南北朝秘事〜藤房伝説の真相が世界史を覆す〜(後半)

※本文の内容は、
洞察帝王学講座第49回(2019年12月撮影)の文字起こしを改訂したものです。

これより後場に入ります。

前場では高橋健自の『鏡と剣と玉』に書いてある喜久沢神社の
藤原藤房の鏡に付いて論じました。

高橋の結論は、この種の鏡は全部湖州鏡だ、とは言わない、
湖州鏡のあとの時代になってシナから大量に輸入されたものである
と結論したわけです。

ところが湖州鏡というのは、既製品なのです。
それはそうです、あんな遠いところにわざわざ注文する人はいませんから。
メーカーの名前が入っているのです。
湖州以外のところで作ったものも面倒くさいから湖州鏡というのですが、
大半は湖州で作られて、湖州の何々と、株式会社ではないが、
メーカーの名前が入っているのです。

これは注文鏡かなと思ったら違う、鐫刻は日本で入れたから、
やはりこれも湖州鏡の大量生産品ということと考えるのは、
一応のところ正しいのです。

皆字が違うから注文品だと思ったら、既製品に彫り付けたものなのです。
従って、湖州鏡とみたのは一つの考え方ですけれど、
そうではなく後代の輸入品という説が出たのです。

和歌山市立博物館に加太春日神社に考察を書いた『紀要』というのが出ました。
第29研究紀要です。
この中に『和歌山市加太春日神社伝来鏡に関する考察』を
清水梨代さんという学芸員の方が書いておられます。

これが出たのは2014年11月1日。
私がここ加太春日神社にお尋ねしたのは10月5日。
それから1か月も経たずしてこの紀要が出ているのです。

この考察を書いたのはその前、考察を書いて印刷される、
その間に私はここへ偶然来ているのです。
これは単なる偶然ではないのです。
私はいわゆる唯物論者で偶然は信じなかったけれど、
こんなことばかりあるので、その後、仏門に入りました。

和歌山市研究市立博物館でこのような考察をしているから、
お前も行ってそろそろ見て来いという御神意ではなかろうかと思います。
誰の神意かというと、もちろん護良親王です。

第三殿の空殿におられます護良親王が「ちょっと来い」と私を呼んだのです。
お前は井口左近の末裔であろうと。

長男が崇光天皇で次男が井口左近の家に戻されて、
井口左近という家は、
その子孫が新たな井口左近家の主人になります。

護良親王の男系に変わったのです。
それが皇別井口氏です。
私はその直系ですので、おそらく護良親王から、
今和歌山市から学芸員が調査に来ているが、
疎漏があってはいけないし誤解も生じるだろうと。

お前はここへ来て勉強しろとお呼びになったのではないかと、
今は考えております。

加太春日神社伝来の小鏡21面を考察した中の、ナンバー13、
その時に和歌山市が使った道具、
神社でお付けになった番号ではないと思いますが。
この13番の鏡は、

「一方、平縁に背面中央を凹面に」

これです、背中の中央が引っ込んでいる。
両端を玉縁型として盛り上げていますね、受け防を作っている。
端に向かって開いているバチ型となる柄を持ち、
鏡背に菊花紋と漢字を交互に。ナンバー13の同型鏡、これと同じ形が、

「京都妙法院天寿院のほか奈良東大寺、法隆寺、福岡十所王子社、宮崎の鵜戸神社、愛知熱田神宮などをはじめ相当数にのぼる」

大きな社寺ばかりです。
妙法院をご存知ですか、天台の座主になるのは青蓮院か妙法院か三千院、
いずれかの門主に限られていたのですよ。

天台を統べるのが妙法院。
「天寿院」とは天の寿と紀要は書いていますが、正しくは「授」のほうです。
「天授」というのは南朝の年号なのです。

南朝6年1380年に、
たびたび出て来る妙心寺二世授翁が妙心寺の中に自坊を建てたのです。
妙心寺は1341、1342年に出来ますが、
開山冠山和尚を藤房が二世授翁となって継いだのは1361年なのです。

それから19年後、自坊を建てた、それが天授院です。
ネットでしか見ていませんがぜひ行って見てこようと思います、
妙心寺の中の立派なお寺です。

天授院、天授は元号です。
今年は令和になりましが、元号を付けたお寺は世に20も30もないのです、
元号は100、200もあるけれど。
元号寺は勅許がなければ許されないのです。

普通は寺です、延暦寺、上野の寛永寺とか、皆すごい寺です。
最近はその制度がなくなったから勝手に平成寺とかありますが。
しかし長い歴史の中、元号が百幾つある中、
調べたところでは20、30もありません。
それくらい元号寺とは特殊な存在なのです。
勅許がなければ名乗れないから。

その「天授」の字を間違ってはいけませんよね。
あまりのことに、昨日、清水さんにお電話をしました。
爽やかな感じのいい方で、
「これは京都博物館の資料にそう書いてあったからそうしました」
と仰るので、
私は「分かりました」と。
それでいいのです。
「孫引きしたらそうなった」というだけの話です。

しかし「天寿」をパッと見た時に何かおかしいのではないかと思いました。
やはり虫の知らせです。
天授6年は南朝の年号、すでに足利の世に定まったように見える中で、
南朝の年号を妙心寺で使っていたのです。
これは重要なことです。

年号を許した天皇は、どこの天皇か。
それは当然、問題になります。
北朝の天皇が許したのか。
だって年号というのは天皇の名前なのですよ。
明治天皇とか、今の方もやがて令和天皇とされますが、
天皇の名前が年号なのですよ、
一世一元になったら、当時は違いましたが。
とにかく北朝の天皇が南朝の元号を寺院に許すはずがない。

調べてみるとこの年1380年に崇光上皇が亡くなっておられるのです。
崇光は本当は護良親王が井口左近の娘に生ませた長子。
従って藤房も最も心で仰いでいた方です。
この崇光天皇、身は北朝になっても生まれは南朝です。
今までの学校の教科書では崇光天皇は北朝の天皇なのですよ。
ならば北朝の天皇が南朝の元号を許したということになる。
後円融天皇、この方も北朝の天皇で、上皇が崇光上皇。
この年に亡くなっておられるようですけれど。

とにかく北朝の天皇が南朝の元号を許して元号寺にしたということが面白い。
ここまで言わなければ洞察といわないのです。
こういうことが焦点を当てると出てくるのです。
学校歴史に背いたことをやっては、学芸員という職はもたないでしょうが、
だからといって字を間違ってはいけません。
京都博物館もわざと変えたわけではないと思います。
今の人はそこまではしないから。

この妙法院と天授院のほかに奈良東大寺法隆寺、福岡の十所王子、
宮崎の鵜戸神社というお宮は知りませんが、
熱田神宮と比べているのですから、相当な社寺だと思います。
そのほかに韓国の韓国京畿道仁川市南区桃林洞および全羅南道潭陽郡龍面道林里にも
同じ型の鏡があるというのです。

面白いですね。南朝の藤房の鏡が韓国でも出ていると。
この清水学芸員がおっしゃるのは、この形、真ん中がくぼんで周りが盛り上がる。
高麗鏡の顕著な特徴である。
従ってこの鏡は李氏朝鮮時代前期に作られた、朝鮮鏡であると考えられると。

結論を言うと、制作地の比定は正しいのです。確かに朝鮮で作ったのですから。
ただ、時代は李氏朝鮮時代かどうか知りません。
高麗鏡というから高麗でも作っているのに、
なぜ高麗鏡と言わなかったのでしょう。

高麗という国がすでになかったからか。
李氏朝鮮が立つのは1392年です。
その前に作ったのが高麗鏡、そのあとが李氏朝鮮前期鏡。
清水さんは李氏朝鮮前期鏡だとおっしゃるが、これ実は高麗鏡なのです。

これを作ったのは皇室のの伝授によると羅津です。
羅津は高麗国ですから。
従って高麗鏡です。
なぜ羅津かというと、藤原藤房がそこへ行ったからです。
あの20年間、彼は大陸へ行っていたのです。
もっとも20年間ずっと居たとは言いませんが、
1348年に第一皇子崇光天皇が即位される。

本当の父は護良親王。
翌年に生まれたのが井口左近の子になり、その後に三人目の王子、
つまり井口左近の娘の生んだ第三王子、
名前は分かりません、これが海外へ行くのです。
アルザスへ入るのです。
アルザスへ入ってハプスブルクの家に入るのです。

もちろん、こんにちは、と言ってただで入れてくれません、
向こうから呼ばれたのでしょう。
向こうはペストが始まる少し前ですが、
サラセン軍に攻め込まれて、ガタガタになっているのです。

フランク王国のカロリング朝のあと、
オットー大帝が962年に西ローマ帝国を作るわけです、
神聖ローマ帝国。これが大空位時代を経てガタガタになったので、
護良の第三王子が呼ばれて大量の金塊を持って行く。
羅津に置いてあったカネ、金を。
そのための前裁きをしたのが藤房だったのです。

藤房は1348年が崇光の即位で、その何年か後に崇光の弟、
名前が分かりませんから南朝王子X(護良親王の子どもX)としましょう。
このX王子が莫大な金を持ってアルザスへ入るわけです。

いきなり行ってもいけませんから、
当然、その前さばきを誰かがしなければいけない。
これを藤房がやった。

藤房が一人でそんなことが出来るわけがないから、これは佐伯衆、中国では陳といい、
日本では大伴とか佐伯という、ウバイドの國體奉公衆がやったそうです。

昔から、応神天皇の頃から、大陸と日本の間をつないでいたウバイド衆。
これがずっと付いていたのは、相当な数で行ったようで、アルザスへ入る。
これが藤房鏡の証明したことなのです。
藤房鏡をきっかけに分ったことです。

逆に言えば、藤房鏡の存在は、
見る人が見れば大塔宮護良親王の王子がアルザスへ入ったその証拠となるのです。

そのあと、1380年ごろに生まれた治仁王、持明院統を継いで伏見宮治仁王。
これに付いて細かく言うと時間がありませんが、向こうへ呼ばれて行くのです。
南朝王子Xのひ孫にあたるYという方が生まれた。

なかなかの人物だから、これを大きく育てるから金塊を持って来いと。
この金塊を持って治仁王が行くのです。
この人は伏見宮の貞房親王の兄と歴史学でいいます(弟という説もありますが)。

貞成親王の日記を読むときに三十と四十を読み間違えて、卌を丗と間違えて、
本当は九つ下の弟を一歳上の兄貴だとした。
兄貴が弟の元服に冠を被せたとか、滅茶苦茶なことが書いています。

これが学校史学です、そうでないと言う人もいますが、
いずれにしても、何も分かっていないということの証拠です。
親王宣下もしていないから治仁王、親王ではない。
この方が呼ばれた。呼ばれたのは南朝王子Xの係累です。
これがハプスブルクになっている。

エルンスト鉄公がその子どもとして生まれる。
のちのフリードリヒ3世となり、
ハプスブルク家を、それまでの選挙制を改めて事実上、世襲制にしてしまう。
それからずっとハプスブルクです。

南朝王子Xの子か孫の南朝王子Yが、イコール、フリードリヒ3世だと。
フリードリヒ3世の学校史学上の親はエルンスト鉄公といい、
この方が南朝王子Yであったとみることが自然ですが、そうでない可能性もある、
名前だけ借りたとか、要するに分からない。
Yから2、3代前を調べてみると、アルザスのハプスブルクが複雑なのです。
おそらく、2、3代前から南朝王子Yと同じ人間だと思います。

ところが、画像が残っているけれど、
ハプスブルク公の歴代は皆、今のトランプさんをえげつなくしたような顔をしています。
おかしい、日本人があんな顔になるはずがない。

ゴリラとは言いませんよ、鬼とも言わないが、トランプさんと同じような赤毛で、
身体が大きくて、ウー、という感じの人。
それをあんな男前ではなくもっとえげつなくした。
王様の顔をわざとえげつなく描く必要はないと思うけれど。
これは一種の変装ではないですか。

当時の領主は顔を見せて歩く商売でもない、
テレビも新聞もない、何を書いても分からない。
知っているのは側近の貴族だけ。
時々パレードをするかもしれないが、
それだって本人かどうか分からない。

従ってそういう顔のものとして残したのではないですか。
肖像画というのは、本来は意図的なところがあるのです。

それで私の説は、アルザスのハプスブルク家は、
初代はともかく、どこからか南朝王子Xが入って、
Yが出て、Yの子どもとしてフリードリヒ3世が生まれた。
このように解釈しております。

これが分かると全部世界史が分かる。
この家は巧妙にウィーンに侵入して、ウィーンの大公になる。

勝手にオーストリア大公と言い出したのが、
フリードリヒの3、4代前に「私はハプスブルク大公だ」と言ったのが、
これでいいと認められて大公になった。

大公とは格が王と一緒です。
ウィーン大公であるハプスブルク、もとは伯爵だったのですが、
選ばれて、初めて神聖ローマ皇帝になるのです。

フリードリヒ3世のときに世襲化して、それからずっと。
子どものレオポルドが、婚姻政策を通じてスペインの王になり、
スペインハプスブルク家としてずっと残るのです。

ウィーンとスペイン、両方からヨーロッパを支配する。
これに対抗するのはドイツの諸侯の連合国とフランスのルイブルボン、
イギリスくらいしかないということで、ヨーロッパの王になるのです。

ハプスブルクがナポレオンと戦争してアウステルリッツの戦いで負ける。
ロシア皇帝まで巻き込んで3人の皇帝が戦った三帝合戦がありました。

アウステルリッツは会戦だから一日で勝負を決する。
負けてハプスブルクを自分でつぶし、
その後、ウィーン皇帝、オーストリア皇帝と勝手に名乗る。
これを勝ったほうのナポレオンが認めるのです。

ナポレオンも勝手にフランス皇帝という。
フランス共和国の皇帝なのです。それをオーストリアが認める。
だから八百長なのです。

それで欧州の國體の実権をナポレオンに被せる。
ナポレオンはそれを引き受けて、ロシアに攻め入って最後はつぶれる。
これは全部出来レースです。

何のためか。
国民国家という政治単位を作るためです。

それまで300諸侯が乱立してあたかも日本の戦国ないし江戸時代のようなものです。
国の名前は日本として統一されているけれど、
実体は幕藩体制で、幕府と三百諸藩の諸侯の連立政権であった。
まさにヨーロッパもそのかたちだったのです。

これを国民国家というかたちにまとめた。
全ヨーロッパとしてはできないけれど、とりあえず
フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、スペインという国民国家にした。

なぜ国民国家にしたかというと、
そうしなければ諸侯分立では外部勢力との戦いに敗れるからです。

内部では均衡して勝ったり負けたりします。
しかし、一旦外部から来た時に、弱い部分が買収されて敵の味方になったら、
その国が負けるのは必至だからです。

これがあるから幕末に幕府をつぶしたが、
これは慶喜でなければ出来ないのです。
慶喜は自分が、徳川幕府を滅ぼすことによって日本を統一させた。

薩長でも坂本竜馬でも、
そんな貿易ブローカーの出る幕ではないのですが、
彼らがやったことにしたほうが都合がいいから、
それに加勢しているのが学者とかNHKという宣伝機関です。

あれは日本のためにやっているのではないですよ。
幕末はやはり徳川慶喜が一番偉いのです。
自分の身を滅ぼして全を成す。

他国もにいますよ、ナポレオンがそう。
その前のハプスブルクがそうだった。

自分が負けて目的を達成する。
フランスが負けることによってプロシアをドイツ帝国にして作る。

まだあります、
ヒトラーは負けることによって、ある大きな目的を達成した。

なぜかというとヒトラーはオーストリア人ですから、
やはりハプスブルクの戦略を実行したのです。

昔はサラセン、イスラムの侵入の防止が国王の任務ですが、
そのあとのヨーロッパ社会の敵は共産主義です、ロシア。
これと戦う気があって戦ったのはヒトラーだけではないですか。
そういう目で、西ヨーロッパから見れば、
ヒトラーは政治的な偉人なのです、
ロシアから見れば敵でしょうけれど。

自分は負けるけれど大きな仕事をした人はほかにもいます。
東条さん。大日本帝国です。
大日本帝国の目的は、東南アジアがタイを除いて全部白人の植民地だった時に、
その植民地政府の白人をやっつけて、真の独立をさせたわけです。

それをNHKはじめ、歴史学者、教育委員会は何と教えているか。
日本は悪いことをした、東南アジアの人民をいじめたと。
いじめていたのはもともと白人の植民地支配によっていじめられたのではないですか。
それを解放したのです。

解放したなんていうと恩着せがましいから、言わないだけです。
ここまで謙虚であると逆に問題が生じ、馬鹿にされます。
隣国なんて日本の下で保護されていたのを、
侵略されたかのごとく言いふらして、被害者面する。

これは品性だから、怒っても仕方がない、見放すしかありません。
東条さんだって日本が負けることによって大東亜の植民地を解放したのです。
解放に資したのです。

彼らが日本を見ていて、われわれも勝てると言い出して、今日の国連があるのですが。
あまりに謙虚にしていると、そのための被害も出るし、正しい歴史を教わらない以上、
どちらが被害者でどちらが加害者か、
救済者と加害者の区別がつかなくなるのは仕方がない。
人間の知能というのはそういうものなのです。

というわけで本日は終わります。

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