修験子栗原茂【其の六十】本草の本位財と山の長老マギ

 それはそれ、医学史に戻るとする。

 古代ローマを牽引した医学はギリシア人の活躍にあり、帝国各地の医学や薬学が集大成される道の先駆者と見なされている。ラテン語クラウディウス・ガレヌス(ユリウス暦129頃~200年)を記すギリシア語の文献は見いだせず、ルネサンス以降の文献から周知され始めたと言う。ガレノスは裕福な建築家アエウリウス・ニコンの子としてペルガモンで生まれた。

 ペルガモンは小アジア(現トルコ)の古代都市スミュルナ(現イズミル)北方カイコス川河畔の地エーゲ海から25キロメートルの位置にある。ヘレニズム(ギリシア主義)王国アッタロス朝はアレクサンドロス3世(大王)の遺将リュシマコフの財宝を管理したフィレタイロスの背信行為によって生まれるが、紀元前2世紀半ばすぎアッタロス1世の建国で繁栄を極めたとされる。同133年にはアッタロス3世が領内ギリシア系ポリスを除く自領を共和政ローマに遺贈した事から施政権の消滅が確定したとされる。ただし、その文化レベルはアレクサンドリア図書館に次ぐ優れモノだった。

 ガレノス20歳は父の遺産を継ぎスミルナ(イズミル)、コリント(アクロポリス)、アレクサンドリア(エジプト)を訪ね医学研修のために在留したとされる。数年後ベルガモンに戻ると剣闘士の学校に勤務する外科医として、通常診療では有り得ない無謀な体験を積み上げたと言う。

 共和政ローマ帝国の剣闘士とは、軍人兵士もいるが、主体はアンフィテアトルム(円形闘技場)で戦闘を義務付けられた囚人を指しており、傷を負うのは当たり前、瀕死の重傷を負う事もあり、その健康管理を含め外科医ガレノスの日常は実験治療を伴う初体験の繰り返しであった。

 ガレノスは外傷を「体内への窓」とみなした。目や脳の診療を含め、優れた技巧を頼る無謀な術を施す事も少なくはなかった。現代医療が標準とするモデルをいくつも遺したとされる。ローマに移る30歳代にあっては、執筆活動や講義さらに公開解剖まで行ったとされる。皇帝の典医として従軍も体験、当時の医学分野ではラテン語よりギリシア語を上位と見なした事からガレノスも主にギリシア語を使ったとされる。しかし、どの学派にも属さず他の医師との対立も多かったとされる。

 ガレノスはヒポクラテスの四体液説を叙述しており、四が古代の四元素また四季とも対応するためガレノスの理論も原理は四を基に創作それはヒポクラテス説をよく理解した証左とみなされる。

 主な著作のひとつに『身体諸部分の用途について』があり、哲学や文献学、解剖学についても広く執筆しており、全集は22巻にも及び生涯のほとんどを執筆で過ごしたとされる。

 ガレノスの見解をキリスト教やムスリムの学者達が受容しやすかったのは、プラトンとも一致する解釈として「単一の造物主による目的を持った自然の創造」を強調したからだと言われる。ガレノス以後ローマ帝国には目立った医学の進歩は起きなかったと言うが、これ以上の情報を医者でない私が述べるのは、医学の冒涜になりかねないのでガレノスについては〆とする。

 薬学はガレノスより年長の世代に世界遺産カッパドキア南部に接するキリキア出身のディオスコリデス(ユリウス暦40~90年)がおり、既に本草書『薬物誌』を著していた。薬物を四つの性質に分類すなわち「熱・冷・湿・乾」に分け解説したとされる。製薬についても多くを述べたガレノスは本草書『薬物誌』を称賛したのち、その多くを自らの医学に採り入れたとされる。

 軍医ディオスコリデスは出向先の各地で多種多様な薬物に出会う機会に恵まれた。薬物誌の簡潔な明快さは「理論より事実を、書物より自分の観察を重視して編集したから」だと評されている。書が重用された期間はガレノスの医学に並ぶ立つところとされ、その評価は東洋医学最高の本草書と対比照合してもそん色するところなく「西洋本草網目(こうもく)」と賞賛を浴びている。

 因みに、本草(ほんぞう)とは薬用植物のみならず、薬物として用を為す動物や鉱物にも及ぶ広い範囲全体を指す言葉で本草学の略と解される。たとえば、玉石・木竹・禽獣・虫魚・果蓏(から)や亀貝(きばい)など、薬物として用を為す範囲は一般のイメージを遥か超えるのである。

 人類史上に建国が成立した頃からの格言に「人は国力の低下と共に知力も衰える」があり、これを象徴するのが「歴史を軽視する社会」と断じられてきた。ローマやイスパーニャの凋落に限らず今や日本社会にも適合する格言ではないのか。

 本草『薬物誌』は長く受け継がれた植物学や薬草学の権威であったが、その長期間と広範囲に及ぶマンネリ化は人間の頽落と共に多くの問題を抱えるところとなった。繰り返される写本術や翻訳から誤記や誤訳も増えはじめ、図版は模写による改変や魔術的あるいは占星術的な解釈による劣化が日々常態化していった。現行社会のテレビ番組づくりも似たようなモノだろう。

 たとえば、本草の本位財は罌粟に尽きるのであるが、罌粟の品種改良が続けられるうちに、精神的弱者は品種改良に伴う副産物のごとき覚せい剤の犠牲者とされ、その中毒症状に見られる無自覚から人を殺す事すら有り得る錯乱状態に陥るのである。

 西ローマ帝国の崩壊は476年とされるが、同様に西ヨーロッパからギリシアやローマの医学書が著作されなくなった。東ローマに残された古書に新たな編纂を加えた一人にオリバシウス(320~403)がおり、皇帝ユリアヌスの命により、クロトンのアルクマイオン(紀元前5―6世紀)からガレノスまでの『医学集成』がまとめられたとする。

 この著作は全70巻に及び『エウスタティオスのための梗要』に概要をまとめた体液病理説のため診断には尿診や脈診が重視されている。7世紀のテオフィロス・プロトスパタリオスは、東洋医学に影響され脈拍を研究そして尿診の基礎を確立したと言う。また14世紀初頭には、コンスタンティノポリスのヨハネス・アクトゥアリウスが、尿と尿診など広範囲なテーマの医学書を著した。これらはサーサーン朝ペルシアの都市ジュンディーシャープールにわたり、さらにイスラム圏へ引き継がれた後に中世ヨーロッパへ回覧されるのである。

 東洋と西洋のターミナルに相当するペルシアは、元々の伝来に加えた豊かな医学史に恵まれ、特に発展したアーユルヴェーダはイスラム社会の絶対的なバックボーンに成長していく。インド亜大陸の伝統医学となったアーユルヴェーダは、アラビアやギリシアで発展したユナニ医学や中国に根付いた医学と共に世界三大伝統医学の一つとされ、ウィキペディアでは前述してきた順の通りに仕切る書き方を採用している。しばしば私も真似しているが、ここにアーユルヴェーダ、ユナニ、中国の医学を世界三大伝統医学とするのは通史が言う表現だと付記しておきたい。

 なぜなら、ウィキペディアも含め「罌粟の歴史」を詳述する書物は皆無に等しく、著作を試みても厳しい検閲のもと、一般に広く知られる機会は有り得ない事だからである。それはそれとして

 東ローマ帝国と敵対したサーサーン朝は、キリスト教徒の迫害から逃れたアレクサンドリアやアテナイの学者を積極的に受け容れると、都市ジュンディーシャープールに集め、各方面から取り寄せた医学資料の翻訳や研究に取り組む施設をつくり、後に大学や附属病院まで設けたとされる。

 イスラム社会の医学が発展したのは、ムスリムのほか、キリスト教ネストリウス派など多種多様な宗教や人種を超え、錬金術師や薬剤師なども交え、解剖学はじめ、眼科学、薬理学、薬学、生理学、外科学、製剤科学などに壁を設けず、技術的交流も積極的に取り入れ、ヒポクラテスまたガレノスの医学を典拠としたからではないかと私は自負している。

 ガレノスが遺した著作は40年の間に129点とされるが、それらをアラビア語に翻訳した作業はバグダードの学術機関「知恵の館」で中核となるアル=キンディーと、その助手らの成果であるが、特にガレノスの理性的で体系的な医学へのアプローチはイスラム医学のひな型として、同帝国内を短期間の間に素早く広まったとされている。

 イスラム社会に初めて出現した医師による専門病院がヨーロッパにも広まったのは、十字軍の遠征攻略を始まりとするが、その経緯に関して史家が認識を要する一人こそアブー・ユースフ・ヤアクーブ・イブン・イスハーク・アル=キンディー(801~873?)で山の長者マギを指すが本拠地はヒンドゥークシュであり、アレクサンドロス3世が遠征の終結を決した場でもある。一般に知られるキンディーは哲学者、科学者、数学者、音楽家として、天文学、医学、光学、政治学、弁論術、音楽論など大凡260点超の著作を遺したが、現存するのは40点ほどにすぎないと言われる。

 山の長者マギとは日本の奉公修験衆とネットワークを同じくするが、詳細は別の機会として、この場では確かな没年を知られていない事、暗号論を数学に導入した初めての人、薬剤の強さの度合いを測る数学的な計量法や、患者が最も危険な状況に陥る時期を特定する仕組みも開発している。

 アブー・バクル・ムハンマド・イブン・ザカリヤー・ラーズィー(865~925)はラテン語でラーゼスとも呼ばれる。ペルシアの錬金術師として硫酸の研究で知られ、エタノールを発見し医学に用いる精製も行ったとされる。医学や哲学の基礎をつくり、著作本は記録に残るだけでも184冊を超えるとされる。実用医学の初期賛成者にして、小児科学の父でもあり、脳神経外科学と眼科学をも開拓した先駆者との評価も得ている。

 ラーズィーはバグダードに構えた実験室を拠点とし、旅の先々で支配者や王子たちに仕え、医学の教授としても全生徒から信頼され、患者に貧富の差を負わせない仁術を施したとされる。臨床事例は記録に残し、『天然痘と麻疹の書』は特に詳しく記述したので、その影響力は後のヨーロッパに重く受け止められたと言われる。

 また『ガレノスに対する疑念』では自ら確信するところに遵い、四体液説の誤りある部分について自らの経験則に基づく証明を施したとされる。この事を以てガレノス信奉者はラーズィーを批判者と決め付ける見方あるが、同様の愚かさは俗世における常であり、現行社会とて何ら変わらない様相を代表するところのテレビやネットが演じている。

 ここで四体液について触れておきたい。ヒポクラテスの四体液説が長い年月の中で一言一句なにも変わらないまま受け継がれてきたとは思わないが、現行社会に説かれる解釈は次のごときとされる。血液とは、体内の熱量が食べたモノを完全に消化した時に生成され、その血液が生命の維持にとって重要な役割を為すモノとされる。

 そのため、完全燃焼した場合は消化、不完全燃焼したモノは炎症とみなし、冬などに起こる炎症の産物を粘液とみなした。粘液は脳に適度な冷えと潤いを与えるが、脳から溢れる粘液は鼻汁で体外に出され、軽く熱い血液の泡状を黄胆汁とみなし、黒胆汁は鬱状態の人の排泄物の色から名付けられ、その排泄物に含まれる酸味が体を腐食させるとみなされた。雑な表現ではあるが、ここに医学の専門知識を用いても役には立つまい。

 ともかく、ヒポクラテスやガレノスの四体液説が何であれ、ラーズィーの疑念はガレノスを信じて奉ずるがゆえの事と解するべきである。

 アブー・アル=カースイム・アッ=ザフラウィー(936~1013)を西洋ではアブルカシスと呼んで称える。中世イスラム社会で最も偉大な外科医の1人とされ、ヨーロッパで教科書として広く読まれた『解剖の書』は30巻にも及ぶ医学百科事典という評価を得ている。

 生まれは当時ウマイヤ朝の首都コルドバ(現スペインのアンダルシア州コルドバ県)西方の住居で生涯のほとんどを過ごした地とされている。その伝記は没後60年を経てからの著とされる。

 アブルカシスの医療は歯学から分娩にまで及んでおり、外科用器具200種以上のコレクションは自作の発明器具26種を生むヒントになり、腸線を体内縫合に使う最初の医師ともされている。

(つづく)

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