修験子栗原茂【其の一七】黒い霧事件のミソギハラヘ

 さて、都議会の黒い霧事件と呼ばれた議長選出汚職の事件表面化(一九六五)に当たって、前段に端緒となる布石があることは一丁目一番地と認識すべきである。その端緒こそ都議一年生にして代表質問に登壇した佐野(自民党)が口火を切っている。

 第五回(一九六三)都議選(議席数一二〇)の結果は自民党六九、社会党三二、公明政治連盟(公明党の前身)一七、共産党二、という構成になった。創価学会の政界進出が始まった年でもある。

 いわゆる五五(一九五五)年体制の始動時から都議会自民党は議席の過半数を独占しており、議会運営に伴う諸々の要職人事権も独り占めしていたが、議員数も多かったから欲するポストに就くのも容易ではなかった。それは議会の花形である代表質問に立つ事も同じであった。まして満三八歳かつ都議一年生ともなれば凡そ質問者に抜擢されるなどは異例中の異例で前例もないことであった。

 都議になった佐野の動きは速かった。都庁の要は労働経済局であるが、東京オリ・パラ大会の準備実行委員会が設置されるや、都庁職員の中に汚職チームの自然発生がはじまる。すなわち、行政上に生じる汚職問題は利権に群がる体質がミソギハラヘされないかぎり、莫大な財政投入あるとき、その利権構造に時限爆弾が仕掛けられることは、歴史の証明するところ常なる事と知るべきだ。

 佐野が都議会に登壇した秘かな目的はミソギハラヘそのことにあったのだ。

 佐野は労働経済局に潜む機密資料を入手すると、私も参じた自前のチームに汚職の実態を裏付ける調査を命じていたのである。それは公金から裏金を捻出する汚職に直結しており、公務員の出張費や臨時アルバイトに支払ったとする手当などの伝票が本物か否かを調べる事にあったが、全部の伝票が偽造であり、伝票記載の氏名には物故者や赤ちゃんなどの例も少なくなかった。

 のち公職機関の公金裏金づくりは、一向に改まる事なく表面化しているが、議席過半数を独占した与党内の新人一議員が所属政党の代表質問で明言したことなど、先にも後にも佐野善次郎のほか誰も現れていないのである。当然、質問内容の事前チェックは党内要職の先輩議員が行うため、この爆弾発言を封じる圧力も脅迫に近いものあったが、そんな事に屈するような佐野であろうはずもない。

 騒然この上ない事態は当日から絶え間なく報じられることになった。すでに始まっていたテレビのワイドショーでは、誰に命じられたのか漫才師の悪口が執拗にリピートされ、佐野を悪治郎と罵って醜い表情を丸出しにしていたが、後に漫才師が参議院議員になったので事由は明らかになった。

 日本のテレビ界は後藤新平を軸に創られたNHKへ国営同様の利権が与えられ、民間放送の利権は全国紙を扱う新聞社を軸に電通支配の構造をもってスタートされた。その利権の際たるところは売名行為を司る事にあるが、佐野のミソギハラヘは古事記に言う「ツクシのヒムカのタチバナのヲドのアハギハラ」に到(い)で坐(ま)したるイザナギの禊(みそ)ぎ祓(はら)へに準じていた。

 イザナギは身に着ける物を脱ぎうて賜いし、船戸神(ふなどのかみ)より以下(しも)、邊津甲斐辯羅神(へつかひべらのかみ)以前(まで)、十二神(とをまりふたはしら)のエネルギーを生じたあと、上瀬(かみつせ)は瀬速(せばや)し、下瀬は瀬弱しと詔(の)りごちたまひて、初めて中瀬に堕(お)りかづきて、濯(そそ)ぎたまふ時に、成り坐せる二神(ふたはしら)は、其(か)の穢(きたな)き繁國(しきぐに)に到りましし時の汚垢(けがれ)に因(よ)りて、成りませる神也。

 次に其(そ)の禍(まが)を直さむとして、三神(みはしら)、次に水底(みなそこ)に濯ぎたまふ時に二神、中に濯ぎたまふ時に二神、水の上に濯ぎたまふ時に二神のエネルギーを生じる。

 これら綿津見神(わたつみのかみ)は、阿曇連(あづみのむらじ)等(ら)が以(も)ちいつく神也。故(かれ)阿曇連等は、其(こ)の綿津見神の子(みこ)、宇都志日金折命(うつしひがなさくのみこと)の子孫(すえ)也。

 而して、其の底筒之男命(そこづつをのみこと)そして中筒之男命そして上筒之男命、其の三柱の神は墨江(すみのえ)の三前(みまへ)の大神也。

 是(ここ)に左の御目(みめ)を洗ひたまひし時に成りませる神の名(みな)は天照大御神(あまてらすおほみかみ=アマテル)、次に右(みぎり)の御目を洗ひたまひし時に成りませる神の名は月讀命(つくよみのみこと=ツクヨミ)、次に御鼻(みはな)を洗ひたまひし時に成りませる神の名は建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと=スサノヲ)と記される。

 古事記(ふることふみ)は古代の日本のみならず、いつの時代であっても、日本人のあるべき姿を写し述べる永遠のベストセラーでなければならない手引きとして編まれた労作である。

 今でも日常用語として用いられている「あおうえい」の和語五十一音が意味するところは、一つの音に神の名(=カナ)が充てられており、神名それぞれに生い立ちの意味がこめられ、日本人の心を揺さぶる霊言(タマコト)として成立したのである。

 在日米軍に養育された霞が関の為すべきことは、永田町と協同するところにあり、その許認可権に従順する丸の内を労使協調の場として、衆生をつなぐ媒体に走狗の権限が与えられている。これらの地名に宛てられる組織名が何であるかは言うまでもあるまい。

 これまでの前述に私は「米ソ二極のインチキ構造」と著してきたが、この戦後生まれのインチキに換骨奪胎されたのが政官業言の鬼っ子であり、その魑魅魍魎たる鬼っ子に誑かされているのが現在の日本社会というわけだ。この現状から脱するにはミソギハラへしかないのである。

 幸いにして、戦略思想研究所が起ち上げられた事から、古事記を重視する落合史観の伝播が広範に及んで、小笠原流「天縄文理論」を活かした小山内流に「和語の学習」がコラボするなど、日本人の未来には明るく暖かい陽ざしが射し込もうとしている。

 ちなみに私が幼い頃に学習した和語五十一音の師も小笠原一族の流れを汲む人であった。

 それはさて、記事を前に戻すとする。

 都議会を「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(をど)の阿波岐原(あはぎはら)」に見立てた佐野のミソギハラへ(一九六三)は、二年後(一九六五)その実相を白日の下へ曝すところとなり、都議会史上初の解散選挙で出直すことになった。

 昭和十八年(一九四三)の戦時中に再編された都政の施行後にあって、第二十代目の議長を決める選挙(一九六五)は三月九日に実施され、自民党の中で小山貞雄・藤森賢三・加藤好雄の三人が競い争うことになったが、都議会バブルに浮かれた候補者間に賄賂合戦が生じていた。つまり、彼らには佐野が講じたミソギハラヘの意味が通じていなかったが、そんな体たらくをいつまでも赦さないのがミソギハラへの霊力であり、彼らの政治生命を絶つ公開処刑は厳粛に行われることになった。

 議長選で選出されたのは小山貞雄で第二十代目の座に就任する事になったが、同月十五日に選挙の贈賄側から逮捕者が摘発され、その逮捕を皮切りに現職議長の小山も逮捕されてしまった。この汚職捜査は三か月に及んで小山派から五人、藤森派から九人、加藤派から二人が起訴され、現職都議都合十五人が贈収賄で訴追されるところとなった。

 裁判で主たる争点になったのは、「自民党内の議長候補選定のための投票行為は党員としての政党活動なのか、それとも議長選出の職務権限を持った都議会議員としての行動なのか」という問題点を掘り起こしいじくりまわしたが、裁判所は「両者をことさら分離して無関係と考えるのは不合理」と切り捨て「密接不可分の関係にある事は殆ど自明の理」と判定したのち、公判中の死亡で公訴棄却になった二人を除いた十三人全員に執行猶予付きの有罪判決が下されることになった。

 結果すべての判決が確定したのは同四十五年(一九七〇)一月のことであった。

 佐野の「ミソギハラヘ」が古事記に準じると書いたからには、私の記事はこれで終われない。

 東京オリ・パラ大会の準備実行委員会の設置(一九五九)を機に佐野は都議進出を決したとの記を思い起こしていただきたい。そこには政治家志望の若者に心してもらいたい願いが含まれている。

 私は愚劣きわまりない政界に身を投じようとする若者たちの志を真剣に捉えたい、そんな思いから命を捨てても悔いないと身を挺した生き方を続ける自負に生かされてきた。とんでもないバカ者だと家族に罵られても止まる事が出来ないまま老いてしまった。

 佐野は「政治家にならなくても政治家以上の仕事はできる」と教えてくれた。被選挙権の取得年に政治家となった佐野は他の政治家には出来ない仕事を成し遂げたあと、潔く政治家を退くとの決意が定まった経緯を秘め事と約束したのち私に話してくれた。

 その第一弾が都議会でのミソギハラへそのものにあり、政治家としての引き際はメディアが七十年安保と名付けた騒動の終息が透けて見えた時に決定されている。その退き方も佐野に投票してくれた有権者への礼が尽くされており、その一つ一つに古事記の伝えが活かされていた。

 すなわち、古事記に言うミソギハラヘは議長選の汚職に限る小さい出来事では済まされないのだ。

 都財務局用地部の用地課長が都営団地の用地買収に際して、庁内紙の代表から便宜の見返りとして賄賂を受け取った事件(一九六〇)が発覚したのに、元都議会議長の建部順は在任中(一九六一)に都営団地の用地買収予算を議会通過させた見返りとして、これも庁内紙の代表から賄賂を受け取った事を隠し切れないでいた。まさに石川五右衛門の言「…のタネはつきない」連鎖のはじまりだ。

 東京都競馬(株)は都の外郭団体であるが、競馬場施設の賃料値上げ問題に絡んで、同社レジャー施設の計画に伴う埋立権利譲渡など、議会に対しての同社案上程と可決について、社長が議長および自民党幹事長へ働きかける贈収賄事件も同じ時期に発覚している。

 事件発覚(一九六三)によって、競馬(株)社長が建部議長と荒木由太郎幹事長へ働きかけ、その賄賂を選挙資金として贈ったことが明らかになった。しかも、建部は自ら会長を務める都の外郭団体財団法人「愛都協会」から公金横領したこと、前述の庁内紙代表の賄賂など、事件化されない事案を含めると「あらんかぎり」の悪事にマヒしていたのである。

 建部が荒木を子飼いとしたのは、建部が議長選(一九六〇)に立候補を決したとき、荒木へ投票の取りまとめを依頼するため、互いが贈収賄に応じた事ではじまっている。それは東龍太郎が出馬した都知事選(一九六三)にも波及しており、選挙用ポスターなどの証紙を偽造した選対の幹部を筆頭に関係者二十三人が起訴される大事件に発展していった。

 現下の新型コロナ騒動は都衛生局の炎上を思わせるが、当時(一九六四~六五)の食品衛生課長が須貝市正都議と仕組んだ恐喝も加えておく。食肉移動販売車の営業許可を扱う食品衛生課長は都議と示し合わせて、業者へ許認可の見返りとして金品を要求したのである。それは田無保健所勤務時代に飛び火することになり、製パン業者から商品券を収賄した事件の発覚にも連なっていた。

 もう一つ山屋八万雄都議の贈収賄事件も採録しておきたい。当時ボーリング・ブームの中における建設計画は、確認申請を巡って何でも反対のターゲットに指定されており、その反対制限を審議する都議会の動向は業者の贈賄を誘うところとなるが、類似の事象は今も盛んに行われている。

 キリない汚職のタネは尽きないが、都政の不祥事に便乗して政権移譲を迫るのも政治であり、その急先鋒に対立野党が躍起となるのも政治の常套手段で変わることはない。

 それは有権者もまた同じこと、案の定、都議会解散を求めるリコール運動が盛んになり、自民党は素早く反応して国会が地方議会解散特例法(一九六五)を成立させ、それを受けた都議会が自主解散議決で自浄作用のアピールに躍起となる。三者三様これ恥じるを知らない醜態そのものである。

 都議会史上初の解散選挙が始まると、雨後の筍のように出現した集団が自ら陪審員となり、選挙の立候補者を私的な評価値でスコアリングするブームが生じることになった。これに飛びついたワイドショーが以後テレビの視聴率を稼ぐ原動力になっていき、佐野のミソギハラへを売名行為となじったテレビは掌を返したように、佐野のテレビ出演を請うスカウト合戦がはじまった。

 それはさて、都議二年生(七月十四日)になった佐野の使命は更なる大事に向けられた。

 その一つに私の結婚問題があり、無軌道な私の行動力に手かせ足かせを嵌める必要があった。事と場合によっては、危険を承知で突っ走る私に結婚という手綱をつければ、羽目を外すような無軌道も少しは改まるとのヨミから、佐野が私の首へ鈴をつける役を買って出たというわけだ。

 佐野は私と妻の結納式から結婚式まで、全ての仲介媒酌を自ら担ってくれ恩人でもある。

 結婚式と披露宴は十一月六日に催したが、それまでの間に都庁内の実態を知るため、何度も佐野に随行した事は後の私に大きな収穫となって役立っている。公務員は上級職になるほど佐野との接触を自分の糧としており、何事においても佐野が必要とする資料の提出を拒まなくなっていた。

 エレベーターに乗るときも、廊下で擦れ違うときも、局長室や部長室に入ったときも、公務員みな丁寧な振る舞いは佐野への特段な気づかいであり、それは議会においても変わることなかった。

 佐野が如何に出色の政治家であったかの証しでもあるが、その後も数次の大仕事をこなし、晩期に恩返しの一端を示す機会を得た私が銀座へ誘った時にも矜持は最後まで変わらなかった。

 時に日本政府は佐藤栄作政権であったが、着任は前年(一九六四)十一月九日で病に倒れた前任の池田勇人が裁定した事にあり、第五代自民党総裁への就任は手続きの関係で十二月一日となった。

 つまり、総理と総裁への就任にズレが生じたのは奇しくも実兄岸信介と同じになり、この事に田中角栄は「大臣や幹事長になる事は誰にもチャンスあるが、総理・総裁となるためには運が伴わないと簡単にはいかない」と語っている。すなわち、この珍事の裏には密約が潜んでいたのである。

 時に政界メディアは密約説をテーマに大騒ぎしていたが、私は賀屋と澁澤そして真鍋から政界筋の深層構造を学んでいたので、改めて認識したのはメディアのおぞましさだけであった。

 そして、その実感を味わう機会を与えてくれたのが佐野善次郎その人だったのである。

 首相が沖縄返還への意志を明言したのは(一九六五)八月十九日、那覇空港において「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、我が国の戦後は終わらない」との声明があったとされる。この報道もまた私に言わせれば「単なるパフォーマンスにすぎない」出来事であり、悲願の返還工作に当たっていた勢力は古来伝統のカバネで構成されるシンジケートの働きに与るのである。

 昭和四十一年(一九六六)一月十七日、水素爆弾を搭載したアメリカの爆撃機がスペインのパロマレス沖で空中給油機と衝突そのまま墜落したとの衝撃報道が世界を賑わせている。本稿は同三十七年(一九六二)から意図的に当該ニュースを抜粋しているが、そのニュースは事実であっても、真実が見えないフェイクあるいは八百長が含まれている事に気づいておられるだろうか。

 落合本の読者なら私ごときに言われるまでもない事と思うが念のため指摘しておきたい。

 ソ連の無人月探査機ルナ九号が初の月面軟着陸に成功したと報じられる。

 年初来やたらと飛行機の墜落や離着陸の失敗がニュースに取り上げられている。日本では羽田沖の全日空機が二月四日に墜落している。一月二十一日には日ソ航空協定の締結が報じられていた。

 日本の総人口が一億人を突破したと伝えられ、海外からの在日外国人も急増の傾向がみられる。

 日本国内におけるメートル法の完全実施そのため公的には尺貫法やヤード・ポンド法の使用禁止が本格化したと伝わるが、旋盤など機械設備は主要部が旧来のため浸透は遥か先のことになる。

 日本で戦後最大の公共交通機関におけるストライキが発生している。この頃からテレビの視聴者を制作現場に呼び込む番組が急激に増えるようになる。

 文部省が進学率上昇の狼煙を上げると、都教育委員会は都立高校入試に学校群制度を導入、他方で成田空港(新東京空港)は反対運動の三里塚闘争に学生(偽者多数)が混じりはじめる。

 永田町の黒い霧事件が表面化すると、吹原産業事件、国会マッチポンプ事件(衆議院議員田中彰治逮捕)、国有地虎ノ門一画の払い下げ事件(国際興業小佐野賢治)、深谷(埼玉県)工業団地の二重転売詐欺事件、習志野(千葉県)土地の二重担保事件、丸善石油の恐喝事件、大阪拘置所の恐喝未遂偽証事件、岡本町(東京世田谷)の偽証事件、脱税事件などの関連が浮き彫りにされる。

 永田町の不始末は止まるところを知らず、防衛庁長官(上林山栄吉)公私混同のお国入り、国鉄の急行ダイヤ改定に因む深谷駅停車問題(運輸大臣荒船清十郎)、共和製糖事件(農林大臣重政誠之と農林中央金庫)、官費旅行事件(農林大臣松野頼三)、手形詐欺事件(東京大証社長水野繁彦)結婚式仲人(衆議院議長山口喜久一郎)など、いずれも年内の不祥事きわまりない連鎖となった。

 米国デトロイト郊外のエンリコ・フェルミ原発で史上初の炉心溶融事故が発生している。

 十二月二十一日、茨城県議会で議長選汚職に伴う自主解散(通称は黒い霧解散)が行われる。

 同月二十七日、第五十四回の国会召集で衆議院も解散(通称は黒い霧解散)されている。

 同月三十一日、この日までに核実験を成功させた国のみが核拡散防止条約に定める「核保有国」と認められるとともに核武装の権利を与えられる事が安保理で決まっている。

 当年が丙午(ひのえうま)すなわち十干(じっかん・えと=兄弟)の丙は陰陽の陽(兄)の火また十二支の午は陽(兄)の火という事から、文壇が栄えた江戸時代に生まれた迷信がメディアによって社会現象として広まっていった。その迷信のうち最も浸透したのは『八百屋お七』の物語から生じた迷信であり、放火犯お七の処刑が火あぶりだった事すなわち火(丙)と火(午)にからませる洒落が

 昂じた末の迷信から結婚や出産などは凶の年に当たるとの呪縛が大衆を支配したのである。

 而して、江戸時代から現在まで六十年ごとに廻ってくる「ひのえうま」の年においては、新生児の出生率が異常に低くなる珍事が続いて止むことがない。しかも、類似の現象は日本に限らず世界中に起こっているため、自由を求め呪縛を抱えるポピュリズムの愚かさに改めて気づかされる。

とはいえ、物事は考えようで還暦を機に迷信に惑わされている人生を振り返るのは一興かも…。

(続く)

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