●総連本部地をめぐる歴史②
内政を所管する民部省は財政・徴税の機構一体化を目的に大蔵省と合併するが太政官や他省と政務を巡る争いが続き、明治六年(二五三三)の征韓論噴出を機とし大久保利通の主導により太政官の下に内務省を新設してようやく落ち着く。
内務省は大蔵省・司法省・工部省が所管した業務のうち戸籍・土木・駅逓・地理・勧農・警察・測量などを抜き取り、これに検閲機能も加え地方行政と治安維持を司る体制を整えていく。翌明治七年に内務省は郵政事務を管轄するが、一八年(二五四五)の内閣制度発足に当たって農商務省へ移管、この間明治一〇年に廃止された教部省の所管も移し替え、社寺局を設置して宗教政策も管轄している。
内閣初代(二五四五)の内相は山形有朋で全国府県知事などの高官任免権を掌握し地方行政の核心を担うと鉄道庁を外局に加え(二五五〇)、すぐにそれを逓信省に移管(二五五二)する。同三三年(二五六〇)に国家神道政策を実施するため社寺局を分割、神社局を要とし別に宗教局を設けた。大逆事件(二五七一)を機に警保局保安課の下に特別高等警察(特高警察)を設置し宗教局を文部省へ移管(二五七三)、その後に高まる労働者・農民の運動を受けて社会局も設置(二五八〇)する。
関東大震災で内閣が設置した帝都復興院が縮小に向かうと、復興局を設置(二五八四)して引き継ぎ、翌年には治安維持法を公布する。
内務省の分局だった衛生局・社会局を独立させ厚生省を設置(二五九八)、さらに国家総動員法を制定、二年後の大政翼賛会発足で全国津々浦々まで組織化して支配する目論見を窺わせる。
つまり内務省は殖産興業や社会生活の実態構造における動向と直接関係して規制・保護の両軸で構築力が問われる職能であって、設計・書記の職能が問われる大蔵省とは基本が異なる。
内務官僚となる大橋武夫(二五六四〜二六四一)は大橋栄三郎(陸軍少将)長男として京都舞鶴で生まれ、厚生省労働局・内務省土木局・戦災復興院計画局長・同次長などの経歴を持ち旧島根全県区から衆議院議員に転身(二六〇九)し、当選一〇回を重ねたが、落選(二六三六)を機に政界を引退する。吉田茂派一三人衆の一人に数えられるが、島根県出身の戦後政治家には竹下登、青木幹雄など得異な経歴も出現する。大橋は思想検事の流れを汲む塩野秀彦(主流派)に連なる岸本派を追い落とそうと動く木内派の旗揚げに際して無関係な馬場義続(当時検事総長で経済検事の代表的存在)にまで手を及ぼしたことで逆に二重エントツ事件といわれる身辺調査から法務総裁の職を失う経歴も有する。
●総連本部地をめぐる歴史③
本題の地上げ問題と前記系図を読むためには最低の前提条件として、農商務省・逓信省の情報も加えておく必要がある。農商務省の設置(二五四一)は、内務省の逓信・山林・歓農・博物を扱う各局と大蔵省の商務局を統合して始まる。内閣制度発足時には工部省が廃止され、その鉱山・工作の事務も引き継いでいる。
同時に設置されたのが逓信省であり、農商務省の駅逓・管船を扱う局と工部省の電信・灯台を扱う局を受け継ぎ、駅逓の逓と電信の信で名乗りとする。
以後農商務省は官営組織としての製鉄所を創設(二五五六)し操業を開始(二五六一)するが、大正一四年(二五八五)に農林省と商工省に分離独立させて農商務省を廃止する。
分離の事案は何度も繰り返された評議であるが、米価高騰による外米輸入措置への反発が火を噴くまで先送りした行政の性癖は如何なる時代も変わらない。
戦時中の二六〇三年には軍需産業の強化を目的に商工省の大半と企画院を統合して軍需省が設置される。商工省が所管していた繊維・生活物資の統制事務は農林省に移管され農商務省と改名した。
ちなみに、同じく商工省が所管した倉庫行政は新設の運輸通信省へ、交易行政は大東亜省へ移管されている。
さらに、商工省というからには、工部省にも簡単に触れておく必要がある。明治三年(二五三〇)に民部省の一部を独立させる形で設置された工部省は、内閣制発足時に廃止されたものの、殖産興業を支えた中央官庁であった。
富国強兵のスローガンの下に鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信・灯台などの事業を本格化させるためヨーロッパ系お雇い外人の採用と並行して岩倉遣欧使節団はヨーロッパに多くの留学生を送り込んでいる。交通網を敷く土木・駅逓を内務省に移管(二五三三)する前から鉄道・造船・鉱山・製紙などの事業を官営として所管した工部省は、軍需部門を除くと同一三年(二五四〇)に民間への払い下げが始まった。これによって出現する財閥系が三井・三菱などを含む政商コンツェルンで政官業言が複雑に入り交じる新興系譜を組み上げる。もとより門閥・閨閥を形成する仕組みは古代より存在するが維新開国期の戸籍開放(二五三一)は利権を目的とするところが決定的に異なる。
ちなみに政官業言の言とは言論口述の達者な種族の謂で、古代より権力に必須の御用の徒であるが、利権が絡んでくると最も危険な存在となり、戦争原因は大半この種族が誘引している。
神祇官は教部省(神祇省)の設置(二五三二)によって廃止され、さらにその教部省の廃止(二五三七)に当たり前記の通り社寺局が内務省に移管されている。かくて文部省の設置(二五三一)後に設けられる学校制度の下で、科を学び似非の神を奉ずる賤しい知が独り歩きを始める。
●総連本部地をめぐる歴史④
氏姓鑑識こそ史家の力量を問われる必須科目だが、明治の戸籍開放で史家の氏姓鑑識はおよそ皆無に等しくなる。次第はさておいて、逓信省の情報を確認すると、今回の地上げ場所が問題の核心ということに突き当たる。
電気事業の監督行政を所管(二五五一)した逓信省は内務省から鉄道行政を移管(一八九二)されると、翌年には水運・陸運の事業も所管することになる。ところが日露戦争後の明治四一年(一九〇八)に至ると、内務省からの移管事業である鉄道行政は内閣所属の鉄道院に移された。
昭和三年(一九二八)には陸運事業の監督行政も院から格上げされた鉄道省に移管され、同一三年(一九三八)の厚生省設置が決まると、簡易保険に関する経営管理業務も厚生省外局の保険院に移管される。簡保に関して残された業務は契約募集・周知宣伝・資金運用などの実働のみであって、真珠湾攻撃(一九四一)後の海務院設置(逓信省の外局)に際しては、内局の管船と外局の灯台に統合して移管する。地方に設置されていた逓信局の海事部門も海務院海務局が設置されて移管、その翌年には経営管理を厚生省に移した簡保業務を取りもどし、再び逓信省一元化が決せられる。
同一八年(一九四三)の戦時体制下で、逓信省と鉄道省を統合して運輸通信省が設置され海陸運送体制の強化を目的とし両省の存在感は原型を損なう状況となる。すなわち郵便・貯金・保険・電信・電話が運輸通信省の外局たる通信院に所管されて、海事行政は同省総局、また航空行政は同省航空局に移管される。
さらに航空機製造と電気に関する行政事務は軍需省に移管。これらの意味するところこそ戦争史観の本質である御破算に願いまする歴史的システムの正体である。
つまり意味不明の神と契り約す作り話は必ず重ねたウソに行き詰まって、債務のすべてを帳消しにする戦争を口実として「ご破産に願いまする」と嘯き、生ける屍の時間と空間に逃げ込もうとするのである。勝てば何でもありの理屈を押し通し、負ければ身ぐるみ剥がされる結果は、例え戦争でなくても御破算に願いまする的歴史の振子現象ゆえ、史家は責任の重さを認識すべきだろう。
次第はさておいて、終戦直前に運輸通信省は通信院を分離のうえ内閣所属の部局として逓信院を設置(一九四五・五・一九)し、運輸通信省の残像を運輸省と改称する。翌年には逓信院を廃止し再び逓信省の名称を復活させるが、以前と違って海運・航空・電気を所管せず通信業のみ扱う官庁に化ける。新憲法下の昭和二四年(一九四九)には逓信省も廃止のうえ郵政省と電気通信省を新設分離する。かくして御破算で願いますると相成るのである。
●逓信省旧管轄地をめぐる場の理論
史観に氏姓鑑識は必須科目であるが、もっとも重要なのは場の理論であり、聖地を争奪する歴史もその実証の一端であるが、実験科学も場の統一理論を課題としている。
今回の地上げ場所も逓信省の旧管轄地ゆえに単なる私有地とは異なって、公に伴う歴史的事由を掘り起こさないと問題の本質は浮き上がってこない。財務省(大蔵省)の史観が未だ平将門の首塚に関する呪縛から解放されない現実を鑑みて、公地(聖地)に伴う情報には軽視し得ない歴史が潜むのである。
以下に、逓信省の本省所在地に伴う変遷を例示し、時間と空間に刻まれる情報の認識を改める必要性を促しておきたい。
逓信省発足直後の使用地は工部省が電信局として使うべく調達した現在の銀座郵便局が置かれる場で、落成間もない洋風二階建て煉瓦造りを利用した。火災(一九〇七)で消失した後で同地(旧京橋区木挽町)に建て直された庁舎(一九〇九)は煉瓦造三階建てで、以後関東大震災(一九二三)によって消失するまで使われた。
震災後に割り当てられた仮地は現在の逓信総合博物館が置かれる大手町(旧麹町区大手町)、元印刷局の跡地に木造平屋の仮庁舎を本省として使い帝国議会新議事堂の完成後に仮議院が使用した場に移る計画でいた。仮議院は現在の経済産業省旧館の場であるが、議事堂建設が長引く間に昭和大恐慌や日支事変の本格化により新庁舎計画は暗礁に乗り上げてしまう。
結局大手町仮庁舎時代が長引くことで当時貯金局が使用(一九三一〜)していた飯倉庁舎を通信院の本庁舎として移転することになる。つまり現在の日本郵政公社東京支社と麻布郵便局が使用する飯倉分館である。
その飯倉分館はもと紀州徳川侯爵家の跡地で俗に狸穴と呼ばれるが、元来の狸穴町は道路を挟んだ反対側の地域(現麻布狸穴町)である。飯倉庁舎は通信院が本庁舎として使用したばかりでなく、その後の逓信院を経て、復活した逓信省も引きつづいて使用した。さらに、郵政省と電気通信省とに分離後も共用する状況がつづく。電気通信省が赤坂葵町(現虎ノ門)に仮移転するのは日本電信電話公社に組織改編した後になるが、郵政省は霞ヶ関へ移転(一九六九)するまで飯倉を本庁として使用した。この時間と空間に刻まれる情報が重大なのである。
紀州徳川藩の重臣上田章の子として生まれた飯倉の紀州徳川侯爵邸を舞台に登場するのは上田貞次郎(後述)だが、初代の駅逓頭(一八七一)となったのは紀州コンツェルン当主の浜口儀兵衛である。儀兵衛(悟陵)はヤマサ醤油の創業家当主と知られ、安政大地震の際の作り話「稲むらの火」とモデルにされて『国定小説国語読本』に載ったため、さらに周知されることになる。
この浜口儀兵衛も上田も前記系図と深く関わる情報を提供するが、詳細は後に記す。
さて、近代郵政事業の展開は儀兵衛の次席として英国の郵便事業視察から帰り第二代目の駅逓頭となる前島密により始まる。郵便事業を引き継ぐ明治の宿駅制度は駅逓司の所管であって、その駅逓司の所属先が民部省→大蔵省→内務省→農商務省と変遷する間に、駅逓寮から駅逓局に昇格し、内閣制度の発足とともに「逓信省」として独立行政機関となり(一八八五)、盤石の全国組織を形成する。
ところが、その運命も現在では郵政民営化の千切り取りに晒されており、因子の揺らぎ方を剖判すると、すでに「御破算で願いまする」の兆しが顕れている。
いよいよ、初代駅逓頭と飯倉分館(紀州徳川侯爵家)を舞台とする場の理論から前記系図との関連性に触れつつ問題の核心へ歩を進めよう。