真方衆の正体【ツラン論考13】

こんにちは。
令和史(れいわのふひと)です。

【ツラン論考12】では、

数千年前から続く中央アジアやオリエントの文明を
飲み込んだイギリスとフランスが切磋琢磨することで、
近代資本主義的経済体制と中央集権的国家体制との
基礎地盤を確立し、それをアメリカが吸収した経緯

についてお届けしました。

さらには、
その肝はあくまでアメリカが歴史を「背負っている」
のではなく「吸収した」という表現にあると含みを
持たせるに留めましたが、

その意図は、
「いつでも解体できる」
ことを示唆したものです。

風猷縄学〈稽古編〉【第四期】では、

・創価学会の悲願と自公連立崩壊
・アメリカ解体の黒幕
・麻生太郎と○○資金
・アメリカの政治的分断の兆候
・ツランとスキタイの陣地

と題して最新伝授音声を配信中。
稽古仲間の皆様は必ずご視聴くださいませ。

さて、今回は、
風猷縄学<伝授編>第四編配信のお知らせです。

第四編の構成は次のとおり。

第19回『アメリカ大統領の任侠精神と原爆投下地の選定』
第20回『モルモン教の入植と黒体の発見』
第21回『鉄のカーテン演説とアメリカ大陸の宿痾』
第22回『鉱物と生命、日本人の自然観』
第23回『大国の首脳をリードする陰のキャビネット』
第24回『南島経略と西郷隆盛の出自』

すべて2022年4月11日に収録した音声で、
その内容は第三編の続きが主ではありますが、
最後に「西郷隆盛の出自」に触れています。

つまり、
真方衆(マガタンシ)の正体が明らかになります。

落合先生から「西郷隆盛は真方衆である」と又聞きするも
その関連情報は陰謀論にすっかり埋もれていたため、
鹿児島出身者としてはヤキモキさせられていたところ、
ついに情報源にたどり着くことができたのです。

風猷縄学<伝授編>第四編の第24回では、
その取材内容をお届けすることになります。

そのキーワードは「南島経略」。

古代の世界文化圏を東西に結ぶ二大通路として、
北方ワンワールド通路と南方ワンワールド通路があれば、

南島経略とは後者、
即ち黒潮文化圏をワンワールドとしてつなぐ
経略を指します。

具体的な範囲は、
スンダランドおよびサフルランド周辺から日本列島に
至る領域および海域となるかと思います。

古来、南島経略は現行のものと思われますが、
起点は神武即位よりも古いと考えられます。

黒潮文化圏の生活の地盤は火山地帯であり、
家屋は木材、竹材を主として用い、常食は米。

ジャワ島で一般的なジャバニカ米は、
遺伝的にジャポニカ米と同じグループに
所属するという結果が得られています。

学名に”japonica(日本の)”を冠している種が、
中国中央部を起源とすることになった事情には、
【ツラン論考12】で触れた世界三大発明の起源と
同様の背景があるものと思われます。

したがって、
12000年前の薩摩火山灰の下層から
イネのプラント・オパールが検出されて
いることからも、

その起源を含め、
米食文化圏の中心に日本があった
と考える方が筋が通ります。

さらには、
黒潮文化圏の海洋的環境から魚介類を食し、
黒潮を活かした船舶技術も発達していたと
考えられます。

一方、生活の地盤が火山地帯であることから、
ホットスポットの典型例として挙げられる
ハワイ諸島及び天皇海山群、即ち太平洋までも
黒潮文化圏と交流を持つものと思われます。

何はともあれ、
南島経略の起点に関する論考は後に譲るとして、
今回は「倭寇」に関する論考を通じて、
真方衆の正体に迫りたいと思います。

倭寇とは、
一般的には13世紀から16世紀にかけて
朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、
及び東アジア諸地域において活動した
日本の海賊や私貿易、密貿易を行う貿易商人
に対する中国・朝鮮側での蔑称とされます。

和寇と表記される場合もあり、
また八幡(バハン)も呼ばれる場合もある
とされますが、

今回は、

昭和13年9月発行、
仲小路彰著
『世界興廃大戦史 日本戦史 
第十一巻 八幡船隊・倭寇』

を参考としつつ、

倭寇=八幡(はちまん)船隊として、
論考を進めます。

その起源は、
後堀河天皇の御代、鎌倉幕府の初期、
西暦1225年6月4日、
邊民慶尚道を侵すとして文献に現れた
ことによるとされます。

次に肥前松浦党は対馬の島民を誘い、
船数十隻をもって朝鮮半島を侵し、
紗島を攻略したとされます。

その半世紀後、
後宇多天皇の御代、蒙古襲来。
肥前松浦党は大打撃を受けます。

日本国民の奉公精神、挙国の防衛力、神風をもって、
蒙古を退けるも、弘安の役後十二年目の1292年、
伏見天皇の御代、八幡船隊は支那沿岸に進出します。

以後、八幡船隊の行動の詳細は同著に譲りつつ、
英仏百年戦争の舞台裏、征西将軍宮に触れます。

懐良親王(1329?〜1381)は、
護良親王と同じく、後醍醐天皇の皇子。

落合史観によるところ、
南朝欧州大塔宮の祖たる護良親王に対し、
懐良親王の一派は後南朝の祖とされます。

肥後全土をすべて征西府に帰したのち、
懐良親王は舟師を募り、南海中国の海上権を確保し、
諸国の海域、土寇を集め、八幡船隊を編成し、
室町幕府の連絡を切断せんとしていました。

吉野朝失意の士は、すべてこれに投じ、
その果敢の英気は、遠く挑戦、支那の沿岸を侵害し、
明史をして「沿海倭乱」を記せしめたとされます。

したがって、
「征西」とは九州平定を意味するのではなく、
海を超えてさらに西、
即ち支那、朝鮮を征するの意として解釈できます。

思うに、
懐良親王は日蓮と思いを同じくしていたのでしょう。

蒙古を退けることができたのは神風あってのこと。
武士政権が北条から足利に移ったところで、
「他国侵逼難」の危機は去っていないからです。

一方、大塔政略に則った護良親王の渡欧に対応し、
前捌きや囮の任務もあったものとも考えられます。

日本三忠臣のひとり万里小路藤房が出家後の約二十年間、
大陸工作に任じていたことは落合先生が洞察するところ。

兎に角、ここで重要なことは、
建武の中興から足利政権に移行して間もなく、
後醍醐天皇の二人の皇子が海外経略に移行し、
ワンワールドを繋いでいるということです。

護良親王の事績については落合先生著書、
征西将軍宮に八幡船隊の事績については、
同著に譲るとして、

今回は八幡船隊の特徴に触れることで、
隠れたるツランとスキタイの姿の投影
を試みます。

■八幡船隊の根拠地

八幡船隊の根拠地として、
讃岐の丸亀付近の塩飽二十八島で、
最も重要であったとされます。

無数の島々はその海上に点在。
潮流は複雑となり水軍訓練に
最適であったとされます。

その地形の要害は、
平安朝の初期より海賊の巣窟ならしめた
とされます。

塩飽の水夫、漁夫等は、
瀬戸内の海流、潮流、気象等に精通し、
海上の隠然たる一大敵国であったとされ、

この塩飽の諸島こそ、
支那、南海、朝鮮等と日本の中心とを結ぶ
海路における一大難関であり、
海上権の重大なる拠点であったとされます。

■八幡船隊の編成、戦略戦術等

大将は旗船の水軍の中央に置き、
指揮を掌り、また陸戦をも指揮
したとされます。

大将の下に幕僚が居り、
第一に長臣、
次に奉行船があったとされます。

海賊大将軍には、
安芸国海賊大将軍村上備中守国重をはじめ
総勢十八名の名が今日に伝わっているとされ、

九州の松浦、宗、大村、島津等の諸豪族はすべて
八幡船隊の主力であったとされます。

以下、省略して結論だけお伝えしますと、
八幡船隊の編成は現行海軍の編成と大差
ありません。

陣形、戦術に至っては、
陰陽の備、天地人の備、四武の備等十七種におよび

八幡船隊の巧妙なる戦法に明軍は全く翻弄され、
悲惨なる敗北をなすのみであり、

すべて八幡船隊の神出鬼没、
端倪すべからざる詭計妙略
を示すものであったとされます。

■八幡船隊の船員

八幡船隊には日本人のみならず、
支那人、朝鮮人、琉球人、安南人、南洋人等含み、
種々の支那海賊が八幡船隊と協力し、
明朝打倒を企てたとされます。

浙関大姓、即ち浙江財閥に当たる一族は、
八幡船隊と協力し、この両者は相互に融和し、
八幡船隊は浙江財閥の中に大なる勢力を獲得
するに至ったとされます。

その結果として、
八幡船隊と浙関大姓との区別が困難となり、
八幡船隊は支那内地に対しても殺戮略奪を
なすに至ったとされます。

これは日本人の八幡船隊の外に
支那の浙関大姓等の無頼の徒が混入したこと
によるものであったとされます。

汪直をはじめ浙関大姓の勢力ある者は、
倭寇(八幡船隊)来るの警報飛ぶや、
これを防衛するよりも急ぎ外海の島に出で迎え、
倭寇(八幡船隊)のために水先案内をなし、
長江一帯の物資を獲得したとされます。

このような経緯があり、
強大な勢力ある華僑と日本人との混交が進み、
江戸時代の鎖国政策により帰国できなくなった
日本人は、多く華僑の祖と化したとされます。

さらには、
八幡船隊は敵海浜に敵前上陸するや、
直ちにその基地を定め、自ら船を焼き、
意を決して前身するとされます。

その目的地に達するや、
その土民の強き者を捕獲とし、

これを使ってその地の富豪、
支配者の所に導かしめ、
その財貨を出さしめ、
それを得れば彼等を返って犒い、

かくて明人中に
八幡船隊に支援、転向、参加する者、
甚だ増大したとされます。

■八幡船隊の造船技術と日本刀

村上家所蔵の海賊流車船図を見るに、
その造船の技術は大いに発達し、
艪部にスクリュー推進器を備へ、

轆轤打掛の如く網を巻き、
推進機を廻転せしめて進航せしめたのであった
とされます。

しかもこれに比し西洋のスクリュー使用は極めて最近にて、
我はそれに遥かに先ずるものであったとされます。

また、元寇における武器の粗悪を反省し、
日本では武器制作の熱意が俄に盛んとなり、
かくて名工正宗の出現となり、
世界に冠絶する最も精鋭なる鋼鉄、
刀剣の製作を可能ならしめたとされます。

欧陽脩の詩『日本刀歌』は11世紀の作ですが、
その当時から日本刀を輸入していたことを示し、

明となっては日本刀を畏怖し、貴重とし、
また必要として盛んに日本より輸入した
とされます。

さて、
隠れたるツランとスキタイの姿を投影するために
八幡船隊の特徴を紹介してきましたが十分すぎる
のではないでしょうか。

「神出鬼没」
「自ら船を焼き」
「スクリュー推進器」
「世界に冠絶する最も精鋭なる鋼鉄」

といったキーワードを拾えれば、
首肯するしかないかと思います。

【ツラン論考12】の伏線についても、
十分回収できたのではないでしょうか。

英仏百年戦争と征西将軍宮の八幡船隊の共時性は、
ツランとスキタイなくして起こり得ないでしょう。

それでは、
日本海および東シナ海の制海権獲得のみならず、
大陸進出まで果たしていた八幡船隊が、
南方進出へと変遷していく経緯に触れて、
本題の真方衆(マガタンシ)の正体に迫ります。

正親町天皇の御代、1574年。
支那の海賊李馬鴻はフィリピン軍島を攻略せんとし、
大船隊を率いて進んでいました。
その総指揮は日本人シオコ。
マニラのスペイン軍を疾風の如く脅かしたとされます。

1582年、本能寺の変。
日本人タイフサなる者は、二十六艘の船隊を率いて、
フィリピンに侵攻、スペイン軍を驚愕せしめたとされます。

後陽成天皇の御代、1587年。
豊臣秀吉がバテレン追放令を発令、九州を平定した年、
福建の沿岸に至った八幡船が、明より砲撃を受けます。
八幡船を臨検した民の官吏は多度津儀平と称する日本人。
なお砲撃した明軍を率いる将軍も日本人であったとされます。

1588年、室町幕府が名実ともに滅亡した年。
秀吉は八幡船の再編成的統制のため禁令を下し、
八幡船の残党は遠く、南洋、インドへ向かったとされます。

以後、
原田孫七郎、呂宋助左衛門、山田長政等の事績は、
通説に譲るとして、

徳川幕府の鎖国令により帰国しえざる幾多の日本人が、
限りなき郷愁の中に、必ず来るべき復帰を願っていた
ことに思いを馳せて頂ければと思います。

ここまでお読み頂いたあなたは、
真方衆の正体の半分は分かったも同然です。

南島経略の範囲内、
どこに日本人が暮らしていてもおかしくないのです。
そして、必要に応じて召集されることも、、、。

それでは、また。

令和史(れいわのふひと)

P.S.

本日、風猷縄学<伝授編>第四編を配信開始しました。
真方衆の正体と西郷隆盛の出自が明かされています。

ぜひこちらからご視聴くださいませ。
https://www.st-inst.co.jp/fuuyuujougaku/part_4.html

もっとも、主たる内容は「アメリカ」であることから、
現行の国際情勢を紐解くために最適なコンテンツです。

風猷縄学<伝授編>第三編と合わせてのご視聴をお勧めします。

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