応仁の乱で西軍に属した六角行高は荘園や一色政具ら足利系の所領も横領していった。一色政具が長享元年(一四八七)七月、横領回収の訴訟を幕府に持ち込むと、他の足利系も次から次へと訴訟に追随していった。加えて発覚したのが幕府所領の分まで横領されていたこと、威信回復に躍起となる幕府も六角氏打倒のため近江へ出陣遠征することにした。
これ鈎(まがり)の陣とも言うが、長享元年(一四八七)と延徳三年(一四九一)の二度に亘って幕府軍が六角行高(近江守護)征伐を目的に出陣した事件のことである。遠征一度目は近江栗田郡の鈎(現滋賀県栗東市)に陣を敷いて、観音寺城を放棄撤退した行高が甲賀郡山間部のゲリラ戦に持ち込むと戦闘は膠着状態に陥ることになり、総大将義尚(将軍九代目)は翌年(一四八八)側近の結城尚豊を近江守護に任命したという。
膠着状態を断ち切るため、対策の立直しが必要になった義尚であるが、それぞれ領国に不安要素を抱える守護大名には日和見的な態度が目立ちはじめる。そんな渦中で義尚の体調悪化が重体に陥って翌三年(一四八九)鈎の陣中に没してしまう。その翌年(一四九〇)延徳二年に先代義政も死去その後継は日野富子の推挙で義材(よしき)が第十代将軍に就いたとされる。義尚死去のあと空白期間が約一年三か月すぎるまで決定しなかった当時の様相を考えるべきだ。
第二次六角征伐の出陣は将軍十代目の宣言(一四九一)に始まるが、出陣直前に父が死去、前年に母が死去、伯母日野富子とも疎遠になっており、義材の孤立を補うのは日和見に活路を求める以外は見当たらなかったとされる。どうあれ、近江大津三井寺光浄院に本陣を敷いた義材は延徳四年(一四九二)十月に行高の逃亡を知るが、それを機に年末十四日の凱旋へこぎつけたという。
ちなみに、東軍と西軍に割れて戦った応仁の乱における大名のうち、鈎の陣に参加した幕府大名の主流を列記しておきたい。それは私なりの氏姓鑑識を済ませた藩主たちだからである。
細川政元(旧東軍)第一次のとき義尚が相談した唯一の大名とされる。
細川政之(同右)阿波守護、第一次の最中に病で倒れ、第二次は後継義春が参陣した。
畠山政長(同右)畠山尾州家、管領で第一次に参陣した。
斯波義寛(同右)守護代の織田敏定と寛広を率いて遠征の主力を担った。
京極政経(同右)六角とは同じ佐々木流であるが長い反目が続くとされる。
富樫政親(同右)出陣中に起こった加賀一向一揆で国元へ戻るが自殺に追い込まれた。
武田国信(同右)若狭守護、安芸武田氏四代目信繁の三男で若狭三代目の当主である。
山名政豊(旧西軍)西軍総大将で宗全(新田氏庶流)の後継、嫡男俊豊が赤松氏と戦った。
一色義直(同右)一色氏は足利氏一門で三河吉良荘一色を本貫に地名を名乗って始まる。
土岐成頼(同右)土岐氏は清和流摂津系美濃源氏で美濃を本拠に軍事貴族となる。
大内政弘(同右)日本各地にある地名ゆえ氏族は多岐に及ぶ。この氏は周防一帯を支配した。
朝倉貞景(同右)越前の戦国大名、旧西軍から旧東軍へ転じる策略家とみられている。
鈎の陣が戦場を甲賀郡山間部に持ち込んだ事で甲賀流シノビ衆がクローズアップされ、史上に載る魁のように思われるが、前述の通り、美濃部家が創建される前史には、信濃佐久の望月氏分流が既に甲賀流シノビとして移住していたのである。
縄文期の日本列島の先住民はヤマトタケルの時代まで、国栖(くず)、八握脛(やつかはぎ)また八束脛(やつかはぎ)、大蜘蛛(おおぐも)または土蜘蛛(つちぐも)とか呼ばれるうち、もっとも文明的な生活を構築していたのはアイヌ人だと私に伝えるのは修験たちである。
アイヌ人はもとから、競い争う事を必要としない文化を構築しており、ヤマトタケルが恭順を得る教養を施したのは、国栖や八束脛や土蜘蛛などの抵抗勢力だったとも伝えられている。
甲賀流シノビ衆や伊賀流シノビ衆と思われる人たちには、右の先住民の末裔も混じるのではと私は自負するのである。それらシノビ衆を養い・教え・禁じたのが、土師流菅原家から発祥した道真教に違いない、なぜなら双方シノビ衆ともに生き方が國體と思えるからである。
私は思う。土師流の祖とされる野見宿禰が殉死の風習を埴輪に代えたことを…。この発案は葬送の仕組みを司るカバネを賜る事になり、古墳群の管理から有職故実の重大性が見いだされ、それはまた家督の本質すなわち生きた命を継ぐ証になることを…。むろん異説ある事は承知の上であるが、私の与太話も通史を疑う異説なのだから、その説得力は読者に委ねるほかないのである。
結果、土師流から生じた分流三家が有職故実の在り方を研鑽したこと、家督の何たるかを明らかに理解させたこと、その結実が日本の伝統すなわち國體の礎になっていることを…。それはまた政体の頽落が生じても揺るぎないまま、その頽落の修復後には昨日と変わらない明日が来ること、この天変地異に対応しえる臨機応変こそが人生というものではないのか。
命が生まれる喜びは、果てる命のナミダを知るからこそ、心から祝えるのではないか、そのために失ってはならないのが有職故実であり、有職故実に欠かせないのが家督と思うのは違うのだろうか。私は唱えたい。皇祖皇宗こそ有職故実と家督相続の実相であり、その実在は私たちの御前におられる神格天皇ではないのかと…。
私は國體の真似事でもいいから目指したい。それゆえ、日野流シンランに学ぶのであり、それゆえ土師流ミチザネを知る必要があるのだ。私は土師流ミチザネを知りたいから、甲賀流シノビに接する事が出来たのであり、その伝承を探索した結果として、次の情報から手掛かりを得たのである。
天皇は神格ゆえ現人神である、私たちは神通力を得ても神格にはなれない、ただ、天皇の型示しと振る舞いから学べる事はかぎりなくある。私は歴代天皇に近習したカバネのうち、日野流こそ國體の第一人者と自負しており、その日野流と協調した第一人者は美濃部流と自負するに至っている。
この日野流と美濃部流の協調を為し得たエネルギーは、有職故実と家督相続にあり、日野流が表に働く場合は美濃部流が裏に働いており、その逆に働くエネルギーも同じこと、そこで裏の美濃部流が表に働く場合の下ごしらえと、実際に表で働いた根底に潜む目的は何だったのかを追う事にする。
いわゆる南北朝から応仁の乱に至るまで、その表に働いたのは日野流であり、裏で日野流を支えた働きは美濃部流の戦略に協調した甲賀流シノビ衆と私は自負している。
日野家の祖真夏(七七四~八三〇)に比するところ、菅原家の祖古人(生年不明~七八五)の代は没年に四十五年のズレがあり、古人は桓武天皇(七三七~八〇六)の侍読(じとう)で文章博士(紀伝道)を世襲するカバネの祖となり、清公(きよとも)二代目、是善(これよし)三代目と継ぎ道真四代目(八四五~九〇三)に継がれていった。
真夏は北家四代目に当たり、桓武天皇の皇子(平城天皇)が即位すると、昇叙一挙に急進しながら近侍その弟皇子(嵯峨天皇)即位後は公卿に加わり、平城京造営に任じられたあと、薬子の変に巻き込まれ左遷され帰京後は不詳とされる。道真と同世代は曾孫四代目弘蔭(生年不明~九〇四)で陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇の三代に仕え官位は従五位上(大学頭)にあった。
つまり、同世代の真夏と古人にあっては、公卿(最上官)昇叙の真夏が薬子の変で左遷され、その逆が広蔭と道真の代に生じており、公卿昇叙の道真が昌泰の変で左遷されている。その間は日野家が辛酸をなめれば菅原家が安定しており、その後は日野家と菅原家ともに政体貴族を務めつつ、未来に見合う新たな家督創建のため、日野家は宗教、菅原家は武士、その勢力を國體の備えとすべく互いを結ぶ絆を強化しながら、その核心を保つエネルギーに有職故実を用いたのである。
藤原流四氏族から北家が生まれ、北家流藤原氏が天皇の外戚勢力を構築していく一方には、北家流日野氏が新開の道を模索のうえ日野流シンランを輩出している。土師流三氏族から菅原家が生まれ、菅原流博士家が新開の道を模索のうえ菅原流ミチザネを輩出している。親鸞に関連する國體の働きに比するところ、道真に関連する國體の働きを私は美濃部家になぞらえ追ってきた。
仮に政体シノビ衆を伊賀流としたとき、國體シノビ衆は甲賀流それが私の自負するところである。美濃部家は宇多天皇の荘園(近江一帯)に端を発するため、近江守護の佐々木氏を支えるため、甲賀地域に根付いた先住シノビ衆を養い・教え・禁じる事で絆の強化を進めていった。その財源が大きく膨らむのは八条院(一一三七~一二一一)暲子内親王の差配によるが、平安末期から鎌倉初期へ至る乱世にあって、以仁王が平氏打倒の令旨(りょうじ)を発した時と教わっている。
八条院は鳥羽天皇(一一〇三~五六)の皇女であり、後継崇徳天皇(一一一九~六四)と同世代に当たるのが佐々木秀義である。以後、佐々木流から六角氏と京極氏が生まれ、日野流が南北朝騒乱の中核に働く事で現人神に転じたのが後醍醐天皇(昭和天皇も同じ)というわけである。
のち室町から安土桃山そして江戸開府に至る道のりは、前身の公家政権から執権政治へ移っていく過程に案じられた臨機応変の変革と教わっている。その際に必要な視野は世界情勢であり、世界的な視野を持たない者が何を案じても、その史観は千切り取った作品にしかならない。
世界も日本も人の手による文明は、封じる事が難義なウイルスに往生するとも教えられた。
武士(軍人)に役立つ教科は、政体に属する機関からは得られないとも教わった。その教えはまた修験とシノビの世界を結ぶ絆でもあり、両者に深く関わる私の実感とするところでもある。
さて、江戸時代は有職故実と家督相続の精神構造を回復するための期間でもあり、それを実践する家柄に指定されたのが日本のハプスブルグとなる箕作(みつくり)家だそうで、宇多源氏の佐々木流六角定頼(一四九五~一五五二)が近江箕作城に住み弾正を称した事に始まるとされる。
のち箕作家は美作へうつり、現在の美作市楢原(ならはら)に住んで箕作貞辯(さだもと)の代に医家としての祖になる。ちなみに、六角定頼は守護大名十四代目とされている。定頼(二男)五歳の時に京の相国寺鹿苑院(ろくおんいん)にて剃髪、得度十歳(一四九九)、病死の兄嫡男を継ぐため還俗して家督相続のち将軍十代目義稙(よしたね)の近侍となった。
定頼の子ダネが女系なのか疑えばキリないため、伝承どおり記すがいずれも生母不明として、細川清元継室、土岐頼芸(よりのり)正室、北畠具教(とものり)正室、武田信豊室、養子(三条公頼の三女)教光院如春尼(一五四四~九八)本願寺十一世顕如室とあり、長男義賢(よしかた)は六角氏十五代目として家督を継いでいる。
箕作阮甫(げんぽ=一七九九~一八六三)は貞辯の曾孫とされ、津山藩医の三代丈庵(貞固)の第三子として生まれ、津山藩主松平家の御医師並になるが、四歳のとき父の貞固を亡くし、兄の豊順も十二歳の時に失い家督を相続したあと、京都で医術修行を三年、藩主の伴で江戸に学ぶこと、長崎へ出向くことなど、その生涯は従四位を追贈された事から大凡の事は想像に難くはない。
以下、阮甫の婿養子、娘婿、孫、孫娘の夫、曾孫など列記したのち個々の情報に接したい。
婿養子には箕作省吾、箕作秋坪、娘婿には呉(山田)黄石、孫には箕作麟祥、箕作佳吉、箕作圭吾、箕作元八、菊池大麓、呉文聰、呉秀三、孫娘の夫には坪井正五郎、曾孫には菊池正士、坪井誠太郎、坪井忠二、呉建、呉文炳、呉茂一、曾孫の夫には石川千代松、長岡半太郎、美濃部達吉、鳩山秀夫、末広巌太郎、などいるが全員が一つの絆で結ばれている。
右記の個人情報へ移る前に重要な事柄を記しておきたい。
後醍醐天皇が治政の理想としたのは「延喜・天暦の治」とされるが、その原案は宇多天皇へ献上の儀に及んだ右大臣(贈正一位・太政大臣)菅原道真が建策したものであり、それを実践で示した歴代神格こそ後醍醐天皇であり、それは次のごとき型示しとなって如実に現れたのである。
総体的には学問・宗教・芸術など諸分野に高い水準の業績が刻まれている。儒学では新しい儒学と見なされる宋学受容を進めた最初の君主とされ、有職故実の代表的研究書『建武年中行事』を著し、真言宗では後宇多院と同様に密教庇護の阿闍梨を受けている。禅庭の夢窓疎石を世に出して、以降の文化的美意識に影響をもたらし、伊勢神道の保護は後世の神道に思想的影響を与えた。
特に宸翰様の代表的能書帝として、文観房弘真との合作『後醍醐天皇宸翰天長印書』等四件の国宝指定は書跡として圧巻である。和歌は二条派の代表的歌人で、親政下における勅選の『続後拾遺和歌集』や『源氏物語』はその研究者としても第一等の博識を有したとされる。
雅楽では琵琶の神器「玄象」の奏者かつ笙の演奏にも秀でたとされる。茶道の前身たる闘茶を最も早くに主催した人物の一人とされるが、温和な人柄を知る尊氏は生涯その臣下を自覚していた。また真言律宗の僧忍性がハンセン病などの救済に尽くした事に諡号「菩薩」を贈っており、文観らを通じ各地の民衆救済活動に励んだ律宗を限りなく支援している。
正妃西園寺禧子(さちこ)中宮との『増鏡』は円満おしどり夫婦の証ともみられ、これらの実践は確たる裏付けとして、菅原道真の理念を結実させた現人神の型示しなのである。
次は後醍醐天皇の治政(道真流私案)に関する所見を示しておきたい。
即位三一歳これは後三条天皇三六歳(一〇六八)以来二百五十年ぶりの宝寿三〇歳代の即位これが何を意味するのか、有職故実と家督相続の何たるかを自覚しなければ判るはずあるまい。
後三条天皇は藤氏長者を外戚としない天皇であり、生母(禎子内親王)陽明門院は藤原氏でも藤原道長の外孫ゆえ外戚の要件には相当しえない。それは即位後の治政にも表れており、重用した貴族は土師流大江匡房ら中流階級を登用のうえ、形骸化で弱体化した荘園の緻密な復興に着手している。その後継天皇が平安期最初の院政に乗り出す白河天皇とは前記している。
つまり、道真が大宰府で没したとき、施行された時平の荘園整理令は律令政治を支える財源として運用されたが、約百五十年の間に制度疲労の綻び露わになったのであり、のち白河院から堀河天皇を経て鳥羽天皇の皇女が八条院領の保有者となっている。
そして後三条天皇から約二百五十年後に同じ宝寿三〇歳代の後醍醐天皇が即位している。その間に運営された普遍の拠り所は荘園そのものであり、それゆえ荘園は聖地でなければならないのである。換骨奪胎された日本人が多数派を形成した今に至っては、荘園すなわち土地本位制の基礎も腐りかけ副産物の貯蓄性向にすがるのみ、その揺らぎを覚る人は今どれほど居るのだろうか。
後醍醐天皇に通じると、道真が設計した政策の全貌が透けてくる。道真が描いた骨太の政策は中堅階層を強化して、その揺るぎない重用を為すこと、その具体策は常に不飽和状態を保つこと、それを見定めるのは容易すなわち人口の年齢構成が底辺の広い三角立方体を保つことにある。
とはいえ、ないものネダリは役に立たない。社会は文明化が進むたび、聖地を奪い合う神学論争が戦争を引き起こす火種に転じていく。日本でも聖地が一神教の波に呑み込まれ、文明化を止める事は不可能な状態に陥っている。聖地の奪い合いを防ぐ戦略は有職故実と家督相続のほかない。
日本人は何ゆえ一神教を好まないのか、覇を競い争う国際政治に加盟しながら、一神教からみれば日本人ほど卑劣な族種はいない、そう思われても仕方ないのではないか。
戦争を回避する備えもない状況下で平和を希求するのは卑劣ではないのか。教育者が何を言おうと世界中に行きわたる教育は一神教の思想ではないのか。それを強要して憚らない義務教育の先進国は日本ではないのか、根が温和である族種の豹変ほど恐ろしいことはない、日本人を遥かに越える暴虐無尽な外国人が怖れるのは日本人の豹変を知ったからである。
温和な日本人の豹変を世界が知ったのは先の大戦であり、それを怖れるからこそ世界は日本が再び軍事大国にならないよう警戒するのであり、それが外国人の理不尽きわまりない教育制度に浸透して日本を指弾する事の柱ではないのか。
私は思う。道真が描いた骨太の政策は右記の如き誤解を避けようとしたもの…だったと。
その道真の設計を体現したのが、後醍醐天皇の型示しではなかったか。その型示しを具体的な振る舞いに現した教養こそが、有職故実の代表的研究書『建武年中行事』の内容ではないのか。それらは文観と合作した『後醍醐天皇宸翰天長印書』等四件の国宝に示されている。
(つづく)