●森コンツェルン創設前夜
前掲系図の森矗昶(千葉県勝浦市)は漁業網元の傍ら広く加工販売を営む為吉の長男に産まれ、弟二人と妹四人がいる。明治三一年(一八九八)に高等小学校を卒業した矗昶は、父が新たに始めた「搗布焼(かじめやき)」の仕事に従事する。搗布は海岸で採れる海藻であり搗布を焼くとヨード(沃素)灰になり、その灰からヨードを抽出すると、消毒液のヨードチンキなどを生成できる。
沃素は原子番号53,元素記号Iで、ハロゲン元素の一つ。昇華(化学)性があり個体は紫黒色で、反応は塩素・臭素より弱くて水には溶けにくいが、ヨウ化カリウム水溶液にはよく溶け、毒劇法では医薬用外劇物に指定されている。
現在ではヨウ化ナトリウムを含む地下水を塩素処理して得ることを通常としているが、矗昶らの行なった生成法は、海水から沃素を濃縮する海草類の搗布を選んで、それを焼いた灰を水に溶かし、塩素で酸化してヨードを抽出するという方法だった。
沃素は人体に摂取・吸収されると、血液を通じ甲状腺に集まり蓄積される。甲状腺ホルモンを体内で合成するためには必須の元素なのである。海洋国家日本の食生活では海草類が普通に摂取されているが、大陸中央部では沃素摂取に恵まれないため、甲状腺の異常が多発する。例えば、米国は法規定により食塩中に一定量のヨウ化ナトリウムを混入させている。
日本の援助で沃素剤を服用し甲状腺異常の患者を激減させたモンゴルの例などを含め、日露戦争によりヨードの需要が激増したことは、矗昶らの地場産業を大きく後押しする理由となる。ところが逆に、ヨード制限食を要する場合には、海草類摂取を控えることも大事であり、今では甲状腺ガン検知を行なうに当たり、多くの沃素同位元素(質量数一一五〜一四〇)の中から質量数一二三の同位元素(123I)などを使用する。
チェルノブイリの原発事故では、核分裂生成物として質量数一三一の沃素(131I)が多量に放出されて甲状腺に蓄積したことから住民に甲状腺ガンが多発した。これらの放射能汚染が起こる場合は、あらかじめ放射性のない沃素の大量摂取により甲状腺を飽和状態として防護する策も採用されている。要は間厄のアヘンと同じ原理だと考えればよい。
沃素溶液にデンプンを加えると藍色を呈して沃素滴定(ヨードメトリー)に利用できる。沃素アルコール溶液が消毒薬ヨードチンキで、注射する際に消毒・殺菌のため塗布する赤褐色の液体ルゴール液は沃素+ヨウ化カリウム+グリセリン溶液である。うがい薬のイソジンなどの商標で売られているのはポンドンヨードで、沃素とポリビニルピロリドンの錯化合物である。
すなわち、南関東ガス田の地下層をもつ千葉県の水溶性天然ガス鉱床から湧出される地下水に沃素が含まれていたため、資源が少ないといわれる日本の貴重な資源として、矗昶らに禍福をもたらしたわけである。
もちろん開発事業者は誰でも福を求めて働くのであるから、罪を少ないともいえるが、政治的利権に巻き込まれ意の制御を失うと必ず禍に晒されるのが歴史の常である。
およそ日本における沃素の産出量は千葉県の独占状況にあるが、その理由は地下層にある。先ごろ東京渋谷区で温泉爆発事件を発生させたユニマット代表も千葉県出身、過去に多額納税者日本一に成ったことがある。
沃素の輸出を金額換算すると、南米チリが第二位の日本の二倍以上と突出している(二〇〇二年)が、第三位以下とは桁違いの外貨を日本に齎している。昭和三四年以降は沃素も工業副産物として生成されるようになり、原料資源は天然ガスやチリ硝石(硝酸塩鉱物)、石油へと替わった。
なにゆえに筆者が歴史問題に物理を挿入するのか、その理由は史家の見識を試す意味もあるが刻々変化していく科学の似非を正す必要を痛感するからである。例えば「ノーベル・ショー」の原資となったダイナマイト、つまり火薬の原料は時代ごとに変遷しており、火薬を用い御破算に願いまする戦争を繰り返す政治決断から脱却するには、物理を知らない史家の作り話を断罪する必要がある。
明治三八年(一九〇五)、矗昶は日露戦争でヨードの需要が高まって経済的な裏付けを得て、近くに住む県議会議員(のち議長)の安西直一の仲人により総野村杉戸(現勝浦市)の豪農として知られる山口家から長女いぬを妻に迎えた。子供は年齢順に暁・満江・實(夭折)・茂(戦死)・清・睦子・美秀・禄朗・三恵子の六男三女に恵まれたが、暁・清・美秀はともに衆議院議員になり、睦子の入婿は元首相三木武夫である。
同四一年に房総水産(資本金五万円)を設立し営業部長となるが、その目的は日露戦争後の政策対応にある。ヨードの生成に使う塩は戦争中に専売制となり、政府の方針からヨード業者も統制を目的とする合弁を促されていた。安西直一はこの機に乗じて為吉・矗昶を誘い半ば強引に県内のヨード業者を大同団結させて房総水産を設立、社長に為吉、専務に直一、常務に矗昶が就任し、実務の取り仕切りはすべて常務の担当とした。
以後ヨードは第一次世界大戦の需要を承けて順調に推移、会社も大正六年には資本金一五〇万円に膨らみ輸出も行なったが、戦争後の反動不況で経営危機を招き東信電気(鈴木三郎)に吸収合併される。
この鈴木は「味の素」で有名だが、元々グルタミン酸ナトリウムの製造特許は一九〇八年東大教授池田菊苗が取得し、前年に設立された鈴木製薬所(後に鈴木商店)が世界へ広めたものである。
鈴木三郎助は日本化学工業専務時代にヨードを手掛けていて、大同団結を促進する矗昶に応じて館山工場を譲り渡した過去がある。前記の鈴木製薬所ほか東信電気など複数の会社を手掛けていたため館山工場を手放すことも可能だったのだが、今度の吸収合併は役員らの反対を押し切って矗昶の申し入れに応じている。実はこのとき東信電気も重大な局面を迎え立ち往生していたからである。
すなわち信州(長野県)の水力発電計画が地元有力者の黒沢睦之助により遮られ説得工作が難航していたのである。そこで矗昶が起用され、大正九年に千曲川発電所建設部長の肩書きで現地に赴いて黒沢を説得することに成功、以後四つの発電所を完成させた。これらの発電所と送電線を第二東信電気の資産に計上したうえで東京電燈との合併を実現させ、東信電気は莫大な収益を上げることになる。
矗昶は開発の見返りに長野県小梅で塩素酸カリウム工場の設立を許され、原料の塩化カリウムを千葉ヨード工場から運び、千曲川発電所の電力を使用して低コストのマッチの生産に着手。ただし、スウェーデン製輸入マッチの激しいダンピング攻勢に圧され、この見返り事業は一年も持ちこたえられず閉鎖の止むなきに至る。
しかし皮肉なもので、後に矗昶に森コンツェルンを築かせるのはこの電気化学工業に取り組んだ体験から生じている。再び発電所建設に取り組む矗昶は同一二年に高瀬川発電所を完成させ、昭和二年に専務へ昇格すると阿賀野川鹿瀬を仕上げ、次いで取り組む豊美では日立製作所に国産の発電機を作らせ実用に成功した。
●政策利権への接近・運用
反吐が出るほどにも嫌いな人物伝をいま必要のため書いているが、問題は政策利権に潰されるヨードの運命である。大正八年矗昶はヨードの価格破壊に際して全国業者を代表し、農林省・陸軍省・海軍省を回り救済を陳情している。同一三年に千葉三区(当時)から衆議院議員に立候補するのも、この動機からだろう。結果は当選、その後三選され、昭和七年の当選では次点が末弟(岩瀬亮)だったため自ら辞退し議席を譲って事業に専念すべく決している。
ということは、高瀬川や阿賀野川鹿瀬、豊美などの発電所を建設した時点では衆議院議員も兼任しいてるわけで、東信電気での専務昇格も、久原房之助や鮎川義介が率いる日立製作所とも絡む開発も、すべて政商事業と疑われても仕方なかろう。森コンツェルンを築くための基礎体験は北里柴三郎と同じく高い評価を得られようが、以後の連続性に意を失うのは慈悲の念を禁じ得ない人の本能的属性である。
さて、政治家矗昶が行なう事業歴は以下の通り重大な系図上の情報を提供するため、手を抜くわけにはいかない。大正一一年に設立する森興業は同一五年に東信電気から東京晴海と千葉館山の工場を買いもどし、翌年に設立した日本沃度に移管する。昭和三年には、東信電気と東京電燈が出資して資本金一千万円の昭和肥料が設立され、会長には東京電燈の若尾璋八、社長が鈴木三郎助、専務に矗昶という役員構成であった。かくして石灰窒素の安価大量生産は造作なくできたが、さて販売の方は業界最大手の電気化学工業が問屋に圧力を加えたため芳しい状況を生むにはいささか手間を要した。
夜行列車で知り合った全国購買組合千石興太郎と意気投合、農村の購買組合に直接石灰窒素を卸す契約が締結されたというのは作り話である。つまり、昭和肥料の設立は次々と行われた電源開発から発電量が余って、その過剰電力の消化を何とかしようとする後付けの苦労話であり、さらに苦肉の策の代表がアルミニウムの国産化にも結びつている。
アルミニウムを一トン生産するために二万kw/時という膨大な電力を消費する事業は当時矗昶以外に成し得ない事業だった。昭和六年(一九三一)から原料ボーキサイトの代替物として味噌土(伊那)、鹿沼土(栃木)、ミョウバン石(朝鮮)などを研究し、同八年に朝鮮半島南端の声山を買収している。
他方の昭和肥料も同六年に初の国産硫安(硝酸アンモニウム)の製造に成功する。硫安の特許調査を行なうため高橋保(常務)らが満鉄のヨーロッパ派遣団に加わった時のこと。その道中で知り合う東京興行試験所の技師から、まだ実用化に至らないが国産の特許があると耳寄り情報を聞いて始まる事業だった。
国産硫安の製造成功日に没するのが鈴木三郎助で、全国購買組合連合会を通じ一気に流通を広げたのが国産硫安である。
昭和九年には初の国産アルミニウムも生産の目処が立ち、日本沃度は商号を日本電気工業に改める。この間には日本沃度が同七年に会津電力から広田工場(福島県)を買収のうえ、次々と化学薬品の製造を手がける。海軍の後押しを受けると爆薬カーリット製造の原料となる過塩素酸アンモニウムほか金属類の国産化を続々達成していた。また、同九年に設立された昭和鉱業は京都大江山でニッケル鉱床を発見したと伝わる話があり、輸入依存率一〇〇%というニッケルの国産化に乗り出す。だが、精錬に大量の電力を要する事情から融資元が及び腰となって停滞し、後に日本火工により合金NK鋼として世に出るという話も生まれる。
これらの事業にまつわる作り話が世に広がり高まると政界を引退した矗昶を求めて様々な公職要請が舞い込んでくることになる。
●森コンツェルン人脈
大正七年から昭和七年まで陣笠代議士の肩書きで事業に専念した森矗昶は昭和一一年からカーバイト組合・硫安肥料製造業者組合理事長、また石灰窒素肥料製造業者組合の理事になるが翌年に肥料統制が始まる。統制下における肥料分野でも硫安販売社長、日本硫安社長、日本肥料理事長など務めながら軽金属分野ではアルミニウム工業組合理事長、軽金属製造事業委員会委員、帝國アルミニウム統制社長などを務めている。
昭和一四年には日本電気工業と昭和肥料を合併させ、昭和電工に商号変更して初代社長となるも、翌年国策会社の日本肥料の理事長就任に当たり辞任する。同年末の台湾視察で体調を崩し翌昭和一六年の正月末から半月と少しの間を聖路加病院に入院し、その後に自宅療養中の三月一日に行年五八歳の生涯を閉じた。
この矗昶の国産化事業を統合する形で誕生した昭和電工の社長には実子(暁)も短期間腰掛けるが、実質上の社長は安西正夫である。正夫は矗昶の長女満江と結婚し、生まれた娘を大橋武夫の長男宗夫に嫁がせ、宗夫の弟の光夫を社長に据えている。
その大橋武夫に嫁ぐのが浜口(水口)雄幸の娘富士であることは前記の通りだが、雄幸の長男の雄彦の娘淑は正田英三郎の長男巌に嫁ぎ、安西正夫の長男孝之は巌の妹恵美子を妻としている。
さて、起業家矗昶を支援した最大の功労者である鈴木三郎助から出る系列も別記を要するであろう。味の素二代目忠治の子治雄は昭和電工の社長・会長を務め、前記した如く浜口儀兵衛の系の吉右衛門一二代目に嫁ぐのは味の素の社長・会長を務めた鈴木恭二の娘の睦子であり、支那清朝皇帝の愛新覚羅家とも連なる。
因みに、矗昶の長男暁と同年に生まれる三木武夫(一九〇七・三・一七〜一九八八)は徳島で肥料商を営む三木久吉の長男で、矗昶二女の睦子と結婚し、入婿として政治資金には不自由のない経歴を刻んでいる。棚から牡丹餅ともいわれる首相の座を永く裁定した椎名悦三郎との系譜も無縁でないことは当然である。
さて、矗昶の子供たちの略歴も付記する必要がある。長男暁(一九〇七〜八二)は京都帝大卒で、昭和電工社長や千葉工業大学理事長、日本冶金社長、ナス・ステンレス社長、日本精線社長などの経済経歴と衆議院議員二期(一九四六〜)という二足の草鞋を履いている。
四男清(一九一五〜六八)も京都帝大卒で、日本冶金取締役、昭和火薬社長など経済経歴と衆議院議員(一九五二年より七年間)を務め、佐藤栄作の内閣では総理府総務長官(一九六六)に就任している。所属派閥は河野一郎に属した。河野没後に起こる派閥主導権の争いで中曽根康弘と対立し、決別のうえ新たに派を率いるが急逝した。
その後を引き継ぐ五男美秀(一九一九〜八八)は玉川学園を卒業し、日本冶金に入社の翌年から戦時下を迎える。戦後は東亜精機社長や苫小牧ファーム社長などを歴任し、兄清の急逝を受け衆議院議員(一九六九年より七期)となり、初め兄の派閥を引き継ぐ園田派に所属したが、三木(義兄)派に移り三木派を継ぐ河本派の中で環境庁長官に就任(一九八五)、その跡は長男英介が引き継いで現在に至っている。
安西直一家に生まれ共に没年(一九七二)を同じくする浩(兄)と正夫(弟)は、南関東ガス田の地層資源に刮目して大きな事業を成し遂げた矗昶門下の代表格である。兄の浩が手掛けたのは瓦斯事業である。
安西浩の娘和子が嫁ぐ先は佐藤栄作の二男信二(一九三二〜)であり、信二は慶大卒業し日本鋼管入社を経てから参議員議員を皮切りに政界入りをするのは義父浩の没後二年目の時である。浩と栄作は同じ一九〇一年の生まれで、没年は浩が栄作よりおよそ三年早い。信二は栄作の死去により衆議院議員に鞍替え(一九七九)し、以後八期を務め郵政国会で造反のうえ出馬せず引退(二〇〇五)した。田中・竹下・小渕らが率いた党内最大派閥に属し、運輸相・通産相を歴任するも、一九九八年の党総裁選に際し同派から小渕と梶山(茨城県)が競い争うと、派の意向に反し梶山を支持し派を離脱している。本人に如何なる事由が絡もうと、人の判断は遺伝子が交わる系譜に強く操作される場合があり信二の事例は象徴的といえよう。安倍晋三が逃れることのできない朝鮮問題も、すべては歴史が運ぶ宿痾と受け止めるほかなく、現在(平成一九年七月)の時点では、安倍以上に役に立つ存在はゼロであるがゆえ頑張ってもらうしかない。
●正田家伝
さていよいよ正田家について見よう。正田貞一郎(一八七〇〜一九六一)と同年の生まれは、先の系図上で浜口雄幸であり、森矗昶は両人より一四歳年下、その次に生まれるのが安西浩・正夫の兄弟や正田英三郎、大橋武夫らである。
森の四歳下に緒方竹虎の存在がある。竹虎の緒方という姓は備中(岡山県)出身の祖父(大戸郁蔵)まで遡る必要がある。まず大戸郁蔵が佐伯(緒方)洪庵の適塾に学んで塾頭を務め、洪庵と義兄弟の盟を結んだことから、共に緒方の姓を名乗って共有したことに端を発している。次いで、郁蔵と同郷の妹尾道平が適塾門下の伊藤慎蔵に導かれて郁蔵に養子入りし、郁蔵の娘久重と婚姻して緒方道平と改名する。その二人の間に生まれた子供が緒方竹虎である。
同じ備中出身の三人がそれぞれ旧姓を捨ててともに緒方姓を名乗ったことから、佐伯・緒方(洪庵)、大戸・緒方(郁蔵)、妹尾・緒方(道平)という三系統が発生する。竹虎は郁蔵と道平の二系を引いていることになるが、その系譜は後に記す。
正田貞一郎は上田貞次郎より七歳の年長で、生まれると直ぐ父に死なれ、醤油製造三代目の祖父に育てられた。東京商業学校を卒業後しばらく祖父の事業を手伝うが、三一歳で館林製粉を設立(一九〇〇)する。また上田も東京商業学校を出た後に同校で上田ゼミを持って、正田貞一郎の三男(英三郎)や茂木啓三郎二代目(キッコーマン)らの教え子を輩出する。
貞一郎が社長空席のまま館林製粉で働いて三七歳のとき(一九〇六)に一〇歳年長の根津嘉一郎を初代社長に据えて翌年から東京小石川に居を構え日清製粉と合併するところまでは前に記した通りである。
貞一郎の子沢山もすでに記したが、長男明一郎の没後二年目(一九二四)に日清製粉二代目社長に就任する。製粉業界の海外(米国・カナダ)視察から帰ると、オリエンタル酵母工業を設立(一九二九)、まもなく日本栄養食糧も設立(一九三一)してグループ化を進めていく。昭和一一年(一九三六)六七歳のとき日清製糸を設立、また製粉事業を朝鮮・満洲・北支に進出させて日清製粉本体の会長に就任する。
同一五年(一九四〇)の中外興業創立後は、財団法人農業化学研究会を創立(一九四一)するとともに、東武鉄道の会長(一九四二)にも就く。すなわち、初代の根津嘉一郎の没後三回忌法要への恩返しである。戦時下にあっても、社団法人如水会理事長(一九四三)を務めるなど休むを知らず、東京大空襲時に四男順四郎を失うも、占領下で貴族院議員に勅撰され(一九四六)、以後はGHQの統制管理化で日清製粉が過度経済力集中排除法の対象に指定される(一九四八)。ただし、翌年六月には排除法指定を解除され、日清製粉相談役に退き、年末に関口カトリック教会で洗礼を受ける。
大平食品創立(一九五五)の翌年に藍綬褒章を授与され、昭和三四年には孫娘の名目で預かり育てた美智子(現皇后陛下)と皇太子(現今上陛下)の御成婚に恵まれて、昭和三六年に行年九二歳の生涯を閉じている。葬儀は聖イグナチオ協会(四谷)で行なわれ、社葬であった。
正田家伝の通説でもっとも当たり前とされる説を付記しおこう。遠祖は新田義重の家臣(生田隼人)と称し、群馬県館林の地における始祖を六三郎という。江戸時代には「米分」という暖簾で代々が米問屋を家業とし、上州館林を拠点に近郊に聞こえた富商といわれる。米文の商号は江戸に止まらず大阪方面にまで知れ渡るようになり、弘化年代(一八四四〜四七)に名主職と苗字帯刀を許され、文政元年(一八一八)に生まれた文右衛門三代目を中興の祖ともいう。その文右衛門三代目が米殻商を他に譲り醤油製造を始めるのは明治六年(一八七三)とも伝わる。
貞一郎の父が前記した作次郎で結婚後まもなく横浜へ移り外米輸入などの貿易商を始めたが行年二六歳で没する。
以後の話はすでに述べた通りだが、貞一郎の子の中で注意を要するのは、三男(英三郎)より二男(健次郎)が作る閨閥である。健次郎(一九〇二〜七七)は府立八中、旧制八高、東京帝大、ドイツ留学という経歴を経て二八歳で帰国、昭和八年(一九三三)に大阪帝大数学科が創設されると教授に就任する。昭和二四年に学士院賞を受け、大阪大学学長に就任(一九五八)、その後いったんは退官するが、再び阪大の基礎工学部長として復帰するのは六一歳のときである。阪大を定年退官すると直ちに武蔵大学学長へと移り、以後程なくして文化勲章を受賞(一九六九)というのがおよその経歴である。
先妻は天文の分野で著名な平山信(一八六七〜一九四五)の二女多美で、一男二女の子を設ける。多美と死別したあと後妻に伊藤栄三郎(九大教授)の娘禎子を迎えると、さらに二男に恵まれる。