次は地球に棲息する生命の概要に触れるとします。
現況21世紀の初頭、地球人が知る確認事項の一つとして、地球は唯一生命体(生物)が現存する天体とされます。その生命体は地表のみならず、地下10㎞程度から上空100㎞に至る範囲に広く分布して存命する事が認められています。そのうち、大気の組成は植物が維持しており、酸素濃度の計測も可能とされ、天文学的領域ではハビタブルゾーンと称して、たとえば、液相の水が存在できる環境を成立し得るハビタブルゾーンの中に存在している星が地球であると述べるごとしです。
動物や植物また微生物などの生命体が棲む領域を生物圏と呼んでおり、生物圏全体を一つの巨大な生命体とみなすガイア理論も生じています。そんな中で地球人の活動が生物圏に与える影響は決して少なからず、絶滅危惧種との関係においても多くの懸念が指摘されています。
地球生命を考えるとき、地殻とともに陸地と海洋さらに大気など、そのシステムの集合体とみれば相互の物質循環やエネルギー循環に多くの考え方が生まれます。地球人が他の生物圏へ与える影響の大小強弱を考えてみると、その生活様式とシステムに大きな転換期が生じる事は明らかです。
たとえば、考える事より手あたり次第のモノを狩猟採集の道具としたころ、狩猟採集に工作された道具が加わる事で農耕などの環境改変が行われるころ、移動生活に移住や定住を加え情報交換のため言語を用いだしたころ、こうした生活様式とシステムの経歴において、地球人の心身に刻み込まれたエネルギーこそが遺伝子情報と私は自負するのであります。
つまり、地球人を含む生物圏の生命エネルギーは、場の概要と必須の時間に周期性があり、そこに生命体それぞれの遺伝性が加えられ、種の保存が保たれてきたのではないか、それは微生物にしても動物や植物に寄生して種の保存を獲得したと思うのであります。
さて、地球人が生物圏から離脱して人種圏を形成する史観は存在するのだろうか、この事に思いが廻るきっかけは余命を自覚した私の身辺整理から発見されたメモにあります。小学生だった私のメモ用紙は日めくり暦の裏面を転用しており、GHQ占領の余波が続く中で苦肉の節約が当たり前だった頃の私物であること、そこには修験から教わった地球人年表が記されていました。
以下、簡略に転載いたします。
生物学的に最初の類人猿はメガネザルやキツネザルの仲間とされており、その姿を樹上から地面へ姿を移すまで約1億年もの期間があり、ゆっくりした変化の兆しが早まる時期は約200万年も前の時期、明らかな直立二足歩行の開始とされている。以後、前頭葉が発達した地球人の知能には著しい新開の相があらわれ、手に変化した前足は形も変わり、手の補助具に利用された石や木切れの工作は道具として、効率の良い狩猟生活が維持できるようになった、地球人の生活様式とシステムを刻んだ石器は遠い過去を知る貴重品でもある。とメモされ次の如き続きへと転じていきます。
地球人をサルたちの仲間と考えた初期の段階はプリオピテクス、樹上から地面へ降りて直立歩行が定着した段階はアウストラロピテクス、手作業による石や木切れの工作から生活用の道具をつくった段階は進歩型アウストラロピテクス、目的に沿った石器を作るとともに火を熾すことなど行う段階はホモ・エレクトス、死者の埋葬や装飾などの風習を取り入れた段階はネアンデルタール人、現代人と変わらない体型で直接の祖とされる段階はクロマニョン人、こうした段階をふまえ、地球人が現代の如き族種分類される段階は現生人類と呼ばれる、と書き記してありました。
現在、世界中の天文学研究者および全世界の人々を代表して宇宙望遠鏡の運用を行っている研究所=STSclは、1990年4月24日に打ち上げ成功した地上約600㎞上空の軌道上を周回するハップル宇宙望遠鏡=HSTと、その後継であるジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡=JWST(2021年12月25日に打ち上げ成功)を運用している組織とされています。
STSclは1981年に米合衆国メリーランド州バルチモアに所在するジョンズ・ホプキンス大学ホームウッドキャンパス内に設立され、全米天文学大学連合=AURAによって運営されますが、予算の大部分は米航空宇宙局=NASAゴダード宇宙飛行センターとの協定をもとに、ジェット推進研究所や欧州宇宙機関などの協賛を得る事業も展開しているとされます。スタッフの構成員は大半が天文学者と宇宙物理学者で、他にソフトウエア・エンジニア、データ管理や望遠鏡運用の担当者など教育や広報担当も含めると大凡350名体制とされますが、うち15名は欧州宇宙機関からの派遣を受け入れたと公表されています。
また、広報活動と称する情報は多岐にわたり、インターネット上や学校、プラネタリウム、科学館等の施設にかぎらず、一般市民への配信も積極的に行っています。
ハップル・ウルトラ・ディープフィールドはハップル超深宇宙探査と訳されますが、その探査から発信された情報によりますと、ビッグバンから4億および8億年後の130億年前と推定される頃の宇宙が画像撮影できたと配信されています。この画像には誕生後4から5億年の銀河が1万個以上も映し出されたとし、通常の渦巻銀河や楕円銀河に混じりながら奇妙な形の銀河も多数あり、混沌する初期宇宙の中で銀河どうしが影響し合っているように観えたと開示されています。
因みに、撮影は2003年9月24日から翌年1月までの間にハップル宇宙望遠鏡のデータ収集を目的として行われたとされます。
この頃からデマを含めた噂話が際限なく世界中に拡散されるようになりました。中でも燃え広がる勢いで拡散されたのが地球外生命の存在であり、地球が宇宙における典型的な天体と仮定するならば宇宙には無数の地球外生命が存在しても不可思議ではありません。しかし、20年後の今も地球外の生命体を発見したと言う確かな情報は得られておらず、合成画像の如き怪しい写真をネタに狂喜するゾンビのほかは、ハップル・ウルトラ・ディープフィールドも黙秘権を行使したままです。
さて、記述を地球の生命体に戻しますが、地球人が他の生物圏に強大な影響を齎すようになるのは如何なる時代でありましょうか。他の生物圏に与える影響が不自然であるなら、地球人は自然界にも不自然な存在となるわけで、それは必ずしも悪い事ばかりではありません。そこにこそ文明的生活を執り入れた地球人の叡智が活かされるべきではないでしょうか。
どうあれ、信仰する文明の変遷に生かされてきた地球人は今、天体宇宙望遠鏡4基から成る大型で強力なグレート・オブザヴァトリー計画の発信する情報に未来を託しており、その情報を前提とした思潮が支配する足下で日常生活を過ごしているわけです。
その一翼を担うのがハップル望遠鏡ですが、長さ13.1mの筒形、重さ11トンとされ、内側に反射望遠鏡が収められ、主鏡は直径2.4mと公表され、地球の大気や天候による影響を受けないと言われ、地上からは困難な高い精度での天体観測が可能とされています。
それぞれに大きく異なる技術を備えている4基の各ミッションは、ガンマ線、X線、可視光、紫外線、赤外線など、電磁スペクトルの特定の波長/エネルギー領域の観測を可能としますが、公表では2016年の時点だと運用中が3基とされていました。なお、HST以外はコンプトンガンマ線観測衛星=CGRO、チャンドラX線観測衛星=CXO、スピッツァー宇宙望遠鏡=SSTと略称される合計4基でありますが、詳細は読者それぞれの認識に委ねるとします。
グレート・オブザヴァトリー計画の一環にハップル・ウルトラ・ディープフィールドを有し、その延長線上に展開される天体のパラメータと国際政治が演じているサル芝居に接したとき、今更ながら歴史に蓄えられたポテンシャルこれを掘り起こす道理の重さに気づく必要を覚るのであります。
たとえば、いま直面している一つにウクライナの苦悩がのしかかっております。
連日の報道コメントにハップル・ウルトラ・ディープフィールドのように透けて見えるモノゴトが感じられるでしょうか。臨終前の整理から出てきたメモから現況ウクライナ問題に関する私の自負を掘り起こし、ウクライナ自身の歴史的ポテンシャルをディープフィールドしてみましょう。
私が小学5年生ころ、我が家の食客だった修験から興奮さめやらぬ事を聴き取りした数百枚に及ぶ走り書きのメモを残していた事があり、それを整理してワープロ・フロッピーにインプットする日常生活を過ごしたのが40年ほど前のことでした。既にフロッピーは廃棄処分しており、記憶は脳内に刻まれたジグソーパズルのピースが處かまわずに散らばるだけであります。
この記憶が今のウクライナを暗示させるとは…どういうこと。
要約と脚注の入り混じるストーリーですが、期首は開国に迫られた日本人が丁髷(ちょんまげ)をザンギリ頭に変えるころ、廃藩置県を前に雄藩の目指すところは入府の要を掌握すること、ところが福岡藩の志士が実践した事は憂国の士に徹することでした。
生前「ロックンロールよろしく!」と楽曲を愛した内田裕也と私との出会いは後述しますが、時に福岡藩士平岡仁三郎の長男良之助は内田家に養子入り、家督の継承後に内田良五郎(1837~1921)と改名します。弟平岡浩太郎は玄洋社初代社長となりますが、玄洋社については落合史観から学び稽古されます事を推奨して、私の自負するところは割愛させていただきます。
内田良五郎の三男良平(1874~1937)すなわち裕也の祖父は伯父の玄洋社に入り、叔父の東京入りに随行すると、直ちに嘉納治五郎が創設した講道館へ入門いたします。幼児から父に学んだ良平の心技体は弓道、剣道、柔術、相撲、射撃などに培われており、上京1年後の明治26年(1893)には東邦協会ロシア語学校4年間を経てシベリア横断の探査決行に出向かされます。
裕也の曽祖父良五郎は、剣術小野派一刀流の皆伝を許され、柔術は藩の扱心流、杖術は天真正伝神道夢想流、津田武右衛門から砲術と鎗術を学び、平野吉右衛門から一角流捕手を学んでおり、弟子に中山博道(1872~1958)がおり、博道は知る必要あるため記述を怠ることできません。
加賀藩士(祐筆役)中山源之亟の八男5歳のとき、維新混乱の被災を受け家が零落し、一家は隣の富山市へ移住8歳で丁稚奉公に出されます。18歳のとき東京神田小川町で神道無念流を教える根岸信五郎の有信館道場へ入門、師範代のとき根岸の養子になりますが、本郷真砂町に道場を建て有信館継承を果たしたあと中山姓に服します。
内田良五郎に杖術を学び、細川義昌に無双神伝英信流居合を学びます。のち大日本武徳会から前人未到の剣道・居合術・杖術の三範士号を授与され、昭和初期の剣道界において高野佐三郎と並ぶ最高権威者になります。大戦後戦犯容疑者として一時収監され、剣を封印しますが、武道団体の名誉職に臨みつつ、晩年の口述集を後世に遺し、昭和の剣聖あるいは最後の武芸者と称えられています。
一方、高野佐三郎(1862~1950)にも触れねばなりません。博道より10歳年長で、武蔵秩父郡に生まれ、中西派一刀流は忍藩剣術指南役の祖父佐吉郎から伝授され、上京後は山岡鉄舟から学び、明治19年(1886)警視庁巡査に任官、警視庁の三郎三傑の一人に数えられます。
中山と高野に関する情報は重要なので読者も独自に稽古してほしいと念じます。少し加える必要を覚える人物としては、植芝盛平(1883~1969)、正力松太郎(1885~1969)、木村篤太郎(1886~1982)らがおり、植芝が婿養子にした中倉清(1910~2000)も特に認識を要する人財であり、昭和の武蔵あるいは戦うに敵なしと謳われていました。
さて、内田裕也(1939~2019)ですが、私より1年9か月14日の年長、その揺るぎない初志貫徹は私との引き合わせを楽しんだ鈴木龍馬(1933~2001)と何ら変わりません。私が本稿記載にあたり、敬称を略すのは予め告知した通りで、いみじくも高松宮様がふと呟かれました音韻にあり「敬称は他人行儀、心に生きている人に敬称は失礼にあたる」からです。
龍馬は生地が私と同じ年長は8歳、既に記述している鈴鹿サーキットのオフィシャル佐藤全弘との親密な関係は任侠一筋その臨終も自らの腹を突き刺す自裁で決着しております。私も龍馬に先立って自裁の割腹決行に及びましたが、未遂に終わる恥さらし今にひきずる、もう一人の心に生きる英傑が日米インチキ体制を見透かした山口二矢で浅沼稲次郎をしとめたあとの自裁みごとでした。
家督の重大性を身に帯びる侠気(おとこぎ)は裕也を含めそれぞれ同等の処世でありますが、その家督を認識するがゆえの義理しがらみがあります。黒龍会主幹また大日本生産党総裁に任じた良平を祖父とする裕也の義理を惟とき、黒龍会や生産党のオービーには占領下の狹気から、かつてのテキヤ社会やバクト稼業に奉公の道を見出し、孤独の侠を率いる親分衆も少なくないのであります。一歩も退く事を知らない裕也が親分衆のギリ場で祝い事に独演するのもしがらみの一つ、私はそこで黒龍会演戯のホパークを踊る裕也を見たとき、ウクライナと日本に通じる道が透けて見えたのです。ホパークこれコサックのマツリゴトに通じるダンスであり、ボクシングのフットワークより厳しい命がけの鍛え方をしなければ身に帯びる事できません。その原型はスキタイまでさかのぼり、プーチンの政策支柱を成すのがコサックであり、彼はコサックを愛国者のシンボルと敬っているのです。
コサックかつてウクライナやロシアに軍事的共同体として出現し、その共同体に属したツワモノを指す語と解するのが一般的とされます。特定の民族を指す語ではないとし、構成員はチュルク系ほかタタールやスラブ人など混じる一群と紹介されています。
文献上の初出は15世紀ころ、ウクライナ中南部の「荒野」と呼ばれる草原地帯を拠点とし、周辺国家に依存せず独自の生活を営むコサック2流が存在したと伝わります。1流はドニエプル川の中流州域ザポロージャ地方に集住したザポロージャ・コサック、もう1流はドン川の下流州域に集住したドン・コサックと呼ばれる風習が今に使われています。
16世紀以降、ザポロージャ・コサックはポーランド=リトアニア共和国に属し、ドン・コサックはロシア=ツァーリ国に属し、双方とも軍務提供の見返りに自治権を得ており、その自治権の維持が保護国の政策で危うくなると断固たる叛乱で対抗したとされます。
1648年に蜂起したザポロージャ・コサックの指導者フメリニッキーの名を付す乱は、その後の展開から獲得した戦利として、ウクライナ、ポーランド=リトアニアの連合体における軍の司令官を指す呼称ヘトマンと呼ばれるザポロージャ・コサックの国家を誕生させています。ただし、1654年には軍事的安定を求めロシア=ツァーリ国との協定妥結により、その庇護下に与しますがロシアの締め付けが厳しくなるのは「いつか来た道」であります。
1709年、ヘトマンのイヴァン・マゼーパはスウェーデンのカール12世と同盟し、ピョートル1世と戦い敗北、1734年には軍事や行政を行う最後の本拠地となるノヴァ・シーチを建てるも、エカチェリーナ2世の代(在位1762―96)1775年ロシア軍によって破壊されます。これら経歴の渦中ロシア=ツァーリ国に属していたドン・コサックは、ヘトマンのマゼーパと結びロシアに敵対した事で1737年から一部がオスマン帝国への逃亡を始めていました。
一方、ロシア領内に留まったドン・コサックは帝国が認めた南ロシアから東ウクライナの一帯(現ロストフ、ヴォルゴ(=旧スターリン)グラード、ルハーンスク、ドネーツク、ヴォローネシュ、カルムイク共和国)を領土に隠忍自重を決したのであります。
もとより、軍事的共同体として歴史に登場したコサックは、強固な中央集権制を敷く帝政時代でもドン軍管州の見返りとして、極めて稀な自治権を持つ特区に任じられていたのです。かつてドン・コサック軍が建てた首都ノヴォチェルカッスク(現ロストフ州にある産業都市)に在る記念の凱旋門はナポレオンに勝利した遺産でもあります。
私の自負は「戦記たるモノ全部がウソの上塗り」と覚る立場にあります。この戦記とは、巷の喧嘩話から世界大戦まで含む全てを指しております。而して、コサックの戦記にも触れる気ありませんので関心ある読者は、独自に稽古の対象に加えていただければ幸いであります。
ともかく、現況ウクライナ問題に自らの信じるところを貫いているプーチンの覚悟を剖判する事は意味ありますが、他の政治家は単なるヤジウマが踊り狂う相としか私には見えません。
ましてや、テレビタレントよろしくゾンビのタワゴトを動画にしている不様に接すると、強制的に兵士とされた無辜の民や被災者万民その遺族など、洞察だけの自分に激しく憤るだけであります。
(つづく)