次に柳原家であるが、日野家十七代目俊光の四男資明(一二九七~一三五三)を祖として鎌倉末期の創建とされる。戦国時代には各地の所領が武家に横領されたので、経済基盤の確保を事由に本拠を因幡国法美郡(いなばのくにほうみぐん)へ移している。
法美郡は現在の鳥取県に所在していたが、柳原三代すなわち資綱(すけつな)五代目→量光(かずみつ)六代目→資定(すけさだ)七代目に最も重要な所領地で直接経営に当たったのである。何ゆえ法美の地が重要であるかは他の史料に委ねるが、出雲と大和を結ぶ経済基盤とともに、古代史に及ぶ有職故実はもとより、歴史研究に携わる者には避けて通れない地域だからである。
資定の後継は分流町家から将光=淳光(一五四一~九七)を養子に入れ町家を断絶としている。
江戸前期の資廉(すけかど=一六四四~一七一二)は母が霊元(れいげん)天皇(一六五四~一七三二)の生母園国子の妹ゆえ、霊元天皇の従兄弟に当たり、病弱な兄に代わって柳原十三代目の当主となった。譲位後の期間が長い霊元天皇は一般に仙洞様(せんとうさま)と親しまれて、称号は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)の表記で知られている。
ここに注記を挿入したい、柳原家の史料に歴代数の違いを見るが本稿は家伝に順っている。
資廉は後光明天皇(一六三三~五四)の時に叙爵(一六五〇)あり、元服(一六五七)昇殿の際に後西天皇を拝謁、蔵人頭(一六七二)に就く翌年には参議(右大弁)と異例の速さで昇格した。また権大納言(一六八一ー八七)の間に武家伝奏(一六八四ー一七〇八)、最終的な位階は従一位だから柳原家一番の昇進ということになる。
資廉は武家の度肝を抜く豪胆さで知られる。元禄十四年(一七〇一)は歌舞伎十八番『忠臣蔵』の年にあたり、当年三月十四日のこと、勅答の儀を揺るがす凶事が生じた日である。当時の慣例で新年祝賀は幕府将軍が高家(儀式や儀礼を司る家格の旗本)を名代として、天皇と上皇(院)への奏上を行っており、その勅答の役職を担ったのが、資廉と高野保春(持明院基定の三男)であった。高家は三河の吉良義央が担っており、勅使饗応役を担ったのが播磨赤穂藩主三代目の浅野長矩であった。
周知のとおり、浅野による刃傷沙汰は、勅答の儀を続行すべきか否かで老中を惑わせ、その伺いに応じた資廉は「穢れ事に及ぶまでもなく苦しからず」として儀礼の続行を指示した。この冷静沈着な対応により、老中は浅野を戸田忠真(ただざね)に代え、式場を白書院から黒書院へと変え、凶事の沙汰を闇に葬ったのであるが、幕府の不手際は事件の表沙汰を防げなかったのである。
資廉の後継光綱(一七一二~六〇)十七代目も議奏と武家伝奏に就いており、その子光房あらため紀光(もとみつ=一七四六~一八〇〇)十八代目の著書『続史墨抄(ぞくしぐしょう)』は落合本の真骨頂である『南北朝こそ日本の機密』と深い関わりを有しているのである。
紀光四四歳のとき光格天皇の勅勘で下野して、二年後に復帰を許されるとの説あり、しかも出仕に応じないで父が遺した史書編纂に専念するとの説など、いずれも千切り取りつまみ食いでしかない。そもそも、柳原家は日野流にあって、旧辞編纂を担う家柄その情報開示の可否に関しても、厳格なる判断基準が設けられており、文献渉猟に重きを為す史家には不都合きわまりない。
官製史書の編纂は『六国史』以降断絶しており、公家社会も『百錬抄』すなわち亀山天皇時代から断筆されており、それらを嘆いた紀光の父光綱は自らの手で編纂着手にかかったが、その志に止まり病臥から脱する事ないまま永眠してしまった。その遺志を継ぐため、紀光は以後二十二年をかけ亀山天皇に始まり、後桃園天皇(一七五八~七九)までを扱った著書八十一冊を完成させたのである。
柳原前光(一八五〇~九四)二十二代目は幕末から明治にかけての人、戊辰戦争(一八六八)では東海道鎮撫副総督として、その三月には甲斐甲府城で職制を定め、城代を廃して甲府鎮撫使を担って維新後の外務省で働くことになる。
明治四年(一八七一)外務大丞として、伊達宗城(大蔵卿)と共に清朝を訪ね、李鴻章と日清修好条規の締結を果たしており、西南戦争では勅使として、島津忠義・珍彦(うずひこ)と会見した。
のち元老院議官となり、刑法・治罪法の審議に従事、駐ロ公使・賞勲局総裁・元老院議長など務め明治憲法(立憲議会制)の施行に対応している。憲法下(一八九〇)においては、貴族院伯爵議員に就任したが同年内に枢密顧問官となり、貴族院議員を辞任するのは、皇室典範の制定に関与する事を目的としたが、明治二十七年(一八九四)四四歳の若さで永眠してしまう。
前光の妹愛子(なるこ=一八五五~一九四三)は、父光愛(みつなる)の二女であり、大正天皇の生母その情報については省くとする。
前光の長男義光(一八七六~一九四六)が担った役割は極めて重いものがあり、異母妹の燁子(あきこ)すなわち白蓮(一八八五~一九六七)とのコンビネーションは簡単に計り知る事はできない。なぜなら、義光の母は伊達宗城の二女初子であり、白蓮の母は幕臣新見正興(しんみまさおき)の娘三人の末っ娘(りょう)であり、白蓮の物語は生誕前から始まっているのである。
新見正興(一八二二~六九)は三浦義昭(西御丸小納戸役)の子として生まれ、八歳のとき大坂の西町奉行に就く寸前の新見正路家へ養子入り、二年後の正路(まさみち)は将軍家慶の御側御用取次役に任じられ、享年五八歳(一八四八)その家督は養子正興が継いでいる。
正興は安政六年(一八五九)外国奉行に任じられ、翌年には日米修好通商条約の批准書を携え遣米使節団の正使として、副使村垣淡路守範正、監察小栗豊後守忠順らと共に渡米している。この一行に加わっていた塚原昌義(武田昌次)については落合本を参照してほしい。
享年四八歳(一八六九)の正興には娘三人がおり、長女は北海道へ嫁いでいたが、二女ゑつと三女りょうは奥津家へ養女に出されている。正興没のとき末娘りょうは数え二歳に満たなかった。二人の娘が奥津家へ養女に出された年と、奥津家から柳橋の芸者へ売られた年は不明でも、二人の艶姿には美形を見慣れた柳橋界隈もざわついたと噂され、姉ゑつの芸達は柳橋一と言われたそうである。
妹りょうは一六歳のとき、その見受けを伊藤博文と柳原前光が競い合って、結果は前光が妾としてりょうの見受けを決したとされるが、一八歳で女児を出産したりょうは二一歳で死去してしまった。この女児こそが白蓮であり、生誕後まもなく前光家へ引き取られており、生前りょうの元で養われた正興未亡人の生母は姉ゑつが引き取ったとされる。
以後ゑつは吉原の顔役飯島三之助に病身の母ごと見受けされ、息子房次郎をもうけたあと、吉原の芸妓とめを養女として奥津姓と芸を継がせたとされる。後年房次郎の妻が伝えた話だと礼儀に厳しい姑ゑつの日常は武家のようだったという。
白蓮は晩年生母の墓を探し当て、従兄弟に当たる房次郎との交流も重ねたとされている。
さて、義光であるが、伯爵家を継いだのは一八歳(一八九四)、(二年後)明治天皇に拝謁、日露戦争の功で勲等を受け貴族院伯爵議員(一九〇四)となる。白蓮事件(一九二一)で貴族院議員から身を退いたが、辞職まで半年近くを要した事に、商業メディアは義光をバッシングするのみである。
現行テレビ社会の商業メディアはワイドショーに代表されるが、彼我の違いにも気づかないゲスが何事をも自分のレベルに落とし込もうとするが如き思い上がりは今も昔も変わらない。義光や白蓮を悪意のどん底に追いやるメディアの企みには、それ相応の賤しさが透けて見えてしまうのだ。
富裕層に属そうとも、貧困層に属そうとも、家督の重大性に気づかない卑しいゲスは、自分の姿が生ける屍(ゾンビ)である事にも気づこうとしない。商業メディアに属する者の特色ともいえよう。他を見る事に集中するがため、自分を省みる事に気づかなくなるのだろう。どうあれ、義光と白蓮の挙動不審は明白な目的あってのこと、米ソ二極のインチキ体制を解くヒントが隠されている。
以下、義光と白蓮の挙動不審を生む謎を解かない事には前へ進むこと難しくなる。
柳原前光の妻が伊達宗城の二女初子であること、前光と宗城が清朝李鴻章と修好条規を締結(一八七一)したことは前記している。ここで宇和島藩主八代目の宗城(一八一八~九二)につき、認識を検めておく必要があり、信濃松代藩主真田家との関係も検(あらた)める必要がある。
宇和島が史書に登場するのは、平安期の藤原純友に端を発するが、藤堂高虎の宇和島築城から徳川政権の代へ移ると、富田信高を経て伊達秀宗(東北仙台藩)の入部を以て立藩とする説が知られる。藩主六十年の治世に就く村候(むらとき)五代目が中興の祖とされている。村候(一七二五~九四)後継は四男村寿(むらなが)六代目の時代であり、二男は家臣山口直承家へ養子に出され、その姓は山口直清(なおきよ)旗本(三千石)丹波守(従五位下)とされている。
村候の二男山口直清(一七五四~九三)の後継は、嫡男直勝(一七七七~一八二五)で、直勝の二男が藩主家へ養子として戻る伊達宗城であり、直勝の三男すなわち宗城の弟である宗孝(一八二一~九九)も伊予吉田藩主家へ養子入り、藩主を継いで八代目になっている。
村候の四男村寿(一七六一または三?~一八三六)六代目は、改革の停滞や藩内騒動のため、病を理由に長男宗紀(むねただ)に実権を預け(一八一七)、のち家督を譲って隠居(一八二四)そして永眠は十二年後とされる。
宗紀七代目(一七九二?~一八八九)も生年偽証の人とされる。この時代の重大事を認識しないで歴史を論じるなどは茶番にもならないだろう。総論は閑院宮家の成立であり、各論の一つに光格天皇在任と尊号一件があり、もう一つに将軍家斉就任と大御所一件があり、この重大事を知らずに歴史を論じるなら、それは衆生寄合の茶飲み話に茶を接ぐ番役にも値しないだろう。
ここに重大事の説明は省かせてもらうが、将軍家斉の偏諱を賜った仙台藩主重村は、先代から続く諱「村」の上に「斉」を加え後継二男の名を斉村(一七七五~九六)として、斉村は後継二男の名を斉宗(一七九六~一八一九)として、宇和島藩主村寿は長男(通称は主馬、号は春山)を後継にする事が決まってから、長男の名を仙台藩主斉宗から偏諱「宗」を賜り、宗紀と改めたのである。
光格天皇(一七七一~一八四〇)の天命と将軍家斉(一七七三~一八四一)の宿命には有職故実と家督継承の重大性が秘められている。在任期間は光格天皇(一七七九ー一八一七)・将軍家斉(一七八七ー一八三七)とされ、天皇に仕えた間宮林蔵(一七七五~一八四四)そして将軍に仕えた大黒屋幸太夫(一七五一~一八二八)が時に当たっての特務を遂行している。
戦国時代の損傷を修理するため、専守防衛の鎖国制を用いた江戸開府であるが、中期の中だるみは各藩内に内訌を呼び起こし、荒天と火山の鳴動は飢饉をもたらし、その復旧は自力で為し得ないため幕府の強制執行に容赦は効かなくなった。その象徴が後継藩主難への幕府干渉策であった。
通史は将軍家斉の側室四十人、子供は十六腹に五十六人が生まれたという。天明年間(一七八一~八八)の飢饉と大火(京都)は日本全体へ難問を広げていった、その被災は日本中の藩政を圧迫その結果として、改革に伴う定番に後継藩主の擁立を巡る分裂抗争へのコース、幕府は将軍の子を養子で送り込み後継藩主とする中央集権制の定番が強制執行されている。
福岡黒田藩主家も信濃松代藩主家も例外でなく、将軍家斉の偏諱も大藩・雄藩へ浸透していった。
それらはまた、通商交易を名目に日本侵略を企む列強諸国にとっても見逃せなかった。当時ロシア帝国のロマノフ王朝エカテリーナ二世(一七二九~九六)の啓蒙戦略は、かつて類例のない積極的な外交策を展開しており、特に日本へ対する思い入れは並々ならぬものがあった。
エカテリーナ二世に積極果敢を確信させたのは、二度に及ぶ露土戦争に勝利した事によるが、その反面アメリカの独立戦争では中立を堅持して、欧州各国の武装中立同盟を主導するなど、紛争仲裁に任じる外交姿勢を明らかにしており、フランス革命への介入も行うことなかった。問題は皇帝に就く前からまとわりつく私生活上の宿痾にあり、後継嗣子パーヴェル一世との確執は解消されなかった。
皇帝パーヴェル一世はクーデターで殺害(一八〇一)され、後継は長男アレクサンドル一世(一七七七~一八二五)が継いでいる。アレクサンドル一世は幼少から祖母エカテリーナ二世の手で養育を受けており、対立した祖母と父の二面性を宿したアレクサンドル一世はナポレオン(一七六九~一八二一)に振り回されるが、ベルナドットすなわちカール十四世ヨハン(一七六三~一八四四)後年のスウェーデン王家ベルナドット朝の始祖に救われている。
以後ロマノフ朝はニコライ一世→アレクサンドル二世→同三世→ニコライ二世と続くが、第一次世界大戦(一九一四ー一八)中のロシア革命(一九一七)で崩壊することになる。
ともかく、日本政府(当時は徳川政権)が外交圏内にロシアを捉えるのは、エカテリーナ二世から身近とするようになったのであり、大黒屋幸太夫の潜入はアリバイづくりであり、外交官の先駆者が公家に始まる事は落合本読者なら言うまでもあるまい。すなわち、日本政府が何と言おうと、海外の外交政治は貴族でないかぎり、列強は外交官としての格式を認めようとしないのである。
東山天皇(一六七五~一七一〇)が展望した開国の下ごしらえは、第六皇子直仁親王(一七〇四~五三)を初代に閑院宮家を創設することにあった。親王の第一王女始宮治子(一七二〇~四七)は西本願寺の湛如(一七一六~四一)へ降嫁して、第三皇子寿宮のち典仁親王(一七三三~九四)が閑院宮二代目となり、尊号一件すなわち尊号太政天皇(一八八四)と諡号慶光院(きょうこういん)では明治時代まで俟つが、徳川政権に大政奉還の天誅が降る原因こそ尊号一件の不敬にあった。
典仁(すけひと)親王すなわち慶光院の第六皇子が光格天皇であり、諱(いみな)は師仁(もろひと)のち兼仁(ともひと)、称号は祐宮(さちのみや)とされた。
つまり、光格天皇と将軍家斉の時代は世界中いたるところに、天災と人災の極みが重なり、それは偏に経世済民の任にある者たちが驕り高ぶった事にあり、現行の新型コロナ・ウイルスと呼称される騒動と同じこと、本質的な共通項は有職故実と家督継承の重大性に気づかないことにあるのだ。この事案を前提に柳原義光と白蓮の挙動不審に向き合うと見えないモノゴトが見えてくる。
私は日野本流の宿命を定めたのは親鸞だったと思っている。その自負を覚ったのは法友石川恵一の導きにあり、法友には迷惑かとも思うが、そんな私情に捉われるような品格ではない。法友の勤行は釈尊佛陀、聖徳太子、弘法大師、親鸞聖人への念を怠ることなく、例えば東日本大災害の波に呑まれ行方の知れない人たちへの縁起を絶対に諦めない、浄土法要のナミダを厳修する僧の鑑といえよう。
私にとってのヤマトタケル、私が自負する今親鸞は白蓮寺開山の釈恵念その人のことでもある。
さて、義光が名家柳原の家柄を落とし込めても、白蓮の成るがままを封じることなく、家督相続の道義を怠らなかったのはなぜか、白蓮が汚らわしい俗世に塗れながらも挫けなかったのは何ゆえか。日野流大谷家の西系光瑞が後継を宗務層へ託したのはなぜか、同流の東系光暢が後継を問題化させた意図は何だったのか、これらを単なる失態と判定するようならワイドショーと変わらない。
光格天皇一年(一七八一)は干支(えと)の辛丑(かのとうし・しんきんのうし・しんちゅう)に当たり、十干と十二支の組み合わせでは三十八番目、陰陽五行では辛は陰の金、丑は陰の土で相生の廻り合わせにあたる。私は思う、天明年間を上回るほどの政体動乱期があるのだろうかと。
天明三年(一七八三)六月八日、アイスランドのラキ火山が噴火その後ヨーロッパを襲った異常な気象はフランス革命の遠因と言われており、同年八月三日(旧暦七月六日)に噴火した浅間山は長く続いた日本の武家政権が大政奉還に導かれる遠因になっており、同年九月三日の講和条約(パリ)はアメリカ独立戦争の終結と同合衆国(計十三州)の独立を承認した調印式の日とされている。
ロシアのロマノフ王朝にあっては、エカテリーナ二世の軍が露土戦争を征して、在来の文明社会を主導する列強としてのデビューを飾っている。それは大国ロシアが未来のソヴィエト連邦へ移行する過程にも見えるが、これを単なる後付け論と一蹴してしまう前に一考を要するのではないか。
私の与太話は幕末期の石鎚山における修験に始まり、天明の飢饉に躍動した市井の任侠を抜粋する中において、官製の有識者グループへ丸投げした作り話をベストセラーに仕立てる権力、その姑息な工夫を常識と奉じる信仰社会の在り様を拙い乱文でさらしてきた。
世に言うインテリジェンスが何を奉じようと、世に言う飢餓難民のタネは尽きないのであり、世に言う平和運動が何を奉じようと、戦時下でも生まれる新たな命は尽きないのであり、世に言うインテリジェンスや平和運動は単なるパフォーマンスとしか映らないのである。政体に群がるのも生き方の一つかも知れないが、任侠すなわちボランティア精神は誰にも備わっているのであり、任侠の果ては白鳥となるヤマトタケルの姿が見えるのであり、それは貴方自身の姿にも見えてくるのである。
私の新婚旅行は京都駅前で仰いだ暗雲に始まったが、その雲間に微かな明かりを見たとき、そこに映った朧気はシンランのようであり、その親鸞が導いた先に表われたのは、霊鷲山と釈尊佛陀の姿で私自身の勉強不足を補うシンクロナイゼーションは神の助けとなった。
大戦後の黒い霧に始まる私のフォローアップは、光格天皇の即位年(一七八一)に達したことから事案の本質を知ることになったが、その期首は昭和四十年十一月六日であり、天明年間の世界展望が見え始めたのは昭和天皇の大喪礼に接したときである。
なぜなら、史上はじめて見る現人神の型示しに、世界中の弔問が服して見えたからである。
このとき、世に言う「お東さん騒動」の暗雲も消え去ったのであり、それは世に言う冷戦構造とも呼ぶ東西インチキ体制の崩壊にも通じており、繰り返される歴史の相似象は湾岸戦争そして九・一一事件へ連なるシフトへ移るのである。
つまり、東京を利権の戦場と化した黒い霧は、京都駅前に暗雲をもたらし、その兆しを究明せんと意気込んだ私のクラヤミは、昭和天皇の大喪礼に服したとき、天岩戸が開かれたしだいとなる。この仕儀が判ってみれば、黒い霧も暗雲も雲散霧消のメカニズムに動かされるだけ、私にとっては大きな負担となったが、その成果を思うと、苦痛に伴う養分の大きさに慶ぶほかないことがわかる。
所詮、衆生すなわち惑う俗世に漂う大多数は、身の程も弁えないまま、他人の不幸を蜜の味としか感じる事できないため、視聴率と戦うテレビのワイドショー・レベルに満足してしまう。これ本人の自覚次第のため、如何ともしがたいのであるが、本稿が「いわゆる吹原産業事件」の飛び火を被った日野流大谷家をテーマに多くのスペースを費やした縁起は、偏に家督の重大性と結び付くのである。
(続く)