修験子栗原茂【其の二十三】日野流大谷家の二分化現象

 慶長八年(一六〇三)に生じた日野流大谷家の二流は西と東に分かれるが、この事を南北朝の形態構造に照らせば、護良親王の二元性(政体と國體)に相当するのであろうと思えてくる。時に課題は和洋統合のワンワールドを構築する事にあり、その過程に必然と生じたのが、日野流大谷家の二分化現象ではないかと案ずるのである。以下その具現性に触れるとする。

 人類が如何に文明を標榜してみたところで、所詮は自然界の一部にすぎないのであり、その環境を世界地図に照らしてみれば、自然界のエネルギーが東西南北で異なるように、人類もまた東西南北に住み分けており、それらを統合しようと働く文明も自然界に馴染まなければならない。

 ところが、文明は不自然を産み出す事で進化したと思う勢力が史観の主導権を支配してきた。その構図を見れば明らかであり、史観の主導権は政体に委嘱されて然るべきであるが、問題はその政体が競い争う事から生じては消えること、そこには本能的欲望を満たす利権の種が生まれるからである。國體は利権に囚われないため、政体に属する圧倒的大多数には馴染まない。而して、國體の本質的な骨組みは自ら政体を担うべきではないとの認識から成り立っている。

 國體が東西南北の住み分けを尊重したうえで、かつ統合ワンワールドを志向するのは、競い争った結果に生じるモノゴトが人類はもとより、自然界まで破損してしまう事に気づかなくなるからだ。

 政体には余計な事かもしれないが、統合ワンワールドに不可欠な条件は和洋の習合にあり、それは神仏習合にも通じるもので、覇道一神教とは意に反するところとなる。

 通史は黒船来航(一八五三)を大政奉還に至る維新の端緒ともみるが、この事象を先読みしていた神格の備えに思考をこらすと、私は光格天皇の降誕(一七七一)が端緒であろうと思っている。この思いに神通力が加えられるのであれば、時を重ねる西の大谷家は本如(一七七八~一八二七)第十九世が当代であり、東は達如(一七八〇~一八六五)第二十代法主が当代に当たっている。

 まずは本如の系譜から日野流としての経歴を検証しておきたい。父の第十八世文如の以前から三業惑乱(さんごうわくらん)の宿痾すなわち阿弥陀仏と向き合う意(心)・口(言)・身(体)の在り方をめぐる派閥紛争は宗主を継ぐ者の厄であるが、同類の事は文明発祥の時から生じており、所詮は神学論争と変わらない人間特有の自己矛盾と思うほかない。

 つまり、お西さんの場合にあっては、第十七世が日野流他家から入った猶子であり、論争を企てる当該者は皆がみな私の戒を違うと咬みつくが、それは本事案に限らず古今東西みな同じことで、要は論争に参じる皆がみな「自分が何者かを覚っていない」事に原因が潜んでいるのだ。現在はテレビやネットで論争に参じる事が常態化しており、醜い言い争いを演じるタレントの全員が「自分が何者か覚っていない」否そこに気づこうともしない時代にうごめいている。

 本如の祖父法如十七世は播磨亀山(現姫路市)の本徳寺八代目寂円(大谷昭尊)二男であり、河内顕証寺十一代目となるが、本願寺十六代目湛如が急逝したため、寛保三年(一七四三)三七歳のとき宗主を継いでいる。当時の慣例で内大臣(九条稙基)猶子になってからの継承とはなった。

 法如は在任四十七年間に及ぶ長期就任の中で数多の安心問題に対処したが、三業惑乱に連なる紛争課題は江戸幕府の鎮圧(一八〇六)すなわち本如の代まで待たなければならなかった。

 尽きる事を知らない言い争いの果ては殺し合いになるが、これを喩えて「神学論争」という言葉を使うケースが少なくない。少年期から殺し合いに臨んできた私に言わせれば、神学論争の深層構造に透けてくる共通項としては必ず家督継承の秘事が隠されている。

 家督継承の秘事については、血脈であれ、門閥であれ、閨閥であれ、大凡だれもが隠そうとするが自ら白状するケースも多くみられ、学閥なんぞはもっとも愚かな宿痾におかされている。それはまた成り上がりの本性にいすわり、相続遺産の奪い合いを演じる質種にもされている。

 比して日野流大谷家の家督継承には、親鸞が遺した家督を上手く継いだ痕跡が刻まれている。

 ただし、その痕跡を正しく解明できる人は國體司令に属するため解が広く伝わらないのである。

 法如を継いだ文如は長男であり、文如を継いだ本如は二男であるが、長男早逝(一七九九)のため宗主継承二二歳その後の十年間は三業惑乱の対処に追われた。すでに本願寺の財政は悪化の一途から脱せないまま、親鸞聖人五五〇回大縁起法要の厳修と大規模な御影堂の修復なども行っている。その生涯の過酷さは示寂五〇歳に表われており、弟文淳の二男(河内顕証寺住職)を養子として第二十世広如に多額の負債を託している。

 広如(一七九八~一八七一)は文如の三男で本如の弟文淳(河内顕証寺住職)の二男、宗主継承の後で四男一女をもうけるも男子が早世、そのため鷹司家(閑院宮系)から養子を迎えたが同じく早逝悲運の状況下におかれた。しかし、齢五三歳にして光尊のち明如二十一世をもうける。

 広如は黒船来航の混乱期に名高い勤皇僧の月性を重役に登用しており、朝廷へ一万両を献納(一八六三)するなど、宗派全体に尊王攘夷の徹底を諭す『御遺訓御書』を行きわたらせる。また亀山天皇陵の修復(一八六四)ほか、禁門の変で幕軍に追われる長州藩士の逃走に荷担したのちの措置として壬生から移った新撰組の屯所にされるなどの勤皇ぶりは尽きることない。

 大谷光尊(一八五〇~一九〇三)は広如の第五子とされる。長男に光瑞(鏡如)、二男に錦織寺に養子入りした木邊孝慈(第二十代住職)、三男に光明(浄如)、四男に尊由と子宝に恵まれている。光尊の僧名は明如であるが、その事績はワンワールドに及んでおり、明治政府に先行した近代化への道を拓くとともに、日野流大谷家が総力結集し得るような痕跡を刻んでいる。

 手始めに教団独自の宗制や寺法の定めをかためると、真宗教団の引き締めを行いつつ、側近はじめ若年有望の僧らを海外留学させており、西洋文明に対抗し得る体制強化への道を切り拓いていった。維新混乱による財政散逸を防ぐため護持財団などの創設を決行したり、学林(後の龍谷大学)改革の実施を進めていき、新時代を担うべき人材の養成に努めている。

 宇治川沿い伏見の地に別荘「三夜荘」を建設しており、海外での國體活動を支える秘事協議の場に利用されたそうである。海外に設けた拠点は広域に及んでおり、それは当然布教を名目に國體便宜の場にも使われた事は知る人ぞ知る秘事とされている。

 軍隊慰問、軍隊布教、刑務教誨、社会的弱者に対する救恤運動など、後年の仏教社会事業の基礎は光尊の代に築かれ、海外ネットワークの形成に設けられた各地のキャンプには、後継光瑞が編成した探検隊を支える基地として多くの痕跡が刻まれている。

 大谷光瑞(一八七六~一九四八)二十二世の弟たちには、二男木邊孝慈(一八八一~一九六九)の下に三男光明(一八八五~一九六一)浄如と四男尊由(一八八六~一九三九)がいる事は前記の通りであるが、没年は四男、長男、三男、二男の準になっている。

 木邊孝慈(きべこうじ)は真宗木邊派の本山(錦織寺)十九代に後継者がいなかったので、一七歳時に養子入り第二十代住職となり、大日本仏教会の初代会長に就任男爵に叙される。

 光明は法主後継者に指名(一八九九)されたが、光瑞二十二世の宗主辞任(一九一四)と共に僧を退き「東京ゴルフ倶楽部」会員のゴルファーに転身のち「日本ゴルフ協会」創設に尽力している。

 尊由(そんゆ)は父光尊が構築した事績の中で光瑞補佐としての重きを為し、その評価は政治家の耳目を惹くところとなり、後藤新平らの推薦により、勅選の貴族院議員(一九二八)として、第一次近衛内閣の拓務大臣や内閣参議の経歴を踏まえ、光瑞と共に大陸へ渡る事も数次に及んだとされる。尊由の長女高子は岡崎財閥の真一に嫁ぎ、二女益子は音羽正彦侯爵(朝香宮鳩彦王と允子内親王との第二王子)と結婚のち侯爵と死別しているが小坂財閥の善太郎と再婚している。

 光瑞の事跡は後述するとして、光瑞辞任後の西本願寺は龍谷門主大谷家の権限縮小とシンボル化を決議採択すると、その運営は宗法に基づき施行されると決め現在に至っている。

 次に東本願寺の系譜に触れておきたい。

 達如二十代法主は前述本如(西本願寺)の二年後に生まれている。

 少し遠回りになるが、重要であるがため前述教如からの系譜を知っておきたい。安土桃山期の織豊時代すなわち信長に抗戦のあと、秀吉との確執を乗り越えた教如は、江戸に開府した家康と親和して東本願寺第十二代法主を名乗ることになった。

 教如の後継は長男と二男が早世したので、三男(兄弟姉妹十二人)宣如が第十三代となり、宣如の後継は二男琢如が第十四代となり、琢如の後継は長男常如が第十五代となり、常如の後継は弟(琢如四男)一如が第十六代となり、一如の後継は常如の長男(一如の甥)真如が第十七代となり、真如の後継は一如の四男従如が第十八代となり、従如の後継は真如の五男乗如が第十九代となり、次の代が達如(一七八〇~一八六五)で父は先代乗如という血流に保たれている。

 本如(西)と達如(東)の代に生じた天明の大火(一七八八)は、応仁の乱を遥かに上回る規模で京都市街の八割以上が灰燼に帰したとされる。東方は河原町・木屋町・大和大路まで、北方は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西方は智恵光院・大宮通・千本通まで、南方は東本願寺・西本願寺・六条通まで達しており、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も消失している。

 光格天皇は御所再建までの三年間を行宮(聖護院)で過ごされ、恭礼門院は妙法院、後桜町上皇は青蓮院(粟田御所)にそれぞれ遷られている。なお後桜町院の生母青綺門院の仮御所(知恩院)と青蓮院の間に廊下を設けて通行の便を図ったのは幕府の気遣いともされる。ところが、松平定信(幕閣大老)と朝廷との間に再建方針を巡る談判が決裂するところとなり、果ては「尊号一件」と呼ばれる重大事案にも悪影響を及ぼしてしまうのである。

 それもこれも、権力を競い争う政官業の重役(臣)に潜む中毒が病の原因かもかもしれない。この利権には厄介な悪魔のささやきがつきまとい、キミ・オミ・タミの間に介在する媒体が良質の情報を扱わないかぎり、人の世に希求する平和なんぞ訪れるはずあるまい。

 達如は本堂再建(一七九八)に十年を要したが、五年後に再び本堂を焼失その再建を発願したのは二年後で落成に十年の歳月を費やしている。達如が二男光勝(嚴如)に法主委譲したのは十一年後の弘化三年(一八四六)五月二十三日、その後は渉成園(枳殻邸とも)へ退隠したとされている。

 黒い霧に巻き込まれたので、少し枳殻邸(きこくてい=カラタチ)に触れておきたい。嵯峨天皇が在位の九世紀末に源融(第十二子)が奥州塩釜の風景を模して作庭した六条河原院の故地で、付近に現存する塩竈町や塩小路などの地名は渉成園に因むとされる。以後、近世・近代を通じて門主の引退所や外賓の接遇所として用いるなど、東本願寺の飛地境内における重要な機能を果たしている。昭和十一年(一九三六)十二月に国の名勝指定地とされている。

 大谷光勝(一八一七~九四)は達如二男であるが、長兄で法嗣(法主継承者)の寳如が死去(一八四一)したので、法嗣代替した五年後に法主委譲を受けたことになる。法主三年目(一八四九)満三二歳(数え三四歳)のとき、伏見宮邦家親王の四女嘉枝宮和子王女が光勝のもとに降嫁されている。化粧料(持参財)は六条山(現東山浄苑)であった。この六条山も黒い霧に巻き込まれたので、その財産すなわち附加価値が増大していく経歴にも注意していただきたい。

 光勝二十一代を継ぐのは四男光瑩(こうえい)であり、光瑩二十二代を継ぐのは二男光演であり、光演二十三代のとき、本願寺の維持すなわち『勧学布教・学事振興』を目的に財団法人の創設を内務大臣宛に認可申請しており、設立者と総裁を光演として御親示発布したのが大正二年である。

 同九年(一九二〇)大谷伯爵家名義の京都駅前土地七千坪に及ぶ資産を基軸として、六条山ほかの寺領を含む全国の財産は法人格たる本願寺維持財団が管理するところとなった。これらファンドから生じるキャピタルゲインの費消先が勧学布教や学事振興になる事は当たり前であるが、國體に属する真宗忍者の奉公に費消される額も決して少なくはなかった。

 日本は護良親王のワンワールド体制が構築された事により、戦国三種の将軍政治を乗りこえ、国是二元性の象徴たる閑院宮家の創設を可能としている。その結果として、黒船来航(一八五三)→大政奉還(一八六七)→明治元年(一八六八)への加速的な流れにも耐えられたのではないか。

 前述の通り、西の大谷家宗主は勤皇僧月性を重役に据えて、海外への雄飛強化策へ特化して東との連携にも万全の対策を講じていた。明治元年の当代は西が広如七一歳であるが、四年後に入寂しかも後継者の相次ぐ早世から、予定外の五男(大谷光尊)一九歳に宗主の任が委ねられた。

 ちなみに、月性(げっしょう一八一七~一八五八)とは、周防(山口県)大島郡の本願寺派妙円寺住職のことであり、諸国遊学のもと「西の松下村塾に並ぶ東の清狂草堂」と呼ばれた私塾を開設して久坂玄瑞らを輩出するなど、吉田松陰(一三歳年下)との仲は特に親しかったという。ただし、四二歳の死は病気だったとされている。後世の若き毛沢東が学んだ書物は月性のものとも伝わっている。

 比して、東は光勝五二歳を法主としており、新政府との距離間を保つ事に配慮したとされる。

 西の光尊の親年齢(三三歳上)に当たる光勝は禁門の変において、西の広如と連携して長州藩士の逃亡に荷担した事から仮堂宇の消失に見舞われる。四年後の明治元年を機に新政府との距離間を保つ事を決した光勝は、軍事費一万両と米四千俵の献上を手始めとしている。

 海外開拓に特化した西に比して、国内に特化した東は北海道開拓事業を請け負う(一八六九)事も新政府との距離間を保つ選択肢の一つとして、第五子四男の法嗣光瑩(こうえい)を派遣している。開国の重要課題に北海道の開拓はその一つであったが新政府は財政難にあえいでいた。古来アイヌが開拓したロードマップは重要な道しるべとなり、徳川政権も大いに援けられ新政府にとっても大きな恵みになっている。アイヌと東本願寺の関係を緊密に深めるチャンスともなった。

 本府の設置を決めた政府は蝦夷地を北海道に改称(一八六九)すると、札幌と箱館(これも函館と改める)間を結ぶ道路が必要になっていた。光瑩一八歳を擁した東本願寺は土木の測量設計に長じた精鋭のもと、尾去別(現伊達市長和)と平岸(現札幌市豊平区)間の約一〇三キロメートルの道路を開削すべく工事に取り掛かった。従事したのは僧侶とアイヌのほか、失業と雇用の対策も取り入れた体制を敷き士族を含む平民移住者とともに、中山峠越えの道路開通を二年内に完工している。

 当時は本願寺道路と呼ばれており、のち苫小牧経由で室蘭に達する札幌本道の完成(一八七三)で山間道の敬遠時期あるが、北海道庁の改修工事で再生(一八八六)、昭和二十五年(一九五〇)には国道二三〇号線として利用されている。

 明治五年(一八七二)九月、名字必称の政令で「大谷」姓を使うようなり、焼失した両堂宇の再建発願と工事着工を表明(一八七九)した二年後、公式の宗派名を「真宗大谷派」と定めている。

 同二十二年(一八八九)光勝七三歳が退隠その在職期間は大凡四十三年間、後継光瑩三八歳のとき法主二十二代目となり、光勝入寂は五年後で享年七八歳とされる。

 大谷光瑩(一八五二~一九二三)一九歳が北海道へ向かう時の随員は百数十名に及んでおり、その道中は布教と開拓事業費の布施を募りつつ、移住勧誘なども行ったとされ、函館の地へ到着した際は息つく間も惜しんだという。数日後には朝廷から下賜された札幌の地も視察して、その地に東本願寺管刹(寺のこと)を建立のち(一八七六)札幌別院と改称することになる。

 光瑩が渡欧するのは同五年九月から翌年七月にかけてのこと、随行したのは成島柳北(一八三七~八四)とあるが、少しその人物像に触れておきたい。

 その出自は浅草御厩河岸(現台東区蔵前二丁目)松本家三男の甲子麿(こしまろ)であるが、すぐ上の兄(泰次郎)は森家に養子入り幕府大目付となり、泰次郎二男の達吉は菅沼家へ養子入り、その達吉三男に俳優となる森繁久彌が生まれている。甲子麿は歴代が奥儒者の成島家へ養子入り、養父を継いで奥儒者八代目柳北を名乗り、将軍家定と家茂に侍講しているが、献策が採用されない腹いせに狂歌をもって批判した事から解職されている。

 光瑩に随行中の欧州で岩倉具視や木戸孝允の知遇を得たとき、柳北は特に木戸から好かれた、その欧州で知った共済制度を日本に持ち帰ると、安田善次郎と共に生命保険会社を設立した、大隈重信が設立した東京専門学校(早稲田大学の源流)では初代議員(理事)に就いている。

 東本願寺両堂の竣工(一八九五)は光瑩法主六年目の時であり、翌年には北海道開拓事業の功績で伯爵に叙されている。光瑩の遊蕩を風刺(一九〇一)した「滑稽新聞」の宮武外骨が憧れていたのは同じく「朝野新聞」を創刊していた成島柳北だから私の見立ては「やらせ」と自負している。

 そして、翌年(一九〇二)末に負債三百万円超の借財整理を井上馨に依頼しているため、経理上の債務超過にウソはないのであるが、管財人が井上だから「やらせ」の追い打ちとも思えるのである。光瑩(現如)は二男光演(彰如)に法主委譲(一九〇八)して退隠したのち、東京霞が関の別邸にて示寂するのは大正十二年(一九二三)享年七二歳の時とされる。

 大谷光演(一八七五~一九四三)は二男で明治八年の生まれ、父光瑩は一九歳で北海道入り、その目的を達した時二〇歳そして欧州へ向け出国した時二一歳で帰国時二二歳(一八七三)の七月というスケジュールであり、光演の生誕(二月二十七日)時は数え二四歳になったばかりである。つまり、欧州視察後の七月を期首に二男光演が生まれるまでの期間は十九か月、その間に長男と二男の二人を妊娠・出産するのは難義なこと、光瑩の妻すなわち光演の母については情報が開示されていない。

 余計な難義であるが、光演の妻は前記した三条実美の三女章子であり、当時の実美は岩倉具視にも勝る権力者であり、この余計な難義を払拭しないと、日野流大谷家の当主に課せられた過酷な特務は透けるはずもないことゆえ、東西本願寺の偉業この上ない事績など解りえないのである。

 有職故実の心得ない有識タレントには、伯爵も「団栗の背比べ」にしか映らないだろうが、皇統と尋常ならざる関係にある日野流大谷家の情報を「千切り取って」みたところで、そこに映り出される動画はゾンビがうごめくホラーにしかならないであろう。

 それはさて、光演二六歳の時(一九〇〇)佛骨奉迎正使としてタイを訪問している。翌年すなわち昭和天皇ご降誕の年には、大谷派副管長に就任しており、札幌で学校用地の検閲と購入を決した時は光演二五歳とされ、その七年後(一九〇六)に開校した私立北海女学校へ入学した生徒は七十名余と伝えられる。四年後(一九一〇)に高等女学校へ昇格その後の沿革は省略するが、現在は東区北一六条東九丁目で学校法人札幌大谷学園が運営に当たっている。

 第二十三代の継承は前記したが、三年後(一九一一)には親鸞聖人六百五十回御縁起法要の厳修を行っている。第二十四代への法主委譲(一九二五)は光演五一歳の時であるが、退隠から示寂(一九四三)までの十八年間についての詳しい消息も開示されてはいない。

 ただし、退隠の理由としては、朝鮮半島での鉱山事業に失敗それが財政の混乱を招いた、こうした矛盾と非合理に満ちた引責事由を臆面もなく開示するのは、分かりやすい痕跡を刻む事で後世の人に伝える國體伝承法の一つであり、落合本の「御父不詳」や「寄兵隊天皇」に通じるのである。

(続く)

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