以下、箕作家のコネクションを仕上げるために、どうしても欠かせない小笠原氏について最低限の情報を確認しておきたいので、付き合うことが出来る人は共に歩を進めていただきたい。
寿永四年・元暦二年(一一八五)すなわち安徳天皇(一一七八~八五)と後鳥羽天皇(一一八〇~一二三九)が並立した最終年のとき、鎌倉幕府を開く頼朝は信濃を知行していた。この頼朝の後任が加賀美次郎であり、甲斐巨摩郡小笠原に生まれた長清も信濃に移住して、次郎の地盤を引き継ぐ信濃土着の小笠原流の第一歩がはじまる。
信濃は長清(一一六二~一二四二)を継ぐ嫡男長経が早くも比企(ひき)能員(よしかず)の変で失脚するが、弟伴野時長が嫡家として重用されピンチを免れている。のち承久の乱(一二二一)では長清(東山道大将軍)が子息八人と共に京へ攻め入り、その功績で七か国管領となり、秋には阿波を得て長経の三男長忠の弟(兄説もある)長房に阿波小笠原氏を創建させている。
広大な伴野荘(現長野県佐久市)は豊かであり、その地を領した長清の四男時長は宗家のピンチを救ったが、伴野家を継ぐ時直ともども生没年不明とされ、家名は霜月騒動(一二八五)の政変で崩落抹消されたという。ちなみに、嫡家が宗家嫡流に復したのは信濃五代目長氏からとされる。
つまり、人の営みに始祖の生地と自身の生地を結ぶ絆が如何に重要であるか、その戸籍の変遷には平和を構築するための教養すべてが潜んでいるのである。
比企能員の変(一二〇三)で嫡流断絶のピンチを救った分流が、霜月騒動(一二八五)で崩落する歴史を述べるには、その時局の変遷を知らなければ、救助も復活も成立の法則がないのである。
文献を渉猟したすえに、長房が長経の嫡男で長忠は三男との説を講じたり、信濃の所領は伴野氏が押さえており、伊賀良荘も鎌倉府滅亡時に北条氏から小笠原氏に移った、さらには長氏の先代長政に任じられた六波羅探題評定衆のこと、長忠から長氏までの系統が信濃ではない京都を本拠としたとの推定など、いずれも高い評価は得られても千切り取りやつまみ食いでは歴史にはならない。
その要因は戦記を綴る御用学(覇道一神教)の教育に呪縛されているからである。
阿波小笠原氏の創建(一二二一)から四十六年後(一二六七)、長房(一二一三~七六)は幕命を受け三好郡の領主平盛隆を討ち、三好郡と美馬郡に二万六千町余の所領を得て岩倉城を拠点とした。元寇は文永(一二七四)と弘安(一二八一)の二度あり、蒙古襲来とも言うが、長房の子長親は弘安事変に出陣したあと、石見(島根県)邑智(おおち)郡村之郷を拝領その地へ移り住んだ。
地元の国人益田氏の当主兼時の娘と婚姻して、石見小笠原氏の祖となり、政情不安定な海岸警護に従事している。以後、南北朝期は武家方で川本温湯(ぬくゆ)城に居住しており、戦国期は石見銀山支配で対立した大内氏と尼子氏に挟まれ、その間を抜けた当主長雄(ながかつ=一五二〇~七一)は最終的に毛利氏へ仕えたとされる。その後は所領も半減され、秀吉の国替え(一五九二)で出雲神門(かんど)郡に移封ふたたび石見へ戻った時は長州藩士に転じていたとされる。
さて、小笠原氏の本拠に京都が加えられるのは、信濃嫡流に復した長氏の嫡男六代目宗長(一二七三~一三三〇)二男貞長の代とされるが、時に南北朝期の花園天皇(一二九七~一三四八)、後醍醐天皇(一二八八~一三三九)の御代に当たり、信濃七代目貞宗(一二九二~一三四七)は判明しても弟貞長に限らず、多数の歴史人が生没年不詳で済まされた時局でもあった。
以下、通史に伝わる京都小笠原氏に触れて、それが認証に値するか検証していきたい。
信濃七代目貞宗の弟貞長は新田義貞(一三〇一~三八)との戦で討ち死にしたとされる。新田氏は河内源氏義国(父義家)流で上野新田郡(群馬県)新田荘を発祥とし、義国の嫡男義重(一一一四~一二〇二)を祖とする。義重の弟義康(一一二七~五七)は下野足利荘(栃木県)を発祥とし、足利氏の祖とされ、後世に室町幕府を開く高氏=尊氏を輩出している。
義貞は宗家八代目、後醍醐天皇に呼応した元寇の乱では、高氏の名代(嫡男義詮)を総大将とする鎌倉討伐軍に参じており、鎌倉侵攻の先駆けとなり、東勝寺合戦で北条得宗家の本隊を滅ぼし、建武親政の立役者となる。のち後醍醐天皇と高氏との間に確執が生じると、天皇方総大将に選ばれ各地を転戦するなか越前藤島で戦死の最期(一三三八)を遂げている。
義貞の享年三八歳と貞長の兄貞宗の生没年から貞長の生涯を知る手掛かりがある。
すなわち、京都小笠原氏の祖貞長は義貞との戦で討ち死にしたとされ、嫡男高長は京都に住み足利尊氏の弓馬指南を行うとの説これを疑う説もあるが、この賛否に加わっても仕方がない。問題は京都小笠原氏が源氏の血流であるのか、または美濃各務郡が発祥のスグリのカバネなのかであり、加賀美遠光が滝口武者かつ家紋の三階菱に王を加えるなど、氏姓鑑識に伴う抑々に天皇と近接する裏付けが源氏とは一線を画する証として透けてくる。
それはそれとして、京都小笠原氏は幕府に奉公衆として仕えたとされる。
鎌倉幕府は将軍家を担ぐ執権北条氏(平氏系)が得宗家となり、その執権を独占化したが、室町の足利政権は管領=執権を細川氏と斯波氏が交替で担う足利氏の分流であり、平氏は斯波氏の家人から執事に昇った織田氏などに限られ、政権に直接影響力を及ぼす有力者は現れなかった。
信濃嫡流は長氏五代目が生没年不詳とされるが、宗長六代目~長基九代目まで明白、長基(一三四七~一四〇七)の後継に子息三人あり、系図に示されるのは長将(生没年不明)、長秀(一三六六~一四二四)、政康(一三七六~一四四二)の順に記されている。
これらから、生没年不詳を解く事は難しくないが、重要な事案は時勢の相であり、当代の歴史的なポジションに占める使命感のウエイトである。未来に負の遺産を委ねる卑劣この上ない行為は歴史を千切り取って抓み食いする事に尽きるのであるが、それを裏付ける手引きに小笠原流を超える礼法は見当たらない。以下、長基以降の足跡を簡略化のうえ追うことにしたい。
長基六歳(一三五二)で信濃守護を継ぐ当主とされ、父政長没(一三六五)の時一九歳、翌年幕府は信濃守護を関東管領の犬懸(いぬがけ)上杉(四条上杉)朝房に交替させた。このとき信濃の地に根を張っていた小笠原流国人らの勢力は幕府といえども侮りがたい存在に繁栄していた。系図は後継長将が結城合戦で戦死その後継を長秀とするが、享年五九歳の長秀に子の有無は記されていない。
しかし、長基没(一四〇七)、長将没(不詳)、長秀没(一四二四)、その後を生きた政康の個人情報によると、隠居した長基の後継長秀は小笠原流国人らの反感に敗戦のうえ、京都に逃れる(一四〇一)も信濃守護を解任され、信濃は幕府の直轄領となり、政康三〇歳(一四〇五)の時に長秀から家督と持ち合わせの所領を譲られたとある。
政康四一歳(一四一六)時に関東で上杉禅秀(氏憲)の乱が勃発その鎮定に参陣したとある。
以後、鎌倉公方を担ぐ関東勢の抑え役として、政康は将軍四代目義持(一三八六~一四二八)から重用されて信濃守護(一四二五)に任じられたとあるが、その内実は国人の力を借りるものだった。正長元年(一四二八)の土一揆は農民が起こした初の一揆とされるが、天候不順の凶作が拡大一途の乱を連発して、京都を越え近畿一帯にまで及んだとされる。
将軍義持は享年一九歳の嫡男義量(よしかず)を将軍五代目に据えて、その在任期間二年間を傀儡政権として正長元年に没したが、危篤の中でも後継者の指名を拒否したとされる。結果、将軍三代目義満の猶子満済や管領畠山満家らが評議、義持の弟四人から選ぶと決まり義持没後のくじ引きを以て後継義教(よしのり=一三九四~一四四一)が決まったとされる。ちなみに、他の三人は相国寺虎山永隆(えいりゅう)、大覚寺門跡義昭、梶井門跡義承(ぎしょう)とされている。
義教の同世代が小笠原持長(一三九六~一四六二)であり、京都四条の家屋敷に生まれたが、父の長将は結城合戦で戦死しており、その家督が長将の弟長秀(一三六六~一四二四)から弟政康(一三七六~一四四二)へ移るのは前述した通りである。ただし、持長の情報は別人と交錯している。
将軍三代目義満の後継が行った治政は小笠原氏の嫡流分派にも支障を来すことになった。
政康の子に宗康(生年不詳~一四四六)と光康(生年不詳~一四八六)がおり、政康の長兄長将の子持長とは従兄弟の間柄になる。ところが、厄介なことに持長には同姓同名の別人(一三八四~一四五八)がおり、小笠原流弓馬故実の基礎を築いたとされ、将軍義教の弓術師範とともに歌道では『草根集』などに名が見えると伝えられる。これ縄文の里帰り組に共通する家伝の由来でもある。
別人はさておき、信濃所領を幕府の預かりとされ守護解任(一四〇一)された長秀が弟政康に家督譲渡を行ったのは応永十二年(一四〇五)とあるが、政康が将軍義持から信濃守護を任命されるのは応永三十二年(一四二五)とされる。それは長秀没の一年後に当たり、その間すでに信濃で根を張る小笠原流分派の国人衆は大きな勢力に伸展して、在京守護職も一目おく存在になっていた。国人衆が鎌倉方に与すれば、在京将軍方の群臣にも大きな脅威であり、将軍義持が政康を重用するのも当然の配慮といえる。政康没(一四四二)後の家督相続は宗康に受け継がれたとされる。
当時の家督相続には正式な譲状の作成義務を要したが政康は作成を行っていなかった。
将軍六代目義教は政康没の一年前に嘉吉の変で殺害され、将軍七代目の義勝(一四三四~四三)も在任八か月その享年一〇歳という早世(死因に関して諸説あり)で没した。
政権トップ擁立の成否が要職を占める政界の掟は昔も今も変わってないが、義教没後に管領の座に就いたのは畠山義国(一三九八~一四五五)で持長と親密だった。譲状作成を怠る政康の家督相続を無効として、持長は叔父政康の後継宗康(従兄弟)から嫡家の座を取り戻そうとした。持長は元々が信濃嫡流の嫡男に生まれており、守護職を解任された叔父長秀と同政康の家督相続を違法とし、その政康が将軍義持から重用されたのも国人衆があっての事と認識していた。それをまた支持した義国も管領の座に着任直後の俄か権力にすぎなかった。
小笠原氏嫡流の信濃守護とその所領を取り戻す千載一遇のチャンスが持長に訪れた。漆田原合戦の時から持長を信濃府中(現松本市)小笠原氏の祖として参戦したのは信濃府中の国人衆であった。
さて、持長の父長将は生没年不詳、長将の父長基の生年(一三四七)と長将の弟長秀の生年(一三六六)から、長秀は長基二〇歳時の子と分かり、持長の生年(一三九六)、長秀との生年差三十年を超える頃が長将の生年となり、没年は長秀の守護職解任(一四〇一)から推定すれば、長将が長秀と双子だったとしても享年三七歳が目安になってくる。すなわち、信濃守護嫡流の小笠原流の経験則に照らせば、長基一六歳(一三六二)の前に父親になる道理は通用しないし、没年も目安より後になる道理は通用しない。あとは戦死した意味不明の結城合戦をどのように解くかだけである。
同時代の結城氏が鎌倉公方に臣従した事は明白であるが、史実に結城合戦と記される時代は長将の生没年よりも後年(一四三五ー四一)のこと、結城氏に関しては、長基の同世代が基光九代目(一三四九~一四三〇)で後継満広(一三八〇~一四一六)が長将の同世代に相当している。
つまり、小笠原氏宗家の信濃嫡流を生没年不詳としたり、同姓同名の別人を出現させるなどの意は内容の如何で異なるが、同類の痕跡のみ残す歴史人の伝承法は昔も今も変わらないのだ。
この痕跡を剖判するためには、歴史を千切り取ったり・つまみ食いすることを、絶対に封じる強い信念を宿す必要があり、それが覚れなければ歴史の剖判は不可能なのである。
それはともかくとして、
漆田原(現長野市中御所の長野駅付近)を合戦場に持長勢と宗康勢が衝突した。宗康は弟の光康に自分が死んだら家督を継ぐように約していたとされる。宗康は戦死した。小笠原氏嫡流を決める裁量権限は幕府に委ねられ、結果、通史は小笠原氏嫡流が三家に分裂したと伝える。
通史を司る御用学のレベルがその程度だから、日本史は国際的な評価を得られずに、北方領土から竹島さらに尖閣へ至る離島はもとより、日本在留の米軍キャンプ地、昨今は海外資金の地上げを許す体たらくが止まらないのである。
人類が求めるエビデンスは大自然の趣に生じており、すべてのエビデンスは生まれるべくして顕になる素性を有しており、大自然に興趣を覚らない人にはエビデンスは降りてこないのである。現実のエビデンスが検められる気運も大自然の趣に委ねられて変わらないのである。つまり、人知が為せる成果も大自然の趣から生じており、エビデンスは人類が商いに用いる筋とは異なるのである。
さて、小笠原持長を検索してみると、信濃の府中小笠原家と京都小笠原氏の二流が紹介され、前者持長は前述の通り、信濃嫡流五代目に復活した長氏の嫡男宗長の五世孫(信濃十二代目)とするが、漆田原の戦(一四四六)が終わると、持長の父長将十代目→長将の弟長秀十一代目→長秀の弟政康→政康の長男宗康と継がれた家督は幕府の裁量権に委ねられる事になった。
宗康は戦前すでに弟光康への相続を終えたとし、将軍義教殺害(一四四一)後の嘉吉の乱もあって幕府の混乱も不安定この上なかった。信濃の小笠原氏も嫡流から分派国人衆へ及んで乱れた。早くに持長支持の畠山持国も管領家本流との対立に決着の手掛かりは得られなかった。
そんな折り、諏訪大社が上社と下社に分裂する騒動(一四四九)が起こり、持長は下社支援、上社支援の光康を担いだのは松尾国人衆であった。管領も再び持国から細川勝元に代わると、勝元が光康支持に回ったことから、信濃嫡流小笠原氏の家督抗争はそれぞれの次世代にまで持ち越された。
府中小笠原氏の祖持長、松尾小笠原氏の祖光康、そこへ府中持長から松尾光康へ寝返った宗康の子政秀(生年不詳~一四九三)が鈴岡小笠原氏の祖となり、持長の子清宗(一四一七~七八)、光康の子家長(生年不詳~一四八〇)と三つ巴の抗争へ雪崩れ込んでいった。
次へ移る前に同姓同名の持長二人に触れるが、未だ個人情報の入り混じり方がひどすぎる。
前述の持長を信濃府中小笠原氏の祖とすれば、系図上では信濃嫡流十三代目となるが、その条件は父長将十代目が戦死したため、存命中の祖父長基九代目が長将の弟長秀を後継者に決めたこと、信濃守護解任の失態で長秀が弟政康へ家督譲渡したこと、政康の後継が嫡男宗康その宗康と弟光康の間で結んだ家督相続に不手際があったこと、などの経歴が公認されるか否かに関わってくる。
つまり、小笠原家の私的な相続としても、家督に公職守護が伴う以上は私ごとでは済まない家格が小笠原流で嫡家はもとより、大身がゆえに影響の波が分派に及ぶことさえある。政局は政権トップの意向が都合次第で決断されるところ、公私の別よりも優先されるため、混乱の極みにある当時の幕府事情にあれば、管領ポストも政権の行方次第となっていた。
もはや守護職を指名された者が小笠原氏嫡流と見なされるが、持長や光康その次の世代も小笠原の嫡流分派を含めて退くに退けない事態に追い込まれる。
これも家督継承の重要性を認識しない社会の宿痾であり、全ての相続権抗争に伴う醜い欲望本能の係争は今や法曹ビジネスの餌食と化している。
本来、家督に限らず、相続一切は税に直結する筋のものなのだから、弁護士などのビジネスマンに与える利権とは関係ない分野であり、公証役場の職掌として、当該事案に関わる相談一切から手続の代行まで行政主導の無料化を行うべき筋ではないのか。自称や他称の如何を問わず、今や有名無実を売物にするテレビやネットの時代ゆえ、有職故実や家督継承のモラルなど話題にもならず、ただただ目先の話題に明け暮れるだけ、その結果は家系断絶が増すばかりとなる。
小笠原流に限らないが、歪んだ歴史の拡散は国際社会の中で孤立の道しか残されない。
ここまで私の与太話に付き合ってくれた読者に内緒の一つを明かすとする。
私の如き生き方をしていると、稗田阿礼の如き有職故実が伝わってくるのであるが、落合先生から教わらないかぎり、ここに述べるような表現力は私の身に宿る事はありえない。それゆえ私の情報は有料化に値しないのであり、もし、読む価値あるなら私を導いた落合先生に感謝してほしい。
(つづく)