明石家万吉その通り名が小林佐兵衛(一八二九~一九一七)を覚えてほしい。
文政十三年(一八三〇)堂島中町の船大工町で質屋を営む明石家儀右衛門の養子九兵衛長男として生まれたというが、冒頭から生年に違いを生じている。而して、他の侠客も同様にインターネットの個人情報を読み流すだけで事は足りるので、以下インターネットでは知り得ない事のみにしぼるので容赦をたまわりたい。要は矛盾と非合理に気づくだけで良いかと思っている。
それは上坂仙吉その通り名が会津の小鉄(一八三三~八五)にしても同じこと。
次に渡辺昇(一八三八~一九一三)にしても同じこと。
右の三人を知ったうえで北の大火(天満焼け)を理解してほしい。
佐兵衛の弟分鶴田丹蔵(一八三七~一九一四)と俳優鶴田浩二(一九二四~八七)の由縁も昭和の代へ持ち越すが、そこには侠客ならではの「ナミダ」に結ぶ絆がある。その由縁を知るがため山口組三代目は浩二に特段の思いで接したわけがあり、丹蔵の弟分こそ吉田磯吉(一八六七~一九三六)で大正四年(一九一五)~昭和七年(一九三二)まで連続当選した衆議院議員である。こうした系譜は現在も厳然と保たれているのであるが、キリがないので省略に容赦を賜りたいと願っておく。
これまで長きにわたって挿入を書き述べてきたのは、隠れ官製の造語が意味するところを理解してほしいがためである。天保の飢饉を機に掘り起こされた任侠は一時代のものにすぎないが、歴史的な捉え方をすると、奉公衆が認識する任侠は常態化したもので少し事情が異なっている。
ここに挿入した任侠は普段は人の心の奥底に潜在するものであり、たとえば、激甚災害で行政上の対策が功を成さないとき、誰にも宿る任侠が突如として浮上するエネルギーのことである。このとき失態を恥じる行政が「やむをえず」講じる手段を修験子は隠れ官製と呼ぶわけで、それを批判として述べる場合は本音に徹するところとなり、提言あるいは諫言で済む場合は建前とも思われるが、要は行政を充てにするのではなく、自ら「実行する事で分かった事」を行う尊さを身に帯びる、その上に自分自身の可能性を積み上げていけば、努力の成果も実感できると思うのである。
さて、本題に戻るとするが、挿入前の記事は秀孝四三歳・私一〇歳の頃だったが、秀孝が選挙ビジネスの餌食にされても、何ら臆することないまま、その社会活動に変化を感じる事は出来なかった。大きな後遺症に悩まされたのは、子育てに命を燃やす母つぎだけのような気がして、より一層のこと母に寄り添った私の記憶が今も甦るのは気のせいにすぎないのだろうか。
昭和二十七年(一九五二)は平和条約で日本が占領下を脱して、自主自立の施政権行使が許される重大な戦後の節目でもあった。ところが、占領は終わっていなかった。その裏付けの第一弾こそ三権分立制に遵って、最高裁判所が独自の予算案を提出した件であるが、それまで予算編成権を独占した大蔵省(現財務省)に一喝されると、その予算案を撤回した公文書が今も保管…。否、ある日を以て廃棄されたかも、現行の国会審議に見られる通り、何でもありの政治に期待なんぞはできない。
後年、その深層構造を私に教えてくれた師は、賀屋興宣(一八八九~一九七七)と澁澤敬三(一八九六~一九六三)の二人であった。私が満一八歳の誕生日を迎える年に体験したことである。
秀孝四四歳にとっては、新制中学の校舎建設が急がれるなか、行政の手が行き届かない校庭整備に持ち前の奉公精神を発揮する事が優先課題であった。現在の学校PTA会長には想像のしようもない土方作業が連日の日課であり、秀孝の会社経営や家庭生活は大半が他に任せっぱなしとなる。それが通用してしまう事に何の疑問も感じなかったのが小学五年生の私であった。
つまり、同二十年(一八四五)十一月に帰宅してから、家族が顔を合わせる朝食時に限らず、昼も夜も食事を共にする秀孝の姿は見ておらず、私の記憶の中では、年に数回の家族旅行と、季節ごとの恒例であった神輿祭り、盆踊り、私費を投じた子ども運動会ぐらいしか、秀孝と接した覚えがないと思うほど秀孝の存在感はうすかったのである。ただし、常に主催者側にいた秀孝の存在感は圧倒的に他を上回るところがあり、何とも頼もしい秀孝が心に焼き付いてもいるのである。
私の新年は皇居一般参賀にはじまる、史上初の第一回目は同二十三年元旦に挙行されたが、以後は正月二日が恒例となり、四月二十九日の天長節と共に年二回の緊張感が何とも言いがたい清々しさを覚えることに満たされていた。一方、現人神の地方巡行は同二十一年二月に始まり、当面の区切りは同二十九年(一九五四)八月の北海道を以て見合わせられることになった。
同二十八年春すなわち月日は記憶にないが、秀孝四五歳に達する半年ほど前のこと、関西方面での仕事を済ませて会社に戻ると、工場内は跡形もない空間に化けていたそうだ。私には何も知らせない手配があったようで、秀孝の姿を見るのは小菅の刑務所(現東京拘置所)から帰ってきた時で季節は寒々しい冬の風が吹いていたと記憶している。
すなわち、秀孝が会社解散の整理に追われるなか、その手伝いをする取り巻き連が秀孝の委任状を携えて、手のひら返した債権者との交渉に出向いたが、恐喝と疑われ逮捕されてしまった。その後の事情を聞こうとして、私は青年期に達した頃から秀孝に何度も試みたが、最後まで何も答えないまま秀孝は彼岸の彼方へ消えてしまった。後年その経緯は警察ファイルを見る機会に恵まれ、いくつかの謎を発見しながらも、現在に至っては一応のケリがついたと思うほかない。
ここには、秀孝が刑務所に拘束された事由のみ触れておきたい。取り巻き連を逮捕した後の警察は白紙委任状を発行したことで、秀孝に事情聴取その際に若い検事の態度が礼節を欠くとして、怒った秀孝が若い検事を抱え上げ投げ飛ばしてしまった。検察も判事も素早い手際で判決を下したようで、今では有り得ない速さで刑務所へ直行の手続きがとられた。一方においては、逮捕された取り巻きが即刻釈放という納得しがたい事実も刻まれている。奇しくも前年末の衆議院本会議では「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」を可決、翌年には戦犯が「公務死」と認定されている。
翌二十九年(一九五四)正月二日、秀孝と私は皇居一般参賀から自宅に戻っていた。私には初めて実感する記憶としか思えないが、父を囲んだ食事と家族団欒のひと時を喜び寛いでいたとき、俄かに信じがたい速報が父の耳元に伝えられた。父は「どうせ分かる事だから」ともらすと、二重橋の上で人が将棋倒しになり、死者数人が出たようだと嘆じたのであった。
ラジオでは、「午後二時ごろ、皇居正門前の石橋上で参賀者が将棋倒しとなり、死者十六人を出す大惨事が発生しました」とアナウンスしている。両陛下の御気持ちは…。
平成の御代において、私は地下鉄サリン事件で被災した一つ前の発車時刻を利用していた。
二重橋事件の数日あとになって、私と兄弟全員はそれぞれ別の家へ下宿させられた。一週間ほどの期間だったと記憶するが、その間に債権者との話し合いを済ませたことは、私が成人してから知った下宿事情であった。二月になると、訳も分からないまま中学受験に臨ませられた。
受験先は日大付属第一中学校で筆記試験は受かったが、面接試験のときに、家族構成と家庭状況を聞かれ、家庭状況に関しては「父の会社が倒産したばかり」と答えた事を記憶している。いま思えば自分の愚かさに呆れかえっている。不合格の結果は当然と笑われてしまった。
とはいえ、公立中学校へ入学した事によって、文京区から転入した今の妻と出会えたのだから結果オーライ何が幸いするか、人生は帳尻が合うように図られているものだ。つまり、私が父から継いだ事業の資金繰りに苦しむとき、妻の援助があり、働き盛りの私が家計を賄わないまま、知りたい事に現を抜かすときも、妻の蓄えで賄うとか、息子二人がそれぞれ結婚そして自立してからは、今に至る間も変わらずに私を養い続ける、弁天様のような妻なのである。それはさて…。
父が会社経営を破綻させてから、私の内向性は一気に外向性へ転じていった。中学生になると何の違和感もないまま、親の許しも得ないまま、同級生に勧められた新聞配達のアルバイトをはじめた。新聞販売店の主人に仕込まれたのは、金を稼ぐ大人の仲間入りをしたら、人をかき分けても前に出る気構えが必要だと教えられた。以後の私は何を勘違いしたのか、何事も独りで判断して、判断したら結果を考えず、直ちに行動する人間へ変わっていった。
ただし、学校生活の中では、人の見方によって変わるが、優等生と悪ガキが同居しており、一方で学級委員を務めつつ、一方では他校の悪ガキとの喧嘩に参じるなど、ジキルとハイドのような変身に支配されている。今も後遺症に魘されるのは、中学一年生の年末だったが、当時三国人と表現された少年グループ十三人に囲まれた、金を出せと恐喝されるや、直ちに死んでやると腹に決めて、刃物を突き付けた成人前のリーダー格に的をしぼり、刃先を握りしめ奪い取ったあと、妙に冷静な気持ちと動きで相手の心臓めがけて刃物を突き刺してしまった。
のち秀孝が施した後始末を何度も尋ねたが、何も答えないまま他界してしまった。どうあれ、今も引きずる後味の悪さは消えることがない。しかし、夢に現れるリーダー格の姿は私に詫びる場面しか映らない、解消しえない謎は私が霊界へ旅立った先で判明しえるのだろうか。
どんな時代であれ、自分が自分を鼓舞して強がる人間の口ぐせは、恐いものなし、怯えるやましい事などないと言い放つが単純な強がりでしかない。真に怯えがないのは天皇陛下だけである。
天皇陛下の慈しみと悲しみは、誰にも理解しえないほど大きくて深いのである。
翌三十年(一九五五)正月二日の一般参賀は恒例の通り挙行された。天長節の一般参賀は気候的に恵まれているが、降雪や降雨の冬でも御出まし時刻になると、傘をさす必要がない空模様に変わって参賀の人を和ませている。そうした都度「不思議だなぁ」の声が四方八方から聞こえてくる。
会社を失ってからの秀孝が何を思っていたか今もまだ解けないままだ。もはや母つぎは秀孝なんぞ眼中にない生活に切り換えたかのように生活していた。私のアルバイトは新聞配達からプレス加工に転じていた。やがて秀孝が持ち込んできた家内工業は玩具人形の組み立て仕事であり、母つぎは我が家に通勤した同年配の女性のリーダー格となり、寝る間も惜しんで仕事に精根を籠めだした。内職の外注先も増え続けるなか、私も同級生を誘って母つぎの下で働くようになった。
秀孝の仕事ぶりは組み立てた玩具を納品する姿しか印象に残っていない。あとは町会の役員または学校PTAの役員ほか、秀孝の落選時に最年少で当選した議員の後援会の人など率いては、家を出る為の用事をつくる日々が常態化していった。母つぎは「家族の一人一人が依頼心を捨て、これと思う事業に兄弟三人が心を一つに離れないようにね」と遺言じみた言葉を繰り返すようになった。
とはいえ、戦後の困窮生活は全国民に共通するものであり、私はむしろ恵まれた部類で学校に通う事も出来ない長欠生徒も少なくはなかった。私が小学校へ通うにあたって、両親に厳しく躾けられた事は「人それぞれには・人それぞれの事情があるのだから、人を見下すような事は絶対に許されない恥ずかしいこと」という訓えで今も忘れられない。
而して、私は上位にある者が下位の者を見下す行為は絶対に許せない。とは言っても、見下す事と躾ける事は断じて違うと付言しなければならないのが現世相の悲劇とも思えるのだ。
私は両親から叱られた数がきわめて少ない。ただし、五歳頃から「修行してこい」と言われ秀孝に送り込まれた先は、人の手が入らない森林の中に日没まで放置される事であった。それは小学四年の夏が終わる頃まで随時慣習的に続けられた。
また花柳界など大人が夜遊びをする場へ秀孝に付き合わされたこともある。どれも反吐が出るほど辛い記憶ではあるが、それが私にとって不可欠だった事は後々になって気づかされる。
その頃に秀孝と仲良かった前田山英五郎が忘れられない。秀孝の六年下で愛媛県西宇和郡喜須來村出身と憶えているが、その事由は同郷でも松山市と八幡浜市では距離が遠いから…、その当時の私の視野が狭かったことの証ともなるが…。前田山は相撲界の異端でありながら、横綱三九代目また角界屈指の名門、高砂部屋四代目の親方にもなった。詳細は省くが、話題に事欠かない角界でも前田山が遺した事跡は図抜けて計り知れない。
高砂部屋の地方巡業を秀孝が在住地で主催するほど前田山と仲が良かった。その関係から後年には力道山のプロレス興行も招聘することになった。裏話を挿入すると、秀孝が主催した相撲巡業は無料奉仕のため、地元の縄張りを与る顔役に話を通さなかったが、それが顔役のメンツを汚したと若衆の間にざわめきが生じた。顔役も秀孝とは親密だったから騒ぎに至らなかったが、日本に根づよく残る風習は今も絶えないのである。いつしか興行主に化けたテレビの裏話も何ら変わらないのだ。
同三十年は、日本の深層構造と戦後体制が確定した年でもあった。深層構造とは同二十五年の朝鮮戦争を以て本格化した東西インチキ体制を指すが、戦後体制とは東西インチキ体制の下に具現化したいわゆる政界五十五年体制を指している。
すなわち、戦後日本の国会は自社二大政党制とも言われるが、本体の国際政治がインチキに基づき再編されたのだから、その配下に構成される体制がインチキなのは当たり前であろう。その裏付けは壮年期の私を記事にするとき開示するが、今はまだ私の少年期にすぎない。
私にとっての同年は新発売されたトランジスタ・ラジオを手にした想い出がよみがえる。ソニーの存在感が欧米マーケットに受け入れられ、日本の産業界が海外進出に希望の灯を見出すきっかけとも言われた。ただし、それが大企業の力と認めたら、真相は闇の世界に封じられるだけである。
国際政治を牛耳る第四勢力は世界中の生活マーケットも傘下に組み込もうとしていた。原初の市場経済は物資交換、労務評価、需給調和に始まるが、為替市場の出現で金融が需給バランスの主導権をリードしはじめると、第四勢力は需給が見合わない分を消化するため、伸縮自在の政策市場を仕切るモンスターを産出したのである。
落合本が説く信用と暴力の二本柱に相当するのだろうが、表現力に乏しい私の実感する需給の埋め合わせを行うモンスターとは、東西インチキ体制における軍事力のことである。当たるも八卦そして当たらぬも八卦のアナリストも所詮はモンスターの後塵に群がるハイエナと大して変わらない。
政策市場は原初の市場経済を飲み尽くし、放火と消化のマッチポンプを演じてきたが、政策市場はモンスターに飲み干された。国連を操る常任理事国の切り札が拒否権としたなら、その軍事力の強弱関係は偏に新兵器の研究開発が産みだす成果によって定められる。
その第一は核兵器や細菌兵器でもなければ、衛星ロケットやUFOでもなく、民需への払い下げを可能とする電気と電子を使う端末製品が成果を決しており、それはホームラン級のヒット商品に成り得た場合にモンスターの胃袋を満たすのである。軍事力の研究開発に生じた成果が民需へ払い下げる時差は一様にあらず、半年~半世紀に及ぶ広範な期間を要している。問題の第一番は成果の独占権を回収する仕組みに尽きるが、これもまたアナリストが想像しえるものではない。
かつて米ソが世界中に配したモンスターのキャンプ地は市場シェアでソ連が息切れして、欧州系のモンスターもペンタゴンの後塵を拝しており、今や猛進中の北京系モンスターが追い上げる相などは米大統領選で明らかにされている。
トランジスタは再浮上するのだろうか、もはやテレビジョンはインターネットにサバイバルの道を探ろうとモガイテいるが、停電の危機管理を知らない業界に何が出来るのだろうか。
電気や電子のエネルギーを放出しているのは、陽光や雷光などの大自然エネルギーであり、原発や石油や石炭などは第二次産業でしかない。陽光は月光をもたらし、雷光はオーロラをもたらし、その源泉は電波すなわちナミである。ナミは止まればツブとなる。
天文学は電離層を大気中の断層とみなし、電離層では周波数が乱舞している。その周波数の操作を独占するのも軍事力であり、違法を承知で軍事予算を施す日本の泣き所が透けてくる。
同三十一年(一九五六)秀孝四八歳、私一五歳の生誕日を迎える年が明けた。秀孝の行状に関心を持つ余裕が消え失せていく年頃になったのだろうか。私にしてみれば、中学卒は名実ともに大人への参加資格を得たようなもの、実力次第では職業人として認められるチャンスもある、そんな思いから充実した日々の連続だったかもしれない。
ところが、卒業前三学期ある日のこと、校長室に呼ばれ「はい、これ」と言われて、テーブル上に置かれた紙をみると都立高校の受験票であった。私は直ちに「僕は受験しませんよ」と突き放したが「それは、お父さんに言って下さい」と返されてしまった。秀孝は「明日から図書館に詰め、集中的勉強に励むように」とのこと、逆らうエネルギーを放出するチャンスはなかった。
図書館では時間の大半がヤマトタケル関係の読書に費やされた。中学生になってから、学校教育と実勢社会の狭間を彷徨っていた私は、人を養い・人に教える・人が禁じられる、そんな仕組みを司るエネルギーの働きが気になって、我が身を実験材料とする積み重ねが増えていった。高校受験は私の能力不足で不合格すなわち中学受験に続く敗北だった。
いつの時代から言われだしたのか、失敗は成功のもと、これは成功者が使うとき説得力をもつため私のごとき連敗した者が使うべき言葉ではないが、同じ教育でも学校と社会が同じとは言いがたい。老いた現在に至っては、学校と社会のほかに老後が加わり、その教養も同じとは言いがたい。中学の教育下で私は未来の妻に出会っており、私の人生にあっては第一番の成功と自負している。
ノーベル賞(ショー)を軽視はしないが、その資金の出処はダイナマイトだから、文明的に成功と断じられるが、その端緒は戦火の起爆力にはじまり、原子爆弾も含まれれば、原子発電や衛星探検のロケット燃料も起爆力が決め手となる。つまり、戦争と平和は一卵性双生児ということ…。
中学受験では家業の倒産が決定打とされ、高校受験では暗記力が決定打とされた。私が受けた学校教育の効果は役立つ事なかったが、恩師に恵まれたこと、未来の妻に出会えたことで帳尻に照らすと充分すぎる恵みを得たと思わずにはいられない。
秀孝が私に課した次の使命は夜間高校への通学で無試験だった。私には無駄な時間だったが、通学経験が短い秀孝にしてみれば、自分自身の「ないものねだり」を私に託したのであろう。私の思いは世に受験戦争を巻き起こした主犯の者たちは、動機が違っても秀孝のような親たちだと考える。
もちろん、自主的に受験志望の学徒もいるのだろうが、私の考えは私の内だけのものであり、他に開示する事由としては、学校制度をビジネス化する政治への不信を主張したにすぎない。
さて、通学以外の時間は私が自在に使っても許されることになった。それでも、母つぎの寂寞感を思うと私は直ちに他所の会社へ就職する事はできなかった。秀孝に優るとも劣らない頑固を貫徹する母つぎは、相変わらず玩具組立ての仕事に熱中するが、それを振り切って、私は母つぎの足もとから離れて独り立ちする気にはなれなかった。
となれば、私のストレス発散は通学中もしくは、通学後から就寝までの外出中に限られる。当時は三~五時間くらい寝れば身も心も回復に不足はなかった。通学一年目は綾瀬川ラインの畑に囲まれる高校へ自転車で往来したが、中秋になると周辺は真っ暗闇に包まれていた。
夜学に通いだした頃は揉め事(ケンカ)も校内で止まったが、持て余した体力発散のために早退が始まると、ストレス解消の場を浅草や銀座に求めて、自転車で馳せ参じるようになった。
高校になじんだ中秋になると、一週間に一度くらいだった夜遊びは二週間で三度くらいに増加して場所も銀座への遠出が多くなりだした。のち山口組五代目を襲名した渡辺芳則と初対面で殴り合いと握手を交わす機会を得たのも、浅草における遠い想い出の一つになっている。
私の命運を揺さぶる大きな岐路は銀座で巡り合った奇縁が決め手になっている。
いつも通りの銀座に変わりなかったが、通勤途中のホステスに絡むストーカー三人と出会い無視を続けるには無理があった。のち意識が戻ったのは入院三日目と言われ、翌日の昼すぎ憧れの歌手フランク永井が見舞に来たので驚いたが、一緒にいた人はかすかに見覚えのある女性だった。
私を半死半生の目に合わせたストーカーは、在日駐留の元アメリカ兵だと教えられた。
女性は銀座のナイトクラブに働くホステスでフランク永井の従妹だとも教えてくれた。
フランク永井は「元気になったら、必ず従妹が働く店に出向いて下さい」と言い残した。
私の退院は入院十日目だったが、院長は私に見た事もない高級の和紙一枚を手わたした。
退院のとき、迎えに来た秀孝は何も聞かないまま、体力回復まで家で休養するように命じた。その数日後に体力を回復した私が銀座のナイトクラブに出向くと、直ちにママが先日のホステスとともに挨拶してきた。しばらくして、私と同席したのはフランク永井であった。のち私は「兄貴」の呼称でフランク永井に声をかけるよう本人から告げられている。
元アメリカ兵の一件は秀孝が決着つけたようで詳しくは分からない。
院長に渡された和紙のメモに従い訪ねた先は高松宮殿下が手配した屋敷だった。
当日は単なる「お目通し」にすぎなかったが、後々の御言葉は採り上げて許される事のみに限って記事の中で明らかにする。ただし、私の推量を挿入しないので読者の洞察に委ねたい。
以後二年間の銀座で知りえた事は後年の私を導く道しるべになっている。この二年間がなければ、私は海に沈められているか、地中に埋められているか、どうあれ、この世に生かされる事はなかったはずと思っている。列強の外国施設に拉致され、そこを脱する事も出来なかったと思っている。要は本人には見えない気づかないエネルギーが働いているとしか思えないわけだ。
さて、秘め事の多い一年だったが、翌年は省き、次弟の中卒年と私の夜学三年目を迎える同三十三年(一九五八)すなわち秀孝五〇歳と私一七歳の誕生年に触れておきたい。
弟の中卒まで二年間は私も母つぎと一緒に働くことにした。見るに見かねた秀孝も弟の中卒時期が迫るころ、手作業が主の家業に見切りをつけ、旧来の町会仲間である友人の全面的支援を受けいれ、機械設備を要する金属加工の仕事へ転業することを決した。ただし、母つぎの仕事は内職へ切り替え続行する事で合意も済ませていた。秀孝の友人は中卒の弟を見習工として自社工場に雇い入れると、金属加工の機械操作を短期間のうちに仕込めと工場長に命じている。
一方、秀孝は自宅を機械設備の配置が可能な工場兼住宅の改築に着手していた。その改築中も母は独り片隅で自分だけの内職に没頭しており、私は前年に取得した小型四輪自動車運転免許証が使える勤務先を探すことにした。当時は免許取得の年齢が満一六歳と定められ、私は誕生日の五日後すでに免許取得者となるが、私自身が早く欲しかったこと、その陰にはフランクの兄貴の支援があったなど多くの幸運が重なって達せられた。
のち私と妻の結婚媒酌を叶えてくれた佐野善次郎という生涯の恩人がいる。私の就職志望を聞くや直ちに手配して「今すぐ職安(現ハローワーク)所長を訪ねなさい」と行く先を教えてくれた。その場所へ着いたのは一〇分後だったが、所長室へ通されると来客と茶を嗜んでおり、所長は私に名刺を渡しながら、来客が誰かを教え「話し合うように」と下駄を預けられた。私の就職先が決まる瞬間で即決即断は秀孝直伝の修験道と認識している。
夜学三年の秋だったが、見習工の弟は工場長に手先の器用さを誉められ、私に「仕事が楽しい」と喜んでおり、私の勤務先は当時ダイカスト製品の先端を担う中小企業で広範な取引相手は、いずれも大手企業の開発分野を対象としていた。私は自転車で通勤したが、取引先の都合で通学が遅れそうな時間になると社長が「私の私用車を使いなさい」と便宜を図ってくれた。
ちなみに、免許取得前から何かと気にかけてくれたフランクの兄貴も車が大好きで、数台もつ車は外国産も国内産も高級車ばかり、私の免許取得を祝い「どんな車が欲しい」と聞いたから「車をもつ気持ちはない、時たま借りられたら嬉しい」と応じたら、兄貴は業者を呼び出して「彼(私の事)が乗りたい車をいつでも貸し出しできるようにしてほしい」と手配してくれた。
当時のヒット作『夜霧の第二国道』を口ずさみながら運転した当時がよみがえってくる。
若いころ私の顔が「年齢より十年くらい老けて見えた」のは自他ともに認めるところ、夜の銀座で遊興するには幸いと言うほかない。フランクの兄貴のおかげで、政官業言の幹部クラスが顔を揃える高級ナイトクラブに腰を据え、彼らの生態を観察した経験は何事にも代えがたい。その一方で兄貴の援助に甘える自分を賤しく思う多感な年頃でもあり、家庭事情や職場環境などの転機を踏まえ、銀座研修は三年目を迎える前に卒業することにした。
翌三十四年(一九五九)は皇太子(継宮明仁親王)殿下の御成婚年であり、多数の国民がテレビを自宅に備え始めた年でもある。
(続く)