皇紀元年(2682年前)前後の文明ワンワールドに鑑みると、民族・氏族(ウカラ・ヤカラ)の交易に資するのは黄金と罌粟に集約されるが、学術や技術は天文学から羅針盤や地震計などの開発が行われ、言語や算数から度量衡や測量などの基礎が定められた。それらは都市化のインフラストラクチャーを促進する事になり、古代ギリシアではポリスの建設ラッシュが続いたとされる。
海運交易で富を得た商工階層のうちから、全体の成り立ちを考察する人々が出現しだした。数学の権威ピタゴラスは「大地は球形」説を唱える事で『中心(火)の周囲を地球・惑星・太陽・月などが回転する』という一種の地動説を主張したとされる。原子論はデモクリトスが唱えたとされる。医療分野では神事や呪術を交えた迷信的治療を廃したヒポクラテスが、実践的な医学治療に専念する基礎学習を構築した事から「医学の父」と呼ばれている。
アテネはサラミス海戦(約2500年前)でペルシアに勝利すると、徹底した経済の民主化路線を貫き都市の文化的強化を図っていった。プラトンは学園アカデメイアを創り、幾何学の重要性を説き門前には「幾何学を知らざる者は入るべからず」の文字を掲げ指導に当たったとされる。プラトンの幾何学的宇宙論は「天体の動きを円運動(=軌道)で説くモノだったが、惑星の不規則運動を上手く説けなかった」とされ、それは門下生に受け継がれたという。
アカデメイア門下生エウドクソスの同心天球説は「地球を中心とする27天球の回転運動の結合によって」惑星・月・太陽の不規則運動を説こうとした。同じくアリストテレスも天文学ではプラトン説の域を出なかったが、生物学では卓越した観察眼から動物分野に膨大な資料を残した。その経験と帰納を活かした方法は約540種もの動物を形態別に分類し、『動物誌』、『動物部分論』、『動物発生論』の中に著されている。
レジェンド「万学の祖」アリストテレスを述べるのは以上に止めておきたい。アリストテレス門下テオプラストスの『植物誌』は観察記録500余種を著しており、農学や薬学など盛り込む実践的な領域は論理学、倫理学、博物学、数学、気象学、天文学、教育、政治学、音楽、宗教にまで及んだと伝わり、その大半は消失してしまったとされるが、これは政治的工作の常套手段であり、どんな隠匿工作を施そうとも、遺伝情報の消失など断じて起こり得ないのが正解というもの…。
なぜなら、アカデメイア→リュケイオンに受け継がれた科学は後世イスラムに継承され、その後はヨーロッパに受け継がれているからである。
アレクサンドロス3世(紀元前356~323年)は王位継承(2486年前)のあと、30歳に達するまで治世の多くを東方遠征とされる戦役に費やし、その領域はギリシア、メソポタミア、エジプト、ペルシア、インドまで当時の「世界的主要地」を傘下に治めたという。アレクサンドリアとは傘下に治めた領域に設けた大王の直轄地を意味するが、中でもエジプトに設けた学術研究所ムーセイオンは世界各地の歴史・地理・数学・天文学・医学・文学などの書物を収集した図書館を備えたので世界の各方面から訪れる学者の研究施設にもなったとされる。
エウクレイデス(ユークリッド)やアルキメデスなども研究に没頭した施設と言われ、クラウディオス・プトレマイオスが『天文学大全』をまとめ、ガレノスが医学を研究し、クテシビオスやヘロンは気体の研究を行ったとされている。
地中海ポエニ戦争とは、北アフリカに都市カルタゴを建設したフェニキア人とギリシアとの3次に及ぶ衝突であるが、漁夫の利を得てギリシアに代わるのが古代ローマと私は自負する。西暦を整える準備に追われた一人にマルクス・テレンティウス・ウァロ(共和政ローマ期の政治家)がおり、ギリシアの科学に学び学問を9つに分類して体系化したとされる。即ち、文法学・論理学・修辞学・幾何学・数論・天文学・音楽の自由7科に医学と建築学を加えた上で網羅的な研究を進め道路や水道など整備したあと、建築のほか彫刻の設計技術も修得したとのことか。
学問分野はプリニウスが『博物学』、ウィトルウィウスが『建築書』、セネカが『自然の研究』を著したが、これらは先学ギリシアの科学を無批判に受容したうえ、自然物のすべては「人間のために作られた」との思想を圧し付けた事からギリシア的な学派は一掃されていった。
イスラムの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門ウマイヤ家はメッカの指揮を受け継ぐ階級に属しており、第4代の正統カリフであるアリーと抗争を起こしている。自称カリフのシリア総督ムアーウイヤはハワーリジュ派によるアリー暗殺(661年)の結果、自称カリフを正統カリフとして認めさせる事に成功している。首都をシリアのダマスカスに定めたムアーウイヤの死後二代目以降のカリフはウマイヤ家の一族による世襲とした事から、750年アッバース朝に滅ぼされ解体されるまで、約90年の間にカリフが14人も輩出されるに至っている。
アラビアに強力なイスラムの帝国集権国家が出現し、ギリシア科学の文献をアラビア語に翻訳する積極的な時期こそウマイヤ朝2代目カリフ(ハーリド)の頃とされる。それが学問都市バグダードに花を咲かせるのはアッバース朝に代わってから、バグダードに知恵の館が設立され、多くの学者達が研究のため集まり、主任翻訳官フナイン・イブン・イスバーグを軸にネストリウス学派と協力のうえ組織的な翻訳作業を行ったとされる。
数学は『シッダーンタ』が翻訳され、代数学はアル=フワーリズミーの紹介で広まり、医学発展に尽くしたアヴィケンナらに薬剤師ジャービル・イブン・ハイヤーンの協力があり、バグダードの医療活動と研究から生まれたのが錬金術の基礎だとも言われる。これらが衰退するのは12世紀が過ぎる頃スペイン人のコルドバ侵攻に始まるとされ、以後イスラムの科学はキリスト教圏へ移り始め、既に分裂された帝国ローマの行く末は群雄割拠のヨーロッパでしかなくなる。
カロリング・ルネサンスと呼ばれるヨーロッパ8世紀の科学史は、数学を除けば、ほとんど神学に追随した位置づけと定められた。即ち、神学キリスト教を錦の御旗に建てた後学ローマが、先学ギリシアの科学を疎んじた末の結果ではないのか。農業が初めて家畜を使う頃でもあった。
欧州十字軍が起こる11世紀、中東への遠征が増える事でアラビア科学に驚嘆、コーランの翻訳が急務である事を知り、アラビアの文献多数をラテン語に翻訳する作業の本格化が進められる。
12世紀アラビア科学に触発されたヨーロッパは、キリスト教の神学一本化を薄めて、哲学、天文学、数学、自然科学、論理学、倫理学など、アラビア科学のみならずギリシア科学をもとりこんで、神学と科学の融合(スコラやルネサンスなど)を目論み、大学制度による教育構想の設計に取り組みヨーロッパならではの深謀遠慮(=神学部ソルボンヌ学寮の謎)を潜ませる術をほどこした。
起源12世紀半ばとするパリ大学の由来を尋ねると、1257年フランスの神学者で聖ルイの宮廷付司祭ロベール・ド・ソルボンが、神学部の貧困学徒のためにソルボンヌ学寮を設けた事から始まる数え方だと聞かされた。異論は承知の情報ゆえ単なる目安と済ませられたい。
アルザス=シャンパーニュ=アルデンヌ=ロレーヌの地域圏(現フランス国アルデンヌ県)のソルボンの貧家に生まれた男の子は、アルトワ伯ロベール1世とフランス王ルイ9世の後援でマルヌ県のランスとパリで学び、1251年カンブレー聖堂参事会員に選任され、1257年ルイ9世の宮廷付説教師になったと脚色される。2年後ローマ教皇の許可を得るやパリ大学に神学部を発足これソルボンヌ学寮と呼ばれ、一時期はパリ大学の別称に用いられた事もあった。
後にパリ大学の卒業生7人がモンマルトルの丘サン・ドニ記念聖堂で誓いのミサにあずかる。
13世紀、ケンブリッジ大学、パドヴァ大学などヨーロッパ各地で開校ラッシュが展開され、当初学制は専科の学部ごとに世俗教師と修道会教師が配属された。大学ネットワークを保つため羅針盤を備えた造船技術を土台に航海術も急速に進化を遂げた。
14世紀、パリ大学の自然科学が頭角を露わにすると、各大学も力学や運動論の研究に励み、加速度運動や加速の原因論が発表され、力学的考察を行うオレームやビュリダンに対し、実験の重要性を説くベーコンなど、大学ラッシュの現象は的確に表面化をみせた。
15世紀、ダ・ヴィンチ、ヴェサリウス、コペルニクスなどの登場はグーテンベルクの発明による活版印刷に通じるところとなり、1492年レコンキスタに終止符を打つと、諸侯の権力が教会にも及ぶ事になり、東方文化との接触から大航海時代の幕開けがはじまる。
黄金術は錬金術と誤解されるなか、奴隷市場は三角貿易の独占となり、イギリスの織物工場は輸入綿花を得て産業革命の後押しに役立てられた。富の格差はブルジョワ階層を形成し、その主体が操る市民革命は農地を囲い込む農業革命から大幅な生産性アップをもたらせた。それはまたヨーロッパに人口増をもたらし、人口増は都市化や産業革命の後押しにもなった。
16世紀、イギリスでは工場制手工業が始まり、労働者の生産性は分業化で高められた。鉱業→精錬→冶金の技術が向上すると、精密な機械加工のシステム化も可能となった。時に乗じて起こるのがルターを擁した宗教革命でローマ教会カトリック体制の揺らぎは修復不能に陥るところとなる。
17世紀、連鎖が尽きない革命の嵐はついに科学革命をも呼び起こした。即ち、アリストテレスを受け継ぐ論理性からの脱却であり、コペルニクスの地動説を基に望遠鏡で天体を観測したガリレオの幽閉を強行したローマ教会カトリックの暴走に実験科学のボディブローが溜まり始まる。
ケプラーそしてニュートンを経た地動説が確立すると、ニュートンは光の研究から世界を数学的に捉える力学原理まで打ち立てる。望遠鏡にヒントを得たレーウェンフックは顕微鏡を用いて微生物を発見し、ギルバートはイギリス女王の面前で磁石の実権を行い、ウイリアム・ハーベーは動物解剖と共に血液循環の仕組みを観察し、デカルトは機械論的自然観に立って宇宙のエーテルほか人間の脳や動物の精気を説き、ボイルは気体の研究を実験で示して見せた。
以上はローマ教会の権威とヨーロッパ科学史の再検証が必要と思う私の自負するところだ。
前記した『神学部ソルボンヌ学寮の謎』は私が自負するオリジナリティーゆえに、読者の読後感に何が浮かぼうと、それは読者の歴史観に委ねられるだけのこと、どんな問いかけあっても私は応じる感情をもたない事を予め表明しておきたい。つまり、競わず争わずを貫くのみなのである。
(つづく)