閑話休題、皇太子殿下御成婚に鑑みて、明治天皇が江戸行宮の地を首都あるいはその代替地とした詔書の経緯に触れておきたい。都市伝説に狂うメディアへの警告と受け止めてほしい。
明治元年(一八六八)江戸の再編は東征軍の軍政下に置かれてはじまる。江戸開府事務は同年四月二十四日に開始され、軍の差配で江戸府が設置されたのは七月一日、同月八日には江戸鎮台の設置も定まり、北町と南町の奉行所が廃され町奉行管轄地を管掌する市政裁判所が設けられる。
同年九月三日の詔書は「江戸ヲ称シテ東京(とうけい)ト為ス」とあり、江戸府は東京府に鎮台は鎮将府と改称された。十月二日には大和郡山藩上屋敷が接収され、東京府庁が開かれると、東京府の職制公布が十七日に行われ、市政裁判所の事務を府が引き継ぎスタートしている。
同二年(一八六九)東京府民五五〇人が函館、根室、宗谷へ移植され、引き続き翌年(一八七〇)七月十日には失業対策として、北海道花咲郡、根室郡、野村郡を領有したが、早くも十二月一日には何事もなかったかのように解消している。
同四年(一八七一)八月二十九日の廃藩置県により、東京府は京都府、大阪府と共に三府の一つとされ、首都あるいはその代替地と指定された。翌年(一八七二)戸籍法の定めにより、判然としない休耕地に有楽町、霞が関、三田の町名が付されて地券が交付されてもいる。
同十一年(一八七八)第一回目の府会議員選挙が行われ、当選した四九人により、第一回目の東京府会が開催されている。静岡県から伊豆諸島が編入された年でもある。内務省から小笠原諸島の引き継ぎを終えて、出張所を設置したのは同十三年(一八八〇)十月二十八日とされている。
同二十二年(一八八九)二月十一日、大日本帝国憲法が発布されると、五月一日には東京府内十五区を分立して市政施行のもと、東京市としたが市政の特例で市長は府知事が兼任(ただし早くも十月一日には兼務を廃止)とされている。
同二十九年(一八九六)市議会は「東京都政案」や「武蔵県設置法案」を提出したが、帝国議会で否決不成立とされた。翌年の「東京市政案」も「千代田県設置法案」も結果は同じ、同三十一年(一八九八)市政特例の廃止と東京市役所の開設が決まり、東京第七区選出の衆議院議員松田秀雄が初代東京市長になっている。ちなみに、松田は近江彦根藩士の家系に連なっている。
大正十二年(一九二三)九月一日、関東大震災が発生、同月八日の報知新聞が「大阪遷都論…」を報じると、宮内省は詔書「…東京ハ帝國ノ首都ニシテ…」の発表でメディアを戒めている。
東京都制は昭和十八年(一九四三)法律第八九号に始まり、同二十二年(一九四七)の地方自治法施行に伴い廃止されている。以後の東京都制に変化はなく今も続けられている。
つまり、明治元年に制定された江戸府は、廃藩置県で東京府の成立をみると、明治憲法制定を受け東京府の中に府と市が共存して、同三十一年の市役所開設で初代の東京市長がスタートする。そして昭和大戦中の同十八年に市が府を吸収する形で東京市の成立をみるが、敗戦後の占領下に決せられた現行法下で今も変わらず、東京都制の運営を続けているわけだ。
すなわち、歴史的な相違点を要約すると、旧東京市の範囲に設置した区が都の直轄となり、従前の区長は市の有給吏員として市の選任下にあったが、都長官が官吏である書記官を以て選任することに改められ、区は自治体として法人格の体裁は保ちながらも、都の強力な監督下に置かれた。それらは多摩地域や島しょ部の市町村においても違いはない。そして現行法との違いは次のとおりである。
戦後の改変は区の自治権が強化され、区長は公選制(ただし一九五二~七五の間は非公選の制度が敷かれた)とされ、同時に都長官にも公選制が導入されている。而して、戦後最初の都長官かつ公選都知事の安井誠一郎は五月三日の地方自治法施行で長官から都知事へ移行したことになる。
安井誠一郎(一八九一~一九六二)は、第六代と第八代の都長官ならびに初代~第三代の都知事を歴任した内務官僚であり、弟の安井謙(一九一一~八六)は第一三代の参議院議長である。誠一郎は朝鮮総督宇垣一成に請われて秘書官となり、総督府専売局長の経歴も有している。
宇垣は明治元年の生まれ、誠一郎は同二十四年の生まれ、出生地は岡山で同郷であるが、政治歴は後藤新平(一八五七~一九二九)の系統に属している。誠一郎が都長官に就くのは昭和二十一年七月二十三日から、翌年三月十三日~四月十四日の約一か月を後任へあけわたすが、再び就任した約半月後には初代都知事となり、同三十四年四月十八日まで約十二年と八か月を都政に身を費やしている。
東龍太郎(一八九三~一九八三)は誠一郎の後任で同年四月二十七日~同四十二年四月二十二日の約八年を務めることになる。龍太郎の生家は代々が大阪で医業を継いでおり、龍太郎も東京帝大医学部を卒業して、ロンドン大学に留学すると物理化学や生理学を専攻したとされる。戦時中は海軍司政長官はじめ南西方面海軍民政府衛生局長や結核予防会理事などの歴任が記録されている。
日本スポーツ医学の草分けとしても知られ、都知事就任前の同二十二年~同三十四年まで日本体育協会会長ほか日本オリンピック委員会委員長を務めて、同二十五年~同四十三年までIOC委員をも務めており、同三十九年の東京オリンピック誘致に深く関わっている。さらに詳しい事柄は私の成長記録に照らしながら述べるとする。
これまで再び挿入記事を加えたことには、それなりの事由があった縁を明らかにしたい。
江戸府が東京府に変じた第十三代知事は三浦安(やすし)で石鎚山の修験道を踏まえている。
伊予(愛媛県)西条藩士小川武貴の長男として生まれた光太郎(一八二九~一九一〇)は、幼児の頃から石鎚山で修験道に身を投じていたという。光太郎の十年後輩に常吉がおり、石鎚山の修験道は身分や年齢を超越した実践の場であり、資質の相違は身に帯びた潜在能力に顕われる。光太郎が身に帯びた実力は、幕末維新を駆け抜けるのに充分な資質を備えたとも伝えられる。
西条藩は紀州支藩であり、光太郎が三浦家に養子入り、三浦休太郎を名乗り、主家紀州藩士に取り立てられるのは、将軍十四代家定の後継が問題化した頃すなわち安政五年(一八五八)三〇歳の時と伝わる。紀州藩士として知られるのは、慶応三年(一八六七)四月の「いろは丸」沈没事件で紀州藩代表の権限により、海援隊代表の坂本龍馬に多額の賠償金(八万三千両)を支払ったこと、のち同年十一月十五日に龍馬ほか二人が殺される近江屋事件が発生している。
龍馬暗殺の犯人は確定されないまま、今も推理愛好家の憶測に弄ばれているが、三浦休太郎も犯人候補の一人に挙げられている。
戊辰戦争(一八六八―六九)で捕縛されるが、間もなく釈放され明治政府に出仕している。
維新後は諱の安(やすし)を名乗り、大蔵省官吏、元老院議官、貴族院議員など歴任、同二十三年(一八九〇)十月二十日には錦鶏間祗候(きんけいのましこう)の栄誉に叙された。この資格は同年廃止した元老院議官の経験者を処遇するために設けた名誉職であり、待遇は職制や俸給等に縁がなく宮中席次などは勅任官に準じたと伝えられる。
また同年十二月に出版された『国会傍聴・議場の奇談』においては「尾崎三良氏(一八四二~一九一八)の演説は中々上出来、三浦安氏の弁舌は流暢なり、共に老練さらに老練」と記されている。
安の三女友香の夫は医師緒方銈次郎で父方祖父が緒方洪庵、母方曽祖父が佐藤泰然である。
小説『坂本龍馬』が隠れ官製か否かは読者の洞察に委ねるが、龍馬暗殺の容疑をかけられ、顔面に傷を負ったとされる三浦休太郎の件では、三浦の身に帯びた武術が龍馬や傷を負わせた襲撃犯などの剣先を操るなどは造作もないこと、もし本当に傷ついたとするなら独り芝居としか思えない。
龍馬を鎮魂した落合本にあるとおり、陸奥宗光や尾崎三良そして三浦の知恵袋として、有職故実を心得た三条実万がいなければ、船中八策ほか龍馬が為したとされる仕事など、成就し得るはずもない嘘の塊であり、土佐藩主の正室が実万の娘である事ぐらいは調べておくべきであろう。
さて、三浦の娘婿緒方銈次郎の父方祖父については、すでに落合本が明らかにしており、修験道の開拓者サエキ一族の後裔であり、同じく母方曽祖父についても、甚兵衛ネットワークの本流にあって現在の順天堂大学の基礎を築いた事で知られる。ちなみに、私の小学生時代の恩師ご子息は順天堂大医学部教授となり、その弟さんも同じ医学部を卒業して小児科医院を開業しており、私は家族共々お世話になっている由縁が今も保たれている。
もう一つ秀孝に聞くこと数回に及んでいるが、私は東京府知事三浦安と三浦繁次郎親分との間には祖父と孫の関係があったはずと思っている。しかし秀孝はこれも答えてはくれなかった。
第十三代東京府知事の任期は明治二十六年(一八九三)十月二十六日~同二十九年三月十四日まで約二年五か月の間とされている。三浦安の府知事就任前九月七日に築地本願寺が消失しており、十月二十二日には東京市の淀橋浄水場予定地において近代水道の起工式が行われていた。
三浦安六五歳の府知事着任であるが、清水次郎長や松平容保の訃報も伝わる。翌年七月二十五日に豊島沖で日清戦争の火ぶたが切って落とされ、同二十八年(一八九五)四月十七日まで、約九か月の間とされるが、私は戦争期間ほどあいまいな時空の数え方はないと思っている。
昭和三十四年(一九五九)の本題に戻るとする。
同年四月十日ご成婚パレードは、皇太子妃美智子様を讃えるミッチー・ブームが頂点に達した事を告げている。それはまたテレビ社会の到来をも告げていた。三月一日には、後発のフジテレビ、毎日放送テレビ、九州朝日放送テレビなども出そろい、先発のNHK、日本テレビなど現在と変わらない布陣の護送船団方式が整えられた。ところが、テレビを操る経営陣は視聴率しか考えていなかった。
新学期四月に夜学四年生となった私は、本年九月に満一八歳の誕生日が予定されている。この夜学四年間を終えるまでの時空が最もリラックスできた期間となった。中学時代の友はそれぞれに新たな旅立ちをしており、夜学二年生から近くの都立高へ転校していた私は、約二年間を体験した夜の銀座研修にも見切りをつけて、生涯一度かぎりのサラリーマン生活を堪能している。
私は中学一年生一学期の早い段階で新聞配達に従事するようになり、配達終了と通学までの時間に空きが出来ると納豆を売る仕事も加えるなど、少しの空白も惜しむように働くのが楽しかった。何が楽しいかというと、学友と結ぶ絆よりも、仕事仲間と結ぶ絆のほうが、確かな手ごたえを感じられた覚えが強かったからである。それは宇宙工学の糸川英夫に学んだ成果ともいえる。
糸川博士は私の母と同年齢で秀孝を通じて、私も組織工学論を拝聴したことがある。時は小学生の頃と記憶するが、軍すなわち命を託し合う組織に勝るものなしと言う強烈な印象が焼き付いている。
のち糸川博士と再会したのは、日本初の人工衛星「おおすみ」の部品を加工するにあたって、数社競合で難加工に挑んだ中に私も参加しており、その競合に勝ち残った私を褒めるため糸川博士が私の作業場を訪れてくれたときである。子細は昭和四十五年(一九七〇)の段にて…。
私の生涯一度きりのサラリーマンとしての仕事は会社内でも異色であった。
私をスカウトしてくれた専務そして雇ってくれた社長は生涯わすれられない恩人ともいえる。
総勢三十人ほどの会社は社長の人柄に見合った家族的なムードにつつまれ、近いうちに必ず大きな規模に達すると思っていたが、実際その通り立派な会社に発展していった。
入社当時は日給制で月末支給の形式だったが、私の日給は月ごとに増額され、一年後には大学卒の初任給をはるかに越えていた。両親から期待してはダメと言われていたボーナスも支給された。
私の就業は午前八時から午後五時まで、夜学へ通ったからで、他の社員は残業を当たり前と受け止め誰にも不平不満はなかった。不満どころか誰もが喜んで働いた時代でもあった。
官製発の情報では、昭和三十五年(一九六〇)代~同四十五年(一九七〇)代までを高度経済成長期と呼んでおり、東京オリンピック(一九六四)や大阪万博(一九七〇)の特需が起因したと自らの政策を自画自賛している。同四十三年には国民総生産(GNP)が西ドイツを抜き世界第二位の経済大国へ上り詰めたともアナウンスしている。
同二十二年(一九四七)~同二十四年(一九四九)の世代に生まれた子は団塊(ひとかたまり)の戦後ベビーとされ、青田刈り、就職列車、集団就職などの流行語で扱われ、のち学生運動と呼ばれる安保闘争の兵士とされ、現在進行形の少子化と高齢化を引き起こした犯人のように扱われている。
ところが、彼らこそ戦後日本を復興させた最大の功績を培ってきたのだ。彼らの圧倒的多数は何も出来なかった日本政府に成り代わりながら、日本文化を破壊した核家族化と言うミサイルにやられた最大の犠牲者でもあるのだ。昭和の動乱期に生まれた子の多くは、学徒動員や疎開児童の体験をもちまともな教育を受けられなかったことから、自分の子には学歴をと念じたが、その学校教育は旧来の日本を否定する暗記力重視のマインドコントロールを主体にしている。
日本人の多数派が支持する進学率の上昇から生じたものとは、国富に群がる教育ビジネスの業者が税金で学校をつくり、生徒は在籍中に学んだ詐欺商法を実践に活かして、自分の子や孫の声すら聞き分ける事が出来なくなった認知症の貯えをだましとる。これら認知症を蔓延させた下手人はテレビの視聴率に主因するが、真犯人は核家族化と言われる日本文化の破壊工作にあるのだ。
夜学四年生の私は学友との絆も確かなものとするよう楽しむことにした。休日は夜行列車を使った登山やキャンプファイヤーをくりかえし、アウトドアで新たに出会った友も少なくはなかった。
テレビは力道山のプロレス興行を見る程度であったが、渋谷のリキ・パレスにあった力道山道場に通ったこともある。数週間にすぎなかったが、力道山のプロレス興行を足立区へ招いた秀孝の影響を受けたのかもしれない。プロレスとの縁は後年に至っても繰り返され、私の取引先だった新潟燕市の社長宅に泊まっていたとき、ジャイアント馬場も同級生だった社長の屋敷を訪れており、二人の友人関係が濃密であったことに強い印象を抱かせられた。なぜなら、社長宅の庭に国鉄(現JR)路線が敷かれている事にも驚かされたが、社長は幼い頃の骨髄炎で片足が短いため、ひときわ長身の馬場と二人は、頑是ない悪ガキの嫌がらせを受けたことで、共通の絆を保ち続けていたからである。
勤務先の会社におけるエピソードも、夜学四年生のエピソードも、私的には山ほどあるが、そんな事柄を書くより、同三十四年(一九五九)の出来事を抜粋しておくことにする。
元旦いきなりキューバ革命の報が飛び込んできた、メートル法の実施も見逃せない。翌日は恒例の皇居一般参賀であり、この頃から御出ましの際に「天皇陛下万歳」と有らん限りの大声を発するタイミングの絶妙性が周囲の耳目を惹くようになる。一つタイミングを間違えたら不敬として、特に右翼団体の人から叱られたであろう。毎回の事なので多くの壮士と知り合いになった。
南極昭和基地で犬のタロとジロの生存が確認された。中共の支配下にあったチベット自治区ラサで民衆蜂起がおこった。日米安保条約を巡る騒動がくすぶりだしてきた。千鳥ヶ淵の戦没者墓苑竣工と重なる姑息さが気になっていた。ご成婚は前記の通り…。東京五輪開催が決まり、この機を以て東京都心に生活した貧民を足立区に収容するため団地建設のラッシュがはじまる。
天皇皇后両陛下が野球観戦され、長嶋が村山からサヨナラホームランを放っている。沖縄で相次ぐ在留米軍の事故や事件が広く伝わるようになる。西ドイツザールラント州で使用される通貨がフランからマルクに移行しだした報が届けられた。水俣病の原因が有機水銀と公表される。在日朝鮮人帰還の日朝協定が成立する。
ソ連の月探査機ルナ二号が月面に激突している。明治以後最大の被害をもたらした暴風雨を伊勢湾台風と呼ぶことにした。中ソ対立の隠蔽が表面化してしまう。テレビ番組『皇室アルバム』の放送がはじまる。ソ連のルナ三号が月の裏側を撮影その写真が公開された。米ソなど十二か国が南極条約に調印したと伝えられる。人類初とされるHIV感染による死亡者が出たと伝えられる。
同三十五年(一九六〇)秀孝五二歳、私一九歳に達する年が明けた。
前年秋に準備された工場兼住宅の我が家において、金属加工の見習工を卒業した弟と秀孝が全ての支度を整えてくれた秀孝の友人が経営する会社の外注先として、栗原工業所の名で水洗金具の加工をスタートさせている。友人の得意先は水洗トイレで知られる東洋陶器(現トートー)である。
栗原家の家族にあって、私を除くと全員が手先器用で他の追随を許さないが、私の不器用は家族に限らず知友の全員に知られることである。而して、まさか私を専従員に加えるとは思わなかった。
私は弟が機械のスウィッチを入れる前に勤務先へ向かっていた。新年二日の皇居一般参賀の帰りに聞いた報はジョン・F・ケネディが米大統領選に出馬するとのことだった。
同年二月二十三日には浩宮徳仁親王(第一二六代・当今天皇)が降誕されている。
創価学会三代目に池田大作が就任した。来日した米大統領報道官ハガティ一行がデモ隊に包囲され米マリーン兵に救助される事件の報が伝えられる。改定安保条約批准阻止の全学連七〇〇〇人が国会突入する際に樺美智子が死亡している。同安保条約が自然成立した。首相岸信介が暴漢の襲撃を受け重傷を負わされ、翌日の内閣総辞職で池田隼人の第一次内閣が発足することになる。
OECD(経済協力開発機構)が創設された。OPEC(石油輸出国機構)が結成される。日比谷公会堂での三党首立会演説会場において、社会党委員長浅沼稲次郎の演説中に国士山口二矢が明殺を敢行したあと鑑別所内で自殺したと報じられる。時に山口一七歳であった。米大統領選でケネディが当選を確実にしている。ちなみに、山口二矢(おとや)は同十八年二月二十二日が生誕日である。
夜学四年生の卒業一か月前のころ、私が気づかないうち、勤務先の社長と秀孝の話し合いがあり、秀孝は私を家業に従事させたい、社長は私を会社幹部として磨き上げたい、その押し問答から最後の決断を私に委ねるという結果で呼び出されることになった。
秀孝に向けた私の怒りは頂点に達していたが、未だに借金火だるまの秀孝はともかく、その借金を何も知らない弟に押し付ける事は許されず、私は一切の事情を封じたまま、社長に土下座をしながら退職の許しを請うことにした。社長は必死に涙をこらえる私の手を包み込んだまま、何も言わなくて良いから「専務には私が話しておくから、いつでも遊びに来なさいよ」と励ましてくれた。
私は意地になって、夜学卒業の当日まで勤務先に通いつづけ、社員の皆さんと別れを惜しんだ。
社長の奥様その子供たちにも励まされ、半泣き半笑いの無様をさらして別れを惜しんだ。
帰宅途中の荒川土手に佇み気が晴れるまで立ち尽くした。
仕事仲間が増えたと喜ぶ弟の顔を見たその瞬間に私の迷いは吹っ飛んだ。器用や不器用はどうでも良いことだ。出来るか出来ないかは「行わなければ始まらない」今まで経験した事がない油まみれや汗まみれの日課に挑むうち、多くの楽しみを見出せる事に気づきだした。それは教えられた事に自分自身の工夫を加える面白さであった。
私が気づいた最大の喜びはサラリーマンという安楽な稼業で身に染みた垢を拭うことだった。役人根性の過酷さを否定するわけではないが、同じ命を懸けるのなら、与えられた仕事よりも自分で選ぶ仕事に集中するほうが遥かに納得しやすいではないか。歴史を学んだと思っても、それが自分自身を成長させるものでなければ、歴史だろうと何だろうと少しも手ごたえに響かないからだ。
山口二矢に惚れ惚れする一方で、自分には叶わない家督継承の責務が付きまとっている。
秀孝を憎めば憎むほど、母や兄弟を思う情愛が増してくる、つまり、帳尻に狂いは生じないわけで自分の仕事は簡単に済ませられるものではないのだ。
私が家業の専従になった事で再び秀孝の自分勝手が増していった。金属加工とは言っても、材質は真鍮鋳物だから、刃物に工夫をこらしても切削に大きな違いは生じないのである。汎用機械の改造を行っても、刃物の改良を行っても、加工品の品質向上や時間効率に大差が生じないのであれば、他の業者を圧倒するような利益は生じないのである。
同じ設備内容で他を圧倒できるような仕事はあるのだろうか。他の業者が請け負わない仕事を探す必要を感じ始めたので、弟に相談したら「お世話になった義理は俺が果たすから、兄貴は儲かる取引相手の情報を集めてくれ」と応じてくれたので、集めた情報を深夜二人で検討するようになり、その転機となるチャンスを窺いながら、お世話になった秀孝の友人に義理を返すよう励むことにした。
むろん、秀孝にも相談したことは言うまでもない。秀孝も「義理はすべてに優先するし、恩人たる友人との話し合いは自分が責任もつから、お前たちは遠慮せず好きなようにやれ」と励ましながら、私と弟がコンタクトしようと思っていた会社との掛け合いも秀孝が代行してくれた。お世話になった友人も「義理は了解した。技術的な事で知りたい事があったら、いつでも工場長に教えてもらえ」と手配してくれた。あらためて秀孝の力量を思い知らされたエピソードの一つともいえよう。
(続く)