【文明地政學叢書第二輯】6 神格統一場としての建春門外学習所

●仁孝天皇と孝明天皇

 光格天皇の従兄鷹司政熙は年長一〇歳で、判っているだけで子供二七人に恵まれ、同世代の第一九代伏見宮貞敬(さだゆき)親王(一七七六〜一八四一)と比べても子沢山に遜色はない。むろん、養子も含まれており、藤原繋(つな)子(一七九八〜一八二四)は関白政熙の養女として仁孝天皇の中宮となるが、若くに薨去したため政熙の実娘祺(やす)子(一八一一〜四七)が中宮を引き継いでいる。
 中宮以外に、正親町雅(なほ)子(典侍)、甘露寺妍(きよ)子(典侍)、橋本経子(典侍)、中山績(いさ)子(典侍)、今城媋(はる)子(掌侍)らが光格天皇の皇子皇女を産し、孝明天皇の生母は正親町雅子である。
 仁孝天皇は光格上皇の崩御六年後に在位のまま崩御されたが、その在位中に一六歳の熙宮統仁(おさひと)皇太子(孝明天皇)と興された大事業は、特記を要する。すなわち、御所の建春門外に学習所(現在の学習院の前身)を開かれたのである。
 現在のように軽々な学習院とか似非教育の権化たる大学とは異なり、もし学習所なかりせば、幕末・維新は間違いなく日本を滅亡に導き、現在の日本人は無国籍の民として彷徨の旅を続けているに違いない。黒船来航の現実は、戦国騒乱の国内抗争とは異なり、原爆投下が立証するように、学習所がなければ勤皇も佐幕も大政奉還でさえも、海外列強に破壊されていたことだろう。先の大戦に敗れても戦後の復興を成し得た原動力は戦地の英霊が身に帯びた神通力であり、独り神格を放って巡幸の禊祓を決断された昭和天皇の神通力あればこそである。
 仁孝天皇も近未来を透かしており、公武の志士が自在に交流できる場を聖地に設けて、幕政の間抜けと競わず争わない統一場を準備されたのである。現在のような似非教育の矛盾も問えない制度のもと、自虐を装う生ける屍が戦勝国列強に黙々と従う学校に未来など存在しない。
 さて光格天皇の御代から、似非の神を奉ずる世界が満を持したかのように日本に向かうが、人間の本能的属性は五十歩百歩ゆえ、コスモポリタン出現は日本でも芽生えており、問題の核心は日本における情報網である。

●統一場の成果と以後の似非教育

 光格上皇四七歳と仁孝天皇一八歳の譲位は政体の不全構造に対する禊祓であって、国際政治の界面に揺らぐ因子(思想)の錯乱から民を救う設計を潜ませていた。後に増設の親王家を含め天皇の養子には、第二一代伏見宮貞教(さだのり)親王(一八三六〜六二)、第九代有栖川宮熾仁(たるひと)親王(一八三五〜九五)、初代久邇宮朝彦親王(一八二四〜九一)、初代小松宮彰仁(あきひと)親王(一八四六〜一九〇三)、第二代北白川宮能久(よしひさ)親王(一八四七〜九五)が組み込まれる。つまり、閑院流の血脈統合は歴代伝承の勅を受け継ぎ、神格統一場を整えつつ、公武合体も視野に入れて、いかなる民主化にも対応できるように備えていたのだ。
 詳しくは別記を要するが、これこそ天の六数・地の八数で始まる言霊周期表の因子(アトム)接合構造で成る生命図の基本設計であり、実証科学でいえば、水の三相三態を論証する6H2Oの理を心得た恒久姓リサイクル・システムの本義である。仁孝天皇が統仁親王(孝明天皇)と養子の親王五家による神格六接合をして、聖地(御所)建春門外に統一場の学習所を設けるデザインは孝明天皇の御代に仕上がり、形骸化進行の内政と外政を建て直す公地を生み出した。
 神格に達する禊祓は生命の潜在性を目覚めさせて、公地=聖地に宿る神通力が五十歩百歩の人格に使命の重大性を気づかせたのである。単なる千切り取り思想は勤皇とか佐幕とかいうが、いかなる個も絶対絶命に向き合う瞬間には、死者は生者を救い、生者は死者を弔う。この現実は親子の絆をも超克する意の働きである。
 実証は山ほどもあるが、原爆投下の史観一件で十分だろう。原爆パニック呪縛の現実はいまだに国際政治の重大テーマであり、生ける屍の跳梁は被災の実態を闇に葬る算段しか講じない。放射性元素のリサイクル・システムも心得ない似非文明が黒船という偽装で日本に上陸してきたとき、これを封じる神通力が学習所の自在性に集束したのだ。これを政府御用達の論説は公武合体の人格レベル情報に止めている。もっとも重大な過失は聖地の理に目覚めないまま、明治天皇の下向に備えた孝明天皇の禊祓も読めない点である。

●建春門外学習所交流銘々伝

 ここで建春門外学習所に集まった面々を挙げてみよう。

 横井小楠(一八〇九〜六九)は肥後藩士で没六一歳、
 三条西季知(一八一一〜八〇)は大臣家七卿落ちの一人で没七〇歳、
 佐久間象山(一八一一〜六四)は松代藩士で没五四歳、
 鍋島直正(一八一四〜七一)は佐賀藩主で没五八歳、
 梅田雲浜(一八一五〜五九)は没四五歳、
 元田永孚(一八一九〜九一)は没七三歳、
 毛利敬親(一八一九〜七一)は長州藩主で没五三歳、
 中御門経之(一八二〇〜九一)は没七二歳、
 宮部鼎蔵(一八二〇〜六四)は肥後藩士で没四五歳、
 周布政之助(一八二三〜六四)は長州藩士で没四二歳、
 久邇宮朝彦親王は中川宮→賀陽宮と経て没六八歳、
 岩倉具視(一八二五〜八三)は羽林家二男→養子入り没五九歳、
 有馬新七(一八二五〜六二)は薩摩藩士で没三八歳、
 河田佐久馬(一八二八〜九六)は鳥取藩士で没七〇歳、
 平野国臣(一八二八〜六四)は福岡脱藩士で没三七歳、
 武市半平太(一八二九〜六五)は土佐藩士で没三七歳、
 由利公正(一八二九〜一九〇九)は福井藩士で没八一歳、
 吉田松陰(一八三〇〜五九)は杉常道二男→養子入り没二九歳、
 甘粕継成(一八三二〜六九)は米沢藩士で没三八歳、
 東久世通禧(一八三三〜一九一二)は羽林家七卿落ちの一人で没七九歳、
 桂小五郎(一八三三〜八七)は萩藩医和田家二男で没五四歳、
 江藤新平(一八三四〜七四)は宮崎藩士で没四一歳、
 錦小路頼徳(一八三五〜六四)堂上家七卿落ちの一人で没二九歳、
 有栖川宮熾仁親王は没六〇歳、
 吉村寅太郎(一八三七〜六三)は土佐庄屋の子で没二七歳、
 三条実美(一八三七〜九一)は清華家七卿落ち筆頭で没五五歳、
 赤根武人(一八三六〜六六)は岩国の医者松崎三宅の子で没二八歳、
 中岡慎太郎(一八三八〜六七)は萩藩士で没二九歳、
 久坂玄瑞(一八四〇〜六四)は松下村塾の筆頭で没二五歳、
 池内蔵太(一八四一〜六五)は土佐脱藩士で没二六歳、
 田中新兵衛(一八四一〜六三)は天誅組尖兵で没二三歳、
 沢宣嘉(一八五三〜七三)は羽林家七卿落ちの一人で没三九歳

などが知られる。

●学習所と舶来思想との絶対的差異

 歴代神格が閑院流天皇体(すめらみこと)に統合されると、形骸化が進む幕政は閣僚(老中)の政策不一致を隠しきれず、通史の揺り戻しは、再び下剋上も辞さない時代風潮を蘇らせた。室町幕府を葬る鉄砲伝来と結んだキリシタンの霊操は信長・秀吉・家康につきまとい、信長流の火薬思想は仏教を焼き払うが自らが焼き討ちに倒れる非命で、秀吉流の中華思想は皇帝を真似して朝廷に侵入するも自ら還暦に没して、家康流の人権思想は神格を封じて自ら神格の救いを求める残滓を残した。
 鎖国下の曲学阿世は仏教と儒教が奇妙に絡み合うなか、キリシタン思想が潜入する出島もあり、夥しい論説が行き交う消化不良の作り話を生み出している。消化不良の結果に生じる疾病は便秘であり、便秘の治療に思想が役立たないことは、すでにマルクス主義で立証されており、現行の玉虫色の条約思想が臨界点にあることも、通称九・一一事件の後始末から生じる世界情勢に立てば、思想という理屈が何の役にも立たないのは歴然だろう。
 いかなる個人情報を弄んでみても、立志伝を形成するのは行為であって、中でも唯一連続性を保つ行為は神格の禊祓に基づく統一場(公地)なくして成り立つわけがない。これが建春門外学習所開設の本義である。
 千切り取ることしか能がない思想は、仁孝天皇の皇女で孝明天皇の妹(和宮親子内親王)が没二一歳という早世の一四代将軍家茂に降嫁する悲運を弄び皇国史観に結び付ける。
 前記の通り、閑院宮親王家初代の直仁親王は東山天皇の第六皇子で、直仁親王の第六王女(倫子)が一〇代将軍家治に嫁いだ先例があり、兄の閑院宮二代目の典仁親王は光格天皇の父で、後に明治政府は慶光天皇の諡号する。また、霊元天皇の皇女(吉子内親王)と七代将軍家継の婚約もあり、卑しさも極まる千切り取り思想は自ら生ける屍を奉じることさえ気付かない。
 曲学阿世の似非教育は孝明天皇の譲位を排外思想と解するが、自ら生ける屍を標榜する証であり、単なる論説の摘み食いで税金を蝕むだけゆえ、政府の学校制度に神格が及ぶ理由などあるまい。

●閑院流血脈の情報網

 仁孝天皇は鷹司政通(一七八九〜一八六八)一二歳のとき降誕され、孝明天皇は政通五八歳のときの即位で政通没二年前に崩御されている。因みに、孝明天皇崩御は家茂没年と同じ、政通は大政奉還と明治天皇即位を禊祓した翌年に没している。さらに政通の嫡子輔熙(一八〇七〜六七)没一年後に親の政通が没する巡り合わせは、閑院流血脈の親子が明治天皇即位と同じくして、公家衆に最終的着地点を定める禊祓と関係する。
 摂家世襲制の寡頭政治は長く朝議を支えたが、輔平王子が鷹司の家督を継ぐのは、公家衆にも戸籍開放を施す必要から生じている。氏姓鑑識は史観の要諦であり、皇統譜を除けば、もっとも汚れが少ない住民基本台帳は公家の戸籍で、凡その文明を共有する個人情報の源流とも成り得るため、公家衆の氏姓鑑識ができれば世界史すら剖判可能であって、日本史なら大した苦労は要しない。
 お浚いしておくと、鷹司房輔の末子(兼香)が一条兼輝(冬経)家に養子入り、兼香は輔平を一条家の養子さらに鷹司家の養子とし、以後の歴代関白は公家制度廃止まで閑院流鷹司家が継いでいる。この禊祓は親王家統合も同じで、伏見宮親王家による親王家増設も閑院流血脈の情報網なくして成立しないのである。
 桃園天皇の女御は兼香(関白)の娘(富子)で、伏見宮一七代目(貞行親王)は桃園天皇の第二皇子であり、同一八代の邦頼親王は輔平の娘(昌子=達子)と婚姻し、同一九代の貞敬親王は蓮華心院達子に育てられ三六歳で相続、一条輝良の娘(景子)を妻に迎えている。同二〇代の邦家親王も同じ境遇で政熙の娘(景子)と婚姻するが、子三三人から生じる親王家増設は別記を要する、仁孝天皇に養子入り同二一代の貞教親王は短命二七歳で、同二二代と同二四代の貞愛親王は孝明天皇に養子入りした。

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