●はじめに
前著『歴史の闇を禊祓う』(文明地政学叢書第一輯)は戦略情報誌「みち」に連載され一四回を数えた拙稿を一本に纏めたものである。言霊では「一四」とは「十(と)」+「四(よ)」、つまり「豊」を意味するので、これを一つの区切りとして、稿を締めくくることにした。「十四」の「締め」すなわち「豊島(とよのしま)」なる言霊の響きに従いたいと思ったからである。豊島は「大日本豊秋津島(おおやまととよあきつしま)」の略称であると同時に、奇しくもまた、同書を刊行する文明地政学協会の拠点である武蔵国・豊島郷に因む東京都豊島区の名称に遺されている。
言霊の解釈は種々あろうが、総じて一致するのは情報化に必要な因子の原型を日本語の基礎音に求める点であり、現代においては「ん」の音字盤の上に「あいうえお」のように因子五〇音字を配置した「五十音図」を、日本語の言葉を生み出す素元として用いている。
こうした因子の性質を土台に構想されて、現代文明を司る理法として認知されたのが元素周期表である。だが、元素周期表を組み立てる論理の淵源はギリシア神話にまで遡る。そこで神と神、神と人、人と人の間の闘争や葛藤を通し世界の誕生や万物の生成が説明されるが、素元の因子を究明するのにこうした還元論的神話回線を授用するのは間違いであり、実験科学の現場では本末転倒の順逆が立証されている。
神とはいかなる因子の組成構造体、あるいは細胞分裂体なのか、人の究極的組成構造体とは何かを極めようとする実験的現場においては、元素周期表を疑うまでに到っているが、それに比べ情報現場で主導権を握る政治の為体はこうした時代の流れに逆行している。これこそ現代の悲劇であり、統一場の理論の完成を妨げる原因であり、また実証と論証の統合性を見落とす愚にも通じるのである。
さて、今回からは、近世の歴代天皇における神格レベルの情報に触れることによって、わが国の歴史を貫徹して「超克の型示し」が示されていることを明らかにしていきたい。世界的規模の危機が訪れる度に、それを超克する方策がわが歴代の天皇や親王によって示されてきたが、それは同時に現代の危機を超克するための「型示し」でもあり、さらにはこれからの歴史を拓く理でもあるからである。
●神格レベルの情報
情報には神格レベルと人格レベルがあり、神格は「意」に発するも、人格は「知」に発して情を頼りに好き嫌いの時空に留まる。人は生まれるとすぐ生死の運命を他に託すことを余儀なくされる。如何なる遺伝子を持とうが、表意は情に始まり、環境に伴った知を身に帯びると、人は次第に情や知の効果を蓄え自立に役立てるのだ。問題は表意の相であり、誠か嘘か見破るのは簡単であるが、人格レベルでは見破れない。人は産湯で素を現し、時空の汚素に染まると、似非を受け容れる体質が出来上がり、虚しい口舌を使う嘘で閉じられた空間に身を寄せ始める。
ここが神格と人格で決定的に異なる点で、神格は産湯を済ませると常に禊祓を怠らない。禊祓とは身を削ぐ次元もあれば、霊(み)を濯ぐ次元もあり、然る後に水を注ぎ祓う日常の中で身を透かす位相を得ることにある。この表意を保ち続けるのが天皇の神格である。
本題へ進む前に時空の間、つまり、開かれた空間の情報を開陳しておこう。信書・衛生・治安の運営に伴う文明を契約するとき、住民基本台帳は国際社会でも一国家でも重大な情報資料になる。電子文明の現在でも、電話番号は均しく用いられる。日本の電話番号において、緊急通報あるいは時報や天気予報などは、何ゆえ局番なしの三桁で通じるのか?
如何なる根拠で110番を警察センターに、119番を消防センターと決めたのか?
これこそ、天皇の歴代数と結ぶ意味がある。例えば110番は第一一〇代後光明天皇、また119番は一一九代光格天皇に当たる。後光明天皇は似非権現たる家康の定めた御法度に降る天誅を自らの禊祓で鎮め、治安を修復し信書も衛生も安堵する「まつりごと」の本義を知らしめている。また、光格天皇は天命の大飢饉による食料危機と疫病伝染の生死に係る絶対的ピンチを超克するために、幕政では達し得ない修復を自らの禊祓によって成しつつ、同時に科学的シャーマンの上陸に備えた未然予防の措置さえ講じられていた。
今や神格を人格に落とし込めて恥じない日本社会は、すでに無力化した衛生や治安に続き郵政民営化という名のもと信書も壊滅コースを歩んでいる。局番いらずの三桁で通じる電話番号が期待を裏切るのも不思議はあるまい。
さて、本題の天皇制を本義の路線に乗せ換える目的のもと、過去と未来の連続性に結ぶ通史の時空を開かれた空間に導き出す窓を開くために、歴代天皇の神格に届く潜在性を掘り起こすことにする。
●歴史の連続性に働く神格エネルギー
第一〇七代の後陽成天皇は第一〇六代の正親町天皇の孫で、後陽成天皇の第三皇子が後水尾天皇一〇八代である。弟の第七皇子(好仁親王)が高松宮家を建て初代となる。一〇九代目の女帝明正天皇は後水尾天皇の第二皇女(興子内親王)で、異母弟に当たる後光明天皇一一〇代は第四皇子(紹仁親王)である。高松宮二代目は後光明天皇の異母弟で、初代の王女を娶り親王家を継ぐも、天皇の名代として公務に当たり、皇子なく崩御された天皇を承けて第一一一代の後西天皇として即位する。親王家当主が天皇即位したことにより高松宮家は有栖川宮家と名を改めるが、後光明天皇崩御年に降誕された後水尾天皇の第一六皇子一〇歳のとき、譲位を行い、霊元天皇一一二代は後陽成天皇の同じく約二四年の治世に当たる。約八年の在位期間を有する後西天皇は上皇として約二二年間を霊元天皇とともに神格を働かせた。この霊元天皇の幼名(識仁親王)が歴代の有栖川宮家に伝承される理由であり、親王家情報も重大ゆえ必要あるとき挿入して通史の禊祓に備える。
つまり、後陽成天皇の即位年(一五八六)から霊元天皇が東山天皇一一三代への譲位年(一六八七)までおよそ一〇〇年の間を禊祓すると、後西天皇の崩御年(一六八五)とも関連して、打ち消し合う共振電磁波のエネルギーが時代を透かし、過去と未来の連続性に働く神格のエネルギーが何かという傾向が明らかになる。
●神格における天子の道
宣教師ザビエル(一五〇六〜五二)の日本滞在(一五四九〜五一)に際し、当時の日本社会に台頭していく武将の三傑は織田信長(一五三四〜八二)、豊臣秀吉(一五三八〜九八)、徳川家康(一五四二〜一六一六)であり、数え年を用いた年齢順で信長一六〜一八歳、秀吉一二〜一四歳、家康八〜一〇歳に当たる。後陽成天皇の即位年は信長没後四年に当たり、秀吉四九歳の政権運営が確立されており、後水尾天皇即位(一六一一)のとき家康七〇歳で、政権は徳川二代将軍秀忠に移行していた。禁中並公家諸法度と武家諸法度の制定に重役を担う金地院崇伝(一五六九〜一六三三)と、家康の亡骸を巡り将軍家に絶対的な影響力を及ぼしたと伝わる南光坊天海(?〜一六四三)に触れておく必要がある。
金地院崇伝は臨済宗に属し、南光坊天海は天台宗に属した。崇伝は室町幕府一三代将軍足利義輝に仕えた家臣の一色秀勝の子として生まれたが、すでに将軍家の運命は三好長慶さらに松永久秀と続く勢力のため衰えていた。父と死別後の崇伝は南禅寺金地院の僧となり、数ヶ寺を持つ南禅寺住職(一六〇五)に昇ると家康の目に止まる。慶長一三年(一六〇八)に将軍職を退いて大御所となった家康は崇伝を駿府(静岡市)に招いた。臨済宗の立場で寺院制度ほかキリシタン禁止令など、持論を展開する崇伝を気に入る家康は外交に要する書簡起草と交渉を任せた。方広寺鐘銘事件は大阪冬の陣の発端となった謀略として名高く、崇伝の仕業と受け止められるが、広く政策を講じるその姿は黒の僧服をまとうことから「黒衣の宰相」との通称も生まれる。
生年不明の天海は天文五年(一五三六)を有力説に会津高田(福島県大沼郡会津美里町)が生国とされる。武蔵川越の喜多院(北院)住職(一五九〇)のころ家康と面識をもつ話も後付であり、何かに付け作家の妄想を掻き立てるが、家康の側近に登用される時期は崇伝と同じく大御所の代である。当初は延暦寺再建のほか喜多院を関東総本山(東叡山)とする天台宗強化に励むが、家康没に際して崇伝は本多正純(老中)らと吉田神道に則り「明神」号で祀ろうと準備に掛かるが、天海は山王一実神道に倣い「権現」号で祀るよう家康から遺言を得たと主張した。日枝神社を叡山の天台宗とし神仏習合するのが山王一実神道であり、家康は慶長一八年(一六一三)に自ら喜多院に赴き天海を日光山別当に補している。因みに秀吉は豊国大明神として祀られた。結果的に秀忠の後押しで天海の主張が通り、後水尾天皇が下賜する勅号「東照大権現」により日光に祀られる。
不敬極まる幕政の本末転倒は家康没(一六一六)にかまけて、後陽成天皇の崩御(一六一七)諒闇(喪中三年)すら心得ない暴挙に埋没した。以後、崇伝の立場は弱まり、寺院制度から大徳寺の沢庵などを追放した紫衣事件(一六二七)で暗躍するも、幕政の第一線を退くことになる。秀忠・家光に深く関与した天海は元和八年(一六二二)江戸城の艮、東北鬼門方面に位置する上野台地に位置する上野台地に東叡山寛永寺を創建、喜多院を昔日の星野山に戻している。
天海没年を捉えて後光明天皇へ譲位する明正天皇の神格が天子の道であり、崇伝には円照本光国師の諡号を下賜、天海には最澄・空海・円仁・円珍に続く大師諡号として慈眼大師を下賜する。この競わず争わず天子の威厳を保ち続けるのが神格であり、如何なる権力の頽落あろうと天皇は万民を救えるのであり、万民は天皇に順(したが)うことはできても天皇を救えないのである。過去と未来の連続性は如何に時代を千切ろうが、決して千切り取れる性質のものでなく、如何なる歴史を採り上げても、必ず過去と未来の連続性は波形の如く浮き沈みしてくるものなのだ。
●教皇絶対イエズス会の誕生
教皇パウルス三世(在位一五三四〜四九)が着任のとき、母校パリ大学の郊外モンマルトル中腹にある初殉教者聖堂に学友七人が集合したと伝わる。学友七人は「エルサレムに巡礼すること、目的は現地で奉仕を行うこと、不可能な場合は教皇が望むなら何処へでも行くこと」を誓い契りを約したという。七人はイグナチオ・デ・ロヨラ(一四九一〜一五五六)、ディエゴ・ライネス(一五〇二〜六五)、ピエール・ファーブル(一五〇六〜五二)、フランシスコ・ザビエル(一五〇六〜五二)、ニコラス・ポパディリヤ(一五〇七〜六二)、シモン・ロドリゲス(一五一〇〜七九)、アルフォンソ・サルメロン(一五一五〜八五)と名乗る。このうちファーブルとロドリゲスはポルトガルに、他五名はスペインで生まれたという。聖職者にも階級制度があり、司祭(叙階)の資格を持つのはファーブルだけ。彼らが修道士になる以前の経歴は騎士のため、後の異名に「教皇の精鋭部隊」と呼ばれる所以を有する。彼らはまず全員叙階を得て修道会設立認可を得ようとイタリアに出向いたが叙階のみ許されたという。時に神聖ローマ帝国はオスマン帝国と戦争中であり、彼らが地中海を渡ってエルサレムへ向かうのは適わぬ望みとなる。修道会認可は会員六〇人を限度として翌年に与えられた。イエズス会という看板を早速掲げて彼らの運動が始まる。このころキリスト教徒の動向はカトリックの組織に揺らぎが生じ、プロテスタントの教勢拡大を食い止める対抗運動が求められていた。
●イエズスのマインド・コントロール
会員数六〇人の制限撤廃を取り付けるのは発足五年後(一五四三)という異例の早さで公会議の開催を嫌った教皇側の思惑が交錯しているという説が有力である。カトリック内部に滞留した腐食構造と対外的プロテスタントの圧迫課題は軍事歴を重ねたイエズスのメンバーにとり格好の舞台が用意されていた。イエズス会が使う霊操とは、砂漠の教父ヨハネ・カッシアヌスらが用いた旧来の神秘性を甦らせる手法であり、主体はマインド・コントロールにある。個々の内面強化を促すとして、神秘主義幻想を実生活のなかで行うデザインは、似非教育の玉虫色に染まる現代インテリジェンス世相に通じている。イエズスの霊操は指標三分野として、第一課高等教育、第二課宣教活動、第三課教皇絶対を掲げ、実際の手順は教皇絶対の励行から始められている。つまり、教皇の防波堤となるために、腐食しているカトリックの不全構造には揉め事も辞さない内的改心を促しつつ、南ドイツとポーランドに根ざし精力的に活動するプロテスタントを衰退に追いやる術策を教育したのだ。同時に非キリスト教徒の宣教を促した教科は現代の世相そのもので、当時のヨーロッパ社会はイエズスに学校造営の企画、立案に止まらず、経営陣から教員に至るまで人材派遣を求めている。派遣される選抜会員は神学から古典文学に至るまで教科の重点は言語にあり、ロヨラ没の二年前(一五五四)に改訂された会憲では、会員は総長をトップとして教皇に絶対的な従順を誓うとしている。同時期イエズスの大学は三大陸に七四校が運営され、ルネサンスが一一世紀の学芸技法スコラと本格的融合を果たすと伝わる。統一教育の指針は、ラツィオ・ストゥディオールム(学事規定)の史料に従えば、ラテン語やギリシア語のほか文学や修辞学に見られる非ヨーロッパ語で地方特有の言語も取り込み、宗教に限らず古典文学・詩文・哲学・科学・芸術なども奨励している。現在はイエズスの経営する学校が世界一〇〇ヶ国を超えており、特に官公吏養成に力を注いだ法科部門は立憲制度の原型モデルとして文化性を盛り込む国法より実効性を発揮する。ザビエル来日(一五四九)を機に増大する日本のキリシタンは、長崎の統治権に関連してイエズス会に委託する契約(一五八〇)のもと、長崎港の専用権を売り渡すなど霊操に蝕まれていた。
●西インド諸島・南米先住民への宣教
大村純忠はイエズスと長崎統治委託契約(一五八〇)を交わし、有馬晴信が長崎港専用権を売り渡すころ信長は明智光秀に殺された。教皇グレゴリオ一三世(在位一五七二〜八五)は公会議の委託で改暦を行うが、東ローマ帝国(三九五〜一四五三)の残像が背景にあることは、歴史の連続性で時空を千切り取る何ぞは神にも出来ない仕事である。イベリア半島に展開されたイスラム教とキリスト教の戦争は、先住バスク民族を巻き込むレコンキスタ(再征服)の成立で、文明未開の南北アメリカを開拓する時代に突入する。修道ドミニコ教会は早くも一三世紀ころ西インド諸島に進出しており、先住ネイティブ・アメリカンを脅かす奴隷商人に対して先住権を主張し奴隷制度には抗議の運動を展開していた。大陸アメリカ発見の作話は兎も角も、奴隷商人とエスゴーニュ(スペインとポルトガル)の官吏による暗躍はイエズスに格好の舞台となり、カトリック宣教の成果として、キリスト教に入信した先住を保護する口実のもと、ブラジルとパラグアイに保護地区を設け信徒を移住させた。例えば、サンパウロ造営で知られるポルトガルのジョゼ(ホセ)・デ・アンシエタとか、リオデジャネイロの造営で知られるマヌエル・ノブレガなど入信の先住を霊操して、新たな街づくりに動員し使役した。これら宣教活動に名を借りた侵略の最大成果がマヤ文明の掠奪で、メキシコ領ユカタン半島に根付く情報の隠匿とともに、入信の先住を使役しアステカをインカに再現させ、実証を目の当たりに見て西欧ルネサンスを構築したのがイエズスの正体である。