以下、亮吉の選挙関連と政策実施へ踏み込んでいくが、その一つ一つに籠められた計画性と実施のプロセスは学ぶこと多くあり、現行下の政治家志望には必ずや参考になるはず。上代から伝えられる言葉に「バカじゃなれない利口になれず中途半端じゃ尚なれず」のカバネが政治家でもある。
亮吉の都知事選一期目(一九六七ー七一)の二年前(一九六五)に行われた都議選は佐野善次郎のミソギハラヘによる初の解散選挙で前述の通りである。全議席数一二〇のうち、自民党三八、社会党四五、公明党二三、共産党九、民社党四、無所属一、が投票結果であった。
ここに少し選挙と政治に係る私見を述べるが、いずれも実体験に基づく一つの事例ゆえ他の経験と覇を競うものでない事を前提としてほしい。つまり、選挙を経ないと政治家になれないからだ。
永田町に集う政治家は都道府県四十七自治の代表達に違いないが、彼らの選挙に強いエネルギーを及ぼすのは政官業言の趣向そのものであり、個人の意志で成る票は微々たる量でしかない。この際の政とは公約実践のために属する立法会派の趣向であり、官とは同じく各省各庁の趣向、業とは実際に票田を構成する組織の趣向、言とはメディアの趣向であるが、これらを汲まなければならない。
これらが認識できなければ、単なる税金を貪るだけのロビィーストでしかない。さらに政官業言は確かな目的すなわち利権を絆に結ばれている事を通常としている。すなわち、この政官業言との絆を持たない者は政治家という意匠をまとったロビィーストにすぎないため、政官業言から見れば単なる税金泥棒が選挙に立候補しているとしか思えないのである。
そのため、永田町に集う政治家の実態は都道府県四十七自治の代表者とはいえず、本当に都道府県四十七自治の趣向を集められる統一場は全国各地の人が集う東京のほうが適しているのだ。永田町の趣向は中央集権制であり、丸の内は東京を第二の故郷とする趣向が支えている。
日本人がテレビを最大の絆とするのは昭和四十年代(一九六五ー七五)に確定するが、文化的には皇太子殿下御成婚パレードと東京オリンピック&パラリンピックのエネルギーによって決定された。時あたかも丸の内(都議会)はミソギハラヘによる解散選挙が行われ、副知事鈴木俊一の引き継ぎを理解した亮吉が初の都知事選(一九六七)に臨んだ。
自民党三八議席と民社党四議席が推薦の松下正寿に対し、亮吉は社会党四五議席と共産党九議席の推薦を受け付けている。惜敗した松下(一九〇一~八六)は牧師の家柄で京都に生まれ、青森県八戸聖公会に育ち立教大卒を経て同大総長となり、その職を辞しての立候補となった。落選一年後の第八回参院選(民社党公認)で当選これ一期のみで引退したが、それは前回のリベンジと共に心に秘める思いが隠されていた。つまり、キリスト教に冷淡な自民党への念がこもっていたのだ。
松下が都知事選に再チャレンジした時は亮吉の三期目に当たり、自民党は腐れ外道の石原慎太郎を公認していた。結果、松下の獲得票は惨敗(三番目)のち松下の生涯は統一教会と共に歩んでいる。私は平成の御代に至ったとき、統一教会グループの世界日報で重責を果たす木下(編集局長)副社長付として、大凡五年間ほど緊密な関係を保ったが詳しくは後述としたい。
亮吉が都知事の時代に時勢の寵児へ駆け上がったのはテレビの番組づくりにあった。これ当に闇の支配構造すなわちマインドコントロールが茶の間を植民地化する趣を秘めており、のちテレビを以て放たれる情報には必ずや明確な企図を持つ心理的操作が混じっている。
それはさて、初の選挙で亮吉が放った第一弾は「青空バッジ」を売る事で軍資金の足しにと目論むオリジナリティーであり、公表七十万個は売れたとされるが実質は亮吉だって分からない。こうした安上がりな成功例は直ちにブーム化するが、ブームは視聴率に追われるテレビマンの好物その中から巣立つのがモノマネであり、モノマネは最低限の視聴率と低コストを約束してくれる。而して、その結果として出現する社会現象がサルマネである事は言うまでもない。
亮吉が放つ第二弾は「スマイル」であるが、亮吉スマイルはモノマネにならない、亮吉が還暦前に味わった経験と天与の資質はサルマネ出来るほど安上がりのものではない。亮吉との初対面は佐野が私に与えてくれたチャンスであったが、そのとき私は亮吉が見せた険しい表情が忘れられない。のち佐野が私に囁いたのは「議会でもあんな険しい表情を見せた事がない、余程お前(私の事)に何かを覚ったのだろう、私(佐野)も最初お前に会ったとき一瞬イナヅマが走ったよ」の言であった。
どんな世界も一緒であるが、組織のトップに就くと必ず参集するのが腹に一物を含む取り巻き連で狼狽えるようではトップの座は温まらない。すなわち、取り巻きが組むスケジュールに引き回されるトップ如きでは、自身が描くビジョンを仕上げるなど夢物語にすぎない。
亮吉は選挙前すでに前任の副知事鈴木俊一から引き継ぎ事項を聞いていた。前任知事の東龍太郎は自民党推薦その特任副知事が選挙前に亮吉の当選を見越した引き継ぎ事項を話し合っているわけだ。必然そうした閉じられた空に働くのが政治というもの、そのアリバイを茶の間に伝えるのがテレビの役割でもあるが、視聴者の受け止め方で選挙の投票行為が決まるため事は重大なのである。いわゆる浮動票すなわち利権とは無縁の票であるが、利権票が圧倒的な永田町に比べると、無党派の動向から当落が決まるのは丸の内が圧倒するため違いは歴然なのである。
次は亮吉の政策であるが、老人医療無料化の実施が優先と定めた。亮吉が自ら味わった生活不安は関東大震災と東京大空襲の後遺症であり、物理的な復興が進む一方にあって、心象的な手当ては無に等しいまま時勢に流されてきた。
この天災に人災が加わった二つを体験したうえに、更なる重圧は人口減を回復せんと企む「産めよ増やせよ」の政治課題もあった。これら一方的な荷を負わされた年齢層への見舞いとして、永田町に刺激を与えるため、亮吉が放った武士道精神の第一義は「償い」の意が潜んでいた。
老人医療費の健康保険個人負担分を都が肩代わり、全国に先駆け発した英断は都民からの絶大なる支持を得たが、行政府(特に厚生省)と自民党の反発は妖怪そのものと化し、なりふり構わぬ利権のバラマキで都議会を数で牛耳る工作に奔りまわった。徹底した正攻法で臨もうとする亮吉を圏外から支援したのが、田中角栄を動かした鈴木俊一これこそが國體由来のナミダであるが、ブルドーザーのニックネームをもつ角栄は俊一の上前をいく策士の本領を発揮している。
都民の圧倒的支持を得る老人医療無料化のテレビ・ニュースは、全国の茶の間でも圧倒的な人気を拡大させていった。票田に鋭敏な角栄の馬力はすさまじく、霞が関の反発はブルドーザーの音にかき消され、永田町も選挙に弱い議員が角栄に靡くという現象を明らかにしていく。
昭和四十二年(一九六七)四月二十三日は亮吉六三歳が都知事スタートした日であり、私二五歳も結婚十六か月後にあり、すでに都の伏魔殿をミソギハラヘした佐野都議は私のステップアップに次の課題を与えるべく用意を済ませていた。伏魔殿の裏金作りが公に活かされるならともかく、伏魔殿が慣習とした裏金は捻出方も消費方も公私の分別がつかなくなっていたのだ。
議会も役所も自浄作用は皆無であり、それは与野党の結託と見ても違いはない。私たちが日常的に見る与野党の政治的トークは、いかにも政策に相違あるかの如く振まうが、やること為す事みな一蓮托生と思うほかない連鎖につながれる。ボロは着てても心は錦そんな晴れ姿など見たことない。
如来大悲の恩徳は身を粉にしても奉ずべし、師主知識の恩徳も骨を砕いても謝すべし、粉骨砕身の経典仏語ではあるが、時ところを選ぶことなく誰もが覚るべき教えではないか。
老人医療費無料化のテーマに対して、厚生省と自民党が発した本音は「枯れ木に水をやる愚策」と罵ったのである。建前では「個人負担分の肩代わりは健康保険法違反に当たり、実施は不可能」との決まり文句を繰り返すのみであった。これらは百年一日の如く未だ改まるようすがない。
前年(一九六六)十二月に幹事長を辞任した田中角栄は翌々年(一九六八)十一月に再び幹事長に復帰している。ちなみに、娘眞紀子が直紀(旧姓鈴木)を婿に迎えたのは約五か月後であった。田中角栄の幹事長復帰に関する憶測は尽きないが、亮吉の政策テーマを後押ししながら、自身が総裁への階段を駆け上がるエネルギーに替えてしまう才覚は並の政治家とは違っている。
角栄が幹事長復帰する前の十月二十三日は、明治百年記念の改元日に当たり、政府が主催する記念式典が行われている。時に表面化する社会現象の萌芽こそ、教育制度の崩落と瓦解それらストレスが日本初の学生運動を呼び起こすことになった。いかに覇道一神教の教育が浸透していたかの証左でもあり、以後、日本社会を揺るがす学生の騒乱には、幕末の世界青年党を思わせるものがあった。
ここに老人医療無料化その後の変遷を述べておきたい。
亮吉の政策つぶしというよりも、自民党のメンツをかけた党員たちは、抗争さ中に迎えた全国統一地方選挙で自らの牙城が崩される敗北感を味わったり、破竹の勢いで抬頭したブルドーザーの馬力に戸惑ったり、など重なって老人医療無料化を封じ込める勢いを失っていった。
昭和四十六年(一九七一)七月、佐藤栄作(第三次)内閣の通産相に就任した田中角栄は、日米繊維交渉に決着をつけると、翌年(一九七二)五月に栄作派内から議員八一名を手の内に取り込み派内派を結成ただちに『日本列島改造論』を発表するや、自民党総裁選挙にチャレンジさらに政権の座も自力で勝ち取ると、テレビは挙って角栄を秀吉に擬え今太閤として連日リピートしまくった。
角栄は老人医療無料化を自身の政策に転化し、「福祉元年」と銘打つ内閣は列島改造のバラマキを全国レベルに拡大してしまった。同四十八年(一九七三)全国七〇歳以上の高齢者医療は無料化され病と無縁の高齢者も入院させる病院ビジネスまで盛んになり、かつて亮吉に反攻した自民党都議団は無料化七〇歳を六五歳へ引き下げる始末もはや何をか況やバーゲンセールの競い合いと化した。
同年(一九七三)十月の度肝を抜くオイルショックに対し、テレビは今更ながらの財政悪化を嘆くリピートのみ、やがて今太閤の晩期はロッキード事件の人身御供で終えるところとなる。俄仕込みの行財政改革(一九八一)は土光敏夫(経団連会長)が率いる臨調に引き継がれて、老人保健法(一九八三)に基づく制度に改めたあと、現在の後期高齢者医療制度への流れに身を委ねている。
以下、再び記事を亮吉の政策テーマへ戻すとする。
老人無料パス(現シルバーパス)とは都営交通無料化(一九七三)実施のこと、翌年から都内のみ民営バスも無料化しており、この政策は今も絶えずに続行されている。
別件では無認可保育所への助成、児童手当の創設、東京ゴミ戦争の宣言、都主催の公営競技(ギャンブル)廃止この意味するところは後述別記をもうけたい、公害防止条例および国に先駆けた独自の環境(公害)局を設置、歩行者天国の実施(一九七〇)は銀座・新宿・池袋・浅草の四か所に始まり順次追加される、都電の撤去(前知事からの引き継ぎ、のち荒川線27系統と三ノ輪橋ー王子駅前の32系統は除かれることになった)など、いずれも過去になく今も続く政策ばかりである。
亮吉の政策で特記を要するのは、都の職員数増と給与水準のアップで、他の地方公務員に比べると全国最高を記録して、給与額は国家公務員より十八・三パーセントも増えている。当然これらは護送船団方式の横並びを好む日本社会の慣習になじまないため、人件費を抑え込む事に熱心な経営陣らの主導で姑息な工作を用いる反攻が展開されていった。
つまり、古来日本の文化的特徴は、長所と短所が絶妙に絡み合う二重らせん構造でなるため、自ら身に帯びるモノサシに頼るところが多くなり、それは決して悪くはないのであるが、戦後の日本人が味わう不幸はアメリカ式デモクラシーをマトモに受け容れてしまったこと。この勘違いした民主化と日本人本来のモノサシは完全に消化不良を起こしており、それを覚らないまま身に帯びたモノサシを頼るから、パンドラの箱と見まがうテレビに脳内が汚染されてしまうと思うのである。
亮吉の政策事案にことごとく反意を抱く政官業言の原因ここにありとは、私の自負である。
公営競技(ギャンブル)に対する亮吉ブレーンは全員が他界されてしまった。その事を知りながら証言するタイミングを失ったこと、そこに私の使命があるのではないかと今は覚っている。むろん、墓場に抱え込んで眠る秘事と思い証言なんて考えた事すらなかったが、この記事を起こしているうち必然性が生じたので明らかにしておきたい。
すでに前述しているが、そもそも公営は相応の基盤を備えた上に成立するものであり、それは伝統文化に根差した土壌のもと巣立つ事に意義が存するのであり、日本では神事と祭祀を執り行う興行の精神から生まれている。ただし、興行の成立には不可欠な要件があり、神事と祭祀に随うこと純真なプロフェッショナルの奉仕ある時はじめて適うことになる。
そのプロフェッショナルがテキヤであり、そのテキヤを率いるのが興行主であり、興行主の信仰は皇祖皇宗の揺るぎない信仰に肖るカバネでなければならない。敗戦後すべてを占領したGHQが目を見張って唯一驚愕したのは、闇市を仕切るテキヤのエネルギーであった。その歴史を私に説いたのが真鍋八千代である事は言うまでもないこと、真鍋系栗原を継ぐ私にしてみれば、代々神官を継承したカバネの言はきめ細かく行きとどき、当時現役の興行主だった八千代の言は実に明快であった。
亮吉支援が奉仕の最期となった八千代は昭和五十年(一九七五)に没している。
GHQの占領政策は一般に三エス政策と言われ、スクリーン、スポーツ、セックスを解き放つ事で日本人を換骨奪胎せんとして、その最新兵器に利用したのがテレビの普及率であった。その戦略上に浮上した戦術こそ津々浦々まで行き渡ったテキヤのネットワークであり、それをそっくり占領政策の要に据えるため簒奪したのが新ジャンルのテレビそのものにあった。
日本に伝統文化を根付かせた第一のプロフェッショナルはテキヤであり、テキヤの秩序を保つプロフェッショナルとして根付いたのがバクトであり、この双方を結ぶ絆こそ任侠であり、この絆は目に見えない阿吽の呼吸に成り立つものゆえ、見える物しか信じない者には理解されないのである。
GHQは見える物しか信じない急先鋒であり、それは最強の暴力装置を有しており、それらを使う権利の独占も許される状況下にあった。まして日本人でさえ理解しようとしない任侠など知るよしも考えないのが、治外法権下に置かれる世界最強の兵器を持つ兵士たちなのである。
そんな暴力装置に操られる傀儡が日本のテレビ界であるから、テレビ界に逆らうなどは十七世紀の初期出版『ドン・キホーテ』と似たような運命になるのは火を見るよりも明らかである。
日本で下剋上と見なされる成功例は全部がすべて自浄作用を伴っており、必ずしも下剋上とは言い難い内実が潜んでいるために、世界的な列強国で起こるような下剋上とは確実に一線を画している。而して、日本人の物とは言い難いテレビも同じように、自浄作用よりも下剋上が運命であり、それは世界中のテレビがデジタル化に染まった時その役割を終えるであろう。
ともかく、亮吉が八千代に託した公営ギャンブル廃止の意味するところは、テキヤとバクトによる運営でないかぎり、日本伝統の自浄作用は皆無となり、マフィアやギャングのカジノがはびこるのは必定これ任侠の根絶やしにもなる。カジノは兵士のストレス解消場でもあり、マフィアとギャングが狙う最大の利権はテレビを用いて世界の興行を仕切ることにある。
これまで記事にした文字数は三十一万六千七百七十五に達したが、どこまで続けるかの問いが届き掲載が続くなら未だ五分の一にも満たないと応えたら、闇の世界事情を詳述すると、本筋へ入る前に絶筆の事故も起こるから、今は寸止めにするようにとの指示が伝えられた。
どうあれ、亮吉都政の上っ面を情報化するのは誰でも可能であるが、千切り取りや摘み食いを世に知らしめるビジネスは後世に軽蔑されるのがオチである。大衆酒場の酔っ払い談義にも劣るテレビのワイドショーにすがるのは、視聴率の最低限を得る見込みが立つからであるが、そんなレベルにまで凋落するほど今のテレビ界は苦しんでいる。つまり、短期間で消える情報とは異なり、亮吉に関する情報は歴史の千切り取りや摘み食いでは理解できないため、無理にこじつければ自身の愚かさを世に知らしめる結果しか得られない。
亮吉を記事にするマスコミのワンパターンは、社会党と共産党が支持基盤の革新知事とレッテルを貼るや、浅田孝(建築家)をブレーンに、安江良介(のち岩波書店社長)を特別秘書として、「広場と青空の東京構想」を掲げたと言うのが定番になっている。都知事選二期目は自民党擁立と言うより首相一押しの秦野章(前警視総監)が相手となり、秦野は学生運動七十年安保闘争と呼ばれる騒乱の中で連日テレビに囃された名優でもあった。
当時(一九七〇)都議会の警務消防委員長だった佐野に伴われ、警視総監だった秦野に私も何度か話を聞いたことがある。表面上はバサラを装ったが、内面は冷静沈着な人と思っている。ところが、内務官僚や警視総監の職種は社共が執拗以上に悪評する遺恨の相手ゆえに、都知事選とは関係のない誹謗中傷の怪文書にさらされ、開票結果は無惨な大差をつけられての敗北を味わっている。
のち秦野は参院議員(神奈川選挙区)二期十二年間を務めており、政界引退後もテレビなどの放送媒体に引っ張り出されている。それは昇格の引き換えに自由を捨てた職域の定めなのである。
亮吉の都知事選三期目(一九七五)は日本古来の部落解放運動に揺らぐ選挙となった。
メディアは部落解放同盟と呼び、行政は同和問題と言うが、その本質は歴史問題にあり、学生なら誰もが知りたがる歴史を教育に組み込まないまま、世界中に覇道一神教の教育を浸透させたイエズス会の霊操を混入させるなど、そのストレスが爆発して学生運動が起こったのであり、学生の騒乱から浮上したのが部落に転化した歴史問題となったのである。
まずは都知事選であるが、社会党は解放同盟を支持基盤としており、共産党は解放同盟との不和を内包しており、それが原因となって社共連合の絆は脆くも崩れる事態を表面化させた。亮吉はすでに目的を達していた事から立候補の必要なかったのであるが、弟裕次郎の人気にあやかった腐れ外道の慎太郎が立候補を決めたこと、堕落も著しい自民党に活を入れること、それが避けられない重大事と遭遇していたこと、それら総合事情から鈴木俊一を温存するための立候補になったのである。
翌年(一九七六)二月アメリカ上院外交委員会でロッキード疑惑が浮上する事前情報があり、その影響を受ける日本社会のシミュレーションをしていた時期でもあったので、秘密裏に重ねられた鈴木俊一と亮吉の会合から、もう一期の汚れ役を亮吉が担う事で俊一の温存を図ったのである。
前述の松下も加わる三つ巴の都知事選は、当選した亮吉も楽勝とは言えなかった。
(つづく)