こんにちは。
令和史(れいわのふひと)です。
承前、
令和5年6月22日、
今上陛下ボロブドゥール寺院御訪問を承け、
修験子から齎された急報の一部を編集して
列挙した理由は、
壬申の乱および大化の改新を経て、
平城京遷都に至る歴史事象の数々を
古事記に接合せんとするためです。
それは、「情報の真価とは何か?」
という問いに応える試みでもあります。
その試みは、
令和5年6月22日の修験子急報を受けて間もなく、
風猷縄学稽古仲間によって実行に移されていますが、
事業としての風猷縄学を取りやめたからには、
【ツラン論考】として、その試みを継ぎます。
また、前回の記事で、
【ツラン論考】を【風猷縄学】に置き換えると
お伝えしましたが、風猷縄学は弊社の秘奥とし、
今後、表看板から一切伏せることにします。
つきましては、
【ツラン論考】を風猷縄学稽古の場のひとつとして
引き続き、お付き合い頂けますと嬉しいです。
さて、
ボロブドゥール案件に取り掛かった風猷縄学稽古仲間から
時を置かずして千原大五郎(1916〜1997)の名が
共有されました。
千原教授の専門は東洋建築史。
ボロブドゥール遺跡修復技術諮問委員会委員を務めています。
その千原教授は著書『南の国の古寺巡礼』にて、
ボロブドゥール遺跡に関する注目すべき所見を
述べていますので引用します。
ボロブドールは、この盆地のほぼ中心、
先に記した二つの川の合流地点にほど近い、
海抜二七〇・二メートルの丘の上、
南緯七・七度、東経一一〇・一度の地点にある。インドでは、
ガンジス河とジャムナ河の合流点を、
聖地としているのにあやかって、
この地点が選定されたという説もある。いずれにしても、
この敷地がまことに慎重に選ばれたことだけは
確かなようである。その環境は、わが大和の国造りにも、
なにかしら似通ったところがあるようにさえ
感じられる。われわれの祖先が、
地形学について豊かな知識を持っていたことに、
敬意を払うべきであろうが、この地方が、
豊富な石材と労力とをえやすかったにちがいない
ということも、敷地として選定される条件の中に
あったと考えてよかろう。
注目すべきは「わが大和の国造り」。
即ち、佐保川と秋篠川、
二つの川の合流地点と平城京の関係。
そして、鴨川と桂川、
二つの川の合流地点と平安京の関係。
平城京への遷都は、
元明天皇(661〜721)の御代に始まり、
平安京への遷都は、9年間の長岡京を経て、
桓武天皇(737〜806)の御代に始まります。
平城京遷都の二年後、712年、
太安万侶により古事記が献上されています。
日本書紀の完成は、
元正天皇(680〜748)の御代、
720年とされます。
ボロブドゥール建立は、
760年〜850年頃の間とされています。
平城京から平安京に至る女性天皇の型と振る舞いが、
約1100年に亘る平安京建設につながっています。
さらに、【ツラン論考】として特筆すべきは、
「豊富な石材と労力とをえやすかったにちがいない」
という所見。
この大まかなクロノロジーと
【ツラン論考28】に列挙した
「ボロブドゥール遺跡の建設時期」
を照らし合わせることで、
「情報の真価とは何か?」
という問いに応えんと試みます。
ここからが本題です。
本文は【note有料記事】。
https://note.com/st_inst
それでは、また。
令和史(れいわのふひと)
P.S.
風猷縄学 稽古編【第四期】参加者の皆様には、
弊社メンバーサイトから以下の記事にアクセス
して頂けるよう移行作業実施中です。
・修験子栗原茂シリーズ
・文明地政學叢書第一輯『歴史の闇を禊祓う』
・文明地政學叢書第二輯『超克の型示し』
・文明地政學叢書第三輯『真贋大江山系霊媒衆』
今月中の作業完了を目指しておりますので、
今しばらくお待ち頂けますと幸いです。