次はアーユルヴェーダの中における医学分野であるが、もとより、アーユルヴェーダの歴史はイネ科の栽培すなわち完新世が始まるころ、人々の定住が増え始めるころに、医食同源のごとく始まると私は自負している。それが医学としての体裁を繕うようになるのは、5300年前ころインダス文明ハラッパ―時代と思っても良いのではとも案じている。
同時代の人の歯を考古学者が発見している。その場所はパキスタンのメヘルガル(現バローチスターン州)であるが、この地は南アジア初の農耕(コムギ、大麦)と牧畜(牛、羊、ヤギ)が始まる遺跡として認定されている。調査した米国ミズーリ大学コロンビア校の物理人類学者は、ハラッパ―時代の男性の歯を洗浄した際に治療の痕跡ある事も発見していた。
アーユルヴェーダを生命の知識と任じる分野では、成文上の医学体系を講じたのは2000年以上前の事だったと表明している。チャラカとスシュルタの2学派が使うテキストは広く知られ、これらテキストには宗教文学『ヴェーダ』中の古代医学思想と関連する部分もあり、初期アーユルヴェーダと初期仏教ジャイナ教の文学との間には直接的な歴史的関係も見られるとの指摘もある。
またアーユルヴェーダは特別な薬草慣行による総合性を基礎に成り立つと言う考え方もある。
医学書『チャラカ・サンヒター』は北西インドの都タキシラ(パキスタンのパンジャーブ州にあるガンダーラ時代に始まる遺構)を中心とするアートレーヤ学派が使うテキストのこと、大凡2000年にわたって使われたが、現代に伝わるモノは内容が大きく異なるとされる。
同『スシュルタ・サンヒター』の著者スシュルタは生没年不詳とされ、古くは3000年前の人と言い新しくは2150年前の人と言う始末である。どうあれ、外科手術の父と称されるスシュルタはヴェーダ時代のヒンドゥー医学からルネサンス期の文献でも述べられるように、帝王切開、白内障、隆鼻術のような整形手術、脳手術、石切り術など難解な外科手術を施したとされている。また植物の根や胚など760に及ぶ薬物や痘瘡(天然痘)に関する記述をテキストに記したと伝えられる。内科医療が主流のアーユルヴェーダ世界では異色の存在として扱われている。
そこで中世イスラム勢力が抬頭してくるまで、アーユルヴェーダの古典医学が如何なる学習体系で運営されたかを知っておきたい。文明史上における医学の位置づけを知る事は、新型コロナ禍と言う呼び名で慌てふためく国際政治とともに、不透明きわまる未来に最も必要とされるモノゴトは何か、その手がかりに覚醒する事も風猷縄学のキモと思うからである。また2000年以上も前とされる南アジアのアーユルヴェーダを知る事は現行日本の医学事情を解くカギにもなるからである。
以下にアーユルヴェーダ古典医学の構築体系を要略するが不明なコトガラも少なくはない。
予防と治病に大別した古典に接すると、予防は2部門あり、ラサ―ヤナ(不老長寿法)とヴァジーカラナ(強精法)とされる。治病は6部門あり、カーヤ・チキッツァー(内科)、バーラ・タントラ(小児科)、ブーダ・ヴィディヤー(精神科)、シャーラーキャ・タントラ(耳鼻咽喉科と眼科)、シャーリャ・チキッツァー(外科)、アガダ・タントラ(毒物)とされる。即ち、合計8部門で成る基盤には錬金術2部門が混じるのである。
古典医学8部門に加えられた錬金術とは、調剤と施術に必要な10科に及ぶ技術分野を意味するが以下の如く分類されている。蒸留法・手術法・料理・園芸・冶金・砂糖の製作・薬学・鉱物の分析と分類・金属の混合・アルカリの調剤の10科であるが、臨床科目に重きをおくため、たとえば、解剖学は外科授業の一環として、発生学は小児学と産科学の一環として、生理学と病理学の知識の全部を織り込んだ総合医療が目的なのだろう。
イニシエーションすなわち通過儀礼(仔細は読者に委ねる)と訳される研修の終わりには、グルが厳粛な演説を行うとされる。因みに、グルとは「師、指導者、教師、尊師、尊敬すべき人物」などの意味を持つとされ、サンスクリット語では「重んじられる方」と訳されるそうである。
グルの演説が終わると、研究生を純潔・誠実・菜食主義の生活へ送りだすが、研究生は全身全霊で健康を保つため病に向き合うこと、また利己益のため患者を裏切ってはならないとする。服装は質素清浄にして、強い酒を飲む事は避けること、患者の家では礼儀を正し謙虚に、患者の利益のみに目を向けなければならない。患者とその家族の情報は禁句であること、患者が治療不能また患者その他が傷つく場合は情報全部を秘匿しなければならない。通常の研修期間は7年とされ、研修生は卒業する前に受けるテストに合格しなければならない。医師になってからも、文献、観察、洞察などから学び続けること、医師間の情報交換、山の民、森の民、牧夫などの治療法も収集すること…とされた。
これらのアーユルヴェーダが衰退するのは、中世に抬頭したユナニ医学の隆盛によるが、ユナニは古代ギリシアの医学を起源としており、現在もインド・パキスタン亜大陸のイスラム文化圏では伝統医学として定着している。また、ユナニティブは中国やアーユルヴェーダと共に世界三大伝統医学と呼ばれ、その言語はアラビア語であるが、その意味はペルシア語「ギリシアの」と解されている。
最後は東アジア圏の医学史を述べようと思ったが、それは中国政府が2017年に発表した公式の情報でややこしくなった。東アジア圏の医学史は統一的な呼び名を使った形跡がないところへ、中共人民政府は「中医」と呼ぶ造語に定義を設けて、細かな系統も明らかにしながら、特に「学」の語を軽視する思い入れを強く示し、漢民族への歴史的な帰依を露わにする相を天下に告げたのだ。
まず中医とは、中国に現存する全ての漢方薬・治療法・病理学・医学理論・医学文化を含む総称が定義と見なされており、その範疇は漢族選民群が発明したモノに限定され、被支配層のチベット族やモンゴル族やウィグル族が用いる伝統医学は定義に含まれないとした。そのため、中医薬学の呼称を使う場合は医学院の教材または学術界向け論文の中に限られ、薬学とは漢方薬の重要性を強調し得る便宜上の言葉にすぎないとして扱っている。
古来シナ大陸に定住した人を理解するためには、大自然の気候風土に伴うところ、その統治統帥に君臨した漢民族の選民思想を究明しない限り、その深層に辿り着く事などは出来るはずない。
選民思想とは、民族的単一性や宗教的信仰性から成る特定の集団が自ら「選ばれし者」と思い込む認識の事を指している。広く知られる実在としては、ユダヤ教、キリスト教、カトリック教会、モルモン教、クリスチャン・アイデンティティー系、ムスリム、ヒンドゥー教、ラスタファリアニズムのソロモン王やシバの女王、オウム真理教、旧統一教会などを信仰する中に一群を為している。
以下、漢民族の形成につき、ウィキペディアを参考に私の自負を要略しておきたい。
まず認識すべきは、漢民族とは近代に出現した語であること、それ以前に使われた漢人とは古代の文化共同体が用いた名称の1つとされる。漢人の起源は項羽が劉邦を大陸西部の漢中へ左遷その漢朝建国を為した事に始まり、それ以前の漢人(漢民族)は華夏族と称されていた。
学説としては、紀元前16世紀に始まる殷王朝を滅ぼした武王が、同1066年に始まる周王朝を建国し、中原に定住その一族を伝説上の聖王である神農・黄帝・堯・舜に因んで「華族」と称した。更に遡る同21世紀から同16世紀の夏王朝の末裔が「夏族」と称された事から、中原に住む一群の同族を華夏族と言い始まるとされる。
周王朝の華夏文化あるいは華夏文明は、近隣の東夷(とうい)族、北狄(ほくてき)族、西戎(せいじゅう)族、南蛮(なんばん)族にも受け容れられ、大陸全土へ拡散され、同221年に始皇帝の秦による統一が成立し、ここに古代シナ大陸の歴史がスタートしている。
やがて、秦の支配を脱した楚が独立、その楚君項羽から左遷された劉邦が漢王朝を建国するのが同206年その終期は紀元後220年とされている。この漢民族は鮮卑やモンゴルなどの異民族や朝鮮王朝の高句麗による侵略や、倭人の海賊に侵略されるなどして、混血漢民族の形成が為されたと言う説もある事から、他の大陸史と同じく大陸シナの歴史も漢民族のみでは成り立たない。
漢王朝については、華夏族を中心とする東夷系、荊呉系、百越系および東胡系、匈奴系などの民族吸収から形成した漢民族と論じる説も少なくない。黄河の上・中流を中心に居住していた華夏系は、黄河下流の東夷系、長江中流の荊呉系および珠江(しゅこう)を中心とした百越系と融合のち統合のプロセスを通じて漢民族に生まれ変わったと言う説もまた然りである。
而して、漢民族の概念として浮かぶのは、周辺の異民族による征服王朝の支配を受け、混血の後に形成された系であっても、元来の伝統文化を引き継げば同じ漢民族と見なされた。たとえば、304年の前趙(漢)の興起から439年の北魏による華北統一までとされる五胡十六国時代は鮮卑などの北方遊牧民族に華北平原を支配され、中原に居住した華夏族は南方に移動これ俗に客家(はっか)と言われる一群とされるが、ここに詳しく論じたらキリがなくなる。
以後、遼や金また元あるいは後金、さらに後身の清に至る征服王朝期においては、漢民族も被支配階層に追いやられる屈辱の族種に転落している。たとえば、辛亥革命(1911年)以前はシナ人の80%が苗字を持たない平民とされ、支配層の満州族と被支配階層の二クラスしかなく、漢民族たるカバネを継ぐ事さえ許されなかったとされる。
以上の説の合否がどうあれ、現在の中共人民政府は漢民族を「選ばれし者」と位置づけ、他の選民主義と一線を画すため、その一環に中医と呼ぶ医学史も組み入れた、と私は自負しているのである。以下、中医に係る情報を要略するが、要略に伴うリスクは個々の読者が自ら補うモノとし、中医から注目すべき私の自負するところを明らかにしておきたい。
中医の基礎は五行とされ、文献上の出典は『書経』とされるが、上古研究に多数の説が生じる事は必然性もあり、エビデンスの実相が一様で済まないからだ。中原に住む堯・舜の夏族一群が政治上の心構えとした『書』に始まり、秦の始皇帝による焚書を経てから、華夏族が『書経』と称し、儒教が広く根付き権威を増す中で定着したのが五行説ではないか、と私は自負するのである。
木→火→土→金→水→(木)…と相生そして木は土・土は水・水は火・火は金・キンは(木)との相剋関係を説くのが五行とされている。五行説は西洋の四元素説と比較される思想ともされる。戦後日本の論説をリードしたゾンビは、中国医学・漢方医学・東洋医学・東方医学・東亜医学が行き交う乱交パーティーに現を抜かし、果ての若者文化は独自の絵文字を用いるようになる。選民思想に拘る北京政府が五行説から中医なる語を生じたのも必然と思えてくる。
北京政府の成立後、共産党は各地に分布する伝統医学の担い手を「老中医」と呼んで召集し、その老中医を伝統医学の教育に充てようとしたが、既に体系的な伝統医学は残っておらず、ほとんど家伝医療の生薬方あるいは鍼灸方が伝承されているだけだった。
ここに巣立つのが、華夏族の選民思想を受け継ぐ毛沢東の号令であり、それは個々の伝統技術から統合した新たな理論体系の構築を目指すモノであった。
現行「中医」制に基づく医師免許は2種あり、西洋医学を行う通常の医師と、伝統医学を行う新設中医師が併設されている。中医師の免許は欧米諸国でも認可されているが、申請中とされる日本では未認可のまま、既に在日資格を持つ医師と鍼灸師の一部が中医鍼灸を行うのみとされる。
また、中医師は生薬処方を中心とする湯液治療の専門医と、鍼灸や中国整体=推拿(すいな)など行う専門医の2種に分かれる。前者は西洋医学の影響を受け、中医内科、中医外科、中医産婦人科、中医小児科などあり、その科目の複雑化は懸念材料の一つとされる。たとえば、中医の研修は西洋医学習を同時に採り入れるため、診療や処方に際し、患者に「中医薬あるいは西医薬にするか」を問うケースもあり、「中西医結合」治療の問題点が複雑化に拍車をかけるとされている。
一方、昨今の欧米においては、中医を西洋医学の補完あるいは代替とする傾向が増しており、その研究や治療が広範に行き渡っている情勢も見られるという。
(つづく)