修験子栗原茂【其の三十八】松岡洋右の本懐

 さて大麓であるが、蕃所調所(東大の前身)で英語を学ぶや、渡英二度(一八六七と一八七〇)の留学中にケンブリッジ大セント・ジョンズ・カレッジで数理と物理の学位を取得している。同大学を卒業した初の日本人留学生とされるが、帰国後(一八七七)東大理学部教授となり、日本に初の近代数学を導入した事から、のち外国人教師への依存体質が改善されたと言われる。

 以後、同大学総長、学習院院長、京大総長、理化学研究所初代所長など歴任のち男爵を賜与(一九〇二)される。ちなみに、明六社への参加(一八七四)ほか、交詢社あるいは東京学士会院などへの関与(一八八九)は福沢諭吉の招聘ともされるが、前述した祖父阮甫や秋坪の経歴から諭吉の誘いを待つまでもない環境が大麓には備わっていた。

 英国留学中には、高校大学を通じて同窓のカール・ピアソン(相関関数で著名)と親しく付き合い帰国後ピアソンの編集本を翻訳出版している。またグリニッジ子午線を経度ゼロと決めた国際子午線会議に日本代表として出席するなど、大麓の事績はフィールドワークが基礎になっている。つまり、御用学のように上っ面を馴染ませる似非とは断然に異なっているから、自ら為すべきところの自覚が確かな場に誘うのではなかろうか。

 かつて私は多くの著名な経済アナリストに教示を求めたことがある。それは「子午線を以て生じる時差が日本の市場動向に不利益をもたらしていないのだろうか」という設問であるが、誰一人これに真面(まとも)な解を示す者なく、菊池大麓を知る少数の者も名を知るだけにすぎなかった。

 大麓は貴族院勅撰議員(一八九〇)から枢密顧問官(一九一二)に至る二十二年間を議員としての国政活動に費やしたが、枢密顧問官は現役のまま死去(一九一七)したとされる。享年六三歳の命が燃え尽きるまでの生涯を量るモノサシなどあろうはずあるまい。

 箕作(近江箕作山が出典)阮甫と大村登井(とゐ)の夫妻に娘四人が生まれ、長女せき(さき)は呉(山田黄石二代目)黄石へ嫁ぎ、二女(夭折)、新箕作家は三女つねの婿菊池秋坪が創り、二人の間に息子四人(圭吾、菊池大麓、佳吉、元八)が生まれる。その後年に箕作秋坪は三女つねの没後に再婚した妻(つねの妹四女ちま)との間に娘一人(なほ)をもうける、当時の四女ちまは先夫佐々木省吾を箕作家の婿に迎え二人の間に生まれた息子一人(箕作麟祥)と暮らす未亡人であった。

 すなわち、箕作阮甫家は長女が呉黄石家へ嫁ぐのであるが、両家は共に松平系津山藩お抱え医師を継ぐ家系の間柄にあり、二女は夭折、新箕作家は三女と四女(子持ち未亡人)の夫となる菊池秋坪が創建しており、これら相関の絆を理解し得ないまま、先を急ぐのは早とちりしか生まれない。

 ここに箕作秋坪の家族構成を時系列にして確かめるとする。秋坪二五歳にて結婚、長男圭吾の個人情報は生没年はじめ一切が隠匿されているため、徳川水戸藩主家の落胤説など、その推論やまないが要因は天狗党にあるのではないか。秋坪三〇歳で二男大麓が、秋坪三三歳で三男佳吉が、秋坪三七歳で四男元八が生まれる。この元八出生のとき、箕作(本姓佐々木)省吾は没後十五年その未亡人ちまとの忘れ形見(箕作麟祥)一七歳すなわち麟祥二歳の時に父省吾と死別している。もう一人が未亡人ちまを後妻に迎えて生まれた娘なほのこと、その嫁ぎ先は坪井正五郎(一八六三~一九一三)だから鑑識さえ誤解しなければ、箕作家に任じられた使命を透かすのは不可能ではない。以下、その家督の積み重ねに蓄えられるエネルギーの正体を明らかにしていきたい。

 次は菊池大麓の家族構成(妻たつと五女四男)を確かめておきたい。

 長女多美子は美濃部達吉(一八七三~一九四八)に嫁いで亮吉(一九〇四~八四)を産した。二女千代子は鳩山一郎の弟秀夫(一八八四~一九四六)と結婚、三女冬子は末広厳太郎(一八八八~一九五一)と結婚、四女英子は平山復二郎(一八八八~一九六二)と結婚、五女百合子は川村秀文(一八九八~一九八一)と結婚している。以上が女子五人、次に男子四人も記しておく。

 長男夭折、二男恭二(一八九三~一九二一)は三原繁吉(日本郵船重役)の二女タマと結婚、三男健三(東大教授)、四男正士(原子物理学者)など、大麓には従二位(旭日大綬章)が授与された。大麓の弟佳吉(一八五八~一九〇九)は日本初の動物学教授で世界的に知られ、カキや真珠の養殖を産業化する重責に大いなる貢献を果たしている。末弟元八(一八六二~一九一九)は江戸に生まれた兄姉らと異なり、その生地は美作津山で妻みつは進(しん)十六(そろく)の三女である。

 進十六(一八四四~一九二八)に始まる系譜は後述するが、この系譜に連なる人物から戦後日本の首相三人が出ており、それは松岡洋右の妹藤枝が佐藤松介に嫁ぎ寛子を出産してはじまる。寛子の夫栄作、栄作の兄岸信介、信介の孫安倍晋三であるが、後述で明らかにする。

 箕作秋坪の後妻ちまと先夫省吾の忘れ形見である麟祥(一八四六~九七)は、大麓生誕の九年前に生まれており、事績の重大性においては大麓に優るとも劣らない。麟祥は生地が江戸津山藩邸しかも生誕一年後に父と死別しており、のち生母が大麓の継母また同じ箕作姓ゆえ、戸籍が別でも義兄弟と思って間違いないが麟祥の戸籍は阮甫家後継とされている。

 二歳で父省吾と死別した麟祥一八歳のとき、父親代わりだった祖父阮甫も死去(一八六三)、その生地は江戸津山藩邸で阮甫の家督も麟祥が継いでいる。麟祥一六歳にして、蕃所調所の英学教授手伝並出役に就くと家塾を開き、乙骨太郎乙、鈴木唯一、外山正一、菊池大麓、同佳吉、大島貞益などに英学を教えており、一九歳になると外国奉行支配翻訳御用頭取の重責を担った。

 麟祥二二歳(一八六七)パリ万博(主宰ナポレオン三世)へ出席のため、将軍慶喜の名代弟昭武の随行員として澁澤栄一らと渡仏、そのまま留学名目で昭武と共に在仏一年を過ごした。帰国後に維新政府が新設の神戸洋学校教授着任を要請、応じるや兵庫県令伊藤博文が歓迎の出迎えをする。

 翌年(一八六九)東京へ戻り、外国官(現外務省)翻訳御用掛を拝命したが、外交官を嫌い大学南校(現東大)中博士すなわち官務兼任の私塾「共学社」を開き、岸本辰雄、中江兆民、大井憲太郎などを育てる。その傍ら副島種臣(参議)から仏刑法典の翻訳を命じられ、翌々年(一八七〇)には制度取調局長官江藤新平(後の司法卿)から仏民法典(ナポレオン法典)の翻訳も命じられている。

 文部省設置(一八七一)に参画させられ、学制の起草や制定などに主導的役割を担った。日本初の訳語は大半が麟祥の創作で「権利と義務」はじめ「動産、不動産」ほか、「治罪法、義務相殺、未必条件」などは造語に匹敵するものであり、民法典『仏蘭西法律書』全訳は五年間を要したとされる。日本初の近代法典が実物になる事から手探り状態にあった裁判制度にも目鼻が整い以後の近代化には欠くこと出来ない手引きとされた。麟祥が「法律の元祖」と呼ばれる所以でもあろう。

 後(一八九四)の法典調査会では副総裁西園寺公望が麟祥との交代を願ったとも伝わる。

 没年(一八九七)八年前から公務(司法次官)の傍ら和仏法律学校(現法政大学)初代校長を務め明六社の啓蒙活動にも尽くした中での急死には男爵が授けられた。

 家族構成は先妻もととの間に三男三女、後妻とをとの間に四男俊夫をもうけている。しかし、長男泰一も二男正次郎も夭折二歳のため、家督と爵位は三男祥三が継ぐも、祥三も独身のまま死去のため四男俊夫が継いで後世へ引き継がれていった。

 ちなみに、先妻は三沢精確(関宿藩医)と佐藤泰然の娘きはとの間に生まれた三女もとで、後妻は大前寛信の三女とをであり、麟祥の長女貞子は石川千代松(動物学者)に嫁ぎ、二女茂子は早世一二歳で召され、三女操子は長岡半太郎(物理学者)に嫁いだとされる。もう一つ加えると、先妻もとの母は佐藤泰然の二女であり、もとの長姉きみの夫は判事の三沢元衛(今村信行の弟)、次姉吉恵の夫緒方惟準は洪庵(一八一〇~六三)の二男、末妹さくの夫田村初太郎は特異な人材と知られる。

 麟祥や大麓と同世代で秋坪と未亡人ちまとの間に生まれたなほが嫁ぐ坪井正五郎(一八六三~一九一三)についても触れておきたい。

 正五郎の祖父坪井信道(しんどう)は美濃池田郡(現揖斐郡)の出身とされ、家伝では織田信長の七世孫とされる。幼児期に孤児となり、各地巡歴の中で東洋医学を学び江戸へ到着(一八二〇)して宇田川玄真(げんしん=一七七〇~一八三五)に蘭学を学んだとされる。玄真は伊勢安岡家に生まれ杉田玄白の弟子大槻玄沢の私塾「芝蘭(しらん)堂四天王筆頭」と称されており、最初は杉田玄白の娘婿かつ養子となるが、放蕩を事由に離縁され、次は津山藩医で芝蘭堂の高弟宇田川玄随家の養子に入って家督を継いだとされる。

 つまり、大槻玄沢の江戸蘭学を継ぐ門弟には、宇田川玄真、吉田長淑、藤井方亭、坪井信道、佐藤信淵、緒方洪庵、川本幸民、箕作阮甫、飯沼慾斎、青地林宗ら縁者が多く含まれている。

 正五郎の父信良(しんりょう)は越中(富山県)高岡の医師佐藤養順の二男に生まれている。初め京都の二大蘭方医の一つ小石塾に学んだあと、江戸(一八四三)へ移り、坪井信道(在深川)に学ぶ事で婿養子となった。嘉永六年(一八五三)福井藩主松平慶永に召し抱えられる。幕末揺籃期(一八五八)大槻俊斎、伊東玄朴らと「お玉ヶ池種痘所」を設立、コレラに罹患した横井小楠を助けた事で知られ、奥医師として法眼に叙せられるなど将軍慶喜の侍医も務めたとされる。

 坪井正五郎三〇歳(一八九二)の時に箕作秋坪の娘なほと結婚している。帝国大学理科大学動物学科卒(一八八六)後に結成した東京人類学会が正五郎のライフワークとなった。アイヌ民族のレジェンドになるコロポックルに関する論争は、正五郎がサンクトペテルブルグで客死するまで、大いなる騒動を巻き起こしていた。正五郎のコロポックル説は私の強い関心事でもあった。

 さて、箕作阮甫を第一世代としたとき、呉黄石や秋坪や省吾らは第二世代で、第三世代が呉秀三や菊池大麓さらに箕作麟祥や坪井正五郎らにあたり、第四世代が美濃部達吉ほかの人たちである。

 その第四世代を記す前に知る必要あるのが前記した進十六の系譜である。十六は長州の藩校「明倫館」に学び有備館舎長となり、のち明倫兵学校の兵学講師をつとめ、維新後は名古屋地方裁判所長を経て、行政裁判所評定官ほか文官普通試験・文官普通懲戒委員長など歴任している。

 十六には長男経太のほか、二女ヨシは得能通昌(とくのうみちまさ)に嫁ぎ、三女ミツは箕作元八に嫁ぎ、養女クマは斯波忠三郎に嫁いでいる。

 長男経太の長女龍が松岡洋右の妻であり、松岡の妹藤枝が佐藤松介に嫁ぎ寛子を産んでいる。この松岡はさておき、得能通昌(一八五二~一九一三)と斯波忠三郎(一八七二~一九三四)の個人的な情報を確かめておきたい。

 通昌は薩摩藩士得能良介の長男として鹿児島で生まれた。上京(一八七四)して英語を学び、陸軍省(一八七四)に入り、台湾出兵(信号士官)に従事、のち東京府で教育行政を担当さらに愛知県の勧業課へ転任やがて兵庫県地理課長になっている。大蔵省印刷局長の父の死去(一八八三)により、家督を継ぐと、大蔵省権少書記官として印刷局勤務に転じて、大蔵省三等技師→印刷局事務次長→同事務長→印刷局長→内閣印刷局長へ昇進していった。貴族院議員にも勅撰(一九〇六)された。

 忠三郎は男爵斯波蕃(しげり)の長男に生まれ、工科大学機械工学科卒(一八九四)そのまま大学院へ進み同大助教授となり、英仏独に留学して帰国(一九〇一)ただちに教授へ任命された。博士号取得とともに海軍大学校教授を兼任(一九〇六)機関将校の育成に当たっている。男爵の襲爵(一九〇七)後は特許局審判官、機械学会評議員→会長、海事協会評議員→監事→理事→理事長、飛行協会評議員→理事など務めている。南満洲鉄道(株)顧問に就任(一九三一)、創設された技術局の初代局長になり、満洲化学工業(株)や日満マグネシウム(株)など創設して社長に就任している。

 忠三郎の父蕃は加賀藩士津田正矩(まさのり)の長男ながら、家老津田内蔵助正行の養嗣子となり藩主十三代目慶寧(よしやす)側近として仕えている。この慶寧は近衛文麿の外祖父にあたる。また本姓津田正邦を斯波蕃と改名したのは遠祖斯波高経に因んだものであり、津田氏は室町将軍家の管領御三家筆頭の斯波氏分流だからである。

 さて松岡洋右(一八八〇~一九四六)伝には、官製発信を鵜呑みに出来ない事が多く含まれる。

 まず一般に知られる洋右の系譜であるが、廻船問屋の父三十郎と母ゆうの四男洋右には、藤枝なる妹がおり、佐藤松介に嫁ぎ寛子を産んだとされ、寛子は松介の妹茂世が佐藤秀助に嫁ぎ産んだ栄作と結婚したとされる。栄作の長兄に市郎そして次兄に信介がおり、秀助の弟信政は岸家へ養子入りして生まれた娘良子の婿に信介を迎えたとされ、この信介夫妻の娘洋子が安倍晋太郎に嫁ぎ生まれた子が晋三とされている。さらに晋三の弟信夫が岸家へ養子入りした現国会議員である。

 洋右は山口県熊毛郡室積村(現光市室積)に生まれた。洋右一一歳のとき、父の廻船問屋破産から身の置き所が大きく変わり、在米進出で成功した親戚を頼って渡米留学したとされる。

 当時、来日経験のあるオレゴン州ポートランドの米国メソジスト監督協会牧師メリマン・ハリスの厚い信仰に見守られつつ、日本自由メソジスト教会の指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受けて洗礼を受けた(一八九三)とされる。すなわち洋右一四歳の時にあたる。オレゴン州はアメリカ合衆国三十三番目の州で太平洋に沿って北にワシントン州、南にカリフォルニア州と接し、内陸の南東はネバダ州、東はアイダホ州に接している。

 合衆国三十三番目に昇格したのは一八五九年二月十四日とされている。

 どうあれ、洋右に限らず、履歴に苦学を盛り込む情報は本人の与り知らない事であり、もし本人が自分を苦学生と言明するのならば、その人間は碌なものではないとみなされよう。洋右の帰国(一九〇二)二三歳の年は、一月末に第一次日英同盟の調印と発効があり、四月にロシア政府と清朝政府が満洲還付条約に調印しており、十月に初の私立大学(早稲田大学)が開校しており、二年後には日露戦争が開始される時局に当たっての帰国であった。

 外交官及び領事官の試験合格(一九〇四)で外務省勤務となり、まず領事官補として、上海や関東都督府などへ赴任した際に後藤新平(満鉄総裁)と山本条太郎(三井物産)の知遇を得たとされる。後年の寺内内閣(外相が後藤)で総理大臣秘書官兼外務書記官を拝命そのサポートに携わり、とくにシベリア出兵に深く関与したとされる。ちなみに、中国滞在と内閣サポートに就く間にはロシア及びアメリカでの短期間駐在があり、その仕事が密命か否かは省くとする。

 大正八年(一九一九)パリ講和会議では報道係主任(スポークスマン)を担当し、同じ随員として渡仏した近衛文麿との初対面があったとされる。帰国後は再び中華民国で総領事を務め、同十年四二歳(一九二一)で外務省退官、このとき、政治介入が顕著だった満鉄は疑獄の真っただ中にあった。総裁の呼称は理事長から社長へ変わるなどして、トップが目まぐるしく交替させられ、そんな火中の栗を拾うような洋右の満鉄入りには、何らかの密命が潜むと見なければ歴史家とはいえまい。

 ロシア革命(一九一七)は満洲に大きな衝撃をあたえた。連盟十五か国のシベリア出兵は満洲をも戦場の一部と化したが、満鉄の反応は素早く革命前夜から手が打たれていた。表向きには同年六月に川上俊彦(理事)がロシア入り、二月革命から十月革命までの視察報告書を十一月十五日に提出そのレポートは寺内正毅や原敬などにも届けられた。満鉄内は総裁が理事長に変わり、原内閣成立(一九一八)の翌年には満鉄理事長の更迭、理事長を社長と呼ぶようになり、野村龍太郎の再任と副社長に政友会系鉄道官僚の中西清一を起用している。これにより、満鉄を舞台とする政治資金捻出の疑惑が帝国議会を揺るがせ、社長退任(一九二一)と同時の後任も三人が入れ替わり、全社員を加入させる社員会が結成(一九二七)されることになった。

 蒋介石の北伐開始(一九二六)は南京や上海の占領に始まり、翌年の山東省侵攻が迫ると、日本の内閣(田中義一首相)は山東省在留の日本人保護を名目に派兵声明を発している。これら深層構造に詳しい正確な情報は落合説が図抜けており、私ごときが繰り返し述べる必要などあるまい。

 満鉄中興の祖山本条太郎を満鉄社長に任じた(一九二七)のは、東方会議の後の田中義一で当時の山本は衆議院議員二期目であったが、外交官洋右がシベリア出兵に関わったころ、山本は三井物産に在職中で上海支店を拠点に密会を重ねた相手こそ洋右だったのある。

 洋右の外務省退官は満鉄への鞍替えに目的があった。そこへ山本社長の就任であり、山本の大胆な改革断行は洋右を副社長にすることだった。昭和五年(一九三〇)第十七回総選挙へ立候補するため洋右は満鉄を退社しており、この初当選から洋右に委ねられた本筋の天命が始まるのである。

 時に洋右五一歳その享年六七歳(終戦一年後)までの情報は据え置きとしたい。A級戦犯の容疑で逮捕され「俺もいよいよ男になった」と放ち「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉(よみじ)」と詠んだ辞世こそ本懐であり、現代チャラ男と異なるバサラ(傾奇者)そのものではないか。

(つづく)

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