さて、このタイミングまで「書かなかったレンドリース(武器貸与)法」に触れたい。
アメリカンドリームの実証一端を成すフランクリンの実施した戦争法制ともいえる法律である。
この法案は一九三五年に成立した中立法などのモンロー主義にそぐわないため、議会には反対派も少なくなかった。法案成立は一九四一年三月になるが、その前年には法案成立のためのプログラムが既に実施済だったのである。それは駆逐艦・基地協定と呼ばれており、アメリカがカリブ海とニューファンドランド島を基地に使う権利の見返りとして、イギリス海軍とカナダ海軍へマリーンの駆逐艦50隻を提供するというモノ、フランクリンは同年十二月二十八日の炉辺談話で連合国に対する支援意図の強調に「民主主義の兵器廠」なる表現を使うことにした。
直ちに設置されたレンドリース法の管理局は製鉄業トップが長官に指名され、一九四三年九月には国務次官へ昇進その管理局長に銀行マンを据え、管理局は銀行マンが長官の外国経済局の一部へ組み込まれることになった。
武器貸与(レンドリース)は、一九四一年から四五年にかけ、イギリス、ソ連、中国、フランスや他の連合国に対し、アメリカが実施した貸しであるが、イギリスの場合は自国の基地を配置しているニューファンドランド、バミューダ諸島、イギリス領の西インド諸島を提供する引き換えに、膨大な量の軍需物資を供給するアメリカのプログラムを得たとされている。
一九四一年三月から開始された物資供給は総額501億USドル(2007年ベースの換算で大凡7000億ドル)とされ、うちイギリス314億ドル、ソ連113億ドル、フランス32億ドル、中国16億ドル、他は連合諸国へ提供されたと記録されている。これに対応した逆レンドリースは航空基地の提供などアメリカにゆずる連合諸国からの供給プログラムを意味している。
他のレンドリース法に関する事案は省略するが、この法はソ連シンドローム体制の確立に貢献する大きな要となり、次世代を担う放射性科学の研究開発に一定のメドをつけるとともに、時代おくれの国際政治に新風ワンワールドの枠組みをもたらせていたのだ。
それらシンボルの一つがクリミア自治ソビエト社会主義共和国ヤルタ近郊のリヴァディア宮殿にて開催されたアメリカ、イギリス、ソ連の談合であるが、その深層に潜む大事を知るべきだろう。
期間は一九四五年二月四日から同月十一日までの一週間とされるが、第二次世界大戦中に連合国が行う主な首脳会談には、大西洋(一九四一年八月九日―十二日)、カサブランカ(一九四三年一月十四日―二十三日)、カイロ(同年十一月二十二日―二十六日)、テヘラン(同年十一月二十八日―十二月一日)、ポツダム(一九四五年七月十七日―八月二日)などあり、その意味を知るべき事そして記憶に留めるべきこと…、誰だろうと現行社会の処世に役立つはずと自負するからだ。
大西洋憲章は戦後の英米が目標とした声明として、大英帝国の解体、NATOすなわち北大西洋条約機構、GATTすなわち関税と貿易に関する一般協定など、現行社会をリードしてきた制度が既に戦前から設計されていたのだ。役者は米大統領と英首相であるが、演出脚色そして監督、その製作を司る機関とは如何なる組織を以て構成されているのか。
戦争に限らないが、競い争う事柄は敗者があってこそ成り立つわけだから、競い争う世界の現実は騙し合い即ち虚に基づかないと生きてはいけないのだ。それがアメリカンドリームだから相棒のソ連シンドロームと一体化すれば、現行社会に疫病が満ちるのも当たり前ではないか。
さてフランクリンの「マンハッタン計画」であるが、発案者の一人にレオ・シラード(一八九八~一九六四)ありとは広く知られるが、いつの世も総じて名を売りたがる者は軽薄を以て任じられる。シラードはアルベルト・アインシュタイン(一八七九~一九五五)の紹介で米大統領へ原爆の開発を進言したとされる。売名を以て世に出る不憫には慈悲の念を禁じ得ないが、放射性元素が放つエネルギーを粗忽に扱う有識者の罪は地獄に落ちても赦されようあるまい。
原爆開発は大戦前から噂にある話題であり、科学者なら誰でも思うところゆえ、実行の主体がアメリカンドリーム以外にない事は初めから判り切ったこと、問題は如何なるプロセスを設計し得るかのレベルのみだったと私は聞かされている。つまり、マンハッタン計画の意味するところは、内容とは別に未来へ伝えるメッセージが潜んでいると認識すべきではないのか。
マンハッタン計画に因みここに愚の骨頂を示しておきたい。
計画費用は一九四五年十月までの集計で18億4500万ドルとされ、一九四七年元旦のAECの試算では21億9100万ドルとされており、原子爆弾の開発生産費は10%未満、実験に使われた爆弾三つと未使用一つの計四つの平均製造費用は一つ当たり五億ドルとの記録が残されている。
さらに計画に使った総費用を他の戦費に照らしてみると、同時期に合衆国が投じた全小火器の生産総額の90%に相当し、戦車の生産総額の34%でしかないとの報告もみられる。
何事にも通じる事であるが、かつて経験し得なかった革新的な研究開発で費消した金額を数字的な量で示す事が何の意味をもつというのか、現行社会における愚の骨頂ここに極まっている。
一九四三年一月フランクリンは、チャーチルとの会談を行うため、フロリダ州マイアミからカサブランカ(モロッコ)へ向け出発している。紀元前十世紀に先住民ベルベル人が定住して始まると言うカサブランカの歴史は前七世紀ころフェニキア人、前五世紀ころローマ人との交易で知られる。
モロッコは一九一二年にフランスの保護領になるが、第二次世界大戦(一九三九)初頭フランスはドイツ軍に占領され支配下に置かれた。のち連合国軍の北アフリカ侵攻が成功した事から従前通りの自由なフランスに戻ったが、戦後(一九五六)モロッコはフランスから独立し、その最大都市カサブランカに至っては今や世界有数の観光都市に発展を遂げている。
英米政権のトップによるカサブランカ会談(一九四三)に際しては、外国訪問を目的に初めて空を飛んだ大統領がフランクリンとされている。
この会談もアメリカンドリームを反映し得るシンボルの一つといえよう。その最大テーマは無条件降伏に関する解釈上の定義であった。文明は様々な戦争に様々な落としどころを案じてきたが、その形式たる降伏条件は講和成立の決め手ゆえ重大であり、それが無条件ともなれば、戦闘の継続以外に選択肢がない事を意味するため、勝者側も予測不可能な危険を抱える覚悟が求められる。
無条件降伏の事例で知られるのは、アメリカ南北戦争やナチス党ドイツ、近年ではイラク戦争でのフセイン政権などあり、いずれもアメリカンドリームとソ連シンドロームに通じるものだ。
フランクリンは「枢軸国との一切の和平交渉を拒絶し、無条件降伏を唯一の戦争終結とする」事を原則に表明の断を下したとされる。ここに言う枢軸国とは連合国が敵とみなす国々を指すのだろうと思えるが、具体性を究めれば究めるほど、枢軸国の当該範囲が解せない気運にせまられる。それゆえ私の力量では当該国を特定できないため記事にし得ない事を詫びておきたい。
ちなみに、ウィキペディアの「枢軸国」を検索すると、日独伊三国同盟を中心にハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの東欧諸国さらにフィンランド、タイ、イラクなども参戦した。他に連合国が承認していない国家としては、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア独立国、満洲国、中華民国南京政府などあり、これらは日独伊などの傀儡政権とされるため、枢軸国には含まれない場合もある。と載るが、その意味する處グレーゾーンとしか思えない。
和平交渉一切拒否を貫いたスターリンは、破れかぶれのドイツから自国に甚大なる被害をもたらす結果を招いた。講和の道が遮断されたドイツは「道連れ以外なかった」のだろう。イタリアがドイツ同様に破れかぶれとなればバチカン市国の壊滅は免れまい、そのためチャーチルは事前に手をうってバチカン市国の壊滅を免れている。
和平一切拒否の意味が原爆投下であるならば、枢軸国は日本のみということか?…。チャーチルが鉄のカーテンを準備していたこと、ソ連が玉音放送を聞かなかったふりして、満洲や北方諸島を攻略奪取した行為にしても、カサブランカの原則表明が発端ではないのか。
一方のチャーチルはスターリンの4歳上・フランクリンの8歳上に当たり、第二次世界大戦を機に海軍大臣(一九三九)へ復帰、翌年首相の座に就くと連合国首脳の年長者として、勝利の確定(一九四五)まで戦争主導のリーダー格に任じられてきた。
一九〇一年に始まる英独間の建艦競争は、一九〇六年に出現したイギリス艦「ドレットノート」の衝撃により、以後建艦の主流は弩級(ごきゅう)戦艦の競争へ転じていった。第一次世界大戦(一九一四―一八)勃発まで常にドイツの一歩先を進んだイギリスであるが、後年このド級建艦競争こそが戦争の要因であるとの説まで出るほど熱を帯びた競争でもあった。
こうした海軍畑の真っ只中を歩んだのがチャーチルとフランクリンであり、スターリンや一五歳も年齢が(チャーチルより)下のヒトラー(一八八九~一九四五)と違うところである。チャーチルは第一次世界大戦時に海軍大臣と軍需大臣を兼任して戦争を主導したが、アントワープ(ロッテルダムと共に欧州を代表するベルギーの港湾都市)の防衛に失敗し、ガリポリ(現トルコ領ゲリボル半島)上陸作戦で惨敗を決するなど、フランクリンが経験しない苦戦を身に沁みて知っている。
また戦間期には戦争大臣と航空大臣を兼任し、ロシア革命を阻止すべく反共主義の戦争を主導して赤軍のポーランド侵攻を撃退している。ややもすると、これらは干渉行為とも受け取られるため時の政権から疎んじられる事もあり、イギリスの政界に在っては与野党の枠内に捉われなかった。フランクリンとの協調や独ソ戦におけるソ連スターリンとの協力に鑑みると、チャーチルの政治活動に見る毀誉褒貶にはシノビの姿が透けてくるのである。
チャーチルの九歳下で国家ファシスト党を結成そのドゥーチェ(統領)となったベニート・ムッソリーニ(一八八三~一九四五)のファシズム(結束主義)は、哲学と革命的な政治思想を習合させた新たな政治理論のもと、自身も従軍した第一次世界大戦の退役兵(黒シャツ隊)を率いたクーデター計画ローマ進軍(一九二二)を奇貨として、イタリア国王から組閣を命じられていた。
一年後(一九二三)にヒトラーの率いる国家社会主義ドイツ労働者党が起こしたミュンヘン一揆やポーランドの五月革命(一九二六)すなわち権威主義軍事クーデターは、ローマ進軍が参考になって起こされたモノとされている。ちなみに、バチカン市国の成立がムッソリーニの政権下で生じた事は既に前述したが、ムッソリーニの明暗を分けたのは第二次世界大戦の情勢判断とされている。
連合国軍の上陸(一九四三)に伴う危機感はファシスト党内のクーデターに進展、失脚したムッソリーニは胃癌と幽閉の身で一旦は引退することになる。その後ヒトラーの命で救出され再び表舞台に復帰するが、独ソ戦におけるドイツの戦況悪化で再び失脚に追い込まれる。連合国軍の援助を受けたパルチザン(?)に拘束されたムッソリーニは法的根拠のない略式裁判で銃殺に処されている。
さて、アメリカンドリームとソ連シンドロームを託されたフランクリン・D・ルーズベルトの死は一九四五年四月十二日(満六三歳)、ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニが銃殺に処されたのは同年同月二十八日(満六一歳)、アドルフ・ヒトラーの自殺日とされるのは同年同月三十日(満五六歳)という奇妙な廻り合わせが気になるところである。
昭和二十年、皇紀二六〇五年、干支は乙酉(いつゆう、木弟酉=きのととり、乙木酉=おつぼくのとり)で二十二番目の組合せとされ、陰陽五行では乙は陰の木で酉は陰の金ゆえ相剋すなわち金剋木に当たっている。ユダヤ暦では五七〇五年四月十六日―翌〇六年四月二十七日の間とされる。さらに満洲国は同年八月十八日に皇帝溥儀が退位その年月日を以て消滅とされるが、実に玉音放送を聞いた三日後のことであり、私の自負するところ四月二十九日の天長節が気になるのである。
枢軸三国の首脳ムッソリーニ(銃殺)とヒトラー(自殺)の死に鑑みると、無条件降伏に固執したフランクリン没後の死去ゆえに、その後のチャーチルやスターリンとともにフランクリンを引き継ぎ米大統領となったハリー・S・トルーマンについても軽視は許されまい。
通称クリミア会議の日程は一九四五年二月四日―同月十一日の間と知られる。リヴァディア宮殿に臨席した米大統領フランクリンと英首相チャーチルとソ連議長スターリンはソ連の対日参戦と国連の再編をテーマに、ドイツ及び中部と東部のヨーロッパにおける利害関係を調整するため、戦後の国際政治に係るレジーム(国際間の枠組み創出)を話し合ったとされる。
ソ連随一のリゾート地リヴァイディア宮殿はロシア皇帝ニコライ二世の離宮として建てられた。
通称ヤルタ協定は極東密約とも言われ、後出しジャンケンの如き米大統領アイゼンハワーの言明は一九五六年「フランクリン個人の文書で公式文書とは異なる」との頓珍漢を装っている。
この時の協定によると、イギリス、アメリカ、フランス、ソ連の四か国によるドイツの分割統治とポーランド人民共和国の国境策定やバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)処遇など含む東欧諸国の戦後処理についても取り決められていた。
イギリスとフランス、ドイツとイギリス、ドイツとフランス、ドイツとポーランド、バルト三国とポーランド、いずれも国境が隣り合う関係のほかに、旧ポーランド政権のようにイギリス国内に亡命政権を構築するなど、ヨーロッパにひしめく国際政治は断つ事できない因果を有している。
特にアメリカンドリームとソ連シンドロームが日本を標的に取り決めた「ドイツの降伏90日後に行うソ連の対日参戦には、千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本領処遇がセットだった」事を約する米ソ間だけの秘密があった。この米ソインチキ体制を検証しないかぎり、領土に関する先人の労苦に報いるなどは、出来る訳もないウソの上塗りにしかなるまい。
ただただ税金を無駄遣いする「絵に描いた餅」を眺めるだけはやめるべきだ。
フランクリンが大統領在任中に副大統領ハリーと面談した機会は一回のみとされる。これ本当なら民主化を標榜するアメリカの実態は単なる独裁と断じるほかないが、独裁が嘘ではなかった事を示す表面化こそ新世紀の前大統領ドナルド・ジョン・トランプによって演じられている。
私に民主化アメリカンドリームのウソを白日の下にさらす気にさせた大きな要因ともなった。
米大統領ハリーの外交デビューは、第二次世界大戦の戦後処理における最終項のポツダム会談から始まるとされる。米大統領と英首相に始まる大西洋会談、先の二人にソ連議長が加わるカサブランカ会談、米英の二人に蒋介石(中華民国国民政府の主席)を交えたカイロ会談(ソ連議長は対日関係を考慮して民国主席との面会を回避した)、米英ソ三首脳が臨席したテヘラン会談、前回と同じヤルタ会談これら会談の最終項がポツダム会談というわけである。
つまり、米英ソ三国の首脳三度目の談合がハリーの外交デビューであるが謎が多すぎる。
アメリカンドリームに「独裁」のキーワードを当てはめれば、確かにフランクリンの後継ハリーが決した指示の大半は当てはまるが、国際政治に米大統領ごときの独裁など通用するはずない。
ポツダム会談は一九四五年七月十七日―八月二日の間ベルリン郊外ポツダムに所在のツェツィーリエンホーフ宮殿において開催された。つまり、ヤルタ会談から五か月後のことである。
この五か月の間にはフランクリンの急死、ムッソリーニの銃殺、ヒトラーの自殺などあり、ソ連は米大統領が提唱した無条件降伏をドイツにつきつけ、死地へ追いやられたドイツの決死隊から甚大な犠牲を被るところとなり、その自責を負うスターリンは威信回復のため、ルーマニアやポーランドに共産政権を樹立する事で帳尻を合わせようとした。
これらは国際政治の目からみれば、ソ連に言い分はあるとしても、ヤルタ協定に対する違約の弁明理由にはならない。しかも米大統領が副大統領からの昇格ハリーに代わっており、そのハリーは英ソ首脳と面識を持った事がない外交音痴とみなされている。
連合国の古参チャーチルが諸々の関係修復に気を配るのは当たり前のこと、とってつけたポツダム宣言なんぞは本質的な確執を装う単なる上辺の飾りつけにすぎない。
そこで直ちに浮かぶのはフランクリンに二系統のキャビネットが存在したこと…。
キャビネットに内閣などの訳あるがアメリカンドリームの場合は似て非なる性質を有している。
新聞王ウィリアム系キャビネット、もう一つはエドガー系であるがここでは触れない。
世界最大級の企業グループ・ハーストコミュニケーションズは、フランクリンの相棒ウィリアムが起こしたメディアのコングロマリットであるが、今や新聞・出版・テレビ・インターネットサービス等の分野に止まらず、不動産を含む機密性業態には政界との計り知れない深層が隠されている。
ウィリアムは一九五一年八八歳で没するまで、フランクリンと同じ仲間で一九六九年に没するジョセフ・P・ケネディや一九四一年に没したウィリアム・マカドゥーとの絆を保ち続けていた。
戦後日本のマスコミが扱う情報の大半は多国籍企業の配信を購入販売するだけ、その業態を時代の流れに沿った企業化へ向ける事で大型ビジネス化を為したモノにすぎない。
而して、アメリカンドリームとソ連シンドロームに基づく教育を信仰する以外に生きる方策がない日本人は自主自立を目指すにも多くの難関をクリアーしなければならないのだ。
(つづく)