、完工(八八六)は宇多天皇の先帝(光孝天皇)在任中まで待たねばならなかった。ただし、関址の正確な場所は未だ定かにされていない。

 要するに、甲賀の地は東国への重大な関門だったのである。甲賀の先住民としては、大伴氏一族の伴宿禰を郷長に土着民の集団化が進んだとみられ、その末裔が甲賀シノビ衆の発祥となるが、それを甲賀五十三家や同二十一家に発展させたのが、道真系美濃部流シノビ軍団であり、その軍団を率いた勢力に佐々木氏の分流六角氏がクローズアップされるわけである。

 而して、美濃部家を述べる前に武家佐々木流のダイジェストが必要になってくる。

 桓武天皇の平安遷都(七九四)で政体の変革をあげれば、陽成天皇九歳の践祚(八七六)に際して摂政ついで太政大臣に昇った藤原基経が主人公となる事に異は生じるまい。権中納言長良の三男から叔父良房(摂政)の嗣子となり、右大臣(八七二)に昇るまでの間、無実の罪に嵌められた源信(左大臣)を救った応天門の変が知られるが、陽成天皇と対立のち天皇一七歳を退位させたという事実は失態と言わざるをえない。御用学は基経四九歳と天皇一七歳との確執を同列に扱うのみである。

 基経は陽成天皇の母方の叔父に当たり、後継は三代前の仁明天皇の第三皇子に降誕された光孝天皇五五歳の即位とされるが、基経とは母方の従兄弟に当たり、天皇は基経に大政委任の詔を発し、その後継もスムーズに運ばない中で基経主導となり、光孝天皇の第十五皇子として降誕された宇多天皇が即位している。宇多天皇は即位後に朝廷初の関白を基経に賜う詔を発している。この際に文案作成を担った橘広相(たちばなひろみ)を失脚させる基経の阿衡(あこう)事件が生じている。

 そうしたのち、宇多天皇の信任を一身に受けたのが菅原道真というしだいである。

 基経薨去(八九一)後は長男時平(八七一~九〇九)の治政となり、荘園整理を積極的に展開した政策など知られるが、卒去三九歳の若さは怨霊のウワサに付きまとわれている。そもそも荘園開拓は皇紀暦の発足とともに始まり、そこは天領の聖地とされ、氏神を祀る事からカバネが生まれ、それが家督を形成していく上でのエネルギーとなったのだ。

 荘園は日本発祥の土地本位制の要に当たり、荘園整理令は何度も発布されてきたが、そこに邪心が含まれると、必ず生じるのが過度なインフレやデフレであり、それは国家沈没も免れない収拾不能の危険領域にみまわれる。土師流ミチザネや日野流シンランの眼力には、それを透かし見るエネルギー量が宿っていたのではないか。時平の荘園整理令も鎌倉そして室町の荘園開拓史にしても、それらに鑑みるならば、現代版「土地本位制」を透かし見るなど造作もない事ではないのか。

 さて、武家佐々木流の祖である秀義(一一一二~八四)に触れておきたい。蒲生佐々木荘を領した秀義の母方には奥州秀衡(父基衡説もあり)に嫁いだ叔母がおり、秀義の妻は源為義の娘で、為義は祖父が義家、父が義親、孫に頼朝、義経の兄弟がおり、伯父義忠が暗殺されたあと、自ら河内源氏の筆頭を称したが最後は長男義朝に処刑されたと伝えられる。

 つまり、秀義の妻の父為義は祖父が八幡太郎(通称)であり、八幡太郎は親鸞の祖父(日野有信)と生年(一〇三九)が同じ、没年は有信が早く七年前(一〇九九)に永眠している。八幡太郎は鎌倉幕府を開いた頼朝(一一四七~九九)や室町幕府を開いた足利尊氏(一三〇五~五八)の祖を超えて武家政権の元祖とみるほうが相当といえまいか。

 八幡太郎一五歳の時に降誕されたのが白河天皇(一〇五三~一一二九)であり、即位二〇歳(一〇七二)のち堀河天皇八歳へ譲位(一〇八六)した時は三四歳、すなわち、院政は白河院から始まり、堀河天皇を継ぐ鳥羽天皇(一一〇三~五六)へ引き継がれ、以後三代は鳥羽天皇の皇子で崇徳(一一一九~六四)、近衛(一一三九~五五)、後白河(一一二七~九二)と続くのである。

 白河院は後三条天皇の第一皇子であるが、前記した時平の荘園整理令を約百五十年ぶりに発布した時代が後三条天皇の御代なのである。家督の重大性を唱える私の根拠の一つでもある。

 保元の乱(一一五六)は崇徳院を担ぐ勢力と後白河天皇を担ぐ勢力との利権闘争であるが、佐々木秀義は天皇方を率いる源義朝に属して勝利したという。平治の乱(一一五九)では義朝の長男義平に従軍して敗戦、秀義は叔母の夫(もしくは従兄)秀衡を頼って奥州へ向かう途中のこと、相模の渋谷重国(現東京渋谷・港から神奈川綾瀬・藤沢・大和に及ぶ地を領した)の庇護下に置かれて、重国の娘と婚姻のち義清が生まれると以後二十年を渋谷荘で過ごしたとされる。

 治承四年(一一八〇)頼朝が伊豆で平氏打倒の兵を挙げるとき、秀義は平氏ご家人の大庭景親から頼朝討伐の企みを聞き取り、子の定綱、経高、盛綱、高綱を頼朝の陣営へ加えるため平氏の企み事を頼朝へ通報させた。これが功を奏して本領の佐々木荘へ戻る事が適ったという。

 元暦元年(一一八四)三日平氏の乱においては、義清と共に反乱鎮圧に赴き、平家継、平信兼らが率いる伊賀や伊勢の平家方残党と合戦(甲賀郡上野村)して、多数の敵を討つも最後は戦場で死去と伝わっている。一方、定綱ほか四兄弟は幕府創設の功臣として頼朝に重用されている。

 本領佐々木荘はもとより、全土十七か国の守護に補せられ、奥州合戦に従事した一門もそれぞれの地に土着して広く分布したのであるが、そこには多くの甲賀シノビ衆も混じっていたのである。

 承久三年(一二二一)の乱においては、検非違使と山城守だった広綱(定綱の嫡子)はじめ一門は大半が後鳥羽上皇方に属しており、幕府執権の北条義時の婿になっていた信綱(広綱の弟)は幕府に属するリスクヘッジの常套手段を講じており、結果は、敗れた上皇方の広綱が弟の信綱に斬首されて佐々木氏の総領は信綱に代わった。

 信綱の死後、本領は近江一帯に広がっており、宗家は泰綱が佐々木流六角氏の祖となり、庶流かつ弟の氏信が佐々木流京極氏の祖となった。

 一方、平氏ご家人の企み事を聞き取るために、頼朝の挙兵時は平氏方につき、のち頼朝方に従った義清は平氏追討後も任国を持てなかったが、承久の乱で功が認められ、出雲と隠岐の守護職を授かり土着したのち出雲源氏を名乗るようになったとされる。

 鎌倉政権下の佐々木流六角氏は近江守護を世襲しながら、六波羅を軸に活動して六波羅評定衆など務めたが、佐々木流京極氏は鎌倉を拠点として、評定衆や東使などの要職を務めることになる。その京極氏系から出るのが佐々木道誉であり、足利高氏に同調して北条氏打倒に加わり、足利政権の成立基盤を担う有力者に昇っていく。

 藤原北家流に公家の六角家あるが、佐々木流六角氏との間に血の交わりはなく、六角氏の名乗りは泰綱の屋敷が京都六角東洞院に創建された事に由来するとされる。

 ちなみに、信綱の子は六角泰綱、京極氏信のほかに、大原重綱と高島高信の四人がおり、それぞれ新たに家を興したが、大原氏と高島氏は数代で廃絶されたという。

 佐々木氏が栄枯盛衰の全盛期を迎えたころ、室町将軍三代目に就任したのが義満(一三五八~一四〇八)であり、就任時(一三六九)一二歳その後見役を担った管領は細川頼之であった。

 さきづけのみ、将軍職退任(一三九五)後に義満は、清和源氏で初の太政大臣を賜っている。この意味が判らなければ、有職故実や家督継承の重大性を認識するのは難しいのではないか、私も全部が判っている訳ではないが自負する事の重大性は認識しているつもりである。

(つづく)

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