イブン・スィーナー(980~1037)の全名はアブー・アリー・アル=フサイン・イブン・アブドゥッラープ・イブン・スィーナー・アル=ブハーリーと言う。当時の学界はイスラム社会が生み出した最高の知識人と評価し、アリストテレスの哲学と新プラトン主義を結合させた事から、第二のアリストテレスとみなされヨーロッパの哲学や医学に多大な影響を及ぼしたと言われる。
ダジャレに付き合う気はないが、生誕地が中国と緊密なため名の一部「スィーナー」を「シナ」にこじつけ中国人とする説や、「シナイ」にこじつけユダヤ人とする説など、自分の事すら分からない情報音痴がテレビやネットでジャレ合う相は今も昔も変わらない。
サーマーン朝の徴税官を父に持つスィーナーは、ウズベキスタンのブハラ近郊アフシャナに生まれ5歳の時に首都ブハラ(サマルカンドと並ぶオアシス都市)へ移ったと言う。ブハラは古代に栄えたソグディアナ(バクトリアの北、ホラズムの東、康居の南東)の中心都市とされている。
10歳でコーランを暗唱したとされるスィーナーは、父が手配した学習環境の中で師を上回る知を会得したとされる。患者の初診療は16歳ころとされるが、医学の奥深さを知るのはヒポクラテスやガレノスの伝記に接してからで、哲学はイスラム人ファーラービー(870?~950)の著『形而上学(=注釈書)』を読んだ事からアリストテレスの説が理解できたとされる。
いつの時代も知の巨人たるは孤立を免れない。その資質は天才や秀才を超えており、権威や権力が求める第一級の資質であるが、天才や秀才を率いる事とは別であり、そこに利権が絡むと権謀術策に勝れた天才や秀才すなわちキャリア連を敵に回すこともある。凡人にも嫉妬は潜むが、天才や秀才の嫉妬は狂気を溜めこむ性癖あるため、知の巨人スィーナーの生涯も例外とはならなかった。
サーマーン朝の君主アミール・ヌープ2世の病を治療した少年医師スィーナーは、王室が持つ附属図書館への出入りを許され、18歳までに所蔵される全ての書を読破したとも伝えられる。折悪しく火災で焼け落ちる図書館に放火の噂が流布され、その嫌疑をスィーナーに及ぼすキャリア連の嫉妬と見る向きもあり、時にサーマーン朝の滅亡999年、スィーナーは19歳であった。
スィーナー18歳時に処女作『種々の学問の集成』を著し、21歳のとき法学者アル・バーキーに頼まれ全20巻の百科事典『公正な判断の書』を書き上げたとされる。同年これまで宮仕えした父が亡くなり、翌年スィーナーは郷土ブハラを去るが、再び故地に戻る機会はなかったとされる。
どうあれ、いつの世も知の巨人が権威や権力の目から解放される事はない。
医学の父スィーナー著『医学典範』および『癒しの書』は、イスラムとヨーロッパが17世紀まで標準テキストに用いたとされる。体系的な生理学研究の中に実験と量化を導入する、感染症の性質を発見その拡散を抑制するために検疫を導入する、など実験や治験のほかに、細菌とウイルスに関する縦隔炎と胸膜炎の区別、結核感染の性質、水や土からの病気蔓延、肌荒れ及び性感染症、倒錯、神経系の失調など、多岐にわたる詳述は初のモノとされ、発熱と氷、特に医学と薬理学を分離のち統合に導く剖判から生じた製薬製剤は今さら言うまでもない未来を見透かしたモノである。
同世代のイブン・アル=ハイサム(965~1040)は、視界と視覚のプロセスを研究その著作は『光学の書』と訳され、眼科手術に重要な進歩をもたらしたとされている。
さて、スィーナーの後学イブン・アル=ナフィスにも触れておきたい。肺循環と冠動脈についての所見と代謝の概念を初めて著したとされ、循環系の基礎を作った事から「循環理論の父」と呼ばれ、更に生理学や心理学に新しい体系を作り上げた事から、ガレノスやスィーナーに取って代わる超人と仰ぐ一派があらわれる。即ち、四体液説、脈動、骨、筋肉、腸、感覚器、胆汁、管、食道、胃などの考え方には「誤り」が多いとする批判を拡散していったのだ。
これもまた、立身出世を競い争う社会の宿痾ゆえ昔も今も変わらないが、始末に負えないのは商業メディアが作るミコシとヤジウマの煽りにあり、このパターンもまた常套手段の一つである。
モノゴトの正誤を問う声に是非を論じる気はないが、先学と後学との間に生じる違いなんてモノは大凡が目クソ鼻クソの差、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静に通じるなら、長い歴史の中に鎮魂される諍ごとにすぎない、ミソギハライとは多寡が一代限りの屁理屈とは異なるのである。
イベリア半島アル=アンダルスの地にペストや腺ペストが流行したのは14世紀のこと、その際に伝染病の原因が微生物の人体混入に潜む事が分かったとされる。当時アンダルスはグラナダのナスル朝(1238~1492)傘下の首長国に属したが、各種ムスリム系アラブ人の医師が出没する地で歴史研究に際しては軽視が許されないエリアとされている。
1390年ころマンスール・イブン・イリヤスの著『人体解剖書』に人体構造上に要する神経系や循環器系の全図が掲載されたと言われる。以後、微生物学の導入を経て動物実験が行われ、免疫系の発見など新たな展開から他分野たとえば農学、植物学、化学、薬理学など、とのコンビネーションが増大の一途をたどったと言われている。
ユリウス暦とキリスト教の伸張を第一義としたローマ帝国に鑑みると、中世前期のヨーロッパとは5~10世紀を指しており、11~13世紀が中世盛期、14~15世紀が中世後期とされ、一種の時代区分を示し、西ローマ帝国が395年~476年あるいは480年の間とするなら、中世初期に占めるヨーロッパ医学の知識は病院を併設した修道院などに保管されていた。
即ち、ギリシアの医学を継いだローマ医学は東ローマが引き継ぐところとなり、崩壊する西ローマ帝国はヨーロッパとしての再生を優先するほかなくなるのだ。
而して、中世ヨーロッパの医学史は主流が地域医療に端を発しており、たとえば、ベルギー人アンドレアス・ヴェサリウス(1514~64)医師のごとき、個人的な研究を検証する事により、近代医学へ加速化したヨーロッパ事情を知らずに、いま現在の欧米など剖判し得る訳もなければ未来など透かす事できるわけないのである。
以下、ヴェサリウスの事跡を情報モデルとして、ヨーロッパ医学の登竜門を潜るとする。
ヴェサリウスの父は神聖ローマ帝国の支配下にあったブリュッセルの医師とされるが、その出自は皇帝マクシミリアン1世(1459~1519)の侍医エヴァラルド・ファン・ヴェセルの私生児と伝わっている。マクシミリアン1世はオーストリア大公ハプスブルク家6人目のローマ王で教皇庁の戴冠式を無視する史上初の「選ばれし皇帝」を自称しており、結婚政策のもとハプスブルク家を史上最大の隆盛に導いた大帝と言われ、中世最後の騎士と謳われる偉丈夫でもあった。
ヴェサリウスの父アンドリエスはマクシミリアン1世の薬剤師として仕え、のち皇帝後継者カール5世(1500~58)の従者として仕えるのは1532年からである。息子ヴェサリウスにはギリシア語とラテン語を学ばせるためにブリュッセルの「共有生活朋友会」へ入会させている。
1528年14歳のヴェサリウスはベルギーにあるルーヴェン・カトリック大学(創立1425年のち教鞭をとる)に技芸取得のため入ったが、父がカール5世に任命された翌年19歳の時パリ大の医学部へ転校しており、ガレノスの学説に接するうち解剖学への興味を深めたとされる。
3年後1536年に神聖ローマ帝国とフランスが戦闘を始めた事から、ヴェサリウスはパリ大からルーヴェン大に戻らざるを得なくなった。同年ヴェネツィアに短期の移住をしたのち、博士号取得の研究を行うためイタリアのパドヴァ大に移り翌1537年に目的は達した。
博士号の取得後にパドヴァ大を卒業そのまま外科学と解剖学の教授として任命される。外科学では古典的なガレノス説を踏襲して、特に見直すような試みはしなかった。一方、解剖学では生徒を前に自らメスを執る解剖のもと、信頼し得る情報源として直視の観察を行ったとされる。
ヴェサリウスの解剖に関心を持った裁判官が処刑された犯罪者の死体解剖を可能にした事から正確無比な解剖図譜が作れるようになり、ガレノスの解剖が人体の代わりにオナガザル科マカク属バーバリーマカク猿を使ったものである事が明らかになった。ところが、妄信的なガレノス派の学者はヴェサリウスを敵と決め付け狂気の沙汰に陥り、その乱は解剖学者フィレンツェの名家モンディーノ・デ・ルッツィ(1270?~1326)さらにアリストテレスにまで飛び火していき、いつの世にも見る商業メディアとヤジウマの競演と共に延焼を防ぐ手立てがなくなる。
1543年ヴェサリウスはスイスのバーゼルで凶悪犯の死体解剖を指揮している。その骨格を組み立て交連骨格にした標本はバーゼル大学に寄贈され、現在も良好な状態を保つ標本として、同大学の解剖学博物館に展示されている。
同年カール5世にヴェサリウスの全7巻から成る『ファブリカすなわち人体構造』が献上されると数週間後には学生用テキストの要約版エビトメが出版され、カール5世の皇帝子スペインのフェリペ2世にも献上されたと言う。つまり、狂気の乱に決着をつける常套手段でもあるのだ。
ファブリカの詳細については読者に委ねるが、これら一連の仕事から人工呼吸についての見識にも及ぶヴェサリウスの功績は図版の作品価値を向上させる芸術分野にまで踏み込んでいた。
出版後ヴェサリウスのスカウト合戦は勢いを増したが、最終的にカール5世の皇帝侍医として宮廷赴任が定まった。しかし、宮廷に待ち受けたのは陰険な保身主義のイジメであった。
皇帝カール5世の旅にも随行した侍医12年の経験は、新たな検知を深めるチャンスがいくらでも散見された。薬剤師だった父からの伝授もあり、ひときわ(罌粟を含む)薬草の検知は自らの解剖学研究と相まって、実に多彩な分野を開拓する事に大きな手応えを積み重ねていった。
他方、宮廷内の反ヴェサリウス派の嫉妬は鎮まることなかった。これ1551年カール5世はスペイン・カスティーリャ・イ・レオン州サマランカにおいて、ヴェサリウスの宗教的含意を調査し得る権利を評議会に与え審理を委任することにした。
即ち、反ヴェサリウス派の訴追は、皇帝随行のヴェサリウスが旅先から出した書簡に私的な宗教的行為があり、それは公務に反するという罠を仕掛けていたのだ。評議会はヴェサリウスの一連行為は公務の範疇内と許認可したが、その後も反ヴェサリウス派の嫉妬は鎮まることがなかった。
皇帝カール5世の後継フェリペ2世もヴェサリウスの宮廷勤続を任命している。1564年に宮廷勤務を辞したヴェサリウスは妻と娘3人で故地ブリュッセルに向かうが、途中で家族と別れ、1人で聖地巡礼のため旅立っている。エルサレムに着くとヴェネツィア議会の書簡があり、パドヴァ大学の教授に戻るよう要請されている事が分かった。
数日後ヴェサリウスはエルサレムからパドヴァ大に向け旅発ったが、その途中でシチリア島の東方イオニア海の天候が大荒れ、船が座礁ザキントス島に上陸したが、この島で絶命49年の生涯を終え遺体は打ち捨てられるところを島民の善意で弔われたと言う。ヴェサリウスの巡礼行も死についても諸説あるが、どれも仮説や憶測の範疇に止まり未だ真相は闇の中と言われる。
ヴェサリウスの主著『人体の構造についての7つの書』に関しては、ガレノス説に学びつつ自らの治験に基づき、ガレノスが講じた心臓、静脈体系、肝臓、子宮、上顎骨などに誤りある處を証明した上で補完を施したとされている。とはいえ、脳機能の分野では多くの課題も残しており、用いた薬で有効性が認められたのは「アヘンとキニーネ」に尽きるとされる。
これらから、私が自負するところは、ヴェサリウスと同じ世代のヨーロッパ人ひときわイエズス会ロヨラ初代総長とともに、当時を牽引した君主らの政略結婚あるいはキリスト教カトリック系とプロテスタント系の確執を含めたうえで、総合的立体構造の剖判が必要であると思っている。
これらもまた、文明本位制の3要素たる戸籍・黄金・罌粟が如何なる役割を果たしたか、大航海が果たし得た世界的なロードマップとともに、版図を描く必要性にも駆られるのである。
それはそれとし、当面は医学史と薬学史さらに天文学史を諳んじておかなければならない。
(つづく)