次は高木長五郎その通り名の清水次郎長(一八二〇~九三)に触れておきたい。
駿河有渡郡(ウドノゴオリ)清水美濃輪で自前舟をもって、船頭を営む高木三右衛門(雲不見三右衛門の異名もつ)二男として生まれ、母方の叔父山本治郎八に子がないため養子入りしたという。
伯父は米穀商「甲田屋」の主人で高木家との縁は年貢米の舟運で結ばれていた。
つまり、清水湊は富士川の舟運によって、信州や甲州方面の年貢米を江戸へ運ぶため、廻米を扱う廻船業者は口銭徴収などの利権を与えられているので、両家は強い絆で結ばれているのである。
美濃輪町は新開地で実父は、米穀仲買の株をもつ叔父を経由して商品輸送を行ったが、叔父の死は天保六年(一八三五)すなわち次郎長一六歳の時であった。甲田屋を継いだ次郎長は妻帯して家職に従事することになるが、大人社会への仲間入りは国定忠治の場合と変わらない。次郎長二四歳のとき喧嘩で人を斬り、実姉夫婦に甲田屋を譲ると、妻と離別して無宿渡世の道を歩むことになる。
凶状もちの旅に同行したのは、弟分の江尻大熊(=大政)ほか数人とされ、流浪中二六歳のときに叔父和田島太右ヱ門と津向文吉との揉め事を調停、のち大政の妹お蝶を妻に迎えて、清水湊に一家を構えた時二八歳とされ、富士川の舟運権益に係る縄張り固めを進めたという。
安政五年(一八五八)三九歳のとき、甲州へ殴り込んでは御用筋に追われ、逃亡先の尾張(愛知県)名古屋では女房お蝶の死、その原因は保下田久六が裏切ったから、久六を知多半島の亀崎乙川に追い詰め殺害する。久六の仇討で清水湊に上陸した都田吉兵衛や下田金平らは、森の石松を罠にかけ殺したが、大政が吉兵衛を殺して仇を討つと、同年十月には下田金平との手打ちが行われた。
文久三年(一八六三)四四歳の次郎長は勝蔵三二歳と天竜川で対陣しており、翌年は勝蔵を匿った三河(愛知県)の平井亀吉を討つため、形原斧八と共に襲撃している。
慶応四年(一八六八)次郎長四九歳、東征大総督府から駿河の差配役に任じられた伏原如水、その伏原から清水湊の警固役を委嘱され七月まで務めている。その間に勝蔵は次郎長との再戦や赤報隊へ参加するなど、二人は維新の風を受けながら、開国維新の渦中に巻き込まれていく。
同年九月十八日は明治元年(九月八日から)であるが、榎本武揚が率いる品川沖脱走艦隊のうち、咸臨丸が暴風雨で破船その修理のため、清水湊に停泊それが新政府に発見されて、交戦した咸臨丸は乗組員全員が死亡その遺体は逆賊として放棄された。見かねた次郎長は遺体収容を済ませると、向島砂浜に埋葬その翌年は壮士の墓と称えたが、新政府は次郎長を咎めた、次郎長は「死者に官軍も賊軍もあるめぇ」と突っぱねた。
ときに静岡藩大参事に就任した山岡鉄舟は西郷隆盛との面談で、徳川慶喜の助命と家名存続を話し合ったとされるが、その義侠に感銘した次郎長はのち、榎本を含む山岡との親密な絆のもと、加齢を重ねれば重ねるほど切るに切れない絆を構築していった。
次郎長五〇歳、三人目の妻お蝶が新番組隊士に殺害されると、二年後は旧久能山東照宮神領の山林開発が、大谷村の抵抗で企画倒れするなど、不都合の連鎖に歯止めが掛からなくなる。
不都合は黒駒勝蔵も同じこと、同年(一八七一)四〇歳の享年を処刑で終えている。
明治七年(一八七四)五五歳の次郎長は、富士山南麓の開墾事業を本格化させるが、同十一年には山岡鉄舟の門下天田愚庵の身柄を預かる事になり、愚庵は同十四年から同十七年まで次郎長の養子で山本五郎を名乗っていた。愚庵は武家に生まれた歌人であり、漢詩や和歌に優れ正岡子規との交流が知られるも、ここは省く事にして、次郎長五〇歳を過ぎた後年に着目してみたい。
次郎長は蒸気船の出現に大いなる関心を寄せていた。天保十四年(一八四三)徳川幕府はオランダ商館長に対して、すでに蒸気船の輸入や長崎での建造を照会していた。黒船来航(一八五三)が初の来日とされているが、蒸気船の歴史は帆船に始まり、ローマ時代の外輪船から現代に至るまでの建造過程を認識しないと語るに不足は免れない。教育史学が役立たない大きな理由でもある。
次郎長が蒸気船を見て思ったことは、蒸気船の清水入港を期して、横浜港との定期航路を想定した外港の準備を、新政府に訴えるための会社設立であった。実際に静隆社の商号で設立している。その延長線上には、県令大迫貞清の奨めもあり、静岡刑務所に服役中の囚徒らを督励するため、現富士市大渕の開墾事業に乗り出しながら、私塾の英語教育を支援するなど、多数の事績を積み上げている。
右は後世の口碑建立でも伝えられているが、歴史は新しい事が始まると、新たに浮かび上がる旧き事がはじまる。つまり、過去の怨恨を引きずる事案の再発が頻繁化してくるわけだ。
次郎長の地元では、駿河移住の旧幕臣たちが、新たな時代の再出発に励むが、そこへ駿州赤心隊や遠州報国隊に参加していた旧住民たちが帰郷してくる。新住民が多数の旧幕府方と、旧住民が多数の新官軍方との「幕末の仇は明治」とばかり、両者の激突が頻繁化するようになる。
次郎長は火の粉が弱者に及ばぬよう、衝突を鎮める仲裁役となり、任侠で手慣れた手打ちの妙技を如何なく発揮していた。ところが、同十七年(一八八四)六五歳のとき、次郎長の過去をさかのぼる裁判があり、懲罰七年と過料金四百円の判決で収監が確定された。その際に、県令関口隆吉ほか多数支援者の減刑嘆願の運動がおこり、翌年に次郎長は仮釈放のもと社会復帰への道を拓いている。
同十九年(一八八六)次郎長は横浜から土佐(高知県)へ向かう船上において、東京帝大医学部の別科を卒業した植木重敏と知り合った。のち次郎長は郷土清水に済衆医院を開設するが、この植木と土佐須崎鍛冶町出身の渡辺良三は次郎長が招聘した医師であった。
同二十一年(一八八八)山岡鉄舟が死去、葬儀は東京谷中の全生庵で挙行され、清水一家の全員を率いて臨席した次郎長の思いには、後半生を導いてくれた恩師この鉄舟との絆なければ、清水一家と次郎長の前途は如何ばかりであったか、霊前で深く丁寧に頭をたれた姿は落涙しかなかった。
葬儀から帰郷後の次郎長は、富士山南麓を開墾中だった官有地の払い下げを受けると、残っていた造成を仕上げて、その開墾地の一部を高島嘉右衛門に売却するが、嘉右衛門の本姓は薬師寺、世間に知られる人物像の大半は単なる憶測と妄想でしかない。ここに嘉右衛門の正体は明かさないが執筆の過程において、省略できない任侠の人である事は確かである。
次郎長の臨終は同二十六年(一八九三)風邪をこじらせた事が死因とされる。
八代郡上黒駒村の名主小池嘉兵衛二男の勝蔵(一八三二~七一)通り名が黒駒勝蔵に戻りたい。
勝蔵は幼少から利発で、村内に聳える神坐山(カムクラサン)鎮座の檜峯(ヒノキミネ)神社神主の武藤外記(ゲキ)が啓いた私塾振鷺堂(シンジュドウ)に学んだ。塾頭格二一歳で卒業その四年後に生家を出奔したとされる。
勝蔵の少年期は郡内騒動があり、青年期には安政の大獄に遭遇している。上黒駒村と竹居村は隣り合わせで、小池と中村の家は共に名主である。勝蔵二五歳の出奔といわれるが、その一年前から中村甚兵衛にマンツーマンの薫陶を施されているため、出奔の言は当たらないであろう。つまり、勝蔵の未来は振鷺堂の塾生時に決まっていたのだ。
安政四年(一八五七)前述した卯吉が殺害され、文久元年(一八六一)三〇歳の勝蔵は、兄弟盃を交わした赤鬼金平と、次郎長との喧嘩仲裁の和解式(手打ち式)に臨席していた。その翌年にはドモヤスの獄中死が生じており、さらに翌年は祐天が千住宿で斬殺されている。
赤鬼と次郎長の手打ち式は菊川宿(現島田市)で行われ、翌年ドモヤス一家の子分達は黒駒一家が円滑に吸収している。手打ち式で面識した勝蔵と次郎長の間に争いはないが、舟運権益を巡る甲斐と駿河の争いも引き継いだからには、両者の敵対関係も免れようがない。そのめぐり合わせが来るのは早かった。勝蔵が襲撃した駿河の岩淵河岸や興津宿の大和田友蔵は次郎長の兄弟分ゆえに、対決場を天竜川の河原に持ち込んで戦ったが、二人の間では八百長が仕組まれていたのである。
元治元年(一八六四)三三歳の勝蔵は、卯吉配下の国分三蔵を襲撃したが、すでに逃げ去った後の騒ぎでしかないとされる。目明しの卯吉その配下である祐天、その祐天も前年には斬殺され、残った三蔵の以後は消息不明とされるが、襲撃した勝蔵を捕縛せんとする代官所の動向からは、その狙いが尋常一様でないことは少しの思考力で誰の目にも歴然となろう。
三蔵襲撃後の勝蔵を追う代官所との鬼ごっこは、現われては消える勝蔵の動きを追うとする。三蔵襲撃後に指名手配された勝蔵の潜伏先は、最初が三河(愛知県)の雲風亀吉が預かるシマ内で草鞋を脱いだとされる。どういうわけか、そこへ次郎長一家の襲撃があり、直ちに甲斐へ戻った勝蔵は犬上郡治郎を殺害したとされる。前記した郡治郎と三蔵は兄弟分の盃を交わしている。落合本の読者には充分すぎる推理情報だと思いますが、詳述は皆様に委ねますから楽しんで下さいますように。
慶応元年(一八六五)勝蔵は郡治郎を殺害したあと、御坂山地に身をかわし、石和代官所の山狩り情報に接すると、甲斐を離れ美濃(岐阜県)の水野弥太郎宅に居候するが、池田勝馬の変名で時世の移り変わりを窺っていた。翌二年に起こる「荒神山の喧嘩」と呼ばれる出来事こそ、占領下の日本で換骨奪胎されたゾンビを再生させる秘薬ともいえよう。広く知られる作り話は単なるビジネスだから趣を異にするが、ここに別項をもうけるので個々の方々に一念発起してほしいと願うのみ。
別項「荒神山の伝承」執筆の前に勝蔵の晩期を記しておきたい。
同四年(一八六八)すなわち明治元年、勝蔵は美濃で決意した黒駒一家の解散について、無事かつ円滑なる仕立て方を講じて、下ごしらえに約一年半を費やしていた。
同年九月に年号が明治に変わると、勝蔵は小宮山勝蔵の名で赤報隊に参入している。小宮山の姓は父小池嘉兵衛の用人で勝蔵に剣術を教えた元甲府勤番士の小宮山嘉兵衛に因んだとの説がある。戊辰戦争に官軍側で参加した勝蔵は、のち赤報隊が偽官軍そして隊長の相良総三が処刑され、勝蔵と共に入隊した美濃の弥太郎も獄中死そこへ隊も解散という事で孤立してしまう。
その後の勝蔵は池田勝馬の変名で四条隆謌(タカウタ)に随行の徴兵七番隊に所属したが、仙台で参戦した事から、翌三年(一八七〇)徴兵七番隊の解散情報を事前に知りえた。その情報から知った官軍側の杜撰でインチキな仕組みに勝蔵は愛想をつかし、解散前の帰郷を決行したあと新規の偉業に着手したが、翌四年には前歴の指名手配が発効して捕縛されてしまう。
捕縛後の勝蔵は、新政府の体制不備が問われる地方自治に吟味され、甲府酒折の近くに設けられた処刑場で斬首され生涯三十九年の幕を下ろしている。
以下、隠れ官製『荒神山の喧嘩』を交えつつ、別項「荒神山の伝承」に触れておきたい。
まず知ってほしいのは、三宝荒神と荒神山の由来である。役小角が金剛山で祈祷に励んでいた時に艮(ウシトラ=北東)方面に赤雲なびいて現われたのが荒神とされる。これ二つの説あり、一つは役小角が適地に祠を造って祀ったという、もう一つは荒魂を祀った事から荒神に、これヒンドゥ教の悪神にて仏教に帰依のち守護神または護法善神とも呼ばれ、その風習が日本に上陸したとの説が今に伝えられている。その像容はインドと異なり、日本独自の尊像で三宝荒神を代表的としている。日本古来のアラミタマと古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が重なっているともされる。
山岳信仰や神道のほか密教などの宗派がいろいろ習合し合って成立した、これが、もっとも日本に相応しいと説くのが落合本のマニ思想それは修験そのものが口伝の道義とするものである。
三宝荒神は三面六臂あるいは八面六臂(三面像の頭上に小面五つを加える)が通常の像容で、頭の髪を逆立て眼は吊り上がり、暴悪を治罰せんとする慈悲が極まった憤怒の表情を見ると、密教に見る明王像との共通性を問う考え方が生じるのは当然であろう。
荒神は不浄や災難除去の神だから、火とカマドの神とも仰がれて、台所や風呂場の寛ぎ所に神棚を設置して、日ごと拝礼する風習を保つ文化が今も生きている。鬼滅の何とやら…。
真言「オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ」は大日経疏巻五に説かれ、日天(ヒテン)の眷属(ケンゾク=やから)である地震を司る神で、剣婆(ケンバヤ)との同一視もみられる。剣婆はサンスクリットの地震波を語源として、真言は荒神経に載る真言で意義は多種に及び、祭祀は家の中における最も清浄な場に祀られ、清荒神清澄寺(現兵庫県宝塚市)では、一礼三拍子一礼したのち般若心経と荒神の真言を七度くりかえしている。
滋賀県彦根市中西部の荒神山は、西に琵琶湖を望む近江盆地があり、湖東地方の一角に形成された標高二八四メートルの独立峰、山頂の凡そ三〇〇メートル北東に三等三角点が現存している。奥山寺開山の行基が三宝大荒神の像を祀った由来から荒神山とされる信仰上の山としては、青森、宮城、山形、群馬、山梨、長野、滋賀、兵庫、岡山など、全国各地に及んでいる。
三重県鈴鹿市高塚の高神山観音寺が『荒神山の喧嘩』で広く知られた場所である。
以下、広く知られる物語の展開を要約しておきたい。
伊勢鈴鹿の地にヤマトタケルの笠と杖を祀る事から、笠殿(カサド)=加佐登神社と称され、のち空海=弘法大師が参詣して、尊=ミコトの神霊を拝謁したあと仏像を彫って祀ると、空海は神事山=コウジヤマと称したとの伝えが今も語られる。
時が流れ、神社の近くに建立された寺が高神山=コウジンサン観音寺の始まり、黒観音と共に三宝荒神を安置した奥の院は安永四年(一七七五)の建立とされる。幕末の頃は地域一帯が天領と藩領で入り混じり、周辺には化外の地もあり、そこは無法地帯とも言われ、観音寺例祭の縁日は、テキヤの露店市とともに、カタギ衆も遊べる賭場が数か所に設置された。このとき、清濁すべてを取り仕切る任侠筋の親分衆を当該地では顔役と呼んでいる。
当然、天領には天領の藩領には藩領の代官所あるが、化外の地における治安と衛生は、その在地に精通して、その住民に信頼される、弱きを助け強きを挫く任侠筋が担う事になる。当時のシマを取り仕切る顔役は、初芝才次郎その通り名は伊勢吉五郎(神戸長吉は作品名)と呼ばれていた。
慶応二年(一八六六)吉五郎は例祭前に戻る予定の旅へ出かけている。
吉五郎の留守を狙ったのが、鈴鹿の北方桑名にシマを張る穴太屋(アノウヤ)徳次郎、その通り名アノウトク=安濃徳(作品名)は吉五郎に無断で賭場の準備を進めていた、開帳の成否を決めるのは集客力だから、旅から戻った吉五郎は、集客力に難あるリスクを負う者の狙いが解けなかった。
吉五郎は単なるシマ荒らしと思えないため、兄弟分の太田仁吉に調べた事の顛末を告げて、二人が決断した結果は安濃徳を操る裏を炙り出すための出入り=ケンカだった。吉五郎はシマを次郎長から預かる立場にあり、仁吉は次郎長より十九年も下の若衆だったが、次郎長が兄弟の盃を下ろすほどの器量人であった。時は幕末維新への移行前夜ゆえに、誰もが自分の明日さえも読めない日々を過ごす中での話として認識しなければならない。
ここで、三州(愛知県)吉良横須賀に生まれた太田仁吉に触れておきたい。
現西尾市吉良出身の太田仁吉(一八三九~六六)は没落武士の子とされるが、生まれは栗原常吉と同年であること、事件の場がヤマトタケル縁の地とあれば、常吉が知らない訳もなければ、その話を秀孝に口伝しない訳もないのが、修験子栗原茂が歩んだ道の一歩に刻まれている。
それはさて…、仁吉が享年二八歳の若さで殺された事には感慨ふかいものあるが、同郷の作家には尾崎史郎(一八九八~一九六四)がおり、官製『忠臣蔵』の敵役吉良義央(一六四一~一七〇二)を加えて、仁吉は吉良三人衆の一人にされている。毎年六月には「仁吉まつり」の墓前祭があり、その生涯は単なる博徒でないことを、尾崎史郎が著述本(一九五二)で明らかにしている。
再び荒神山のケンカに戻ります。
同年(一八六六)四月六日すなわち観音寺例祭の前日、仁吉は大熊(清水一家の大政)と共に三州吉良から海路を利用して、勢州四日市に上陸するや直ちに吉次郎の陣営へ駆けつけます。仁吉は息も吐かずに地元の親分衆と安濃徳の陣営へ使者を飛ばします。親分衆には、安濃徳の助太刀黒駒一家を叩くため喧嘩支度で乗り込んだとの書付をもたせ、安濃徳の陣営には、賭場を開帳したら直ちに殴り込むとの書付をもたせた。
賭場を仕切る胴元の評価は、集客力はもとより、一番は客の資質で決まるため、そこへ喧嘩支度で踏み込まれたら、どんな結果だろうと胴元は再び開帳が出来なくなる。しかも、出入りの主が天下に知れ渡る清水一家と黒駒一家とくれば、開帳準備を終えていた安濃徳に残された手は、当初の謀略を見透かされたと覚悟するしかない。要するに芝居ゲンカの続行を覚悟したのだ。
すなわち、前述した隠れ官製『天保水滸伝』と同じ『荒神山の喧嘩』版にすぎないわけだ。
前述のとおり、前年(一八六五)黒駒勝蔵は甲斐を離れて美濃に身を隠していた。
深層構造にあっては、天保大飢饉における失政から民を救うため任侠が命を投げたのである。
ドモヤス→勝蔵の二代と、次郎長との八百長を見抜かないと真相に達するなどありえない。
ここに仁侠伝を挿入しているのは単なる道草と思わずに推察力を逞しくしてほしい。
つまり、隠れ官製『荒神山の喧嘩』と任侠伝の深層は異なり、真相はヤマトタケルが白鳥と化して消える敬虔の地を汚す任侠など居るわけがない。安濃徳を動かす勝蔵にしても、使命に殉じた仁吉を動かした次郎長にしても、維新前夜の渦中で身の丈にあった仕事をしたまでのこと…。それはさて、荒神山の喧嘩を記す『鈴鹿市史』には、両陣営の人数をカンベ方五十名、アノウ方一〇〇名、そして隠れ官製では、カンベ方二十九名、アノウ方四百三十余名として今に伝えられている。
隠れ官製の伝えるところは、届いた脅し状を受けた安濃徳の陣営が、喧嘩常套の臨戦態勢で荒神山に陣を張り、遅れて神戸長吉の陣営も山を登ったとする。そこへ仲裁役が駆けつける。地元の顔役で岡っ引きを兼ねる三好屋と守屋の二人それを受け入れ、先に安濃方が山を下りると、神戸方は加佐登神社を参詣してから引き揚げたとされる。
四月八日すなわち例祭二日目の朝、遂に決戦の火が放たれたとされる。乱戦の中で仁吉が銃殺され死亡その死を含め神戸方は四名、安濃方の遺棄死体五名という記録が今に伝えられている。
荒神山の喧嘩は次の記事が真相で隠れ官製の伝は次のとおりである。
安濃徳が頼みとする後ろ盾は海道一の親分と言われた丹波屋伝兵衛、すでに次郎長はターゲットを伝兵衛に見定めており、安濃徳なんぞは眼中の隅でしかない。仁吉の葬儀を済ませた次郎長が向かう先は伊勢神社湾(カミヤシロワン)、博徒四八〇名を動員しており、船二隻に分乗して上陸を果たし伝兵衛への仁義を通した。大きな必要経費を投じることで、大親分への礼儀を示したわけである。
伊勢古市の伝兵衛も礼には礼をつくし、次郎長に詫びを返したと伝えられる。
ここで前述を思い起こしてもらいたい。
大前田栄五郎、新門辰五郎、丹波屋伝兵衛、大場久八、竹居吃安、清水次郎長、黒駒勝蔵、全員が義兄弟あるいは兄弟盃で結ばれており、関係に濃淡あっても全員が廻り兄弟ではないか。ここに名を挙げないが、この七名と何がしかの絆を保ったのが前述した任侠筋なのである。
同様に目を関西へ転じて、大塩平八郎(一七九三~一八三七)から触れていきたい。
大阪東町の奉行組与力を代々つなぐ大塩家(初代は六兵衛成一)あり、そこへ阿波(徳島県)脇町出身の政之丞が養子入り、その孫の一人で諱を正高のち後素と改名そして通り名の大塩平八郎を知る人は少なくない。平八郎さらに字を子起、号を中齋と名乗って、家紋の揚羽を継いでいる。
陽明学を独習して、知行合一・致良知・万物一体の仁を全うしたとされる。汚職の不正を見過ごす事できず内部告発も辞さないとされ、特に西町の奉行与力だった弓削新左エ門の汚職事件においては組違いの同僚といえども、容赦なく悪を裁いた辣腕が事跡に刻まれている。
キリシタンと破戒僧の摘発も厳しかったとされ、その影響は京都、奈良、大阪堺などの諸役所にも及んだとされる。
文政十三年(一八三〇)家督を養子格之助にゆずり、与力を辞すると、陽明学の実践として、与力時代に開設していた私塾『洗心洞』の運営に力を注ぐなか、江戸の佐藤一斎と頻繁に交わした書簡が今に伝わっている。ちなみに、一斎とは面識ないまま享年四五歳で世を去ったとされる。
当時のブームは朱子学だったが、不毛な論議を避けるため、来客との面会も嫌って、書簡の封さえ開くこと少なしとされる。平八郎が味わった天保大飢饉は二つの波があり、第一波が同四年(一八三三)秋~翌年の夏、第二波が同七年(一八三六)秋~翌年の夏それは身辺事情に関わっていた。
第一波においては、時の西町奉行矢部定兼が平八郎を顧問格で招聘しており、経済通などの異分野混成会議の諮問を経て救済策が決められ、民衆生活の惨状緩和に取り組んだとされる。
ところが、第二波においては、幕府に保身を図る奉行の暴走が止まらず、第一波とは真逆で難民の急増に歯止めが利かない一途をたどったという。それが『大塩平八郎の乱』を誘発したとの説が今に伝わるも、同時に多くの謎が今も解明されずに残されている。それはさて…。
第二波の乱調は、東西奉行の人事異動に着目すれば、多くの謎も一気に解けるはずと思うが、氏姓鑑識に縁がない教育制度の下では、解明しようがないのも仕方ないだろう。平八郎が指弾した相手は東町の新奉行に赴任した跡部良弼であり、肥前唐津藩主水野忠光の六男を指すわけであるが、老中の水野忠邦の実弟と知るだけで、落合本読者の皆様なら「この先は任せろ」となるはず、ゆえに記事は次の段へ歩を進めさせてもらうことにする。
(続く)