●打ちつづく筑前黒田藩の危急存亡
福岡藩は六代目継高(直方長男)の代に長男重政、さらに四男長経という後継者を相次ぎ亡くし、長男の遺児(娘)を継高養女として徳川一橋家の宗尹の五男(準之助)を養子に迎え系譜断絶を防ごうとした。だが、一一歳の娘屋世の死去により藩主家の血は完全に途絶えて、継高隠居(一七六九)のうえ準之助(七代目治之)に家督を譲るも治之は三〇歳にして子無きまま没、その後も藩主にすべて養子を迎える悲運に晒される。そのため家臣団による藩の運営が常態化する特異体質が通常となり他の藩に見られない風土風習が芽生えていく。
八代目治高には丸亀城で育つ讃岐国(香川県)多度津藩主京極高慶七男を迎えたが、享年二九歳の短命である。 先代に続き藩主二代にわたり死亡日を遅らす離れ業のもと、次も宗尹の後継一橋治済の三男雅之助、つまり一一代将軍家斉の弟が養子入り、九代目家隆に就くも享年一九歳、さらに死亡日を遅らす。もはや嘘の上塗りは止まることを知らず、一〇代目家清が誰の子か謎で、有力説は秋月氏というが、推測の域を出ない仮設にすぎない。
一一代斉溥(長溥一八一一〜八七)は島津二五代目の重豪(一七四五〜一八三三)が福岡藩に送りこんだ九男の桃次郎である。斉清養嗣子(一八二二)として育ち、隠居(一八三四)を早め斉清が長溥に家督を譲ると伝わる。
島津重豪の室保姫は一橋宗尹(一七二一〜六四)の娘なので治済(一七五一〜一八二七)と重豪は義理の兄弟であり、一一代将軍の父と伯父に当たる。しかも島津は摂家筆頭の近衛二二代目家久の正室と継室に綱貴・吉貴の娘が嫁いだり、昭和天皇に嫁ぐ香淳皇后・皇太后を産む俔子(久邇宮邦彦親王妃)など輩出している。
すなわち、李氏朝鮮の混乱に乗じる秀吉の出兵や、薩長土肥の明治政府に乗り遅れた九州の雄としての福岡藩の事由を知って、歴史の黒子にしか成りえない福岡藩士の特意性を加えないと、朝鮮を包む黒い霧は晴れない。そういう宿痾が日朝問題には潜むのである。
龍造寺を引き継ぐ母系龍造寺が鍋島の姓で表舞台に出ると、男系龍造寺は姓を改め福岡藩に異動している歴史は見逃せない。福岡藩主の最後は伊勢国津藩一一代目藤堂高猷(一八一三〜九五)二男長知であり、先代の容赦ない重臣リストラ策の後を始末する貧乏くじのもと自らの贋札事件を咎められ不満士族を開放する。この愚昧を装う名優長知の意を汲み取り野に解き放たれるのが男系龍造寺の姓を改めた杉山茂丸である。
杉山茂丸(一八六四〜一九三五)は歴代の福岡藩主に進講する龍造寺隆信の系が家臣杉山家に養子入り生まれた末裔で、明治一三年に諸国巡遊に旅立つことになる。
さて、大木喬任を通じて時代を巻き戻したが、喬任は蒲池一族の宇都宮(藤原)懐久の二男資綱の嫡子(大木政長)を祖とし、資綱の兄蒲池久憲の後裔の鎮漣の重臣で鍋島直茂に仕えた統光から出る系である。
喬任は枝吉の兄神陽を軸に結成された義祭同盟に参加し、藩論を尊皇攘夷へ導くため運動した。新政府では初代文部卿となり元老院議長(一八八〇)、枢密院議長(一八八八)などを務め、神風連の乱(一八七六)や萩の乱(一八七九)の事後処理に当たり教育制度や法典編纂の確立にも参加している。
鍋島直正から始まり最年少の大隈重信まで佐賀七賢人の略記はこの程度に止め、島義勇と同じ年に生まれた本田親徳(一八二二〜八九)に触れる必要がある。本田は古代に存在したとされる人に神を降ろす法(帰神)の復元を図って鎮魂帰神を中核とした霊学を確立し出口王仁三郎らに強い影響を与えた神道系宗教人といわれている。
薩摩国加世田の士族本田主蔵長男として生まれた親徳は会沢正志斎に入門し平田篤胤などの影響を受けて国学に勤しむ傍ら、青年期に狐憑きの少女と出会い心霊研究を究め、三〇代半ばで教義を体系化したと伝わる。帰神法のほか鎮魂法・禁厭を基礎に審神の重大性を説く本田だが、要は神憑り状態での言葉は信号にすぎないため、意味を理解する前提条件が要る。すなわち、狐憑きの少女は直流回路型シャーマンであり、本田・出口などは交流回路型シャーマンなるがゆえ禊祓を日常的に繰り返す必要があり、時代に適応適合する言語能力が問われることになる。この本田が「化け猫」を審神したことは軽視できない。
さて、正田家伝を要する皇后をして母系の副島姓から出自を朝鮮系と唱える間抜けらに副島種臣(枝吉二郎)を引き、秀吉の朝鮮出兵と明治の征韓論に関する条りを述べてきたが、これは単なる入り口でしかない。鍋島が副(ふく)を島(しま)つまり扶け締め括るという国学・禊祓の意味とも相通ずる。
筑前福岡藩の最後を幼くして見届ける杉山茂丸の伝記(作り話)も現在は少なくないが、長男で作家の夢野久作(杉山直樹・泰道、一八八九〜一九三六)も含めて、辟易するほかない情報が満載されている。
筆者がもっとも注目するのは杉山の実弟(龍造寺隆邦)が癌に伏せたときの杉山の看護と遺体の措置である。金杉英五郎(一八六五〜一九四二)は千葉県出身の医者であり東京慈恵会医科大学の初代学長に就くが耳鼻咽頭科を設置し日本耳鼻咽頭科学会をも創設したことで知られる。杉山の長女瑞枝の嫁ぎ先は金杉の甥であり、二女たみ子が嫁ぐ先も耳鼻咽頭科医の石井俊次で、茂丸は医業を営まないが自宅に医務室を設け、医薬品も多数の種類を備えていたほどである。隆邦の闘病に立ち会って、最新医療の限りを尽くし遺体は解剖のうえ病因を徹底的に探らせた茂丸は、自分の死後も同様の解剖措置を行なうよう献体の遺言を書き残した。
茂丸の遺体解剖は東京帝大で行われ、星一(通称製薬王)のほか解剖学会創設者の小金井良精(星の岳父)らが立ち会って済ませたと伝わる。
星一(一八七三〜一九五一)といえばアヘンと跳ね返るほどアヘンに通じており、現在の星薬科大学前身は星が設立(一九一一)した製薬会社の内部に設置した教育部から生まれている。コロンビア大卒(一九一一)、湿布薬イヒチオール開発販売(一九〇六)、衆議院議員(一九〇八、一九三七、一九四六)は製薬事業の片手間に務め、東洋一の製薬王ともいわれ、第一回の参議院選挙(一九四七)では全国区の一位で当選を果たすなど、その特異な経歴はロサンゼルスで永眠する最期の時まで変わらない。
小金井良精(一八五九〜一九四四)は越後国(新潟県)長岡藩士の子で、東京医学校を卒業し、ドイツで解剖・組織を学んで帰国(一八八五)すると母校教授に就き、東大医学部初といわれる解剖学を講義する。アイヌ研究に魅せられ人類学も手掛けて、坪井正五郎のコロボックル説を批判して激しく対立する一幕もあるが、日本解剖学会(一八九三)を創設、帝大医科大学学長(一八九三〜九六)も務めた。夫人は森鴎外の妹喜美子で、二女せいが星一に嫁いでいる。
つまり、杉山(龍造寺)茂丸を主役に如何なる伝記を作ろうと、アヘンに関して後藤・新渡戸を上回る茂丸の実績根拠が示せないなら史家とはいえまい。
福岡藩は一一代長溥のとき、家臣が勤皇と佐幕に割れた。当初は加藤司書(家老)を軸に建部武彦・月形洗蔵らが都落ち公卿三条実美らを受け入れようとする方針を支持し、長溥が薩長双方の争いを和解へ導くため斡旋する。ところが、藩内で佐幕派が巻き返すと長溥は加藤ら勤皇派重臣に切腹七名と斬首一四名ほか総数一四〇名の処刑を断行した。後に大政奉還が決まると、今度は浦上数馬ら家老三名に切腹を命じるほかなく、断腸極まる君と臣の関係を天下に知らしめる。長溥隠居(一八六九)により跡を継ぐ一二代目長知も贋札事件(一八七〇)を咎められ知事罷免のほか重臣五名が斬首され、不平不満を堪えてきた黒田武士の無念を開放する。
これこそ武士の本領であり、現在ではその面影すら見られない哀れな時代と成り果て、朝鮮出兵の意味さえ消え去ろうとしている。こんな人物伝を書き綴ると吐き気が堪らないが、茂丸に触れた以上は金子堅太郎を引き合いに出さざるを得まい。
●表の玄洋社だった金子堅太郎
士籍一代限りと同じ事例は現在でも見られるが、勘定所に務める金子清蔵直道も同じで早良郡鳥飼村字四反田に生まれた長男堅太郎に出来るかぎりの子育てを施した。八〜九歳で金山和蔵や正木昌陽の漢学を学びとり藩校(修猷館)に一一歳で入門するや、たちまち芽を吹く堅太郎だが、一六歳にして父の死去に遇い家督を継ぐも、士籍を失い銃手組編入の身分となる。しかし鉄砲大頭役所へ出仕の一ヶ月後に中番・勘定所給仕と昇進し、銃手組の株を買い取り四人扶持一二石を得ると、翌年一七歳で永代士分として列せられる。堅太郎が直ちに命ぜられるのが秋月藩への出向・遊学であるが、この意味するところを読み取るのが史家の本領だろう。
小早川秀秋は関ヶ原の戦功で筑前から備前への移封が決まり、後任として豊前中津から黒田長政が入部してくる。
ところで、太宰府を擁する筑前国の歴史は重大である。秀吉九州征討まで筑前を領した秋月藩は、種実のときに島津に与して秀吉に抵抗するが、結局恭順を示し日向串間三万石に移封され子の種長の時代に関ヶ原の合戦となる。紆余曲折は世の常で、結果的に高鍋藩(宮崎県)初代の藩主に落ち着いて、後代に上杉鷹山(米沢藩に養子入り)などの著名人を出す。
この秋月氏の遠祖は征夷大将軍坂上田村麻呂と同族の大蔵春実で、播磨国の大蔵谷に居館を構えたが、天慶の乱(藤原純友の乱)に際しては博多津で賊軍を撃退、太宰府管内の軍事警察を管轄する地位を得る。以後九州に土着したその子孫が太宰府官を世襲した。天皇領秋月荘を管領した原田種直の系を引く族が古処山の秋月に因んで姓となした由来が伝承されている。
筆者が注目するのは秋月という聖地に遊学する堅太郎の運命であり、秋月氏自体の由来に大した関心はない。
明治四年(一八七一)に大隈重信の発案で挙行された岩倉遣欧使節団は、岩倉具視を正使に総勢一〇七名からなり、出発から帰国まで二年を費やし、歴訪先も一二カ国を上回る長旅だった。これに参加した黒田長知の随行員に、金子堅太郎と団琢磨が選ばれたのだ。
団琢磨(一八五八〜一九三二)は、福岡藩士上尾家に生まれて幼名を駒吉と称した。駒吉一二歳のとき、同藩士団家に養子入り、三井三池の炭絋経営に成功、戦前の三井財閥総帥に登るも血盟団の菱沼五郎に狙撃暗殺された。
さて、横浜港を出発した遣欧使節団はまずサンフランシスコに上陸して、大陸横断の路を選びワシントンDCを訪問、その後ヨーロッパに向かう行程をとる。英国訪問を皮切りにフランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスを回覧して、帰途アジア諸国にも顔見せ程度の訪問をしたという。使節四六名、随員一八名、留学生四三名に旧幕臣から選ばれた書記官が加わっていた。
金子は明治一一年(一八七八)九月まで米国に滞在した。寄宿先は弁護士オリヴァー・ウェンデル・ホームズ(ハーバード大教授・マサチューセッツ州最高判事・連邦最高裁判事)の宅で、ヘンリー・スイフト&ラスル・クレイ共同法律事務所で実践的な法律現場も体験したという。一八七六年にハーバード大ロー(法科)スクールに入学し二年後一八七八年に卒業した。この間の同宿メンバーには小村寿太郎などもいる。法学士の資格を取得し、同年九月に帰国した。
帰国後まもなく都市民権政社の社員となり、東大予備門で英語教員もしながら民権運動では積極的な行動を展開している。明治一三年(一八八〇)に河津裕吉(元老院書記官)と沼間守一(同権大書記官)の紹介で元老院に雇われると佐々木高行(元老院副議長)の進めでエドマンド・バークを軸とする保守政治理論をまとめ『政治要略』として刊行した。
金子堅太郎が結婚する年齢になって青森県令山田秀典の二女弥寿子と結ばれた。内閣制発足(一八八五)に際し初代首相伊藤博文から秘書官に抜擢されると、井上馨や伊東巳代治らと共に皇室典範、憲法、諸法典を起草した。その後、一八八九年欧米諸国の視察に就き、帰国後に日本法律学校(日大の前身)を設立、その初代校長に就任し明治二六年(一八九三)に辞職する。同三一年の第三次伊藤内閣では農商務大臣一五代目(役二ヶ月)を務めた。翌年ハーバード大からの名誉法学博士号授与式に出席、米国市場経済を視察して帰国すると、視察の成果を論文にまとめ「米国経済と日本興業銀行」を発表した。
この論文こそ杉山VSモルガンの交渉秘話が公式の表沙汰となる根拠であり、東京日々新聞主筆の朝比奈知泉らとの連携プレーもある。ところが、外光・政治の深層にはさらに奥行きがあって、同三三年(一九〇〇)に金子を男爵に叙せられ、第四次伊藤内閣における三七年(一九〇四)二月の日露開戦と同時に渡米した金子堅太郎はハーバード大学の学生時代に同期であったセオドア・ルーズベルト大統領(一八五八〜一九一九)と日露戦争の後始末について交渉、帰国は翌年一〇月になる。帰国一ヶ月を前に同じ学友の小村寿太郎が米ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州でロシアとの講和条約に調印したことは説明を要すまい。
以後金子堅太郎は子爵に列せられ、日本大博覧会会長、日本速記会会長(一九〇七)、語学協会総裁、東京大博覧会会長(一九〇八)などに就任・歴任して、明治四三年(一九一〇)には後の維新史編纂会の発足に関わるが、この年は韓国は朝鮮と改称し総督府が設置された年でもある。
さて明治天皇崩御(一九一二・七・二九)の年初は孫文(一八六六〜一九二五)が中華民国の臨時大総統に就任する支那の情勢も含めて、日朝関係に重大な節目だが、まずは金子の経歴を終わらせよう。
臨時帝室編修局総裁(一九一四)、『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁(一九一五)、日米協会の会長に就任(一九一七)、帝室編纂局総裁(一九二二)などを歴任し大正期を過ごすと昭和期を迎える。昭和天皇即位式の開催年(一九二八)に勲一等旭日桐花大賞を拝受、『明治天皇紀』を完成させた功績で伯爵(一九三八)に叙せられ、三木武夫らと日米同志会を立ち上げると会長に就任、維新史奉呈と真珠湾攻撃とがあった昭和一六年(一九四一)の翌年五月一六年に八九年の人生を閉じた。没後、従一位大勲位菊花大綬章が贈られている。
すなわち、金子は黒子役を余儀なくされた悲運福岡藩において、表舞台を歩んだ代表格であるが、当然の如く裏舞台との共同工作なくして成立する経歴ではない。
●近代日本の総合プロデューサー杉山茂丸
杉山茂丸の父三郎平は黒田藩最後の一二代藩主長知に対し進講を務めたが、贋札事件により藩主に閉門処分が下されると遠賀川河口芦屋村へ移住、その後も筑後郡山家や朝倉郡夜須村と転住を続けた。これ以降の杉山茂丸伝は金子賢太郎の経歴と照らし合わせればおよそ誤謬を正せるはずであり、要所は日清・日露の戦争に絡む外交政策であろう。その中でも特記を要するのが本題とも絡む日本興業銀行の設立問題であって、その概略を示しておかないと次の記述に進めない。
明治一五年(一八八二)に中央銀行として開業された日本銀行の後に政府系の特殊な銀行として設立されたのが日本勧業銀行であり、「宝くじ」販売で庶民にも知られる。明治二九年に制定された日本勧業銀行法によって政府を軸に設立された同行は農工業改革を目的に長期融資を主な業務として東京本店と大阪支店に限定して開業した。北海道を除く府県には、同時制定の農工銀行法に基づいて農工銀行が開設され、勧銀取次または勧銀同等の業務で対応するよう図られた。長期融資のため預金は原資に成り得ず、金融債の発行権が付与され、全銀行中で唯一、割増金付債券が認められた。これは、債券発行時に抽選を行い、当選番号の債券を持つ購入者には割増金付で償還される制度であって、後に設立する日本興業銀行や北海道拓殖銀行には、金融債の発行は認められても割増金は許されていない。
とはいえ、融資は個人を対象とせず担保能力が高い組合や地主のみを対象としたために借手が増えず、法律改正(一九一一)して商業融資も加える。
如何なる時代も同じで、政策詐欺の発想は他行と競い争う重複業務と機能低下により再度の法改正(一九二一)に迫られる。ところが、各府県の農工銀行を悉く合併し店舗網が拡大すると、勧銀の名前で割増金付債券と同じ戦時債券まで加わると、高まる射幸性のもと当選番号は勝札と呼ばれ現在の宝くじが誕生するのである。
戦後、特殊銀行を定めた勧銀法廃止(一九五〇)により普通銀行になるが、いまだに宝くじの独占販売は顕在ゆえ旧勧銀との合併を目論む賤しい業界体質は改まらない。
一方、議員立法によって提出された日本興行銀行法(一八九九)が陽の目を見るのは明治三五年(一九〇二)であるが、まさに戦争プログラムを模型とする発想から生まれている。勧銀は養蚕・紡繊・食品などの農業分野また密接する軽工業を主な対象としたが、興銀は戦争を契機に活況を呈する製鉄・造船・電力など重工業を対象とする目論見のもとに議論される。
政府は外債に限るとはいえ政府保証の条項に難色を示して、対案として「動産銀行法」を上程した。つまり、政府の保証規定を取り除いただけで、後はすべて議員立法案と同じである。中身のない議論で審議日程のみ過ぎて、衆議院は政府案に政府保証を挿入(議員立法案と同じ)、つまり政府の面子を立てただけの小細工で貴族院へ回すが、貴族院は政府保証規定を削除して衆議院に戻した。衆議院は戻された案を否決して解散したため廃案となるが、選挙後に再び上程され結局は政府保証除外また外債発行の規定は何も定めず成立させた経緯がある。資本金を国家予算の一割強に相当する一千万円として営業を開始した。
伊藤博文(一八四一〜一九〇九)と金子の年齢差一二年、金子と後藤新平の年齢差は四年、後藤と杉山の年齢差七年で、興銀開業の年(一九〇二)は杉山三九歳、J・P・モルガン(一八三七〜一九一三)は六六歳であった。
ここで少しモルガンに触れておく。米国のマサチューセッツ州に生まれたジョージ・ピーボディはロンドン在住中にロスチャイルド家の支援によってジョージ・ピーボディ&カンパニーを設立して金融業を開き米国債を英国の投資家に仲介した。このとき共同経営者として迎えられたのがJ・S・モルガンつまりJ・P・モルガンの父である。後に代表を引き継ぐと、社名をJ・S・モルガン&カンパニーと改称する。
父の事業を米国内で広げる役を負ったJ・Pは一八九五年米国事業をJ・P・モルガン&カンパニー(JPM)名で設立、アンドリュー・カーネギーほか鉄鋼会社を買収しUSスチール社を設立のうえ業界再編を進める手掛かりとした。
他方、一八二三年に創業を開始したニューヨーク・ケミカル・マニュファクチャリングこそモルガン家の本業であり、翌年にケミカル・バンク・オブ・ニューヨークの商号で子会社を設立し金融業務へ参入している。一八五一年ケミカル・バンクは親会社から独立し合併・買収を進めながら業容を拡大、その象徴としてエジソンが一八七八年設立したゼネラル・エレクトリック社(GE)の買収がある。買収の時期は一八八九年で、GEは発明王エジソン(一八四七〜一九三一)に設立された電気照明会社であった。そのエジソンと親しく交友した日本人は、渋沢栄一、金子堅太郎、尾崎行雄、御木本幸吉、星一、野口英世らの名前が知られる。何れも杉山とは切り離せない関係者である。
井上馨(一八三六〜一九一五)、山県有朋(一八三八〜一九二二)、桂太郎(一八四八〜一九一三)、寺内正毅(一八五二〜一九一九)ら長州勢のみならず、あるいは児玉源太郎(一八五二〜一九〇六)や後藤新平などとも、なにゆえ杉山は肝胆を照らし合う関係を築けたのであろうか。それを解くのが史家の本領でもあろう。それには、同じ「国人」つまり源流を鎌倉時代に地頭層といわれて諸国開発を推進した武士(御家人)の遺伝子にまで遡らなければなるまい。
これこそが龍造寺家の本領であって、それは女系龍造寺を引き継ぐ鍋島と、男系龍造寺を引き継いだ杉山の違いであり、また福岡藩士が味わう太宰府という場の理論に操作される宿命なのである。武蔵最北端と上野南部に及ぶ地域に割拠した武蔵七党中で最大勢力を形成した児玉党の血を継ぐ児玉源太郎の祖が落ち着く先は、毛利家の家臣として土着する安芸だった。毛利の訛った余目であって、いずれの人士も芥子(アヘン)で結べば、そこに何ら不思議ないネットワークが形成される。すなわち時代がワンワールド・イズムと合致したのである。
情報というには余りにお粗末な現代ジャーナリズムであるが、彼らを政府御用達の走狗と見るなら、史観に何の差し障りもあるまい。鍋料理を味わう政治とその残り汁を味わうジャーナリズムに不満を持つ杉山茂丸は、自ら全体をプロデュースする道を選んだ。
タレント・スタッフなどを徴募するロビー・サロンを必要とした杉山には同時に情報屋も必要で、朝比奈和泉と「暢気倶楽部」を設けたのはこのためである。興銀銀行設立も人脈を築くための話題の一つであり、好餌を投げ目的を達すると、モルガンの投資が不要となるよう仕掛けている。
台湾総督府を司った児玉や後藤とは製糖産業の振興や台湾銀行の創設などを名目に金子とのパートナー・シップを活かすべく働いている。立憲政友会結成(一九〇〇)を目指す伊藤博文への協力は日露開戦を渋る伊藤の方針を覆す狙いが含まれていた。ロシアとの協商を目的に伊藤博文がペテルブルクに滞在中(一九〇二)、桂内閣は電撃的に日英同盟を締結し、伊藤を枢密院議長に祭り上げ(翌年)、政友会総裁を辞任せざるを得なくしている。
日露開戦と同時に渡米した金子の働きは前記の通りで、講話の聖旨(勅)伝達に赴く山県(参謀総長)に随行した杉山は大山巌ら満洲軍首脳と会談し次なる策を講じている。児玉宿舎では戦後満洲の経営・設計を練り、そこで結果的に半官半民による南満洲鉄道の創設が決められた。以後の課題は韓国をどう安定圏に導くかの設計であり、韓国統監として伊藤の出向が決まると、杉山は内田良平(一八七四〜一九三七)の同行を伊藤に薦めた。その結果内田は統監府嘱託の身分を与えられる。内田は韓国親日団体一進会の李容九や宋秉畯と交友を固め、彼らを支持して日韓合邦運動の援助を約した。ただし、呉越同舟は国益に操作される。
内田は父良五郎の三男で、良五郎は平岡仁三郎(遠賀郡底井野村戸長)長男に生まれるも内田武三に養子入り、足軽のとき戊辰戦争に功を重ね士分に昇格される。内田良五郎の弟が玄洋社の初代社長に就く平岡浩太郎(一八五一〜一九〇六)であり、西郷軍結成の情報に接し単身合流しようと出向く途中で捕えられ入獄一年に罰せられる。当時、福岡の志士たちは神風連の乱や萩の乱に参じる不穏な状況にあって、官も厳戒態勢を敷いたため潜り抜けは皆無に等しく、平岡に限らず未然防止を含めて逮捕は常態化していた。出獄後アジア問題に取り組んだ平岡は富岡炭坑(赤池)を経営し、潤沢な資金を玄洋社の海外活動に注ぎ、衆議院議員のときは隈板内閣の樹立に尽くした。
平岡に従って上京した良平は講道館に入門するほか東邦語学ロシア科に学び、東学党(李容九)の乱と関わって以後ウラジオストク居住を通じ対ロシア主戦論の下に黒竜会を設立する。後に大日本生産党の総裁として政界を揺るがす存在に成っている。
玄洋社を語れば、頭山満(一八五五〜一九四四)も欠かせまい。筒井亀策の三男に生まれた満は、頭山家の養子に入り家督を継ぐと、滝田紫城や亀井玄谷に学び高場塾入門、後に愛国社再興に加わり、広く各地を遊説する。その先輩たる箱田六助が郷里で思想を煽り、満は中央で世間を鎮めるという表裏の関係を果たした。
六助(一八五〇〜八八)は青木善平の二男で、箱田仙蔵の養子に入って家督を継ぎ、就義(藩兵)隊に参じ姫島に配流される。後に許されて出ると、高場塾に入門。のち萩の乱に連座して満らと長州の獄から移送される。放胆な性分から独り罪に服する気負い強く、人望を集め玄洋社四代目社長に就くも、三九歳の早すぎる死は官を暗殺を疑う声を何時までも消せないのである。
玄洋社の社員を挙げればキリがないため筆を止めよう。ただ、前記系図に登場する緒方竹虎は前述に加えて附記することがある。総連本部地上げ問題に絡む緒方重威(元公安調査庁長官)という大根役者が背負う運命と竹虎とが如何なる関連をもつのかを記そう。本稿には噂の独り歩きを解明する目的もあるからである。
竹虎は、大戸(緒方)郁蔵の婿養子、つまり緒方(旧制妹尾)道平の三男として山形に生まれたが、書記官だった父の転勤で福岡に移住したのが四歳の時と伝わる。六歳で山岡鉄舟の無刀流の稽古を始め、すでに修猷館中学時代に免許皆伝を得る。このとき中野正剛と出会うが、それは運命的な人生の転機だったともいえよう。
東京高等商業学校へ入学した竹虎は文部省令が発する専攻部廃止方針に反対し、騒動の責任をとる形で退学する。中野に誘われるまま早稲田大学へ転入すると、頭山の下に案内され三浦梧楼や犬養毅、古島一雄らの知遇を得る。卒業(一九一一)と同時に朝日新聞へ入社するが、これも中野の誘いによるといわれる。大正年号のスクープ記事によって出世街道を走り、政治部長から編集局長(一九二五)へ昇格したのが三八歳、さらに主筆(一九三六)就任が四九歳という昇進ぶりである。東条英機に立ち向かい自刃に至る中野(衆議院議員)の葬儀に際しては、首相(東条)からの供花を拒絶、社主一族の村山長挙社長らと対立し主筆を解任されて副社長(一九四三)に棚上げという憂き目を見て、翌年昭和一九年に朝日新聞を五六歳で退職する。
退職直後、小磯国昭内閣で国務大臣・情報局総裁として入閣し、その後は終戦を挟んで鈴木貫太郎首相の顧問、また東久邇宮稔彦内閣で国務大臣・内閣書記官長を務め、昭和二一年九月の公職追放と二六年一〇月の追放解除をともに経験する。それ以後、いわゆる五五年体制を立ち上げる中核として働き、その戦後体制を生み落とす首相の最有力候補になるも急逝した。