修験子栗原茂【其の一六】真の国際親善を実現するための3つの条件

 昭和三十九年(一九六四)東京オリ・パラ年として日本中が湧き上がるなか、南ベトナムでは将軍グエン・カーン主導の無血クーデターにより、ズオン・バン・ミン首相がタイに追放される。

 北京中共と国交締結したフランスに対して台湾が断交声明を発する。同日ギリシャとトルコがキプロスの地で戦闘を開始している。

 国鉄が列車指定席(新幹線は未対応)の予約をコンピューターで受け付けるシステムを開始する。鉄建公団(日本鉄道建設公団)法が公布され、施行が開始される。

 日本人の海外渡航を制限していた観光パスポート発行が自由化(所持金制限付き)される。

 IBMの汎用コンピューター「システム360」が発表・照会される。ベーシック言語によるコンピュータープログラムが初めて実働される。

 インド初代ジャワハルラール・ネルー首相の死去により、二代目ナンダー首相が就任する。

 中東にパレスチナ解放機構が設立され、韓国(朴政権)ではソウル特別市に戒厳令が発布される。

 南ア連邦ではネルソン・マンデラほか七名が終身刑でロペン島に収監される。

 太平洋横断の海底ケーブルが完成して、池田首相と米ジョンソン大統領との通話が交わされる。

 東京オリ・パラ用ホテルとして建てたニューオータニと東京プリンスが開業される。

 道路交通に関するジュネーブ条約に日本も加盟それは国際運転免許証の通用を意味している。

 米軍機や自衛隊機の飛行事故?が相次いで、多くが生存者ゼロの悲劇とされている。

 気象庁富士山レーダーの完成、東京モノレールの開業、いずれもオリ・パラがらみである。

 常陸宮正仁親王と華子妃の御成婚が報じられる。

 東海道新幹線(東京―新大阪の間)開業、切符代金はこだま号二二八〇円・ひかり号二四八〇円。

 伊豆スカイライン開通、日本武道館が開館、東京オリンピック開催のオープニングが行われる。

 ソ連閣僚会議議長およびソ連共産党第一書記フルシチョフ辞任により、コスイギン閣僚会議議長とブレジネフ党第一書記の選出がタス通信によって報じられる。

 北京中共が世界五番目の核保有国として初の原爆実験(タクラマカン砂漠)に成功したと伝わる。

 東京オリンピック閉会式が行われる。翌日、池田首相が退陣を表明している。公明党正式発足。

 処刑されたと伝わるリヒャルト・ゾルゲにソ連の英雄勲章が授与される。

 東京パラリンピック開催のオープニングが行われる。佐藤栄作政権が発足する。公明党結党。

 アメリカが火星探査機マリナー4号を打ち上げ、世界貿易センタービルディングが設立される。

 幕末維新の開国来、日本国が世界の一般人に知れ渡る平和外交はオリンピック・パラリンピックのイベントがトップを牽引してきた。近代オリンピックの提唱に嘉納治五郎が応じたこと、その先見に気づかなければ、明治から大正そして昭和の歴史を案じた事にはならない。

 ただし、新型コロナ・ウイルス渦にうろたえ、虚言きわまるアスリート・ファーストを標榜しては大衆を先導する二番煎じの東京オリ・パラ大会などは、どうでもよいこと、戦時中の日本開催が闇に消えた大会のほうが惜しまれる。テレビの軍門に下った現下のIOCが標榜する平和外交など、国際政治に牛耳られるだけ、嘉納治五郎や円谷幸吉の精神に逆行したものでしかない。

 現下のアスリートに嘉納や円谷の精神を理解し得る者は居るのだろうか。オリンピアンを選出する際に人柱として消えたアスリートに鎮魂の手は差し延べられたのか。

 昭憲皇太后(明治天皇妃美子皇后)の意を汲んだ嘉納(藤堂系)は、愛国婦人会が行った国境なき医師団の献身に鑑みて、近代オリンピックと同等のパラリンピックを企図しており、それを実現へと導いた昭和天皇の意が表面化しない事を逆手に取ったのがテレビ界である。

 何でも千切り取ること、早口でまくし立てること、大声で吠えること、何でも出しゃばること、恥じらいを知らないこと、他を威圧すること、この魑魅魍魎を跳梁跋扈させて操るテレビ界に住む悪霊化身はゾンビ(生ける屍)ゆえ、思考回路が壊れた接合不全構造を迷走するしか知らない。

 競い争う事は本能的属性の一つだから、その暴走を封じる条件が必要になってくる。

 一つに治安保持のこと、一つに保健衛生のこと、一つに信書伝達のこと、この三つが揃わなければオリンピックに限られることなく、国際間における親善など成り立つわけあるまい。

 治安保持の最大権威は軍事力の保全にあり、その人材と軍備に伴う財務は必須の条件となる。

 保健衛生の本拠は福利厚生にあり、その人材と施設資材に伴う財務もまた必須の条件となる。

 信書伝達の本拠は逓信通話にあり、その人材と什器備品に伴う財務もまた必須の条件となる。

 すなわち、オリンピックが何を目指そうとも、脱政治を訴えるなどのウソは通用するはずない理で有識の如何を問う必要もあるまい。しかし、そのウソを語り合うのがテレビ界であり、そのテレビに支えられるIOCを平和の使節と信仰するのもテレビ界というわけである。

 つまり、テキヤの興行をパクったテレビはオリ・パラもパクり、そのオリ・パラを教祖に仕立てて自ら信仰の講元になり、アスリートを生け贄の化身として、視聴者を信者に仕立て上げる離れ業をも演じたが、新型コロナ渦に右往左往している命運の行き先に明かりは灯っていない。

 立憲政治は立法、司法、行政の三本柱によって支えられると教えられる。憲政が法に定める最強の機関は国会であるとも教えられる。その国会は民衆の代議員によって構成されているが、国会審議に採り上げられる議員立法は全体の何パーセントを占めると言うのか。

 テレビは政策を最重要視するとアナウンスするが、構成番組は政局スキャンダルの煽り屋が集まるタレントの集合体になっている。当然そのタレントにも明かりは灯るまい。

 慶応二年(一八八六)ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの代表作『罪と罰』に書かれた内容は「現代の預言書」とも評されるが、昨今のテレビ界に生じている現象は言い得て妙なる日常が繰り返されている。たとえば、テレビのワイドショーに見るスキャンダル・バッシングなどは、川に落ちた犬を沈めようとするゾンビのリンチと変わらない陪審員制度のようなものだ。

 川に落ちた犬が狂犬病であるか否かはゾンビにとって問題ではない。テレビ・タレントも同じ相に属しており、明日は我が身を省みないばかりか、シャブなどに嵌められたタレントのスキャンダルを井戸端会議のネタにして、裁判の陪審員よろしくリンチを加える側にまわっている。

 政治家のスキャンダルをネタにする国会もまた同じこと、テレビの普及に合わせた集団のリンチを透かした先に陪審員制度が見えたとすれば、その予見はハリウッドよりもドストエフスキーが著した長編小説『罪と罰』のほうに軍配が上がるのは仕方のないことである。

 少し『罪と罰』に触れておきたい。

 小説の主人公ラスコーリニコフは言う「罪悪一つを償うためには、微細であっても百の善行が求められる」と。さらに「選ばれし非凡な人が新開の成長をもたらすためには、社会道徳を踏み外しても許される権利を有する」とも。この思想を持論にラスコーリニコフは人を殺してしまう。

 殺害されたのは強欲かつ狡猾な高利貸しの老婆であるが、現場に居合わせた老婆の妹まで殺害する結果を招くことになり、以後ラスコーリニコフは悶々たる日々から逃れられなくなる。

 他方、娼婦ソーニャの惨憺たる生活は家族のために働く徹底した自己犠牲の日々にあり、その姿に心を動かされたラスコーリニコフは自首する以外にない選択肢を知ることになる。

 事件の追及は予審判事ボルフィーリィの担当となり、ラスコーリニコフの思想を打ち砕こうとする法理とヒューマニズムは、『カラマーゾフの兄弟』ほかと合わせ後記五大長編小説と呼ばれている。

 のち『罪と罰』は『刑事コロンボ・シリーズ』の脚本を手掛けたウイリアム・リンクが言うところコロンボのキャラクターはボルフィーリィがモデルとアナウンスしている。

 フョードル・ミハイルヴィチ・ドストエフスキー(一八二一~八一)の世代には、レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(一八二八~一九一〇)やイワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(一八一八ー八三)がおり、三人は十九世紀後半のロシア小説を代表する文豪と呼ばれている。

 当時の思想や主義その宗教的な背景については、落合本を参照してもらうとして、反ユダヤ主義や第三ローマを見越したというナチズムの基礎はドストエフスキーの考えに沿うとも言われる。

 どうあれ、ここに私見の言わんとするところは、テキヤをパクる事にはじまり、オリンピックまたパラリンピックをパクったうえ、暴対法に絡めた暴排条例ほか、陪審員制度の導入など、一世紀前を遡ること二世紀前の小説までパクるテレビの催眠術から目覚めないかぎり、開け放たれたパンドラの箱から飛び散ったコロナ・ウイルスは、変異に変異を繰り返すことは必然でしかない。

 ともかく、昭和三十九年の東京オリ・パラ大会を締め括ったのは、マラソンでメダリストになった円谷の精神に尽きるが、他方テレビの暴走がはじまるきっかけにもなっている。

 私二三歳の年回りにあたっては、結婚に伴う諸問題の解決に待ったは通用しなくなった。結果的に翌四十年(一九六五)十一月に結婚しているが、そこには奇縁奇跡としか言いようがない時代背景が被っている。そのうち、私二四歳に未曽有の決意をもたらした事柄は、媒酌人を申し出ていただいた佐野先生の都議会におけるミソギハラヘであった。

 同四十年(一九六五)は干支(えと)四二番目の組み合わせとなる、乙巳(きのとみ・おつぼくのみ・いっし)の年であり、前年は甲辰(きのえたつ・こうぼくのたつ・こうしん)、翌年は丙午(ひのえうま・へいご)の組み合わせと定められる。陰陽五行の解説では十干(じっかん)の乙は陰の木を示し、十二支(じゅうにし)の巳は陰の火だから相生(そうしょう)すなわち木から火が生じるの相を示すとされる。なお歴史に言う乙巳の変については落合本の参照を促しておきたい。

 五行(ごぎょう)は中華史に伝わる哲理であり、天地の間に循環して停息しない木→火→土→金→水の元気五つのエネルギーを指しているが、万物を組成する元素と思えば分かりやすい。

 木から火を、火から土を、土から金を、金から水を、水から木を、生じる相に対して、相剋(そうこく)があり、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に、剋(かつ)相と言われる。

 この相生と相剋の応用編として、男女相生のもの和合すれば幸福あり、相剋のもの相対すれば不和災難に襲われると伝えられる。

 日本では一つの根から二つの幹が相(あい)接して生え出る事を相生(あいおい)と言い、二つの幹が共々に生まれ育って、相老いる和合の生涯を意味した相にも通じている。実際に、一つの根から黒松と赤松の幹が生え出た相生の松は別に高砂の松とも呼ばれており、深い契りで結ばれ共に長生きした夫婦を象徴する言葉として用いられている。兵庫県の相生も周知の地名とされている。

 西暦年との関係では、年数を六〇で割って余った数四五が乙巳の年に相当している。

 同六四五年の乙巳は蘇我氏と対峙したとされる中大兄皇子・中臣鎌足の変が広く知られる。

 同一九〇五年の乙巳は第二次日韓協約の締結年これを韓国では乙巳保護条約と呼んでいる。

 当年内の結婚を決意していた私にとって、為さねばならない責務は多岐にわたっており、いずれも避けて通れない関連性を有していた。私の独りよがりは、何ごとも正面突破を信条としていた事から結果は早くでたが、多くの失敗に苦痛を味わう事のほうが圧倒的であった。

 私の結婚問題に強い執着心を潜めていたのは両親であったが、私の前では無関心を装う態度がバレバレであった。秀孝は自分の若気で味わった性病が私の健康を害していないか不安のようで、都立の病院専科に予約して何も伝えられていない私に健康診断を受けさせている。

 母の思いは複雑であるが、一つのエピソードを事例とすれば全てを物語っている。かつて町会長や学校PTA会長を経験した秀孝の交際は広範であり、時に佐野都議の後援会幹部という事から、私の結婚を祝う人々の好意は想定を超える数の多さに達していた。その好意を母はピシャリ‼と拒絶する応対のもと、すべての祝儀を先様の家へ返して回る念の入れようであった。

 成人一年前の末弟は何ごとにも痛快であるが、当時無給だった末弟は残業を終えたあと、友人らと図って風俗店を相手に小遣い(同世代の平均給与を超える額)稼ぎをしていた。浅草吉原の一角には入浴接待の風俗街があり、売春防止法(一九六〇)施行までは赤線地帯とも呼ばれ、遊女が男の性欲接待に働いていた。のち赤線地帯は入浴接待の風俗店が集まる街へ変貌していたのである。

 そこで働く若い女性が着用する水着を売る副業が末弟の小遣い稼ぎになっていた。

 つまり、入浴接待に働く若い女性は身にまとうのが水着のみ、湯煙の中で化粧しても水着を上回るほどの贅沢はできない。眼鼻が利く末弟は風俗店を賄う支配人と図らって、ファッションブランドの先駆けに等しい水着を仕入れると、入浴接待の女性に直接販売する形態を装ったのである。

 当然そのノーハウは蛇の道が蛇に通じた者にしか分からない。私の結婚に向かって末弟が心配した私の弱点は男女間の性生活にあった。硬派中の硬派それは石部金吉に勝るとも劣らない私の性生活を心配した末弟は、風俗店の支配人と打ち合わせたのち私を当該店へ案内することにした。

 すなわち、私を童貞から解き放つことにあった。若い女性と二人きりになった私は目のやり場にも困ったが、銀座のホステスから学んだ女心の機微を模倣して間合いを保つことにした。やがて女性の言うところ「残り時間が少ないのでお風呂いかがですか」とのこと、私は「初めての女性の前で裸になるのは真っ平ごめん」と応じたはず…。すぐに末弟と支配人が部屋にやってきた。

 私は笑いながら「はめやがったな」と、末弟は「だめだこりゃあー」で当日は終わった。

 この手のエピソードは限りなくあるが手じまいとする。後日談であるが、妻が私との結婚を決めた最大要因は還暦すぎた母といつでも会えること、妻と私の家は徒歩十分とかからない、私の自在性は就業中の如何を問うことなく妻の事情を優先する事が可能であった。打算的とも言えようが、夫婦の有り様は千差万別いかなる理屈も後付けでしかない。

 私にとっての重大事は家督継承の永続性にあるため、その裏付けの第一は全ての準備がオリジナル化を実現するほかないのである。それは試練に次ぐ試練の明け暮れを覚悟しなければならない。私が自らに課した覚悟は際限ない苦難を妻に押し売りするような人生だから、二つとない不二そのものに出会わないかぎり、現実は単なる夢物語で終わるのが普通で私に普通は許されなかった。

 前記を読んだ識者をおもんぱかったとき、私は自分が何を言おうとしているのか、気が狂いそうな自分の不甲斐なさに打ちしおれている。今ただ中から脱するには、ひとまず前記を保留したまま次の流れから再び合流できるか否かを探るしかない、而して、読者の寛大さに甘えるとして、当年ついに表面化した佐野都議のミソギハラへに執筆の舵を切ることにしたい。

 私は「ないものねだり」が大嫌いだから、自分の「ないものねだり」は絶対に許さない、とはいえ他人の「ないものねだり」は許せる度量を備えたいと思っている。私にこの思案を耳打ちしてくれた人こそ佐野善次郎、そして、それは政治家に求められる心構えでもあると教わっている。

 東京オリ・パラ大会(一九六四)の招致議決(一九五九)から、京都は観光の都市、大阪は商業の都市と見る世界の常識が日本でも定着するようになり、東京の勢威が再活性化されるのは、明治天皇行宮(あんぐう)の都市そして後藤新平の再建都市が成ったとき以来のことである。

 私にとっての皇居は吉野(奈良・和歌山)もしくは京都でなければならない。その道義に関しては後述の中で明らかにしたいと思っている。

 さて、区議三期目の佐野が都議会進出(一九六三)を決したのは、東京オリ・パラ大会の準備実行委員会(一九五九)が設置されたときである。時に東龍太郎の知事一期目にあたるが、勢威を誇った東京都議会と東京都庁は急激に巨大化していく利権の渦中に置かれていた。

 当時(一九六〇年代)都議一般の給与は月額十六万円だったが、都議会議長は同二十四万円これに年間交際費二千万円が加えられ、不足すれば予備費の補充も自在であった。さらに全国都道府県議会議長会の議長職も自動的な独占状態にあって任期中の外遊は一か月に及ぶ事も許されていた。

 参考までに、当時の大卒初任給は一万五千七百円(一九六一)~三万二千四百円(一九六九)この数字は大学卒業者を採用する企業の平均値であり、統計上のものにすぎないが、推移だけみれば高度経済成長も過言とはなるまい。すなわち、都議会のバブルは坩堝と化していたのである。

 朝鮮動乱(一九五〇)は五年後の日本に自社二大政党制をつくり、東京オリ・パラ大会の準備会を起ち上げる事で東京都庁は利権バブルの坩堝と化していった。

 為替動乱(一九八五)は五年後の日本に金融三業解体をほどこし、総量の引き締め規制と不動産を差押さえる事で日本列島は崩落バブルの坩堝と化していった。

 前者は執筆中の事案であるから、これから具体的に述べるとするが、後者は日米欧の三者がプラザホテルで交わした合意すなわち急激な円高誘導の荷を背負わせられた日本政府のことで、それは自社二大政党制を自ら瓦解させる端緒ともなっている。

 つまり、東京オリ・パラ大会のあと、日本経済は破竹の勢いで貿易黒字を膨らませたが、黒字分の赤字を背負った欧米がそれを黙認するなどありえない。端を発したのは、日本側メディアが翻訳した日米構造協議の前段階すなわち日米貿易交渉までさかのぼるが、のど元すぎれば熱さを忘れる性癖は何でも先送りする政治家のファジーに隠されている。

 プラザ合意(一九八五)後の日本を正確に論じたメディアは存在していない。ただし、それは後の事案であるから、後述を以て明らかにしたいと思っている。

(続く)
 

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