修験子栗原茂【其の三十三】小笠原流と甲賀流シノビ衆は表裏一体

 高倉天皇(一一六一~八一)に仕えた滝口武者加賀美遠光の二男長清は甲斐に生まれた。この人が小笠原氏の祖とされる。『平家物語』には加賀美小次郎長清とされ、父遠光の所領小笠原を相続して小笠原氏を称した。南部氏の祖光行は長清の弟である。

 ちなみに、滝口武者に触れておきたい。薬子の変(八一〇)は真夏の冤罪、昌泰の変(九〇一)は道真の冤罪を記録するが、滝口武者は薬子の変を機にタネがまかれ、昌泰の変を機に歴史に出現する内裏(天皇の私的エリアで御所や禁裏の異称あり)の警護役=御庭番を指す言葉である。

 蔵人所は薬子の変を機に律令制に加えたが、当初は令外官で宇多天皇の寛平期(八八九ー九七)に蔵人所の管轄下に滝口武者も置かれた。滝口とは清涼殿東庭北東の御溝水(みかわみず)を指すが、天皇警護に任じられた武者たちの詰所も設けられた。初期の滝口武者には平将門がおり、滝口を姓に創建された家系もあり、加賀美遠光や長谷部信連(能登の加賀八家の一つ長氏の先代)など、天皇の信任これ特殊なケースも生じており、その由来をたどると道真が創始者と思えてくる。

 壇ノ浦で平家が滅亡(一一八五)すると、遠光は源氏頼朝が知行した信濃の守護に任じられ、のち遠光の家督を相続した小笠原長清によって領地が固められたとされる。家紋「三階菱」は加賀美氏を継いだもので、三階菱の中に「王」を記す原型は遠光ゆかりの寺院が使うのみともされる。

 閑話休題(しばらく・しばらく)、令和三年九月一日の夜半さる筋より、小河原氏の系譜について大筋から述べるようにとの達しが届いた、ゆえに略そうとした原初の部分から述べるとする。

 夜半の達しで私は直ちに閃いた、フェイクニュースがマンネリ化した現世にあって、凋落の一途を辿るマスコミのインチキが打ちのめされる、と。天気予報と同じ朝令暮改が険しさを増すなか、その模倣を演じるマスコミが「自民党総裁の辞退」に慌てふためく姿のことである。

 私は私の与太話も「そろそろ核心へ及ぶんだね」の達しであろうとも察していた。日本人の源流に関しては既に落合先生が発表されているため、私は「何ゆえ日本人は天皇を必要とするのか」これを解明するしかない。それは反日派の日本人も天皇を必要としているからである。

 反天皇派の思考を解くのは容易であり、その思念は親天皇派よりも天皇を必要としており、それは日常的な生活意識にも執着して切り離しようがないのである。反天皇的な振る舞いは自らの拠り所を失いたくない、自らの「メシのタネ」にすがる一念から生じているのだ。

 親日派これ必ずしも親天皇派にあらず、反日派これ必ずしも反天皇派にあらず、これを非合理とか矛盾と断じるのは早とちり、この精神構造の心理を解明したのが箕作家のコネクションであり、この有職故実を明示した代表的系譜が小笠原氏である。さらに、その小笠原流を表とすれば、裏は甲賀流シノビ衆ではないか、この私の自負は先を見透かされ「…、大筋から述べるように」の達しで、実に当を得た助言と思うしだいである。ゆえに小笠原氏の成立前までさかのぼることにする。

 小笠原氏の祖を輩出する加賀美氏の源流をさかのぼると、応神天皇の御代に美濃(岐阜県)各務郡各務(かがみ)郷を拝領、この地を本貫とした勝(すぐり)のカバネが発祥とされる。いわゆる縄文里帰り組に属するが、同じスグリのカバネを賜与された美濃不破(ふわ)郡栗原郷を本貫とするのが私の祖であり、勝(すぐろ)氏である勝海舟も同じ系譜から輩出されている。

 勝氏が百済の帰化人系と決めつけ、西文氏(かわちのふみうじ)の末裔として、大和の勝氏は西漢氏(かわちのあやうじ)の庶家と決めつけるのは、歴史の千切り取りとツマミ食いでしかない。

 有職故実を継承するには、口伝か文字その両方を使用するケースが有力であり、国際的に通用する伝承法は有力言語の文字に限定されるが、世界中の言語が流入する日本列島は特色として、縄文期の生活雑器に刻んだ各種の痕跡が見受けられる。それらの痕跡と縄文人のDNAを突き合わせる時代が表面化するのを待つしかないが、生命の本能的属性は縄文期も現代も大差ないから、口伝を重用した縄文期も流入する文字を読み取るのに多くの年季を費やす必要はなかったはず。

 ともかく、日本がカバネの世を迎える頃すでに相応の文字が流通した事は想像に難くない。太朝臣安万侶(正五位上勲五等)が元明天皇に古事記(ふることふみ)を謹上(七一二)した時には朝廷が公用語と認証していた事に異を唱える者もおるまい。

 賜姓降下(しせいこうか)とは、皇族が天皇から姓(カバネ)を与えられ、臣下の籍に降りる事を意味しており、臣籍降下とも言い俗に賜姓皇族と解されたり、皇女が臣下に嫁ぐ場合は臣籍降嫁とも言われ、現行法では皇籍離脱(こうせきりだつ)の言葉が条規されている。

 慶雲三年(七〇六)までの律令では、四世王まで皇親とされ、五世王は従五位下の蔭位が付く王を名乗っており、六世王は王号を得られなかった。以後は歴代天皇から一定の距離を経ると臣籍降下の立場に置かれている。

 平安期は奈良期を教訓として、安定した皇位継承を保つため数次の改めが行われ、皇親らへ賜姓を施し、桓武天皇は一世皇親三名を含め百名余に及ぶ姓を与え大盤振る舞いの臣籍降下を行っている。嵯峨天皇も桓武天皇にならっている。やがて皇族に見合う収入ポストが尽きてくる、先細りが続いた皇族の没落がはじまり、地方へ下向そのまま土着して武士や土豪への転身も少なくはなかった。

 院政期には公家社会の家格形成が促進され、家格を損なう皇親賜姓が敬遠されだし、嫡流への皇位継承を安定化させるため、庶流の皇子は出家のち法親王の処遇で子孫を絶つ策も講じられた。やがて皇位継承と世襲親王家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)の相続と無関係の皇族は出家が慣例的な強制執行となり、賜姓皇族の出現は自発的に行われなくなった。

 鎌倉期以降において、賜姓されたのち明治期まで存続した堂上家は広幡家のみ、ただし、摂関家を継ぐため、皇族を養子に迎えた例は近衛、一条、鷹司の三例あり、これらは皇別摂家と呼ばれる。

 臣籍降下の概念が不透明な上代では、開花天皇(第九代)以降の皇別氏族には公(きみ)のカバネが与えられ、八色(やくさ)の姓が制定されると、応神天皇(第十五代)以降の皇別氏族には大半が真人(まひと)の姓ときどき朝臣(あそん/あそみ)や宿禰(すくね)の姓もみられる。

 カバネが朝臣一色になったのは賜姓降下が源氏と平氏に固定されてからである。

 嵯峨天皇は自身の皇子三名に皇親賜姓として初(八一四)の源氏を授けた。最終的には皇子と皇女三十二名を臣籍降下させており、源信(まこと)、源常(ときわ)、源融(とおる)は左大臣にまで昇り、源潔姫(きよひめ)は初の摂政藤原良房の正室になり、一方の平氏は淳和(じゅんな)天皇の御代(八二五)に桓武天皇の第五皇子葛原(かずらわら)親王の王女(二世王に相当)に平氏の姓を賜った事に始まり、以後桓武平氏のカバネで呼ばれる王子が続出することになる。

 皇紀歴以降のカバネに触れておきたい。

 神武天皇の即位に始まる皇紀歴は世紀六六〇年前に当たるが、大王(おおきみ)家すなわち天皇に随従する有力氏族の職掌や地位を表すために用いられた姓(カバネ)は、統治の形態を整えるうえで重要な役割を果たしていった。次第に世襲の称号いわゆる爵位としての性格と、職掌ごとの官職から成る二つの側面が兼ね備えられるようになった。

 カバネが制度化される前には、ヒコ、ヒメ、ネ、ミ、タマ、ヌシ、モリ、コリ、トベ、キ、ハヤオなどの使用をみるが、成務天皇(第十三代)の御代に、クニノミヤツコ(国造)、アガタノヌシ(県主)、ワケ(別・和気)、イナギ(稲城)など政権との関係や地位を示す称号が定められ、これらがカバネにも転用あるいは併用されるようになる。

 允恭天皇(第十九代)の御代には、キミ(公・君)、オミ(臣)、ムラジ(連)、アタイ(直)、オビト(首)、フヒト(史)、スグリ(勝・村主)などの連臣制が定められ、旧来のクニノミヤツコやアガタノヌシにはアタイ、キミ、オミ、ムラジのカバネが、ワケにはキミのカバネが充当されて、最重要のカバネにはオホオミ(大臣)やオホムラジ(大連)の称号が与えられた。

 なお、百済滅亡後に帰朝した縄文の里帰り組のうち旧王族にはコニキシ(王)が賜姓された。

 さらに、古代史族の系図をみると、神代から応神朝までは名称にミコト(命)を伴っているが雄略天皇(第二十一代)頃からはカバネを伴った名称に変わっており、混在期も見受けられる。

 壬申の乱(六七二)が治まると、天武天皇が制定したヤクサのカバネ(八色の姓)で旧カバネ群は有名無実と化している。八色の姓はマヒト(真人)、アソミ(朝臣)、スクネ(宿禰)、イミキ(忌寸)、ミチノシ(道師)これにオミ(臣)、ムラジ(連)、イナギ(稲城)の旧姓が用いられるが、記した順の序列に変わったので、実際は上位の四姓に連を加えた五姓のみが用いられた。真人の姓は皇親氏族に限られ、朝臣、宿禰、忌寸、連は天皇との距離が近い順への賜与に通例化していった。

 奈良期を過ぎるころ八色の姓が形式的なものとなったのは、有力氏族が朝臣一色になってしまった事に要因ありとされるが、公的な制度下でのカバネは明治初期まで命脈を保っている。

 明治政府は平民苗字許可令(一八七〇)を公布すると、翌年(一八七一)十月に姓尸不称(せいしふしょう)令を施行して、一切の公文書に姓尸すなわち姓とカバネの表記を禁じて、苗字実名のみを使用すること、壬申戸籍編纂(一八七二)の二段階により、氏→姓→苗字→名字の順で一元化を成し遂げようとしたが、日本国民全員に行き渡ったのは平民苗字必称義務令(一八七五)の法規制が全国津々浦々に根付いてからだった。

(つづく)

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